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2021年8月10日 (火)

カントの「内的」・ライプニッツの「内的」〈「反省概念の多義性について」を読む3〉

カント「純粋理性批判」から「反省概念の多義性について」を読む。

今日は、カントの言うトポス論の4つの標題のうちの「内的なものと外的なもの」について。カントとライプニッツそれぞれの「内的」という語の意味を考える。前節からの流れで言うと今日は〈一致と対立〉の順番なのだけど、論述の簡単さのために〈内的と外的〉の問題考察を先にする。

ここで問題にされている「内的」という語の意味は、一般的な語義とはずいぶんと違うものであり、さらに、ライプニッツとカントでもその意味するところは微妙に違っているように見えてややこしい。注意深くその意味を探ってみたい。

今日の考察の手順
(1)一般的な「内的」の語義
(2)カントの「内的」とはアリストテレスの「実体」
(3)ライプニッツにとって「形」は「内的」、「大きさ」は「外的」
(4)外的世界の2つの大きさは比べ得ない
(5)多義的な「内的」とその包括
(6)ニュートンの空間先行説とライプニッツの実体先行説
(7)カントの反論

 

一般的な「内的」の語義

「内的」について、Web辞典「コトバンク」では
ない‐てき【内的】(日本国語大辞典)
① 物事の内部に関するさま。内側にある様子、状態。
② 精神、こころの働きに関する様子、状態。内面的。
ない‐てき【内的】(デジタル大辞泉)
1 物事の内部に関するさま。
2 精神に関するさま。内面的。
とされていて、事物の状態としての内外に関する話と、精神的状態としての内外に関する話だけを取り上げいる。
しかし、ライプニッツやカントなどの哲学ではこれとはまったく違う話として「内的」を問題とする。


「内的」とはアリストテレスの「実体」

まず、現代哲学で「内的」という語はどう扱われているか。ウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」で「内的」という語を頻出させているが、それについて野矢茂樹は次のように解説する。
【内的】「ある対象がその性質をもっていないと想像するとその対象の同一性が損なわれそれゆえその性質をもっていないと想像することができないようなとき、その性質はその対象にとって『内的』とされる」(野矢『論理哲学論考』を読む)
これによると、その条件なくしては或る対象がその対象でなくなってしまうような必要条件であることが内的だということ。つまり「内的」とは実体だということである。

また、カント自身と大河内泰樹によるカント解説は次のように語っている。
【内的】「純粋悟性の対象にあってはそれと異なるところのものに対して何らの関係をも持たないものだけが内的。それに対し空間中にある現象的実体の内的規定は相関に他ならない。それどころか実体自体が単なる関係の総括」(カント「純粋理性批判」)
【内的】「『内的なもの』はカントにとって実体を意味する。〈純粋悟性の対象としての内的なもの〉と〈現象における内的なもの〉を明確に区別し、純粋悟性の対象における『内的なもの=実体』は他との関係から切り離されたもの。しかし現象において認識しうる実体は関係に他ならない」大河内泰樹「『内的なもの』と『外的なもの』」
カントにおいても「内的」とは「実体」であるとされる。そして、それはとくに「純粋悟性」の対象としての実体であるとともに、現象において認識し得る関係性としての実体だとされる。

カントが言う「実体」は、アリストテレスの「実体」である。すなわち、偶有性によらないそのもの自体としての存在であり、「主語」としての存在だということである。その意味で、ここでの「内的」とは、ある文で記述されている情報がその文の主語にすでに内包されているということである。たとえば、「5+7=12」という数式を分析的記述だと捉えるということは、「5+7」という主語にそれが「7」であることが含まれていると捉えるということである。なので、その「5+7=12」は「内的」な記述であると言えることになる。しかしまたそれとは異なる視点で、カントの言うように、「5+7」にはもともと「12」が含まれていないとするなら、これは総合的記述であり「外的」な判断であると言えてしまうことにもなる。

そして、カントにおいてこの「実体」とは、「主語」という意味だけでなく「物自体」という意味を持つ。
つまり、カントにおける「内的」とは、「それ自体として存在している物自体としての実体である」という意味であり、かつ「主語のうちに分析的に捉えられてある」という意味であると考えられそうだ。しかし、それゆえ、物自体には到達し得ないとするカントにとって「内的なもの」はそれ自体として掴み得るはずがない幻影でしかない。


