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2021年6月 6日 (日)

ベネターの語る「生まれてこないほうが良かった」が語り得ないわけ

「0」としての無さと「null」としての無さを手掛かりに反出生主義の主張の有意味性の射程を考察する。

ベネター著「生まれてこないほうが良かった」で、子は生まれないことによって苦しむことがなくなり得るとされている。今日は、この点についてベネターの論のナンセンス性を疑ってみたい。

ベネターの説く反出生主義論においては、生まれる子の快と苦には非対称があって、子が生まれないことで苦を失うことは良いことであるけれども、生まれないことで快を剥奪されることは悪くないと言えるとされる。この点について、その言明がどのような意味を持ち得るのかを検討し、その文が実は語り得ないものなのではないかと懐疑してみる。

ベネターは次の4つの文を挙げて存在することの害と益について考え、そこに非対称性があるとする。
「 (1)苦痛の存在しているのは悪い
  (2)快楽の存在しているのは良い
  (3)苦痛が存在していないことは良い。それは、たとえその良さを享受している人がいなくとも良い
  (4)快楽が存在していないことは、こうした不在がその人にとって剥奪を意味する人がいない場合に限り、悪くない 」(ベネター同著邦訳p39)

簡単のために、ここで言う「苦」はすべて悪であり「快」は善であるとしておく。そうすると(1)と(2)は設定そのままの話なので、当然成り立つ。問題は(3)と(4)である。
(3)については

「苦痛が存在していることは(苦痛を被っている人にとって)悪いことだろうし(苦痛が存在しないことを享受する人が誰もいないとしても)その苦痛が存在していないことは良いことだから」同p41

とベネターは言う。苦が無いことは、すでに生まれてその苦が感じないでいる子供にとってももちろん良いことであるだけでなく、その苦を感じる子が生まれないままであることも、その苦がある可能性自体が無いのだから良いことだとするのだ。
一方(4)については

「(喜びを奪われる人が誰一人として存在していないだろうという場合は)そうした喜びが存在していなくてもその人たちにとって悪いわけではない」同p41

とする。快を剥奪される人がいるのならその人にとって有るはずの快を失うことは悪いことになり得るが、その人本人がいないのならその剥奪を悪いとすること自体の意味が失われるので悪であること自体が無くなる、と言うのだ。
どうだろうか。説得力のある話だと思えるだろうか。僕がこれまでに話をした何人かの反出生主義支持の人によるとベネターのこの論は正当に理解できるととてもきちんとした論理的な話だという。子が生まれないことによって快が無くなることは、生まれなかったそのことによってその損失を被る本人がいないのだから、悪とまで言えるものではないことになるとして、けれど、生まれないことによって苦が無くなることは、世界の中からその生まれなかった子の分の苦が存在しなくなるのであり、生まれて苦しむはずの子を存在させないことによって結果的に救うことになると言うのだ。
しかし、僕にはこれがどうしても説得力のある話だとは思えない。(3)において「苦がなくなる」ということが「誰にとっての苦」なのか、「不在の人にとっての苦」とは何なのかをあやふやにしてしまったための誤謬だと思われるのだ。

そこで、この(3)の「生まれないことによって苦が無くなる」ということの意味について考察し、その誤謬を明らかにすることに挑戦する。挑戦するのは次の主張である。
○ベネターの主張における「苦の無さ」とは決して「0」としての無さなのではなく、何の値でも無い「null」でしかないものであること。そして、「null」でしかない「無さ」でしかないがゆえに、それが「良い」と言えるようなものでは無いこと、である。


