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2021年7月31日 (土)

同一性と差異性におけるライプニッツ=カント対立と超越論的トポス論〈「反省概念の多義性について」を読む2〉

カント「純粋理性批判」から「反省概念の多義性について」を読む。


今日は、カントの言うトポス論の4つの標題のうちの一つめ「同一性と差異性」について、ライプニッツが「同一性」を重視し、カントが「差異性」を重視するわけ考える。
「反省概念の多義性について」は、カントが感性と悟性をはっきりと区別する必要を訴え、ライプニッツ哲学の誤謬を考察するものである。カントによれば、ライプニッツの世界モデルは「不可識別者同一律」などでもって「同一性」だけによって世界を把握しようとするのに対して、カントモデルでは「差異性」までを扱えるので、カントモデルのみが現実の経験世界を語る権利を持つと言って、ライプニッツの哲学を否定する。でも、僕には、この問題が、そんなにすっきりはっきりと峻別させられるものではなく、カントとライプニッツのどちらが正しいかを考えるためにはかなり根源的な問いを深める必要があるとしか思われない。否、それ以上に、その2者のどちらが正しいかを問うのではなく、どこがどう違うのかを問い深めることにしか意味がないと思われてならない。
たとえば、ライプニッツは同一性の視点から、世界が世界ごと2倍になることに意味はないとし、カントは差異性の立場から、世界が世界ごと2倍になることに意味がないわけがないとする。また、ライプニッツ学派は「直線」の定義を「一本の線であること」とし、カントはそれを「2点の最短」とする。このように様々なところでこの両者は対立するのだが、なぜそのような全く違う立場をとらねばならなかったのか、2人の立場の違いを考えて掘り下げることに、チャレンジしたい。
Photo_20210731085101 Photo_20210731085102

今日の考察の手順
(1) アリストテレスのトポス論とカントのそれを比較し、「超越論的トポス論」の問うところを確かめ、「超越論的トポス論」の4標題をみる。
(2) ライプニッツが「同一性」重視しそれにもとづいて「不可識別者同一律」を要請したことについて考える。
(3) カントの「2つの水滴の非同一」の話による論駁とそれが微妙に的外れなことを考える。
(4) ライプニッツが「同一性」を重視し、「同一性」が「差異性」にまで到達できるとしたわけと、カントが「差異性」を重視し、「同一性」では「差異性」に到達しないとしたわけを、考える。

 


アリストテレスの「論理的トポス論」とカントの「超越論的トポス論」

まず、カントの記述に従ってトポス論の説明から読んでいこう。
「トポス」というのはもともと「場所」を表すギリシア語であるが、アリストテレスの「トポス論(トピカ)」のそれは、単に空間を意味するだけのものではなく、「修辞論上の場所」すなわち論述形式の構造の整理の仕方を問うものである。そのトポス論では、述語の形態の仕分け方や「数的同一」「種的同一」「類的同一」などの同一に関する仕分け方や、名の多義性の区別など、さまざまな論述形式に関する仕分け方が整理されている。
Aristoteles_20210731001301アリストテレスAristotélēs Ἀριστοτέλης BC384~BC322
しかし、カントは、このアリストテレスのトポス論について「量を持ち実在するとされるような、概念をかたちづくるものに従って対象が示されるだけ」だとし、それが単に悟性によって概念化された分析を整理するだけの「論理的なトポス論」でしかないとダメを出す。そして自分の「超越論的トポス論」の必要性を説く。
「超越論的トポス論」のやり方は、〈直観の領域〉〈悟性概念の領域〉の2領域、すなわち、主体が経験する世界について、時間空間という感性的な器(感性的形式)で経験の内容を受け止めることによって現象を現象としてそのまま受け入れてしまおうとする〈直観の領域〉と、経験を一般化し言語的概念に落し込むことによって分析的な対象として理解しようとする〈悟性概念の領域〉との、二つの領域を明確に分けてトポスを考えようとする。その二つの領域が互いに越権的な口出しをし合わないでそれぞれの内容を担保しよう、とするやり方である。カントは「超越論的トポス論」は「むしろ事物の概念に先行する比較こそが多様性のすべてにおいて示される」(純粋理性批判)として、ひとり「超越論的トポス論」だけが概念化される以前の世界についてまでを考察する場所論になり得ると豪語する。カントに言わせると、トポス論とは世界を認識する方法に関しての、そのさらなる方法論なのだから、あらゆる方法論を見下ろせるようなメタ的な方法論でなければならないはずなのだ。なのに、アリストテレスのやり方は単なる論理的視点に基づいて世界を概念で切り分けるだけの方法論でしかなく、それは概念でもって切り分ける以前の現象的世界までを受け止められないものでしかない。だから、アリストテレスのトポス論よりも更なるメタ的視点から見下ろさねばならないとカントは訴える。