ライプニッツにとって「形」は「内的」、「大きさ」は「外的」

一方、ライプニッツにおいては、世界に存在する対象はすべて内的なものであり、それらはすでに到達しているものでなければならない。そもそも、ライプニッツとカントは悟性と現象との捉え方が違うため、この「内的」はちょっと違う語義で捉えられてしまうのだ。
たとえば、前々節で紹介したように、ライプニッツによると
【内的性質】とは、他と比べることなくそれ自身が持っている性質、
【外的性質】とは、他との比較によってはじめて明らかになる性質、
だとされている。この捉え方はアリストテレスから続く伝統的な「内的=実体」の捉え方と同じである。しかし、ライプニッツは、ものの形が相似であるか否かは「内的性質」を問うものであり、大きさの判断は「外的性質」を問うものであると言う。ある存在者を取り囲む空間のあり方を考えるとき、延長として大きさは、他との比較なしには記述不可能であるから「外的性質」なのだし、ものの形は個々の観察によって他との比較なしに記述可能であるから「内的性質」なのだ。


外的世界の2つの大きさは比べ得ない

これについて、ライプニッツは次のように言う。
「今、2つの寺院が一方に見当たらないものはもう一方にも見当たらないように建てられていると想像しよう。すなわち材料がたとえば同じパロスの純白の大理石で、壁、柱、その他すべて同じ割合になっていて角度も直角に対する比も同じだとする。目を閉じたままこれらの寺院に案内され、その中で目を開ける人は、その2つを区別する手がかりを見出すことができない。観察者の手足そのものも物差しの働きをするだろうから、観察者を単に目を有する精神と見なすなら、何ら区別は生じないだろう。よってこれらの寺院は相似であると言われる」(ライプニッツ「位置解析」)
世界を開闢する主体が、自分自身の身体を大きさの物差しにすることができないとする。たとえば、目だけの主体、それが遠近感を感じない単眼で、単なるテレビ画像として世界を見ているとする。そうすると、そこに映し出されている寺院がどんな形であるかは分かるけれども、その大きさは分からない。本当はミニチュアかもしれないし、超巨大なものかもしれない。否、そのような「本当」の大きさなんてものは、どうやっても分かり得ないとライプニッツは考えるのだ。そして、そこで語られる「本当」の大きさなんてものは、問う意味がないとする。
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外的世界を根拠にできない限り本当の大きさの違いなどあり得ない

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外的世界を根拠にできない限り本当のキラリティの違いなどあり得ない

「世界そのものの大きさ」なんてものは世界の外側に出ない限りは確かめられないのだし、そんなものは世界の内的な話ではあり得ず語義矛盾なのだ。これは本ブログ〈対称的事物のパラドクス〉のページでも考察したように、鏡像の不一致にも関わる問題でもある。それは、世界そのもののキラリティ※は世界の外側に出なければ確かめられないのだから、世界そのもののキラリティなんてものは、世界の内的な話ではあり得ないって話である。
(※【キラリティ】3次元の図形や物体や現象が、その鏡像と重ね合わすことができない性質。掌性。利き手性。)
それゆえ、ライプニッツにとって、大きさやキラリティとは、この眼前に現に開闢している現実世界から外へでなければ確かめられないような「本当」の大きさではあり得ず、そのような「本当」を問うことは、無意味な問いでしかない。だから、世界を把握するための「純粋悟性」はすべて内的でなければならないのだ。


多義的な「内的」とその包括

ただし、ここで、「内的」は2つの意味で使われ、その2つの意味が交錯する。すなわち、「形の相似を内的、大きさを外的」とするレベルでの「内的・外的」の話と、分析文なら「内的」であり、総合文なら「外的」だとするレベルの話との2つである。

ライプニッツの、「大きさは外的性質」とする話において、存在者はそのもの自体ではその大きさを自身の性質として持つことができないのだからそれは外的性質でる。そうなのだけど、それだからこそ、大きさは他の存在者との比較における比で表されるものでなければならない。その比を採寸して概念化することによって、そこにある「大きさ」は認識世界の内部で語り得るものとして意味を持つ。そのときその認識の内部において、その存在者はその比の大きさを存在としてある。つまり、その認識世界において、それが主語として扱われるときにその主語はその内部に大きさを持つことを含み、「AはBの大きさである」という文は分析文として扱われ得ることになる。
立ち現れる世界の現象において、そこに存在するあらゆるものはもともと何者でもないはず。そこに存在者があると判断し、そこに某かの「形」が存在すると判断するとき、その「形」に関する判断はその認識内部で、ある意味で「比」としての関係でもって判断され得る。その判断によってその「形」は内的に分析的に語り得るものとなるので「内的」な性質として捉えられる。ライプニッツに言わせると、このとき「形」はもともとその外部の世界との関係を問うことなく勝手に判断できてしまうものなので、「形」はもとから「内的性質」だということになる。これに対して「大きさ」はもともと「外的性質」なのだけれど認識の内部世界で比較し比として判断されるものとなることで「内的」に理解することが可能になる。

