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2021年8月17日 (火)

ライプニッツが質料を先行させ、カントが形式を先行さたわけ〈「反省概念の多義性について」を読む5〉

カント「純粋理性批判」から「反省概念の多義性について」を読む。

カントの4つの反省概念に関する4視点〈同一性と差異性〉〈一致と対立〉〈内的と外的〉〈質料と形式〉を「ヌーメノン」と「フェノメノン」との関係で考察して、カントとライプニッツの世界観の違いを捉えようとしてきた。今日は〈質料と形式〉である。ライプニッツは質料が形式に先行せねばならないとし、カントは形式が質料に先行せねばならないとした、そのわけを考える。

 

質料と形式

まずは、「質料」と「形式」とは何かということをはっきりさせておかねばならないだろう。カントはここで問われる「質料」と「形式」が超越論的な意味におけるものでなければならないとしている。カントの説明の記述をまとめると次のようになる。

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つまりカントにおいて「質料」と「形式」とは、
【質料】存在を構成する要素であり、まだ制約されていないあらゆる可能性を有するもの
【形式】それによって制約され、事物として結びつけて規定されることによって、概念として捉えられる実在が生じさせるもの
だと言えるだろう。

ライプニッツが質料を先行させたわけ

このような質料と形式を考えたとき、ライプニッツにとって形式が質料に先行することは許せないことであった。なぜなら、ライプニッツは人間が物自体をそのまま直観することができると想定していたからであり、イマココに現前しているすべてが現実であったからである。例えば、僕の老眼では眼前のリンゴがぼやけてしか見えないのだけれど、そのぼやけたリンゴそのものがすでに現実だと捉えるのだ。例えば、今見ているコレは夢かもしれないが、たとえコレが実際に夢であったとしてもそれは現実に見ている夢でしかしかないのだから、それさえ現実の世界だと捉えてしまうのだ。ライプニッツにとっては、そこに与えられた情報がそのまま丸ごと世界なのだから、そのすべてを受け入れねばならないのだ。そして、その眼前に与えられた質料を、悟性の形式が規定することによって世界が概念化されるのであれば、その形式の規定は、その与えられた何者でもないものを何者かに概念化する、そのためだけの道具としてあらねばならない。このすでに与えられた何者でもない「イマココ」(あるいは「コレ」)としての「質料」だけが絶対的な世界なのであり、形式は常にその絶対的な世界に仕える従者でなければならないのだ。それゆえ、ライプニッツにとって、質料が形式に先立つことは必然であった。
こう見ていくと、ライプニッツの言い分ももっともなように思われる。
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すでに現に認知している時点でそれが現実 
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「隣室に行けば在る机」は現実でなく「隣室に机があるだろう」ということが現実

 

カントが形式を先行させたわけ

しかし、それに対して、カントは質料が形式に先行することが許せなかった。ライプニッツのやり方は、結局、個物としての質料を形式によって一般化することでしかないと考えたからだ。
ライプニッツのやり方では、〈内的なもの〉とされた対象だけが現実であることになってしまう。それでは、〈内的なもの〉からはみ出し対立するような外的対象は、現実世界と関わりのないものになってしまう。しかし、そのように、あくまで世界を内的規定によって捉えるだけのものに限るとするのであれば、我々はあらゆる実体を、その実体と関係し合う「力」(ここで言われている「力」は物理的相互作用の意味だと思われる)でもって認識するしかなくなってしまう。だって外的な実体をそのまま認識できないと考えるのだから、物質的実体の概念を、我々はそこで働く引力や斥力などの相互作用によって認識しそれでもって構成するしかないことになる。そこで、ライプニッツは、あらゆる外的な実体から外的関係を意味する要素を取り去り、他なるものを合成しなくても済むように、「モナド」を想定したことになる。そうすると、「モナド」は世界のすべてを1つの単純な実体でしかないと想定されるものなので、あらゆる外的関係はもはや消失し、あらゆる世界が内的関係に収まることになってしまう。
このライプニッツの捉え方について、カントは
「しかし、私の内的感官が私に提示する偶有性以外にいかなる偶有性を考え得るのか。それは私自身の思惟かそれに類するものでしかない」(カント「純粋理性批判」A266 B321)
として、反発する。そのようなライプニッツの世界では、私の内的感覚に示される偶有性は思考され得る偶有性しかなくなってしまう。そんなものを偶有性と呼んで良いのだろうか。偶有性なくして我々は世界を経験することができるのか、と。
「もし純粋悟性が直接的に対象に関係づけられ得るなら、そして空間時間が諸物自体そのものの規定であるのなら、実際にもそうでなければならないだろう。しかし、そのうちで我々がすべての対象を諸現象として規定するものが感性的直観のみである場合、直観の形式はすべて質料に先行し、経験をはじめて可能とするのである」(同A267 B323)