超越論的トポス論の「比較と区別に関わる4標題」

そして、アリストテレスの「トポス論」が合計337個もの多数の標題を示したのに対して、たった4つの標題だけをあげる。
①〈同一性 Einerleiheit〉と〈差異性Vershiedenheit〉
②〈一致 Einstimmung〉と〈対立 Widerstreit〉
③〈内的なもの Dasinnere〉と〈外的なものÄußere〉
④〈質料 Materie〉と〈形式 Form〉
の4つである
※本レポートは中山元訳と熊野純彦訳、有福孝岳の3書をにらみつつ書いているのだが基本的に用語は熊野訳のものを用いている。ただ「Einerleiheit」については、(「差異」の対概念として登場していることやドゥルーズ読解との関連を慮って、)熊野訳と有福訳の「一様性」がカント用語として一般的かもしれないけれど、それよりも中山訳「同一性」の方が分かりやすいと思われたので、そちらを用いた。

カントはこの4標題でもって、アリストテレスのトポス論を越えて、そのさらなるメタ的な視点から現実の現象のあり方に迫ることができるものになると言う。いったいどうやったら概念以前の現象そのものまでを問い得る思索ができるというのか。
カントは、その4つの視点で、それぞれライプニッツとカントの違いを明らかにし、ライプニッツがダメなわけを考察することで、カントの超越論的哲学のやり方が目指すところを明らかにしようとする。
同一性と差異性についてから順に見ていこう。


同一性と差異性

カントは「同一性」と「差異性」を次のように説明する。
「あらゆる客観的判断に先立って我々は概念を比較する。全称判断のためには(一つの概念の下での多数の表象の)同一性が利用され、特称判断の産出に際しては概念の差異性が利用される」(「純理」A262,B318)
ここでカントの言う「同一性」とは全称判断の様式なのだ。「あらゆるAはBである」という全称文でもって、表象を一般化普遍化させる作用としての判断の様式が「同一性」だというのだ。様々な多数の 表象を一つの概念でもって「同一の対象」としてグループ化する様式。このグループ化のナイフによって世界は切り分けられ概念化される。それによって、世界は比較可能な対象となり、言葉によって思考され分析的に語られ得る対象となる。
一方、「差異性」は特称判断を産む様式である。「あるAが存在する」という存在文でもって、一般化される以前の対象そのものが現実存在であることを明示する判断の様式が「差異性」なのだ。
カントは、ライプニッツが「同一性」のみに基づいた世界把握をしようとしているのに対して、自分は「差異性」までを包括する世界把握をしていると言う。
Kant_20210731001601イマヌエル・カントImmanuel Kant1724~1804


ライプニッツの不可識別者同一律

カントはライプニッツの「不可識別者同一律」を取り上げて、その同一性に基づくやり方を考察する。
「ある対象が、くり返し、質的にも量的にも内的にまったく同一の規定をもって与えられるとき、その対象は純粋悟性の対象としてつねに同一な事物とされる(数的同一性)」(「純理」A264,B320)
ある対象がそのものとして質も量も完全に同じ性質を持っているとき、その対象は概念的 に同一であり、それは数的にも同じ一つのものだとされねばならない、という原理である。
Photo_20210731085501
そして、ライプニッツのこの世界把握のやり方が、対象をすべて同一性のみで対処しようとするものだとして断罪する。
Leibniz_20210731001601G.W.ライプニッツGottfried Wilhelm Leibniz1646~1716



