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2021年8月21日 (土)

権利問題と、ライプニッツの直線・カントの直線〈「反省概念の多義性について」を読む6〉

問い)ライプニッツ派とカントの直線の定義はいかに違うか。なぜ違うのか。それを「権利問題」と関連づけて考える。

この問いに対する僕の結論を先にまとめておく。
ライプニッツ派は「直線とはどの部分も同じ向きの線」だとする。その定義によって、アポステリオリな対象の質料をそのままアプリオリな形式と結びつけることができると考えた。そしてそれによって、ライプニッツは「権利問題」を解消できたとする。
一方、カントは「直線とは2点の最短」だとし、概念があってこそ、客体としての直観を産出できると考えた。そして、それゆえ、カントは「権利問題」が解消され得ないことこそがその問題の真の解決だとした。
これが今日の話。これを順に見てゆく。
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前節まで、ライプニッツとカントの世界観の、とくにその反省概念における空間論にそって見てきたが、その両者の違いについてさらに問題を具体的に焦点化させたい。そこで今日は、「純粋理性批判」の読解をしてきたこの章の本筋からはやや外れるが、マイモンの解説からその両者の直線の定義を考えることで、なぜライプニッツ派とカントが異なった空間論を説かねばならなかったのかに迫りたい。

今日の考察の手順
1.一般的な「直線」の意味
2.ライプニッツ派とヴォルフ
3.ヴォルフの「直線」
4.カントの直線と権利問題
5.因果と権利問題
6.因果に対するライプニッツ体系
7.因果に対するカント体系
8.ヴォルフの「直線」と権利問題
9.まっすぐが最短である証明
10.カントの「直線」と権利問題
11.カントのやり方
12.「そうである」から「何である」が帰結しないこと
13.じゃあさっきの証明はどうなるのか?
14.権利問題の解消不可能性が解決になるわけ
15.まとめとして。ハンプティダンプティとアリス


一般的な「直線」の意味

まず、現代の用語として「直線」とどう捉えられているかを検索してみると、いろんな捉え方があった。それを逐一ここに挙げるにはずいぶんな深みがあったので省略するが、その意味は、いろいろあってあまりはっきりしない。それでも、「太さを持たず、同じ向きを持ったまっすぐな線」というややライプニッツ的な捉え方が大方の見方であった。ただ、中には「最短」を直線だとするカント的な見方もあった。


ライプニッツ派とヴォルフ

そこで、まずライプニッツ派の考える直線について見ていくが、まず、「ライプニッツ派」というものから確かめておきたい。それは、カントが「純粋理性批判」を著した19世紀頃にドイツ哲学界の主流だったライプニッツ哲学を受け継ぎ広げていた流派である。なかでもクリスティアン・ヴォルフがライプニッツの広大かつ多彩な学説を系統化してまとめたので、「ライプニッツ・ヴォルフ学派」とも呼ばれた。(この3人の生年はそれぞれ、ライプニッツ1646~1716、ヴォルフ1679~1754、カント1724~1804だから、ライプニッツはカントの誕生前に亡くなっており、ヴォルフでさえ45歳年上なのだから、カントにしてみたらずいぶん大御所を相手にしている感じだったろう。)
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ヴォルフの「直線」

さて、そのヴォルフの説く「直線」の定義は次のようなものであった。
「ヴォルフが直線を定義するのを見てみよう―部分が全体と同じような線である(諸部分は同じ方向を持つ。なぜなら方向は、線を認識し他と区別し得る唯一のものだからである)。そして線はあらゆる量を捨象し、ただその位置によっての異なり得るのだから、直線とは『(位置の点で)一つの線』というのと同じであり、非直線(曲線)とは『複数の線』というのと同じである」(マイモン「超越論的哲学についての試論」平川訳p135)
つまり、ライプニッツ・ヴォルフ学派の「直線」とは、すべての部分が同じ方法を向いている線だとするものである。と言うのは、線というものはその長さも太さも無関係であり、先行構成する点の位置の並び(つまり方向)だけが線の要素となるはずだと考えるのだ。
(たいへん短絡的に単純化して言うとライプニッツ派の直線は「まっすぐ」のことだと考えて良いだろう。実際マイモンもそのように表現している。)


