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「有限性の後で」メイヤスーの思弁的実在論はどこまで有意味か

0.メイヤスーが面白い

1.祖先以前的言明と原化石問題

2.存在論的証明と理由律が棄却されるわけ

3.メイヤスーの事実性が絶対化されるわけ

4.非理由律が無仮定的に証明できるわけ

5.見かけの偶然性・絶対的偶然性・事実性としての偶然性

6.強い相関主義と弱い相関主義とカオス

7.「事実論性の原理」と物自体の無矛盾とその存在

8.頻度の帰結・カントが因果律を必然としたわけ

9.「頻度の帰結」がダメなわけ

10.カントの問題の思弁的解決

11.前提の時間は「私にとっての」じゃないのか?

12.「死刑囚のパラドクス」で隔時的言明を有意味にしよう

13.「隣室の机は行ったら分かる」とはどういうことか

 

14.「有限性の後で」を読むための用語置き場

おまけ.「メイヤスー『有限性の後で』まとめのpdf」作りました

コメント

師匠 あけましておめでとうございます。

旧年中は、お世話になりました。本年も、師匠のご健勝を祈りつつ、哲学好事家として、過ごしたいと思っています。

年末にNHKの番組を見てから、最近は、スピノザを面白がってます。
スピノザって、実は、有神論者だし、宗教家だと思いました。
哲学とOSが違うってことだから、それくらい根本的に違うってことだと思うんです。
ただ、キリスト教的な一神教じゃなく、地下茎で繋がる蓮の華を語る時の仏教に似てるような気がします。

師匠はどう思われましたか?

taatooさん、あけましておめでとうございます。
こちらこそ、旧年中はいろいろと助けていただきました。ありがとうございます。今年もよろしくお願いします。
ブログ記事の方はずいぶん間が開いてしまいましたけれども、鋭意考察中ですので、またかけた時には読んでください。

「100分deスピノザ」見ました。面白かったです。國分さん分かりやすかったですねえ。テキストも買っちゃいました。
「善悪」も「自由」も、結局は個人の本性によって個別に考えざるを得ないものに過ぎず、「イデアとか絶対なんてばかばかしい」(とは番組では言ってませんが)という感じが気持ちよかったです。
ドゥルーズを読むうえでも関連するところ多く、そこも興味深かったです。

神については、そうですねえ。地下茎につながるという話にもつながりそうですね。でも僕は、キリスト教的一神教をさらにメタ的に捉え直し、「私の世界」と「客観世界」と「言語世界」がすべて問ういうされる一つの神としての一神教みたいなものにもつながりそうだなあと思いながら聞いてました。

師匠 こんばんわ

確かに気持ちいいです。たぶん、一元論の気持ちよさですかね。

自然に神が宿り、私もあなたもスピノザも、自然の一部だと、理解したら、外が内になり、内が外になる。こんなに、簡単に、しっくり乗り越えていいものかって思います。正直、今まで気づかなかったですね。

ただ、個や所有にしばられている日常を想うとき、そうそう簡単には、達観できないだろうなとも思います。

スピノザ、恐るべし。テキスト買おうかな。

taatooさん、
コメントありがとうございます。
今読み返したら僕のすぐ上のコメントのタイプミス酷かったですね。あれによく返答してくださいました。本当にありがたいです。

一応、書き直しておきます。「問ういうされた一つの神」は「統一された一つの神」でした。ごめんなさい。

「神については、そうですねえ。地下茎につながるという話にもつながりそうですね。でも僕は、キリスト教的一神教をさらにメタ的に捉え直し、「私の世界」と「客観世界」と「言語世界」がすべて統一される一つの神としての一神教みたいなものにもつながりそうだなあと思いながら聞いてました。」

師匠 ありがとうございます。

こちらこそ、onになってました。すみません。

決して揶揄ではなく、「すべて問ういうされる一つの神」のような偶然にも、神が宿っていて、カッコイイと思うのは、やっぱり変です。

感謝です。

師匠 おはようございます。

ふと、思ったのですが、「思弁的唯物論」の「思弁」って、誰が「思い」、誰が「語る(弁)」のだろう?唯物論だから、「人」も「物」の一つで、その「物」の一つである「人」が、「思い」、「語る」というような世界観だとすれば、「物」を「自然」に置き換えたら、スピノザだし、「物」を「蓮」に置き換えたら、仏教になるんじゃないか。同型ですよね。メイヤスーとスピノザと仏教がつなっがったような気がします。

しかし、しつこいですが、師匠のタイプミス、「すべて問ういうされる一つの神」って、「問う(思)」「いう(弁)」「される(的)」という「ミス(偶然)」が、「神(必然)」ってことを、暗に言っているという。すごすぎる。

信じるか信じないかは、師匠次第です。

メイヤスーとスピノザと仏教の共通点。おっしゃってること分かるような気がします。面白いですね。

師匠 こんばんわ

ドルーズ、始まりました。祝!