「不可識別同一律」論駁としての「2つの水滴の非同一性」の話

本来、カントはこの「不可識別者同一律」が「同一性」に頼ってしまうことを批判したかったはずであり、「同一性」だけに頼っている限り、世界の「差異性」に到達することができないことを批判したかったはずである。だから彼はそのことをまっすぐに批判すれば良かったのだけど、カントはよりキャッチーな「2つの水滴の非同一性」の話を気に入っていてこれが「不可識別者同一律」の論駁になるとして何度も論述してくる。これはある意味では分かりやすい話だし、もちろん哲学的にも意義深い指摘なのだけど、それがキャッチ―であるばかりに微妙に「同一性」の問題から論点がずれてしまいがちになってしまって、逆に話をややこしくしてしまっているように僕には思われる。

こういう話である。
「たとえ概念に関してすべてが同一であったとしても、それでもこれらの現象が同時刻に異なる場所があったなら(感覚能力の)対象そのものの数的差異に対する十分な根拠となる。たとえば二つの水滴についてその質と量の内的な差異がすべて捨象されたとしても、それらが異なる場所で直観されるのなら、二つの水滴は数的に異なる数滴と見なすに十分である」(同A264、B320)
同時に異なる場所にあれば、その二つの対象が内的にどんなに等しい内容を持とうとそれは同じ一つのものでは「ない」ということ。だから、あらゆる存在についてすべてが、概念的に同一であるというだけでそれが必ず同じ一つのものだとしなければならないという、ライプニッツの「不可識別者同一律」は間違っているのだと、カントは言う。
まったく当然な話で、それぁそうだろうとも思う。この論駁を見ると圧倒的にカントが優勢で、ライプニッツが正しい可能性は残っていないようにも思われる。もうライプニッツの誤謬は絶対であって、カントのこの論駁はあまりにも有効に決まったように見える。
でも、これが実はどうにも微妙な話なのだ。


「2つの素粒子の非同一性」が言えないわけ

そんなに簡単に論駁されるほど馬鹿馬鹿しい原理をライプニッツは要請したのだろうか。
ここでずいぶん話が飛んでしまうが、20世紀物理学の量子論が、ライプニッツの「不可識別者同一律」を要請しているという話(ファインマン「物理学」)がある。ライプニッツやカントにとって量子論など知る由もないのだが、水滴よりももっと微小な対象についての研究では、存在と数的同一性との関係を問うときに、下の話はカントの言う根拠がそれほど絶対ではないことを示すものになっているので、興味深い。