ヌーメノンとフェノメノン

カントの世界モデルでは、感性の時間空間という形式によって感性的直観が立ち上がってくることによって、はじめて経験は我々に認識可能なものになるというものである。そのような、現象を経験として認識可能にする規定システムがカントのやり方以外にないのだとすれば、ライプニッツのやり方では経験を認識することはできない。そして、カントは、ライプニッツが言うような、フェノメノン(すなわち現象界においての感性的認識の対象)をそのまま認識しようとするやり方は不可能だとする。
「ここで大きな誤解を招く曖昧さが明らかになる。すなわち、悟性が対象を或る関係においてフェノメノンと呼ぶとき、悟性は同時にこの関係の他にさらに対象自体そのものについての表象しその対象について概念を形成することができると考えるのである」(同A253 B306)
ライプニッツはフェノメノンを内的に捉えられて、それをある意味でヌーメノン(叡智界における概念的認識の対象)と一つのものとして把握できるとした。しかし、カントはそれが無理な話だとした。そもそも現象界は外的な対象を含むものだから、内的な対象しか含み得ない叡智界では対応できないのだ。だからそもそも、ヌーメノンはその構成からしてフェノメノンを形成することはできないのだ。


消極的ヌーメノンと積極的ヌーメノン

そしてさらにカントは、ライプニッツがヌーメノンを直接捉えようとした、そのやり方自体がダメだとする。そのやり方では、ヌーメノンが蓋然的な認識でしかないと諦めるか、外的な内容を捉えようとして破綻するかどちらかしかできないものだったとして、その役に立たなさを批判する。
カントはここで、ヌーメノンを消極的ヌーメノンと積極的ヌーメノンの2つに分ける。
まず、消極的ヌーメノンとは何か。
【消極的ヌーメノン】「我々がヌーメノンを一つの物として理解する場合、我々が物についての我々の直観の仕方を捨象することによって、我々の感性的直観の客観ではない限りの物である。この物は消極的意味におけるヌーメノンである。」(同B307)
消極的ヌーメノンとは、感性の図式を用いず、直観の仕方を捨象し(経験の外的な内容を無視して)悟性概念だけで対象そのものを捉えようとしたもの、である。
消極的ヌーメノンは、悟性概念が客観へ関係づくための何の仕方も与えられていないものとしてのヌーメノンなのだから、そんなもので我々は客体を手にすることができない、とカントは批判する。

では、積極的ヌーメノンとは何か。
【積極的ヌーメノン】「しかし、我々がヌーメノンを非感性的直観の客観と理解する場合にはある特殊な直観の仕方、すなわち知性的な直観の仕方を想定する。これは我々の直観の仕方ではない。この直観の仕方について我々はその可能性さえ洞察できない。そしてこうした非感性的直観の客観は積極的意味のヌーメノンである」(同B307)
感性の図式を用いずにヌーメノンを捉えようとしたものが「消極的ヌーメノン」だったのに対して、非感性的な直観によって(つまり、カントのやり方ではなく、空間時間の形式を用いないで、新たな直観の仕方でもって)、ヌーメノンを捉えようとしたものが「積極的ヌーメノン」である。
しかし積極的ヌーメノンのその「非感性的な直観」の方法をライプニッツも我々も知らない。だから、積極的ヌーメノンは単に蓋然的なものでしかない。それは可能だとも不可能だとも語れないような、何者でもないだけの表象に過ぎない。
「したがってそのような対象の概念はそれ自身一つの問いなのだ」(同A287 B344)
「その感性的でない当の客観を『ヌーメノン』と名付けるのは勝手だが、悟性概念のどれにも適用することができない客観は空虚でしかなく、充たされない空間という以外役に立たない」(同A288 B345)