無い車の速度は0か

世界中に60億いる人間がそれぞれに苦を抱えている。簡単のためにその一人一人がみんな苦しみ度「1」の苦を抱えているとしよう。すると世界中の苦の総量が苦しみ度「60億」になる。そこで、世界中の人間を順に消失させていきその数をどんどん減らしていくと、その苦の総量もどんどん減っていくだろう。そして、人類最後の一人が消えるときその瞬間に人間のあらゆる苦も無くなることになる。しかし、そこで誰が救われるのだろうか。そこで消失している苦は、その消失によって誰かが救われるような苦では「ない」のではないだろうか。そこで救われる人がいないのだとしたら、ベネターの言う「(苦痛が存在しないことを享受する人が誰もいないとしても)その苦痛が存在していないことは良いこと」は、いったい誰にとって良いことなのか。
ここで、ある超巨大車とある超小型車を考えてみよう。そして、その車の重量を人の数に対応するものとしてみよう。巨大な車が大国の人民たちで、極小な車が少人数グループの比喩だと考えるのだ。そしてまた、簡単のために、世界中の人々がみんな同じだけの苦しみを持っていると想定するとして、その「一人一人が持っている苦」の比喩として、車がどれも同じ「速度」で進んでいると想定する。
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さてそうすると、ベネターが、子が一人生まれないことで世界の苦がその一人分減るからそれは良いことだと考えるのは、この比喩において、重量と速度の積であるところの「運動量」に当たるものになるだろう。世界中の車がどんどん減っていき、その重量をどんどん軽くして小さくしていったら、その重量が速度とともに無くなっていくことになるので、「運動量」としての苦の総量も減ることになる。しかし、そこでは、いくら運動量が減ったとしても、「速度」はどの車のどの部分においても決して減っていないのだ。本来、速度を落として、つまり一人一人の苦を減らすことによって人が苦から救われるから、「苦の消失は良いこと」とされるはずではないか。しかし速度を落とさずに車を少なくしていって重量を減らして、つまり人口を減らすことによって「運動量」を減らして、苦の総量を減らしても、そこではつねに同時に救われるべき人までが失われるのだから、結局誰も救われることの無いような、苦からの救出とは何の関係もない出来事が起こっているに過ぎない。たとえば多くの車が全て10km/hで走っているとして、そこから車の量を順に減らしていくとする。するとそれに応じて順に「運動量」は減少し、最後の1台を無くしたときそこには「運動量0」の状態が残ることになる。つまり人口を減らすとその総量の苦は0になるのだ。けれども、車を順に減らしていっても、走っているどの車いつまでも10km/hのままでスピードが落ちるわけではない。順に車を減らしていき最後の一台もがそのまま「速度10km/h」で走っている。その最後の一台をさらに小さくしていっても、その最後の一分子まで「速度10km/h」にままである。なのに、その分子を消失させた途端に「速度0km/h」になるだろうか。そんなわけはないだろう。車が無くなっても「速度」は決して0にはならないのだ。つまり人類の最後の一人がいなくなったとき「苦の総量」は0になるのだろうけれども、「一人一人の苦」は決して0にならないのだ。世界中の人がいなくなってもそこで自分の苦を減らすことができる人は一人もおらず誰も救われないのだ。
だから、つまり子が生まれないことで世界の苦の総量が減ったとしても、それは救われるべき者そのものをなくしただけなので、そこでその子が救われることはあり得ないのだ。そこで、誰かが救われていると感じたとしてもそれは勘違いでしかないのじゃないか。


では死んでも楽にならないのか?

でも、人が不在になることで誰も救われないというのが本当なら「苦しんでいる人が、死んだら楽になる」というのもあり得ないことになってしまうのじゃないか。それって変じゃないか?「死んだら楽に『成る』」とまでは言えなくても、少なくとも「死んだら苦があり続けることが無いようになる」とは言えるだろうから、その意味では不在によって救いになることもあり得るはずじゃないか?
しかし、そうではないのだ。確かに、その死を「私が無い状態であること」を差すものでしかないものとするなら、そこには「苦は苦しみ度の0の状態がある」とすることになるので、私が救われると考えることは可能である。しかしそれは「私が無くなることによって〈現に生きてあるこの私にとっての苦〉が0になる」という意味でしか無い。それは決して〈存在しない私にとっての苦〉ではあり得ない。それはまさしくナンセンスでしかないのだから「〈存在しない私にとっての苦〉があり続けることが無いようになる」などという文もナンセンスでしかないのだ。。


無い物差しは何m?

不在が0ではないということについて、また一つ比喩でもって考えてみよう。
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ある1mの物差しを短くしていくと長さ0mになって物差しが消失したと想定するとき、そこで不在となった物差しの長さを0mとして想定することはできるかもしれない。しかしそれは「無い物差しの長さがいつでも0m」だと言えるとするものではない。例えばその物差しを長さ1mのまま細くしていって消失させたと想定すると、長さは1mのままであることになるはずだからである。つまり、不在のものが何らかの値を持つと想定しようとしても、それが不在であることによって一意的に値が決まることはあり得ないのである。たとえそれが「0」値であっても不在が(何の前提も無いままに)値を持つことはあり得ないのだ。
そう考えると、不在の子の苦を一意的に「0」だと考えることはできないのだ。そしてそれゆえ生まれない子が生まれないことで苦から救われると考える推論にはそこに誤謬があるのだ。


