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2021年8月15日 (日)

「ヌーメノン・フェノメノン」と「一致・対立」〈「反省概念の多義性について」を読む4〉

カント「純粋理性批判」から「反省概念の多義性について」を読む。

前節で、世界のすべてを悟性によって概念化して捉えたものを実体だと捉えたライプニッツの世界把握について考えた。ライプニッツにとって現実とは起こった事物のすべてであり認識したすべてであった。その世界観はある意味では観念論的であるかもしれないが物自体にも言及できるものであり、僕にはずいぶん真っ当な世界モデルだと思えた。
しかし、カントは、ライプニッツのこの世界観を、叡智的実在(ヌーメノン)を優先したがために現象的実在(フェノメノン)を捨象してしまったものでしかないとして真っ向から否定する。
そこで、その〈ヌーメノンとフェノメノン〉の視点や〈一致と対立〉〈質料と形式〉の視点でもって、ライプニッツの世界観とカントの世界観の違いについて考える。

ヌーメノンとフェノメノンとは何か。
まず、カントはヌーメノンとフェノメノンを次のように位置づける。
「諸現象はそれらが諸カテゴリーの統一に従った諸対象として思惟されるかぎり、フェノメナ(フェノメノンの複数)と呼ばれる。しかし、私が次のような諸物を想定する場合、すなわち単に諸対象であるにもかかわらず感性的直観にではなく知性的直観に与えられ得る諸物を想定する場合にはそのような諸物をヌーメナ(ヌーメノンの複数)と呼ばれる」カント純粋理性批判A253 B305
また次のように言う。

「内的な純粋悟性のうちで実在性を考える(ヌーメノンとしての実在)、もろもろの実在性の間にはいかなる対立も考えられない、つまり諸実在性が一つの主語において結合し帰結を相殺する関係、ちなみに3-3=0であるような関係は考えられない」同A264 B320

「現象的実体(フェノメノンとしての実在)は、相互に対立しあうことができ、同じ主語として合一されると一方が他方を廃棄することがあり得る」同A265 B321

カントのその他の説明も併せると「ヌーメノン」「フェノメノン」はそれぞれ、次表のようにまとめられるだろう。

Photo_20210815013601
すなわち

【ヌーメノン】Noumenonとは、カント哲学で、叡智界においての純粋悟性の対象。悟性対象としてのみ考え得るもの。悟性対象として、あらゆる事物が主語によって内的に分析され得る。あらゆるものが一致し、矛盾のない世界を構成する。ライプニッツの世界把握において知性的な実体であり、物自体として想定されるようなもの。複数形はヌーメナNoumena。

【フェノメノン】Phänomenonとは、カント哲学で、現象界においての感性的認識の対象。現象の内での外的な世界においての実在。それぞれの対象が矛盾し相殺しあうこともあり得る。質料に先立って空間時間の形式があてはめられることによって、その質料が対象化し感性的に直観されたもの。カントの世界把握において物質であるとされる。複数形はフェノメナPhänomena。

ということである。


ここに〈一致と対立〉〈質料と形式〉という視点が登場してきている。ヌーメノンとフェノメノンの意味といっしょにこの二つの視点の意味するところを確かめることで、カントがライプニッツを否定したわけを再点検し考察しよう。
では再び、「ヌーメノン」とは何か。
それは、ライプニッツの想定する世界モデルにおいて、悟性概念でもって構成される世界(叡智界)においての対象物。それはすべてが無矛盾な実体として、世界を構成する。
このヌーメノンが無矛盾であることに関してカントは〈一致と対立〉の視点で考察している。

 

〈一致と対立〉

〈同一性と差異性〉がそれぞれ全称判断であるか特称判断であるかによって生じる視点であったのに対して、〈一致と対立〉はそれぞれ肯定的判断であるか否定的判断であるかによって生じると、カントは言う。

「一致」とは。
ここで言われている肯定的判断とは他の判断と無矛盾な判断である。例えば、ある時「ある部屋が温度3℃である」が正しい判断だとされる状況があったとすると、それに対して他の視点(外的な視点)で「否、室温は-3℃だ」という矛盾した内容を正しく判断されることはあり得ないということである。(注意。これは、相対性理論などで、視点によってその認識内容が異なり得るとされるような違い方を言うものではない。相対性理論に矛盾はないが、ここでは矛盾するような違い方を問題にしている。)そして、上の分類で言うと、「ヌーメノン」がつねに無矛盾な世界を構成し、あらゆる実体がそれぞれに含まれている意味と「一致」するような在り方をしているのだ。

「対立」とは。
一方、否定的判断とは他の判断と矛盾する判断である。ある時「室温3℃である」が正しい判断だとされるその内容が、他者や他時間からの視点で「否、-3℃だ」と矛盾した内容が正しい判断だとされ得るということである。そんなこと一般的にはあり得ない話にも思えるけれど、カントにしてみれば矛盾しないとする方があり得なかった。カントは、ライプニッツが現象界を悟性でもって一般化し合理的に理解することができるとしたことをどうしても受け入れられなかったのだ。現実そのものである現象界を、しょせん人間の意識さようえしかない悟性なんかによって解釈され正しいとされた世界が、世界の正しい姿であるはずがないのだ。だから悟性によって真だと判断された分析は、外的な他の悟性によって偽だと判断され得なければならないのだ。ある一つの対象に対して現に「+3」で作用しているように見える現象が、同時に現に「-3」で作用しているようにも判断され得るのであり、その矛盾しあう両者が「3-3=0」とされるような総合化は十分可能でなければならないのだ。
つまり、ライプニッツが推奨する世界、つまり、現象界を叡智界でもってすべて捉え得るとする世界モデルでもって判断されるときの判断を「肯定的判断」と呼び、そのときの対応を「一致」と呼ぶ。そして、カントが推奨する世界、つまり現象界を叡智界なんかでは捉え得るはずがないとする世界モデルでもって判断されるときの判断を「否定的判断」と呼び、その対応を「対立」とする、ということだ。
現象界の個別性を保障するために、カントはどうしてもライプニッツを受け入れられなかったのだ。

また、ライプニッツとカントは、それぞれヌーメノンとフェノメノンを重視するがゆえに〈質料と形式〉に対する向き合い方でも真逆の立場を取る。すなわち、ライプニッツは「質料が形式に先立つ」とし、カントは「形式が質料に先立つ」とした。なぜか。またさらに、ヌーメノンを消極的なヌーメノンと積極的なヌーメノンに分類した上でのカントの批判についても考えたい。でもそれはまた明日、次節で考察する。

つづく

カント「反省概念の多義性について」を読む

ザロモン・マイモンを読む

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