量子物理学において、素粒子はその一つ一つに個別の特性を一切持たず、どの素粒子も同一であることが実験的に明らかにされたとされている。例えば、左右2つの箱のどちらかにあるボース粒子(例えばウィークボソン)が2つあるとするとき、そこにある2つのボソンは確かにボソン2つ分の存在であるが、その2つが2つの箱(上向きスピン用の箱と下向きスピン用の箱)のそれぞれにあるとき、その2つのボソンのどちらが右でどちらが左にあるのかを問うことには意味が無い。それは技術の未熟のためにどちらなのかが分からないのではなく、ボソンが数的に同一であるがゆえに、どちらがどちらかということ自体の違いがそもそも実際に無いのだ。
ボソンには各々上向きのスピンと下向きのスピンの2種の状態可能性があり、2つの箱に2つのボソンが取り込まれる時に、「上向き&上向き」「下向き&下向き」「上向き&下向き」の3パターンの取り込まれ方があるのだが、このときにこの3パターンは各々1/3の確率で起こることが実験的に実証されている。しかしもしボソンの各々1つずつが人間には知られていない個性を持っていて、2つのボソンが数的に異なる存在なのであったとすれば、「上向き&下向き」のパターンには実は「ボソンaが上向き&ボソンbが下向き」というパターンと「ボソンaが下向き&ボソンbが上向き」というパターンがあることになる。そうすると2つの箱に取り込まれるときのパターンは全部で4パターンあることになり、実験的に1/3の確率で起こるということと合致しなくなる。このことから、ボソンには各々いかなる個性もなく、数的にも同一の存在だと言えることになる。
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つまり、ただただ素粒子の2倍量の存在が2つの箱で対になって存在確率波として存在していると言うのだ。このような場面を考えるとすると、「素粒子が同時に2カ所に存在するならばその2つは別のものであって数的に同一ではあり得ない」とは単純に言えなくなる。それは、「数的にまったく同一のものが2倍の量をもって、2か所に同時に存在する」と言える可能性があることを示しているのだ。
そして、この話はボソンに限った話ではなく、電子やヘリウム原子についても言えるし、水分子についてだって言えるし、原理的にはもっと大きなものについても言えるのだ。
この、2つのボソンが同一であり得るという話を考えると、ライプニッツの「不可識別者同一律」もカントの言うほど馬鹿馬鹿しい話ではないと言えるだろう。カントは、2つの水滴が内的に同一であったとしても同時に2カ所にあるならば、それだけでその2つの水滴は数的に異なるものだと言えるとしたが、それはカントの主張を裏付ける絶対的な根拠になるとは限らないのだ。

 


もっと大事な話

これによって少なくとも、水滴が2か所にあれば数的に異なるという主張でもって「不可識別者同一律」を論駁できるとは限らないことははっきりさせられるだろう。ただし、だからと言ってこのことによってカントの「超越論的トポス論」に関する主張のすべてが間違っていると言えるわけでは、もちろん無い。
上で先に言ったように、カントが重視したかったのは、現象の「差異性」は「同一性」によって語られるわけがないというその事実なのであって、水滴の説明でライプニッツ論を論駁できなかったとしても、その思いは揺るがないはずだ。だから「水滴の話」は話をややこしくしただけで、それほど重要ではないのだろう。それより大事なのは、その「差異性」と「同一性」の間がどこまで埋められるのか、あるいは何も埋められないのかなどを問うような、その先の考察なのであろう。

(本論とあまり関係ないが、本ブログで僕は、「横山信幸なる人物の人格」を示したいときの一人称を「僕」として用い、人格ではなく「世界を開く主体」としての一人称を示したいときに「私」を用いている。以下の文章のなかで「僕」と「私」が共存してるので、気持ち悪いかもしれないが容赦して欲しい。)


カントが「差異性」を重視するわけ

カントのその、「差異性」を重視しようとする思いについて、僕はある程度理解できる気がする。私がイマココに感じているこの現実経験であり現象であるところの「これ」。この「これ」は、事実として、あらゆる同一性に先立ってすでに有るのだから、その、現象的な経験の全てを余すところなく掴むなんてことが、同一性なんかでできるわけはない。同一性はしょせん一般化を為す手立てでしかなく、一般化とは個物の特異性の排除でしかないと考えられるからだ。しかし、カントのこの「差異性」重視の姿勢は単に経験主義者のそれとは異なる。カントとしてみれば、経験主義的に差異の内容ばかりを重視して、それを認識するための形式を軽視するのでもなく、合理主義的に差異の内容を軽視するのでもなく、そのどちらもときちんと対峙しようとするがゆえに、アプリオリな感性の形式というシステムを編み出したのだから、「差異性」も「同一性」も両方を重視しているからこそ、物自体はあるけれども到達できないとしなければならなかったのだし、それだからこそのライプニッツ批判なのである。そう考えるとカントの主張はやはりもっともなものに思える。このカントの考え方は現代ではかなり一般的で広く同意が得られるだろう。「この感覚は言葉にはできない」とか「言葉にすれば嘘になる」などと言って、言語による分析が世界の「本当のところ」なんかには届くわけがないとする考え方は、とてもよく耳にする。


