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2021年7月26日 (月)

カントによるライプニッツ「モナド論」批判〈「反省概念の多義性について」を読む1〉

カント「反省概念の多義性について」を読む。
「反省概念の多義性について-経験論的な悟性使用と超越論的な悟性使用の取り違えから生じるところの-」は、カントの「純粋理性批判」の第2部第1部門「超越論的分析論」の最後部の付録とされた小さな章で、ライプニッツの合理主義的認識論をカントが否定するわけが著されている。

本ブログは現在、マイモン「試論」読解の途中であったが、そのカント論を読むにはカントとライプニッツの認識論や空間論の対立について知っておく必要があると思われた。そこで、本章は、「純粋理性批判」からライプニッツ批判が表れているこの部分を読み、カントとライプニッツの哲学の違いをはっきりさせ、カントがライプニッツ哲学のどこにダメを出したのかをはっきりさせることを目指す。(今日はその概略を読む。)

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イギリス経験論と大陸合理論

そもそも、カントが批判するライプニッツの合理論的な認識論とはどんなものだったのか。
17世紀~18世紀のイギリス経験論と大陸合理論という、認識論に関する二つの潮流があった。
イギリス経験論はロック、バークリー、ヒュームなどによる考察で、すべての世界認識が経験の裏づけによって判断可能になるとするものである。すべては経験だけを根拠として認識されなければならないとする立場である。
それに対して、大陸合理論は、スピノザやライプニッツ=ヴォルフ学派と呼ばれる人たちなどによる考察で、人が経験する感覚的な認識がそのものとしては何物でもなく単に混乱したカオスでしかないとして、その経験を論証的知識認識に当てはめたものを重視する立場である。
そして、カントはその二派に対して

「ライプニッツは感性的な現象を悟性化し、ロックは悟性の概念を経験化させただけで、二人は、悟性と感性の二つの異なる源であることを認めながらも、それが結びつくことでしか客観的で妥当な判断が下せないことを理解しなかった」(純粋理性批判)

と言う。そして、この二つの立場を統合することによって認識論を新しいステージへ転換させたとされる。


ライプニッツのモナド論

ではライプニッツはどんなシステムで世界を解釈しようとしたのか。
それを見ていくには、まず、その世界規定がやや独特なものであることを確かめておかねばならない。それによると、空間的秩序は質と量でもって構成される。質は形を指し、個々の観察によって他との比較なしに内的性質によって記述できる。量はものを実際に他の物に押し当てて比べることで、外的性質によって規定されて把握することができる。
【内的性質】とは、他と比べることなくそれ自身が持っている性質。
【外的性質】とは、他との比較によってはじめて明らかになる性質。
【概念的区別】内的性質による区別は概念的な区別とは言わず、外的な性質による区別を概念的区別と言う。
ライプニッツのシステムでは、ある存在者を取り囲む空間の在り方を考えるとき、延長として大きさは内的性質ではありえない。場所や位置といった概念的な秩序は、複数の物体間の間隔距離でもって相互に規定される。それゆえそれは諸実体の「関係」であり、他との比較のみによって決まる、とされている。
このシステムをカントは「知性主義的体系」と呼ぶ。
「高名なライプニッツは、世界の知性主義的体系を構築する。一切の事物を概念同士だけで比較した。すべての対象を悟性や悟性の思考が有する形式的概念と比較することによってのみ、事物の内的性状を認識することできるとした」(カント同)

ライプニッツは、現象を物自体の表象であると考え、そこに現象として立ち現れてくる世界に対して悟性的な論理形式をあてがうことでしか我々は世界を認識することができず、それに従う形でしか現象は世界になり得ないとした。感性そのものには分析能力は無い。でもライプニッツはそれだからこそ、知性が概念によって選別できたものだけしか、我々は、世界として受け止めることができないがゆえに、我々は知性がそれを選別できるとして良いのだと考えた。

でも、ライプニッツの世界把握では、時間空間的な広がりはすべて外的な存在であり、それは悟性的に相互に比較される関係によってのみ意味を持つのだから、それを現実世界として意味づけられるためには、その外的な実体のすべてが内的な存在として把握されなければならないはずではないか。そして、その、外的な実体の場所や形状や運動などをそのまま内的に知ることは本来できないはずではないのか。そのような知り得ないはずの世界をどうやって把握すると言うのか。