カントの直線と権利問題

一方、カントの「直線」の定義は、「最短である線」である。
だから、ずいぶんな違いだが、そもそもこの2者の違いは、それぞれの哲学の根本的立ち位置の違いだとマイモンは考える。
つまり「客体をいかに認識するか」の権利の問題にまで遡ると言うのだ。「権利問題」はマイモンによって次のように解説されている。
「『どんな権利で?quid juris?』という問いは、魂と身体の関係に対する問いと世界の成立をその質料の点で叡智体から説明することに対する問いである。魂と身体の問いは、アプリオリな形式がアポステリオリに与えられたものが一致することを如何にして理解し得るか。そしてもう一つの問いは、単に与えられただけの質料の成立が、それとまったく異質である叡智者の想定によって理解可能になるのか」(同p134)
つまり、
【権利問題】とは、世界認識において、形式と質料というまったく異なる2つの認識の源泉を一致させるという難題をどう理解するのか。そしてどう理解可能なものとするのか。
を問う問いと言えるだろう。

カントの体系では、質料の認識は感性が担い、形式の認識は悟性が担うとされ、その2つがまったく異なる認識の源泉からなるとするので、2者が交わることはなく「権利問題」は解決不可能だと考えられる。
しかし、ライプニッツ・ヴォルフの体系では、形式と質料は同じ1つの認識源泉から生まれるとされるので、この問題は簡単に解かれ得る(ように見える)。


因果と権利問題

話は少し横道にそれるが、例えば、「原因結果」についてで「権利問題」を考えるとすると、その認識において、悟性による「原因結果」の概念形式と、継起する時間での質料とがどう結びつくかという問題になる。これはカントの体系では解決がむずかしい。なぜなら、カントの体系では、時間の経過を感性の形式によって立ち上がるアプリオリな表象だとすることによって、アプリオリな時間の直観とアプリオリな悟性概念を対応させ、アプリオリなもの同士をマッチングさせることで問題を避けようとするのだけれども、このやり方では、結局、質料と形式は異質なものとされているままなので、これでもって「権利問題」を考えることができないからだ。カントのやり方で、世界を形式に沿うものとして対象化してその中で経験を捉えることは確かにできるのかもしれない。しかし、それはしょせん形式の側で捉えた世界でしかなく、形式と質料の一致については何も答えられていないのだ。


因果に対するライプニッツ体系

これに対して、ライプニッツ・ヴォルフの体系では(ある意味で)この「権利問題」が簡単に片付く。
なぜなら、そもそも、ライプニッツによれば時間も空間もどちらも悟性概念でしかなく、質料さえ悟性概念の対象でしかないとするからだ。ライプニッツの世界は、「何が起きようと起きていることが現実だ」とする捉え方で捉えた世界である。だから、眼前にすでに見えて聞こえている現象がそのまま現実世界であり、そのまますべて真なる世界だとする。それゆえ、ライプニッツは質料を先行させ、世界はすでに現に質料をもつものとして存在しているとすることになる。ただし、このやり方は質料を優先する世界観であるため、形式がつねに後続に回ることになる。どんなことが起ころうと、形式はそれを説明するためだけにあると考えるのだ。
原因結果については、「Aの事象に引き続いてBの事象があった」といった2つの事象を関連づけて解釈するのに便利な説明として、「因果関係」を位置づけるだけの道具ということになる。すべての個別の事象を説明できるものとして「原因」なる概念をもってきて、それがうまく適応し説明できるものとするのだ。

(ライプニッツの無限のシステム)
そしてさらに、ライプニッツ・ヴォルフ体系によれば、我々は無限の悟性を想定することができる。コレまでに経験したあらゆる事象の内容の無限小までを、対象として完全に対応できるような形式を持ってくれば、そこでその形式は思惟の客体になる。つまり、無限な悟性はそれ自身から客体を生み出し、その客体はもともと質料を材料としているのだから、「因果概念」は形式でありながら質料に根付くものになるというのだ。こうして、権利問題が解消する(ように見える)。(※この無限のシステムについてはマイモンの著作を読む章で詳しく読み取ることにしてここでは軽く流す。)