このライプニッツの捉え方において、「内的性質」は上に挙げたような多義的なものでなく1つにまとめられるものとして考えられることになる。
つまり、
【内的】とは
①実体であること
②あらかじめ主語に含まれている性質
③他と比べずにそれ自身が持っている性質
④大きさにはなく、形が持つような性質
そしてさらに、
⑤心的な状態
として捉えられていたものが、ライプニッツの視点のもとで1つに包括されて、次のような意味の語となるのだ。私の世界は、私の経験においてすべて現実なのであり、それらは私が認識し語ることによってはじめて、有意味な世界として現実の存在となる。だから、私に現象するこの内容を私の内的世界において比較可能なものとし、分析可能なものとして把握したものこそを、そしてそれのみを、現実の世界だとすべきなのである。そのような比較可能で語り得るものとなった存在者どもは、現にすでにこの現実の現象を語るものであるのだから、分析的でありながら実体であり物自体である。そして、外部世界と比べず内部世界だけの比較によって意味を持つものとなる。そのようなある意味で心的な内部世界こそが現実の実体である・・・という風に世界を捉える。そのとき、多義的な「内的性質」という語が1つの包括的な語として考えられるのだ。


ニュートンの空間先行説とライプニッツの実体先行説

また、このライプニッツの視点は、ニュートンの空間論に反するものである。ライプニッツは人間が物自体をそのまま直観することができると想定していたので、形式が物自体に先行することはどうしても許せないことだった。
ライプニッツはニュートンと微分積分法の先取権をめぐって裁判で25年も争った間柄で、かなりな仲の悪さだったようだが、とくにニュートンの絶対空間論を受け入れず批判した。
Leibniz_20210810114301 Newton_20210810114201
ライプニッツ1646ー1716 と ニュートン1642-1727

ニュートンの空間論は、物理的存在の器としての空虚な時間空間が物質の存在以前にあるとするものである。器が先にあることによってその中に物理世界があり得るようになるとする。しかし、ライプニッツにとって、ニュートンの言うような、物質に先立つなどという世界設定はあり得ない。ライプニッツにとっては、現にある「これ」、すでに存在している存在者こそが原初でなければならないのだ。そして、あらゆる世界設定は「これ」を語るための道具でなければならないのだ。
「〔ライプニッツにおいて〕空間と時間は―前者はただ実体の間の関係によって、後者ならば実体相互の規定が根拠と帰結として互いに結合されることを通じて―可能になった」(カント「純粋理性批判」A267,B323)
ニュートンにとって時間空間は実体の存在を可能にする器であったが、ライプニッツにとって空間とは実体の相互関係によってはじめて可能になるものに過ぎず、時間とは実体の相互の規定の因果関係として結合されることによってはじめて可能になるものに過ぎないのだ。
ニュートンの世界では存在者が絶対的な大きさをもつことが可能である。なぜなら存在に先立ってその外部の絶対空間と比べることができるからだ。つまり、ニュートンの世界では世界そのものを論じるための外部を許される。しかし、ライプニッツの世界では存在者が絶対的な大きさをもつことは不可能だ。そこには世界そのものを論じるための外部などあり得ず、存在に先立つ外部など認められないからだ。
同様に、ニュートンの世界では存在者が絶対的なキラリティをもつことが可能である。なぜなら、ニュートンの世界では世界そのものを論じるための外部が許され、存在に先立ってその外部の絶対空間と比べることができるからだ。しかし、ライプニッツの世界では存在者が絶対的なキラリティをもつことは不可能。そこには世界そのものを論じるための外部などあり得ず、存在に先立つ外部など認められないからだ。
つまり、ライプニッツにとって世界は、実体であり、世界は外的世界とではなく常に世界の内部でのみの比較によって、分析的に語られる存在としての世界としての内的世界を現実世界とする。そして、それゆえ、世界は絶対的な大きさやキラリティを持たず、その内部で比較可能な事柄だけを有意味とする。そのような意味で世界は「内的」なのである。


カントの反論(次節予告)

でも、このライプニッツの「内的・外的」の把握をカントは良しとしない。ライプニッツの世界の捉え方は、永井均の言う「ライプニッツ原理」(「何が起きようとそれが現実」)に表れているように、世界の端的な現れの内容がそのまま現実でしかあり得ないとするものであり、それゆえ「形式が物自体に先行することなどあり得ない」とするがゆえに、実体は世界に内的に存在しなければならないと考える。しかし、カントは、永井の「カント原理」(「起きることの内容的つながりによって何が現実かが決まる」)に表れているように、「形式があってこその存在」としてライプニッツと真逆の前提で世界観を立ち上げる。だから、ライプニッツ説とは異なる「一致と対立」の視点、異なる「形式と質料」の視点、そしてさらなる「内的・外的」についての分析の視点でもって、それを批判する。
しかしそれについては、またあした。

 

つづく

カント「反省概念の多義性について」を読む

ザロモン・マイモンを読む

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