無いものの質量は0と言えるか

しかしそれでも、確かに生まれない子は、生まれないことで現に苦しむ可能性自体を失っているのだから、苦があるか無いかという区別の次元よりももっと根源的な次元で「無い」のだから、苦の有無の次元ではナンセンスになっているように見えても、より根源的次元で結局、生まれない子を救えているとも言えるのじゃないのか?そのように「苦」の捉え方によっては「不在」でもってその「不在の子」を救うことができるように考えることも可能じゃないのか? 例えば、さっきの速度の話では「速度」を「苦しみ度合い」の比喩としたので不在によって苦から救われることがないという話になったが、存在物の存在する量としての「質量」を「苦」を差すものとして考えるとしたら、その「存在者そのものの不在」はそのまま「苦の不在」に直結することができてしまうので、車が減れば減るだけ質量が減るように、人が減るだけその苦も減ると考えられるのじゃないか。と疑いたくなる。
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ああしかし、それでも、不在でもってそれを享受する人がいなくなるときにその不在の子供にとっての苦痛の存在について語ろうとする限りは、「(苦痛が存在しないことを享受する人が誰もいないとしても)その苦痛が存在していないことは良い」と言うことはできないのだ。
なぜなら、「その人にとっての苦の有無」と「その人の存在の有無」とは、まったく次元の異なる話であるが、単に次元が違うというだけでなく、「その人の存在」無くしては、「その人の苦の有無」自体がナンセンスになってしまうような根源的な次元の違いがあるからである。


値としての「0」と値無しとしての「null」

「その人の存在」があれば、そこに「苦の有無」は有意味になる。そのとき「苦の有無」は「1」か「0」かで表し得る。そして「その人の存在」があるときに限って「苦の有無」は「1」か「0」かの値を持ち得る有意味なものになる。だから「その人の存在」が無いときは「苦の有無」は「苦」が無いだけでなく「有」でもなく、その値そのものの無い「null」でしかないものになる。
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例えば、Excelなどでの表計算で、数値入力が無く「null」でしかないセルが「#VALUE」を出力したときに、出力が「1」では無いからと言って「#VALUE」が「1」より「小さい」とか「マシだ」とか言うことはできない。

つまり、それゆえ、〈「その人の存在」が無いことによって「苦の有無」が無いのだから、苦の有無の可能性そのものがなくなって、結果的に「苦が有る」を回避できることになる〉とは決して言えないことになるのだ。「その人の存在」が無くなって「苦の可能性そのもの」が無くなるのであれば、その無さは決して「苦が有る」の否定にはなり得ず「苦が有る」を回避できることもあり得ない者でしか無いはずなのだ。もっと言えばその子が生まれないときの「苦の無さ」はその子にとっては、「世界そのものが無い」のと変わらないはずのものだから、そんなもの「苦の回避」のような存在世界の話とはまるで関係の無いところの話にならねばならないはずだろう。

 

 

だから、(ここが重要なのだが)〈生まれて「苦がある」ことは「悪」であり、生まれない時の「null」は「悪でさえない」から、「悪」と「悪でさえない」との比較において、相対的結果的に「null」の方が「より良い」〉と考えるのは間違いである。なぜなら、「苦がある」は「1・ある」と「0・無い」との対比によってはじめて意味をもつものであるからだ。「苦がある」が「null」との対比においてしか捉えられないのであればもはや「苦がある」の意味を持ち得ないからだ。だからそれは「悪」と言えないものであることになり、それゆえ当然「null」が相対的結果的に「より良い」と言えるはずがないことになるのだ。

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「質量」が「苦」の比喩にならないわけ

だから、もし「苦」を「質量」で持って比喩しようとするときに、「その人の存在の有無」はその質量の有無を可能にするようなより根源的な存在の有無を意味することになるはずなので、その「その人の存在の有無」は例えば「世界を映す画面の中の「石の質量」を映しているその画面そのものの有無」でもって比喩されることになるだろう。画面が消えたときに画面が消えたことによって、その画像内の石の重さが0になったり軽くなったりすることは文法的にあり得ないはずのものなのだ。
だから、ベネターがいくら「(苦痛が存在しないことを享受する人が誰もいないとしても)その苦痛が存在していないことは良いこと」と主張したとしても、その言明は、某かの恣意的な前提を敷かないままでは「人の不在が存在しない人にとっても苦が無いものである」ことを主張するものではあり得ないのだ。ベネターがこれを主張するには、例えば、「霊界に生まれない子供の国が有る」などとして、某かの「不在の状態が『存在』する」とするような前提を敷いて不在の人にとっての苦の有無を有意味にするような恣意的な設定をしなければならないのだ。