カントのやり方

では、そんな偉そうに言うカントは、現象的な世界をどうやって捉えると言うのか。
カントの感性悟性のシステムは、本ブログ〈「感性・悟性・理性」と「時間空間・カテゴリー・理論」〉あるいは〈カントが直観と概念に空間時間を求めたわけ〉のページでも紹介したが簡単に振り返っておくと、次のようなメカニズムであった。


カントの「物自体」と「感性」

まず、カントの考える「物自体」は世界に存在するべき対象そのもののことであるが、それは一つには、人間が認識できない向こう側にある、神の視点においての本来の姿としての存在対象という意味でもあるし、もう一つには、何者でもないカオスな現象そのものとしての存在という意味もあるようだ。どちらにしても我々にはそこに到達することはできないし、それだけでなく、カントにおいてその二つの物自体はおそらく同じ一つものだったのだろうと思われる。しかし、我々が神の側に到達できないと言うのは当然だと思われるが、現象そのものとしての物自体に到達できないというのはどういうことなのか。現象はこの眼前に現にすでに在るのだから、もう到達しているとも言えるはずではないのか。しかし、カントの世界モデルにおける現象そのものは、何者でもなくどんな「なに」と言えるものではなく、否「言えるものではない」とさえ言えないような何者でもないカオスなのだ。だから我々はそれについて何の理解も認識もできず、だから、それは決してそこに到達したと言えるような対象にはなり得ないのだ。
そこで、我々が現象を規定して知覚認識するためには、感性による形式でもって世界を空間3次元+時間次元の4次元時空に当てはめ、奥行きのある位置や形を持つ存在として見えるようにする必要がある。
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カントの感性の形式


「直観の公理」と「知覚の先取」

その上でさらに、カントその直観が「直観の公理」「知覚の先取」などの原則でもって、総合的に知覚し認識し判断できるようになるとする。つまり、
【直観の公理】「すべての直観が外延量である」(同A162 B202)
とし、
【知覚の先取】「すべての現象において感覚の対象である実在物は内包量すなわち度をもつ」(同A166 B207)
とする。
カントの言う「外延量」は全体として捉える量をあらわし、「内包量」は部分における状態の度合いを表す語である。(ただし、現代の数学(算数)の用語の「外延量」「内包量」とは微妙にずれていて要注意かもしれない。)
すこし詳しく言うと「外延量」「内包量」「公理」「先取」は次のような意味の語だとされる。
【外延量】「部分の表象が全体の表象を可能にする(従って必然的に全体の表象に先行する)量quantiを私は外延的量と呼ぶ」(同B203)
【内包量】「単一性としてのみ把握される量、そのうちで数多性が否定性=0への接近によってのみ表象され得る量を内包的量と呼ぶ。従って現象における実在性も内包的量つまり度を持つ」(同B210)
「感覚はそれ自体いかなる客観的表象でもなく感覚のうちには空間の直観も時間の直観も見出だされないので、感覚にはいかなる外延量も帰属しないが、内包量は帰属する(内包量の把握においては時間における経験的意識が無=0からその量の与えられた程度まで増大し得る)」(同B208)
【公理】その真理性が直接的に明証的で、証明され得ず、証明される必要のない根本命題
【先取】先行的把握。後になって初めて真なるものとして実証される或るものを先行的に把握すること。ストア派エピクロス派においては、生得的な表象や観念を意味する。プラトン想起説も広い意味で先取論
「私がそれによって、経験的認識に属するものをアプリオリに認識し規定することができる認識は先取と呼ばれ得る。そしてこれこそエピクロスがプロレープシス先行把握とした意義である。…形態ならびに量に関する空間時間における純粋な規定を現象の先取と呼び得る。その純粋な規定は、何がアポステリオリに与えられようとも、アプリオリに表示するからだ。経験からしか汲み取られ得ない経験の質料に関わるものが経験を先取することは奇妙に見えるが、事態は現実にそういう風になっている」(同B208)