因果に対するカント体系

一方、カントのやり方では、因果関係はつねに形式の側にあってその形式でもって世界を構成しようとするから、結局、質料の側とは一致点を見いだせないまま、「イマココ」にあるこの個別の具象とは独立なものとして世界を説明するだけのものになる。形式と質料は一致せず、どこまでも、権利問題は解消できない(ように見える)。


ヴォルフの「直線」と権利問題

さて、「直線」の定義をこの権利問題の視点で見るとどうなるか。
ライプニッツ・ヴォルフの世界では、数学的空間であっても、具体的な個別の対象が先行するものとして考える。だから、具体の線や点を考えるときにも、形式である空間に先行させる。先ず点があるとして、その後でそれを説明する道具として空間を考える。

たとえば、ある線分A-Bが直線か否かを考えるなら、A-Bの中にある任意の点Cを取ったときにA-BとA-Cが同じ方向を向いているかどうかを考える。どうしてかと言うと、この考察においても、点AとBとCが実体として先行してあるのであって、空間はAとBとCに後続してそれぞれの点の関係性を考えるための道具でしかないと考えるからだ。このときに、前々節でも見たように、それゆえライプニッツは、形や角度や相似などを内的な問題として捉え、大きさ長さなどを外的な対象とする。それで、点と点の関係を向きと角度で捉える。それがライプニッツの空間の捉え方である。長さや大きさももちろん考察の対象になるのだが、それは角度や形の関係を捉えるための道具として、2次的に出てくるものに過ぎない。そして、3点の関係は、互いに互いのなす角度が0°かどうかを確かめるだけでそれらが直線的に並んでいるかどうかかを調べることができる。だから、他の存在者と比べなくても、そこにある3つの実体の角度の関係だけで定義できるのであれば、それ以外の余計なものを持ち込む必要はないと考えたのだ。


まっすぐが最短である証明

そもそも、下のように、2点間の距離はまっすぐなときに最短であることが証明できるのだから、それは公理でも定義でもなくまっすぐであることから導出できるものでしかない、というのがヴォルフの考えだった。

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こうして、その角度だけを相手にすることによって、アポステリオリで個別的な対象そのものの質料から軸足を離すことなく、そのまっすぐさを「直線」という悟性的でアプリオリな概念とつなげることができるようになるのだ。
こうして、ライプニッツ・ヴォルフ派は、「直線」を「部分と全体が(角度において)同じ1つの線」と定義することで、質料と形式を一致させることができ、ひいては権利問題の解決に繋がるとしたのだ。


カントの「直線」と権利問題

しかし、カントはこの説明に納得しない。
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それは、ヴォルフのやり方では「そうである」は言えても「何である」を言うことはできないからだ。数学的な直線であろうと、直観において描出されなければそれを思考することはできない。しかし、そこに描出され思惟される「まっすぐな線」は感性的な直観でしかあり得ず、それは直観における「関係の像」でしかない。だから、そこから「関係の概念」を引き出すことができない。それは、直線が「諸部分の方向が同一」から帰結しないことを意味する。つまり、ヴォルフの定義は、「方向性」なるものがすでに前提さていいなければならないはずだが、「方向」にはまだ何らの概念も根拠にしていない。無根拠なのだから、それは「まっすぐ」だと思えるものが「まっすぐ」だと言っているに過ぎず、その定義は役に立たないとカントは考えた。結局、ヴォルフの世界は、自分が正しいと思えたらそれで正しいとして良いという世界になっているのだ。そしてそのために、「権利問題」が解消できたと「思えている」だけのものなのだ。これがカントには納得できなかったのだ。