快苦が対称であらねばならないわけ

しかし、仮に、ベネターがそのような恣意的な設定をするとして、それによって不在の人にとっての苦の有無を有意味にした として、生まれない子が救われ得たとする話をするとしても、そのときには今度は、その恣意的な設定によって、生まれない子が生まれなかったことによって失った快の損失が問われ得ることになってしまう。だから、どっちにしても、ベネターの言う快苦の非対称の話は成立しない。ベネターが「生まれない子が生まれないことは、その子が生まれて苦を得るよりも良い」と語った話は言語論的な射程から外れた語り得ないことを語ろうとしてしまったナンセンスだったのだ。

 

 

以上が、僕の、ベネターの語る「生まれてこないほうが良かった」が語り得ないとする考察である。どうだろう。伝わるものになっただろうか。僕にはこの自分の考察が自画自賛的にまずまず明らかな推論になったと思えているのだけれど、人に伝わるものになったかどうかは、とても心許ないので、また様々なご意見をいただけるとありがたい。

また、僕はすべての反出生主義に反対するものではなく、単にベネターの論理に傷があることをはっきりさせたいという思いで書いたものであるので、その点についても了解されたい。

 

僕のアンチナタリズム批判の3論点

「苦の有無の可能性そのものが無いこと」は「苦が無いこと」ではない

アニマルライツと反出生主義から倫理を考える

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コメント

拝読しました。
非常にわかりやすくまとまっていると思います。勉強になります。
ありがとうございます。

コウセイさん、ありがとうございます。ホントにいつも励みにさせてもらってます。うれしいです

>世界中に60億いる人間がそれぞれに苦を抱えている。簡単のためにその一人一人がみんな苦しみ度「1」の苦を抱えているとしよう

>。巨大な車が大国の人民たちで、極小な車が少人数グループの比喩だと考えるのだ。そしてまた、簡単のために、世界中の人々がみんな同じだけの苦しみを持っていると想定するとして、その「一人一人が持っている苦」の比喩として、車がどれも同じ「速度」で進んでいると想定する。

「苦」が二重に規定されています。
1人がそれぞれ持つ「1」と、速度としての「10km/h」とです。

人が一人一人持つ、「1」がなくなっても、
速度としての「10km/h」が残るというのは、現実的にありえないのではないでしょうか。
動く主体である「ひとりひとり」が存在していないのですから、
もはや、速度などありえないのではないですか。

横山さんにとって「出生主義」が大切なものだということは感じ取れます。

おそらく、
横山さんは、自分が何を言っているのかが、
分かっておられないのではないでしょうか。

>ベネターが、子が一人生まれないことで世界の苦がその一人分減るからそれは良いことだと考えるのは、この比喩において、重量と速度の積であるところの「運動量」に当たるものになるだろう。世界中の車がどんどん減っていき、その重量をどんどん軽くして小さくしていったら、その重量が速度とともに無くなっていくことになるので、「運動量」としての苦の総量も減ることになる。

ベネターは本当にそのように語っていますか?
このようなベネター理解は本当に正しいのでしょうか。
「出生主義」を擁護したいがために、
ベネターの反出生主義をでっちあげていませんか。

>つまり、不在のものが何らかの値を持つと想定しようとしても、それが不在であることによって一意的に値が決まることはあり得ないのである。たとえそれが「0」値であっても不在が(何の前提も無いままに)値を持つことはあり得ないのだ。
そう考えると、不在の子の苦を一意的に「0」だと考えることはできないのだ。そしてそれゆえ生まれない子が生まれないことで苦から救われると考える推論にはそこに誤謬があるのだ。


なぜ、不在のものが値を持ちうるのでしょうか。
値が一意に決まらないのではなく、
値自体がないのではないですか。
きちんと読んでいなくてすみません。
前回の反出生主義との議論での横山さんの反論の中に、
この問題点が書かれていませんでしかたか?
「無い物差し」は0にも∞にもなるという、
横山さんお得意の議論から来ているのかもしれませんが、
無いものには、値はありません。
無いものについて、
「仮に生まれた場合」の議論をしても、
それはそもそも生まれていないのですから、
議論そのものが成り立ちません。
無いものは無いのですから、
値を持ちようがありません。
このあたりで、議論が混乱している印象があります。