ご存知かもしれませんが、最近、いい本を見つけました。西垣通氏の「AI原論」です。
哲学と神様とAIとメイヤスーという一粒で4度おいしいという、私的タイムリーさが、半端ないです。まだ、かじり読みの途中ですが、師匠のメイヤスーできいたこととと、概ね一緒のように思います。ただ、哲学的スタンスや、AI観は、違うと思います。

取り寄せて、期待以上って、あんましないです。宣伝みたくなってますね。

taatooさん、ありがとうございます。

「AI原論」面白そうですね。心の哲学とも関連したりするのですかね。もしよければ読み終わった感想も教えてください。

師匠 かしこまりました。

西垣氏と千葉氏の対談が、UPされてます。ぜひ。
ただ、西垣氏は、哲学的には、ガブリエルよりだと、漏らされてたと思います。無機物に意識があるとするチャーマーズとは、対極ですね。

AIの危険性をむやみ煽るような話も多いですが、危険性のpointが見えてきます。
それから、哲学は、AI論(科学論)と不可分であることが、よくわかります。とすると、神様論とも不可分であるということですね。そして、メイヤスーは、科学側の救世主なわけです。ただ、AI論によって、哲学が見直されている感じもして、哲学の救世主でもあると言える(・・?

西垣氏の哲学の造詣の深さにも、目を見張ります。明治大学時代に、哲学の中村氏や栗本氏と交流があったそうです。

師匠 こんばんわ

科学側の救世主は、言い過ぎでした。
そんな単純なものじゃないですね。

西垣氏曰く
「トランス・ヒューマニズムや人間機械論に対する現代哲学者からの攻撃を防ぐのが思弁的実在論とも考えられるのだ。」
「ネオ・サイバネティクスの観点からは、思弁的実在論をそっくり認めることはできないのである。むしろ、相関主義思想と親近性が高いと考えられる。」
「にもかかわらず、思弁的実在論がその論証をつうじて示した議論の中には、ネオ・サイバネティクスの観点からも、きわめて示唆にとむものが少なくない。」
といった具合に、AI論において、アンビバレントなスタンスのようです。

科学側のようで、非理由率に基づくという主張だからですかね。

「科学の仮説」か「仮説の科学」か、「砂の楼閣」か「砂上の楼閣」か、どちらにしても、地震がきたら、簡単に崩れ落ちるならって気もします。

カンタンじゃないメイヤスー。これを言いたかったとか。

taatooさん、ありがとうございます。

簡単じゃないメイヤスー(o^-^o)笑。
やっぱり思弁論と科学哲学の関係を、ていねいに考察されていて面白そうですね。
是非読んでみたいです。「AI原論」要チェックですね。

師匠 でしょ~

もう一つ、言わせて下さいね。

神様論なんですけど、キリスト教の三位一体説が、この本を読んでて、解ったんです。
ふつう、キリスト教の神は、天地創造神であり、絶対神であるという、外在神なんですが。今まで、そう思ってたんですけど、三位一体説の時点で、内在化したってことに、気がついたんです。人の魂が、キリストを通じて、神とつながる。つまり、神が人の魂に宿るというのが、三位一体説の意味だということなんです。

スピノザの神の内在性を、昨年末に気づいたばかりだったんですけど、今回、実は、スピノザの時代より、ずっと前の西暦451年カルケドン公会議で、三位一体説が、最終教義として確立して時点で、キリスト経の神の内在化が、始まっていたわけです。スピノザは、ある意味、その正統な後継者であるということになりますね。

しかも、一神教の神の内在化は、哲学やAI論に、大きな影響を与えていることは、間違いないです。

taatooさん、
ドゥルーズ「差異と反復」1章についてブログ記事をまとめるのに、
「神が超越であり無限の彼方にあって私には決して到達できないとする立場がアリストテレスだとしたら、私自身も神の一部なのであるからすでに常に到達しているとする立場がスコトゥスでありスピノザでありニーチェだ」
みたいなことを書きたいと考えているのですけど、それともずいぶん関係してそうですね。興味ぶかいです

師匠 こんばんわ

哲学は、中世において、キリスト教の洗礼を受けてますしね。

神学とドゥルーズ。なるほどです。

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