カントのやり方

ならばカントはどう考えたのか。
カントは、直観は概念に基づいてはじめて客体を産出できるとした。これについてマイモンは次のように言う。
「我々は『悟性が反省概念を客体の産出の規則にし得る』ことの一例を得る。つまり、直観を客体として産出するために悟性が『2点間の最短』という規則を思惟する。・・・こうしたことは直観への適用に先立ち長さのもとで純粋に考えられ、他によって推測されなかった。直線はまさにそのような関係においてはじめて客体となり得るからである」(同p137)
ここで出てくる反省概念とは、すでに与えられた客体間で比較されて思惟される対象で、すなわち「長さの視点における相違の関係」を指す。だから、直観において得られる客体は、悟性によって比較可能となるような「長さ」の概念を根拠にして、はじめて描写され得るようになるというのだ。
ヴォルフは、直観は直観のみで客体を産出できるとしたが、カントによるとそれは不可能なのだ。ヴォルフが直観した直線は、そのすべての部分が同方向だとして描写されるのだけど、しかしその同方向が描写されるためには、その「同方向」を規定するためのさらなる根拠が必要になるはずだ。もし、ヴォルフがそのさらなる規定を持ち込まなかったのなら、独善的で独断的で身勝手な直線しか描写できなかったはずである。それゆえ、もしヴォルフがうまく直線を描写できていたとしたら、そこには無意識のうちにさらなる根拠を持ち込んでいたはずなのだ。すなわちヴォルフは無意識のうちに「2点の最短」を持ち込んで「まっすぐ」をイメージしていたのだ、と考えたのだ。
「ここでは他の客体におけるように、内部(もの自体)が外部(他のものとの関係)に先行するのではなく、むしろその逆である。すなわち思惟された関係を欠いてはまったくいかなる大きさの客体も存在しない」(同p138)
ライプニッツのイメージする直線は、大きさが欠けていて内的なものでしかないから、それは大きさのある客体にも、他と比較され得る客体にもなり得ない。客体とは呼べるものではなかったのだ。


「そうである」から「何である」が帰結しないこと

「あらゆる他の感性的直観から何か他のものが帰結し得ないのと同様に、『それがそうである』ということは『それが何であるか』ではないのだ」同
例えば、ここにある「コレ」。本当はマウスなんだけど、「マウス」と言ってしまっては一般的な「マウス」に成り下がってしまうから、その個物性を守るために「コレ」と言うとする。しかし、この「コレ」という語でもって、いくら個物性を守り、そこにある質料を語り尽くそうとしたとしても、「コレ」でもって「マウス」を意味することはできない。(もし、「コレ」という語でもって、同時に「マウス」をも指示するのだと主張しようとしても、そう主張した瞬間にその「コレ」はもはや個物ではなく、「『コレ』という語でもって指示されたそこにあるマウス」という、ずいぶんと一般化されたものを意味することになってしまうだろう。)同様に、感性的直観のみで指示しようとした対象は「そうである」という個物的な状況の記述はできたとしても、決して「何である」という一般化された概念については記述できないのだ。直線においても、感性的直観のみで「まっすぐ」を「直線」だとして定義しようとしても、それだけでは本来は「直線」が「何である」かは記述できないはずなのだ。


じゃあさっきの証明はどうなるのか?

しかしそれでは上で現に、感性的な直観によって指示された「まっすぐ」な直線であることから、それが「2点間の最短」であることが証明されたのはどういうわけか。それはこういうわけである。もし本当に、その証明によって、「まっすぐ」の中に「2点間の最短」が含まれていて、分析的に導出されることが確認できたと言うのであれば、その人の「まっすぐ」には、無意識のうちにすでに「2点間の最短」が含まれていることを意味するだろう。そして、さらに、カントの言うように、感性的直観から他の概念が帰結しないのであれば、逆にその人は、「2点間の最短」となるような感性的な客体を直観し、それを「まっすぐ」だと思い込んで直線を産出したということの証拠になるのではないか。


権利問題の解消不可能性が解決になるわけ

そもそもカントの考えでは、物自体には空間も時間もどんな形式ももたない完全なカオスであった。それは数学的な空間においても同じで、あらかじめ用意されている数学空間なんてものはあり得ない。それは、概念が根拠となって構成され形式化された空間として描写されたことではじめて産出されるのだ。
だから、カントのこの捉え方では、形式の向こう側の質量に口出しすることなどできようはずもなく権利問題を解消することなど、はなから不可能なのだ。しかし、それだからこそ、このカントのアプローチが権利問題の真っ当な解決になると考えたのだ。
「人は概して『まっすぐであること』は内的規定であり、『最短』は外的規定であると思いがちなので、こうしたことは逆接であるように見える。しかしより精確に考えると・・・『まっすぐである』あるいは諸部分の方向が同一ということは、直線の成立を前提としている・・・それゆえ(ヴォルフの)直線の定義は何の役にも立たない」同p139
人は概して「直線」の本質が「まっすぐ」だと思っているから、「最短」から「直線」が産出されるなどと言うと逆説に聞こえてしまうかもしれない。しかし、「最短」があってはじめて直線は描写され得るのであって「最短」こそが「直線」の本質なのだ。