僕自身の立場を書いておきます。
僕自身はクリスチャンで、
どうやってベネターの反出生主義に反論できるかを考えています。
僕自身の「反出生主義」的な部分をどうやって克服していけるのか。
生きるということに、どうやってコミットしていけるのかを考えています。

横山さんの論証は、
実際のところ、論証にもなっていません。

あまおとさん、
今回のレポートは、一つには、僕の論考をあまおとさんやその他のこれまでにコメントをくださった方々に伝わるような書き方で綴れないかと思ってチャレンジしたものでしたが、無理だったみたいですね。残念です。

それから僕は出生主義ではありません。子を生みたい人は生めばいいし生みたくない人は生まなければいいとしか思ってません。反ベネターにこだわるのはベネターが間違っているとしかおもえないから、それだけのためです。

今回のレポートを読んで、
横山さんが勉強されていることは伝わってきました。

ベネターの非対称性について、
前回までは、横山さんがどのように理解されているのか、
実際よく分からなかったのですが、
その点は明確になっていると感じました。

ただ、横山さんが議論のベースにしている「有意味性」「ナンセンス」という点から言っても、
横山さんの議論自体が「ナンセンス」に堕している部分が多いとも感じます。
その点は多すぎて、このコメント欄では指摘しきれないくらいあります。


ベネターの議論について、僕が考えていることも書いておきたいと思います。
もちろん、ベネターを論破するところまでは、いきません。

ひとつは、「夜と霧」のフランクルについて、
フランクルは収容所での経験から、深い思索を得るわけですが、
深い思索は「良い」ことであるが、「収容所経験」は「苦」であり「悪い」ことになります。
この場合、「苦」は「良い」ことに対して道具的な意味があることになるわけですが、
しかし、そのような「苦」の「悪い」経験なしに、「深い思索」という「良い」ものが手に入るなら、
なお「良い」とベネターは言います。
ただ、それは現実的でしょうか。
「良い」ものを手にするには、それに対して、それなりの代償を払わなければならない。
(だからこそ、存在しないほうがより良いとベネターは言いたいかもしれないですが)、
結果、ベネターの言っていることは、確かに正しいかもしれないけれども、
底が浅いものでしかなくなっているのではないか。
悲しみや苦しみ、惨めさのないところには、実際には喜びもない、というような、
現実の矛盾したあり方を、
矛盾しているがゆえに豊かさがある現実を、前提にして思索していない、
そのあたりにベネターの底の浅さがあるのではないか。
それは「苦」や「快」の量の比較ではもはや語り得ないことです。


もう一つは、僕自身がクリスチャンであることから来ているのですが、
この世界は「有る」ことを要請されているのではないか、ということです。
これは、「真空」が何もない状態ではなく、
常に蠢いており、
対となる素粒子が生まれては消え続けているということが、
物理学によって証明されていることから言えるのではないかと僕は考えています。
つまり、何もないはずの「真空」なのに、実際はそこにも何者かが存在し続けているわけです。
そして宇宙自体がそのような真空内の揺らぎから始まっている。
では「無い」とはどういうことなのか。
どうしてなのかまでは、僕にはわかりませんが、
世界はその根源的な要素である素粒子の段階から、
有ることを要請されたあり方をしているのではないか。
だからこそ、「もしこの世界が存在さえしなければ」とか、
「自分という人間が生まれなければ」という思考の前提自体が、
間違っているのではないか。
これなどは、実際答えのない問いでしかありませんが、
世界が存在していることの意味を考える上では、
大切な視点ではないかと思っています。

ばくは、僕の「有意味性」と「ナンセンス」の話自体がナンセンスに堕していると評されることについて、それが則っている「論理哲学論考」の言語論を、単なるはったりなんかではない正当で必要な言語規則であることを僕が上手く伝えられてないからだと、受け止めています。つまり現時点では僕の思索がナンセンスに堕しているように見られてしまうのは、僕の思索がナンセンスだからではなく、僕の思索が正しく伝わってないからだとしか理解できていません。これまでに、あまおとさんは僕の考えかたがナンセンスでしかないとする根拠を示されてきたのでしょうがそれは僕にまでは届いていず、今のところ僕は僕の論をナンセンスと評されることに納得できていません。