「時間空間」と「だってーそなんだもん」による認識

つまり、ものすごく簡略化してまとめると、「感性の形式」「直観の公理」「知覚の先取」というシステムは、
「感性の形式」でもって世界を時間空間に存在するものとして現象させ、
「これを量のある空間とすることにしよう」と言って現象を外延量として立ち上げ、
「だってそーなんだもん」と言って現象から内包量を紡ぐ
というものだと言えるだろう。
結局、カントのシステムは、「だってそーなんだもん」と言って世界を把握してしまうという、ある意味で恣意的だとも言えるようなシステムなのだ。しかしそれでも、カントはこのやり方でなければ、カオスでしかなかった世界を有意味なものにすることはできないとする。本当にこのやり方以外にやり方がないかどうかは、僕にはよく分からない。しかし、実際に、カントのこのやり方で世界は把握できるようになっていると思われるし、カントのやり方に比べるとライプニッツのやり方は現象を知覚する仕方が不明確で、カオスをきちんと意味づけることができるのか疑わしく思われてくる。

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ジョン・ロック 1632-1704

カント以前とカント以後

カント以前の認識論で、ロックは、世界に備わっている性質には、認識とは独立に世界が持っている第1性質と、人間が人間特有の見方で捉えてはじめてそれと認識できるような第2性質とがあるとした。延長、固体性、数などが第1性質で、色、音、香り、味などが第2性質だとしたのである。そのように、カント以前は、認識と独立の第一性質の世界があり得るとされたのだが、その世界把握に反対して世界自体には第1性質さえないとしたがカントである。カント以前でも色は人間が認識してはじめて色となると捉えられていたが、長さは世界の側に元から存在すると考えられていた。
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第1性質には延長や形がある
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物自体には延長や形さえ無い

しかし、カントは、人間の認識と独立なものは何一つないとした。長さや形やそういったものでさえ、人間が感性の形式にあてはめて直観されてはじめて長さや形になるとしたのだ。そして、そのように長さを持ち、形を持ち、奥行きを持つ対象として知覚され認識されてはじめて、世界は対象化されるのだから、それがなければ悟性によって概念化されて理解されることもできない。感性の形式がなければ我々は一切の世界を認識することができないままカオスのままにいなければならない。否、もはやそこには時間さえ生じていないのだから、「カオスのままに『居る』」ことさえできない。
そのように、感性の形式を下敷きにしなければ世界把握ができないと考えていたからこそ、カントは、ライプニッツのやり方をどうしても受け入れることができなかったのだ。
だからこそ、カントはどうしても形式よりも質料を先行させることはできなかったのだ。


ライプニッツの直線とカントの直線

以上が、ライプニッツが質料を、カントが形式を先行させたわけである。
こう見てみると、どちらの思いも分かるような気がするのだけど。ややカントに部があるだろうか。
でもこの話、カントとライプニッツの空間世界ってそんなに違うものになるのだろうか。いろいろ原理の違いを言い合ったって、結局、具体的な世界把握はそんなに違わないものになるんじゃないか、って疑いたくなる。
ところが、カントの弟子であるマイモンによると、ライプニッツ派の直線の定義とカントの直線の定義とでは、まったく違うものになっていて、やはり具体的な空間論においても大きな齟齬が出てくるらしい。その直線の定義については、マイモン読解の章で引き継き、この両者の違いを具体的に検討してみたい。次節で本章のまとめとして、カントの挙げる4つの「無」について考察し、そのあとでマイモン読解に戻る。

 

つづく

カント「反省概念の多義性について」を読む

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