ライプニッツが「同一性」を重視するわけ

一方、ライプニッツの合理論的な考え方は言語による分析があってはじめて世界は意味を持ち得るとするものだった。こちらの方が現代では少数派になるのかもしれないが、その立場も僕にはよく理解できるように思える。「言葉で語り得ない内容が『ある』なんて言う人はその『ある』をどうやってどの口で言えるのか」と、僕は思ってしまう。ライプニッツも同じだったのじゃないか。つまり、「感覚が言葉にできない」なんてこと自体が逆に「言えない」とする立場を取るのだ。ウィトゲンシュタインの私的言語否定論にもつながる考え方だとも言える。しかしたしかに、ライプニッツ派のほうが現代では圧倒的少数派だと言うのも確かだろう。

でもだからと言って、これが解決済みの問いかと言うと全くそんなことはない、私的言語が不可能か可能かの議論が未だに決着されていないように、ライプニッツ対カントの〈同一性・差異性〉のどちらに重点を置くかの対立も、そう簡単には決着できないものなのだ。


ライプニッツが「同一性」でもって「差異性」にまで到達できるとするわけ

それでも、ライプニッツの説がカントの指摘と向き合うためには、一般化作業でしかない同一性でもって、個物的で特殊な現象を捉えることが可能なことを論証しなければならないはずだ。この点について、ライプニッツはどうやったらそんなことができると考えたのか。これについては、カント自身が次のように解説している。
「ライプニッツは現象を物自体そのものと捉えて、そうしてまた叡智的なもの、すなわち純粋悟性の対象と考えた。・・・そこではライプニッツの『区別されないもの』という命題(不可識別者同一律)が反駁されることはあり得ない」同
ライプニッツが、現象がそのまま「物自体」だとしたのは、ライプニッツにとっての世界が、現にイマココで世界の主体である私が開闢しているこの現実のことなのであるから、私が認識し悟性によって分析して語り得る対象となったものこそが世界であり「物自体」でなければならないという彼の信念にもとづくものである。
その信念に基づいてライプニッツは、悟性概念でもって構成される世界モデルを提案した。
たとえば仮に、世界中の存在の延長がすべて2倍の大きさになったとしても、その世界の観察者である私自身もふくめて世界が丸ごと2倍になったのであれば、超越的な神でなければその変化に気づくことはできないだろう。私が原理的に気づき得ないような、そんなところに延長の意味の本質があるわけがない。だからこそ逆に、悟性概念に基づいて他と比較して判断できるものだけによって、世界が判断できるとしてしまうべきだ、とライプニッツは考える。
たとえば仮に、世界中の存在がすべて鏡像反転してしまったとして、右手が左手になり、太陽が西から登ったとしても、その世界の観察者である私自身もふくめて世界が丸ごと、つまり右左や東西の概念までふくめて丸ごと反転するのであるなら、超越的な神でなければその変化に気づくことはできないだろう。私が原理的に気づき得ないような、そんなところに延長の意味の本質があるわけがない。だからこそ逆に、悟性概念に基づいて他と比較して判断できるものだけによって、世界が判断できるとしてしまうべきなのだ、とライプニッツは考える。
ライプニッツの世界では、世界は私の世界であり、私の認識し得るものこそが物自体である。私が到達できない「本物の世界」なんてものは、仮にそれがどこかの異世界にあったとしても、私が到達できないというその一点でもってすでに現実世界ではあり得ない。ある意味で独我論的な閉じた世界だとも言えるだろう。閉じた世界ではあるが、それだけが私の世界であり、私の現実なのだからそれだけを世界とすべきなのだ。
これがライプニッツの世界である。
やっぱり、僕にはこっちの方がしっくりくる気がして非常に魅力的な世界モデルだ。みなさんはどうだろう。