それでも、
>「もしこの世界が存在さえしなければ」とか、「自分という人間が生まれなければ」という思考の前提自体が、間違っているのではないか

という論点には、とても共感を覚えます

そして、

僕が

「『1-null』の対比において、1が1になることはあり得ない」

と言ったことは、

「『もしこの世界が存在さえしなければ』という思考の前提自体が間違っている」

とする捉え方とかなり近いものがあると感じています。

>つまり現時点では僕の思索がナンセンスに堕しているように見られてしまうのは、僕の思索がナンセンスだからではなく、僕の思索が正しく伝わってないからだとしか理解できていません。


以下は、横山さん自身が書いた、ヴィトゲンシュタイン哲学についての部分です。
2013年7月17日(土)
>これに対して、後期の「哲学探究」においては、語の使用が語の意味だとされた。他者に理解され得ないような語はその意味を自分自身でも理解することができない。それゆえ、語の意味は私だけの言語や私だけの感覚のみによって決定させることはできない。だから、その使用の中での語の働き方を見るしかないのだとする考えである。

この横山さん自身の言葉が、今起こっていることの答えではないでしょうか。

僕の言葉に共感していただいたことは、うれしいです。
「null」についての理解を深められれば、
他者に伝わる言葉を語ることができるかもしれない、というのが僕の感想です。


誰かに伝わった限りがその語の意味であるというのが僕のいう「言語ゲーム」だと理解されていたとしたら誤解です。「他者に理解され『得』ないような語はその意味を自分自身でも理解することができない」というのは「他者に理解されないような語はその意味を自分自身でも理解することができない」ではないのです。『得』が大事なのです。その話は、「言語設定の上で他者に伝えることが『不可能』だと想定されているような言葉は、その意味を自分でも捉えることができない」としている話であって、すでに為されている対話において他者に伝わっているかどうかという話とは全く関係ないのです。
残念ですが、やはりほとんど噛み合わないですね。今理解してもらえてないことにいちいちイライラしないようにして、ゆっくりと精進するようにしていきたいと思います

僕の議論についてコメントいただけるのはありがたいですが、「分からない」という話だけでしたらもう十分伝わりましたので繰り返してもらわなくても結構ですよ

あまおとさんから分かったと言ってもらえなかったのは残念ですが、僕の「nullとしての無さ」の話はすでに何人かの方達から納得できたと評価いただいてますので、今のところはそれでよしとしたいと思います

>僕の議論についてコメントいただけるのはありがたいですが、「分からない」という話だけでしたらもう十分伝わりましたので繰り返してもらわなくても結構ですよ

僕は「分からない」とは言っていません。
横山さんの議論には「穴があり」、「間違っている」と言っているのです。


>「他者に理解されないような語はその意味を自分自身でも理解することができない」ではないのです。『得』が大事なのです。

今回は、僕の論証については、
分かり合えないと言われたり、
理解してもらえず残念です、
と言われるだけで、
正面からは何の反証もされないので、
議論は進みそうもありませんね。

「他者に理解され『得』ないような言葉」を、
他者にどう伝わっているのかを問わず、
言語を「使用」から切り離して、
「本来理解できるはずのものを(他者の無能さゆえに)理解できないだけだ」
「その証拠に自分にはちゃんと理解者がいるのだ」と、
(理解者と言われる方たちが実際のところどのように理解されているのか、
伺えるものなら、伺ってみたいところです)、
自分に都合がよい部分だけを取り上げて、
自分自身が確定するなら、
実際には「他者」や「使用」の意味が失われてしまうのではないかと思うのですが、
(その意味で、前にも書きましたが、
ヴィトゲンシュタインを権威として利用しており、
はったりをきかせるために自分に都合のよいように利用しているとしか
僕には思えないのですが)、
横山さんが、自分では理解できていると言われるのであれば、
確かに水掛け論にしかなりませんね。