「すべてのものが内的であり、自らの象徴としてしか関わらないとすると、ある実体の表象の状態は他の実体の表象の状態と一切結びつくわけがない」(カント同)
そこで、ライプニッツは、その外的な実体の在り方を内的な現象として現れるものだとする「もの」、そして、この私という主体がそこで内的に世界を把握する「単純なもの」を想定した。それが「モナド」である。その単純な存在者モナドが内的な感覚能力でもって世界を把握する。それゆえそれは観念でしかないのだが、それは同時にあらゆる外的実体とも同一で単純なものであるので、あらゆる外的実体と予定調和する。内的な感覚的な現象と外的な実体とが「予定調和説」によって結びつけられるのだ。つまり、あらゆる外的実体がその場で感性的現象において現れ、そしてそれが悟性によって分析可能となるというのだ。これがライプニッツの「モナド論」による知性主義的認識論である。

 


ライプニッツがダメなわけ

ライプニッツの哲学においては、世界は主体が認識してはじめて現実世界になるのだから、世界そのものに到達できないわけがないと考えられるのだが、カントにしてみるとその捉え方が許せない。そのライプニッツの世界では、経験の特殊な事物にまで悟性の射程が届くとされるが、カントにしてみるとそれは正に、個物と普遍認識が一致するとするような到底ありえない話でしかない。
カントはライプニッツが越権行為を犯しているという。
「我々が悟性概念を客観的に使用する条件は、我々自身の感性的直観を通して我々に対象が与えられるときの、その感性的直観の仕方だけでしかない。それを無視してしまえば悟性概念は客観の関係をまったく有さない」(カント同)
だから、つまりライプニッツの捉えた世界は、感性的直観を無理して拡張して悟性で捉え得るものとしてしまったために、客観的な世界と無関係なおとぎ話の世界を夢想しているに過ぎないと言うのである。

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ライプニッツのダメな2つの点

そしてカントは最終的に、ライプニッツの合理論的哲学の、世界のすべてが概念でもって捉え得るとするとするその捉え方を考察し、次の2点でもってダメ出しする。

①.ライプニッツは、悟性概念でもって現象的経験を捉え得るとしたが、これが不可能であること。(カントは、そのような「論理的」な反省でなく、感性と悟性を協働させる「超越論的」な反省でなければならないとする。)
②.そして、ライプニッツ世界が、自分で理性的に認識したと思い込んでいるだけのおとぎ話でしかなく、結局、独我論的な閉じた世界であると言う点。

このようにまとめるとカントの批判は、まるでもっともなのである。しかし、そこのところ、ライプニッツが悟性によって経験を捉えるとしたことが本当にどこまで誤謬と言えるのかと問い直してみると、そこにはかなり微妙な問いがあり、問題はそれほど簡単でも単純でも明らかでもない。永井均が、「何が起ころうと起こったことが現実」(ライプニッツ原理)と「起きることの内容的つながりによって何が現実かが決まる」(カント原理)を対立させて考察しているが、この二者間には根本的なところから世界把握に違いがあり、そんなに簡単にカントに優位があるとは決定づけられない断絶がある。

かの「論考」で

「2.1511 像はそのように現実に関連づいていて、現実に到達する」(ウィトゲンシュタイン)

と言ったその世界認識の立場をウィトゲンシュタインは自ら独我論だと評したが、まさに「世界は私の世界」であることを認めるならば、そこに存在している物自体までを私は認識できると言える権利を持つべきだとも考えられるようにも思われる。だから、カントのライプニッツ批判は未だに、メイヤスーが、カントの弱い相関主義とウィトゲンシュタインやハイデガーの強い相関主義の間に投げ掛けた問いがそのまま問われているような、問いの主戦場であるとも言えるだろう。

そのような重要で厄介な問いであるからこそ、カント自身も我々の認識の仕組みとしての「反省」のメカニズムを問い直すことでていねいに、ライプニッツのダメさを考察している。


反省的意識の有し得る4つの組合せ

そこでカントの問いを、その問に沿って丁寧に見ていきたい。カントは問いをまず、世界の認識において、意識が有し得る関係は次の4つの組合せだけしかないとする。すなわち

①.「同一性」と「差異性」 

②.「一致」と「対立」 

③.「内的なもの」と「外的なもの」

④.「質料」と「形式」

の4つである。そしてこの4つの観点で順にライプニッツの世界を解説しながらその問題点を明らかにしようと試みる。
そこで僕もこれを順に見て、カントとライプニッツの世界把握の対立の意味をより深く掘り進めることにチャレンジしたい。とくに、ヴォルフの直観の定義が「1つの線であること」に対しカントの直線の定義が「最短であること」の違いがどこから出てくるのか、そしてそこにカントのライプニッツ批判の中心があるとマイモンが考えた訳を突き止めてみたい。

 

でもそれはまた明日、次節で。

 

つづく

カント「反省概念の多義性について」を読む

ザロモン・マイモンを読む

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