以上が、カントの言い分である。


まとめとして。ハンプティダンプティとアリス

さて、話が飛ぶが、「鏡の国のアリス」に次のような会話がある。
「栄誉ってどういう意味?」とアリス。「そいつは『君がぎゃふんと言うような素敵な議論だ』という意味だ」とハンプティダンプティは小馬鹿にしたように微笑みました。「でも『栄誉』は『ぎゃふんと言うような素敵な議論』という意味にはならないわ」「言葉はわしが意味させようとしたものを意味する。それ以上でもそれ以下でもない。問題は、言葉とわしのどっちがどっちの言うことを聞くかということ。それだけだ」(ルイス・キャロル「鏡の国アリス」角川文庫版p.120)
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このハンプティダンプティの主張は、語のあるじは語り手だということである。何を語りたいのかを知っているのは語り手であり、何が語られているのかはっきりさせたいなら、語り手に問うのがいちばん手っ取り早い。もしも語られている内容が語り得ないことだったとしてもだ。語り得ない内容であっても、語り手が何かを語ろうとしているのであれば、そこで語られている語の「本当の意味」は語り手が語ろうとしているその内容であるはずなのじゃないか。だから、私的言語なるものが他者に伝わり得ず語り得ない言語であっても、その意味するところが本人の私的感覚だと指示されているのなら、はっきりと「本当の意味」を持つ言語として存在し得るのではないか。こう見ると、このハンプティダンプティの主張はまるで、ライプニッツのそれに思えてくる。
それでも、自分の世界の中では、この言葉たちは現に個物にまで到達し、「権利問題」を解消できたようにも思える。
だから、「イマココ」の「コレ」を絶対とし世界を私の世界として、個物的な直観のみを基盤として捉えて良いのだと考える。
だから、直線の定義は「直線とはどの部分も同じ向きの線」だとして良いのだ。

対して、アリスの主張は、言葉の意味は社会的な生活の中ででないと決められないとするものだ。自分で勝手な思い込みをするだけでは、語の意味は決まられず役に立たないとする。ライプニッツのやり方は、単に内向きで独りよがりな内的なだけの閉じた世界把握になってしまう。そんなやり方で、いくら個物を捉えたと言っても、それは他者と共有できるものでもなく、明日へ開くものでもない。それでは自分で世界を把握したと思い込んでいるだけで、実際に外的に比較し得る概念を持ち込まないことには、自分でも自分が何を思っているのかも掴めていないはずだ。とする。
ウィトゲンシュタインも「哲学探究」で
「279.『でも、私は自分の身長がどれくらいか知っている』と言いながら手を頭に乗せているのを想像せよ。」
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と言ったが、ライプニッツの立場はそのように批判されてしまう私的言語的な側面があるかもしれない。
だから、世界を把握するには、他なるものと比較可能な概念を基準にして、それに基づいた感性直観を立ち上げる必要がある。とする。
だからこそ、直線の定義は、「直線とは2点の最短」としなければならなかったのだ。

以上が、ライプニッツ派とカントの直線の定義の違いと「権利問題」についての考察である。僕としては、カントに部があるかとも思えるが、それでもライプニッツの世界観により魅力を感じてしまう。しかし、どちらが正しいという思索課題ではなく、その違いを深く掘り進めることにこそ、この二者の思索を考える価値があると思われる。なので、今後もさらに考えていく課題にしたい。皆さんはどう思われただろうか。

 

本節では、「純粋理性批判」の読み取りから離れて、マイモン「超越論的哲学についての試論」を中心に考察した。次節は「純粋理性批判」の「反省概念の多義性について」に戻り、カントの考える4つの「無」について考察する。

 

つづく

カント「反省概念の多義性について」を読む

ザロモン・マイモンを読む

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