 

カントが「同一性」では「差異性」に到達しないとするわけ

この世界モデルに対してカントは、そのモデル内では「不可識別者同一性律」は決して反駁され得ないとしながらも、悟性が現象の感性的側面にまで口出しできるとするライプニッツの態度が越権であるとして、ライプニッツの世界は現実世界でないだけでなく、現象を正当に語ることさえできていないと批判する。
たとえばカントはライプニッツ学派による「直線」の定義を否定する。ライプニッツ派のヴォルツは「直線とはただ一つの線から成る」と定義する。ライプニッツ派にとって線の内的性質とはその方向だけであるので、その直線のすべての部分で向きが変わらず同じであるならそれは1本の線であり、それが直線なのだとするのだ。しかし、これに対してカントはそれが越権だとする。向きが同じであるかどうかなんてことは、悟性が判断できる射程を超えているもので、それはいかなる比較からも導出できない、と。つまり、ライプニッツ派は単に「向きが同じだと思ったから向きが同じだ」と主張しているに過ぎないものになるので、その直線の定義には意味がない、とする。そこで、カントは「直線とは2点の最短」だとし、定義が、悟性概念でもって比較して意義づけられ得る規定でなければならないとした。カントにとっての直線の「まっすぐさ」は悟性から口出しされて確かめられるようなものではなく、「2点間の最短という悟性による概念的規定」とは別にその規定をさらに現実のものとする感性的な現象ものとしてあるのでなければならないのだ。

カントにとっては、仮に世界のすべての延長が2倍に伸びたときには、それが悟性概念でもって確認できなくても、たとえ世界中の誰一人がその2倍化に気づかなかったとしても、そこには2倍になった世界はそれ自身で2倍の世界としての意味を持っていなければならないと考えるのだ。仮に世界のすべての左右が全て反転し、私の体ごと、あるいは世界ごとあらゆるものが鏡像反転したとしたとき、たとえ世界中の誰一人がその反転に気づかなかったとしても、そこには左右逆さまになった世界はそれ自身で逆さまの世界としての意味を持っていなければならないと考えるのだ。

これがカントの世界である。やはり多くの人はこちらにシンパシーを感じるだろうか。


まとめ

この2人の対立とは、結局どこがどう違うものだったのか。
ライプニッツにとって、世界は、すべてが悟性概念で到達できるものでなければならないからこそ、悟性概念は物自体にまで言及することができなければならず、現象にまで口出しする権利を持たなければならない。それゆえ、世界はすべて概念によって到達可能でなければならず普遍的でなければならない。
一方、カントにとっては、世界は、現象が現象としてそのままの存在が保障されるものでなければならず、そのために、感性的な内容が、悟性から口出しされず手付かずのままにそのまま感性の領域にあるとされるものでなくてはならない。それゆえ、普遍的世界に決して冒され得ない個物なものとしてあらねばならず、概念によって決して到達され得ない領域が保障されていなければならない。


このように見ていくと、カント「純粋理性批判」は一般的に、「コペルニクス的転回」でもって、ロックのイギリス経験論とライプニッツの大陸合理論を止揚させたと評されるが、単純にカントがライプニッツを乗り越えただけの書として読むならば、この書の意味を半減させる読み方になってしまうように思われる。
そこには、紀元前から延々と続く普遍論争の対立があり、差異と同一の対立があり、どちらが上かというマウントの取り合いではなく、その対立が問うもの自体を問うことで思索を深めようとする、
カント自身もそこをていねいに掘り下げようとして、この問いをさらに、ライプニッツとカントのそれぞれの、フェノメノン(現象的実在)とヌーメノン(叡智的実在)の捉え方を比較する問いにつなげ、上にあげた超越論的トポス論の残りの3視点からの問いにつなげているように思われる。

さらに次節で、その点について2人の違いについて追っていきたい。

 

つづく

カント「反省概念の多義性について」を読む

ザロモン・マイモンを読む

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