僕がカバーできないような広さを横山さんはお持ちなので、
その点には敬服します。

が、
ベネターの議論については、
その稚拙さを覆い隠すことはできません。
それが僕の感想です。


そうですねどこまでも水掛け論にしかならないみたいですね

少なくとも僕にはご指摘の僕の間違いがぜんぜん理解できないままなので、僕の読解力か説明力がたりないことは確かだとは思います

僕なりに、あまおとさんの指摘を理解したいと思ってがんばったつもりですが、現時点では厳しいものがありついイライラしてしまうところがあります。そのため、コメントに対して不適当な回答をしたりすることがこれまでもあったと思いますし、これからもしてしまいそうに思います。それできちんとした回答をする自信ができるまでしばらく僕の方からの回答は書き込まないことにするかもしれません。ご了承ください。あまおとさんのコメントはこれまで通り書き込んでくださったらもちろんありがたいですが、コメントを書いてほしいとはもう申しません

僕はたぶん、横山さんに甘えているのだと思います。
これだけの期間、ここで哲学されてきた横山さんだからこそ、
僕自身の思考の意味を問いたい部分があるのだと思います。

今回のレポートを改めて読み込んでいます。
考えるきっかけとなる部分があり、
やはり、さらに甘えて書かせていただければと思いました。

返信は期待していません。
本当は僕がブログを立ち上げるべきなのかもしれないのですが、
その気力もないため、こちらに書いているのです。
その点でも横山さんには、敬意を表したいと思います。

―――――――――
今、考えているのは、
「1」「0」「null」の部分と、

「苦」や「快」があるとかないとかいうことを考えるときに、
「速さ」について語ることが、
その比喩となっているのか、
そこのところです。

「苦」の問題の比喩として「速さ」について書かれているのですが、
最も基本的な部分で、
「速さ」が「0」であるとか、
「速さ」が「ない」とは、どういうことなのか、
そのことについて考えました。

「苦」が「0」であるとか、
「苦」が「ない」ことの、
「比喩」として、
「速度」を取り上げられているのですが、
本当にパラレルになるか、
疑問が浮かんだからです。

というのも、
「速度」が「0」であるとはどういうことか、
きちんと整理する必要があると思ったからです。

それは、「速度」が「0」であることは、
確かに「速度」が「無い」ことではないからです。

例えばなのですが、
速度が50km/hの車(A)があったとして、
速度が50km/hの車(B)が並んで走っていた場合、
並んで走っているのですから、
(A)からは、(B)の速度は0km/hに見えます。

そういう風に考えていくと、
マイナスの速度を考えることになります。

(A)の横を速度30km/hの車(C)が走っていると、
(C)は、(A)から見ると、
どんどん後ろに走っているように見えます。
速度を失っているのですから、
それはマイナスの速度です。

「速度」はある基準があって、
それに対するものとしてしか決まりません。
「速度」が「0」であるとは、
「速度」が「ない」ということではなくて、
相互の位置が、変化することなく、
同じであることを意味することになります。

このことを前提として、
「苦」はどういうことになるでしょうか。
「苦」は他者との位置関係で決まるものなのか、
それ自体で決まるものなのか。

横山さんはこの点について、

>簡単のために、ここで言う「苦」はすべて悪であり「快」は善であるとしておく。

と規定された上で議論されています。
この規定について僕には異論はありません。
ベネターもこの前提で議論を進めていると思います。
そのため、ベンターを理解するためには、
そこから始めるしかないからです。

しかし、「速度」がないことが、
「苦」がないこととパラレルにはならないのではないか、
と考えています。


長くなったので、
ここで打ち切ります。

―――――――――――――
改めて読んでみて、
横山さんの議論は、
まったく的外れと感じる部分もありますが、
核心をついている箇所もあると感じました。

これまでは、僕自身との違いにこだわり過ぎていて、
横山さんの議論の意義を見落としていた部分があると感じました。

今日は、これまでとしたいと思います。

数字について、もう少し議論したいと思います。

6月15日19時39分投稿のもの中で、
「速度」について議論しました。

この速度は連続した量であって、
一次元の座標軸をとって、その上にプロットすることができます。
基準となる車(A)があって、並走する車(B)がある場合、
同じ速度であれば、(A)から見た場合、(B)の速度は「0」km/hにプロットされます。
(B)のほうが速ければ、速さの差の分だけプラス側に、
遅ければ、速度の差の分だけマイナス側にプロットされるという具合です。

これは「温度」なども同様です。
つまり、速度を表す数字は「アナログ」ということになります。

「アナログ」とは、
「連続した量(例えば時間)を他の連続した量(例えば角度)で表示すること。」
なのだそうです。
「速度」という連続した量を、他の連続した量(上の場合は、座標軸上の点)として表示しています。

これに対して、
>「苦の有無」は「1」か「0」かで表し得る。
と横山さんが言われるとき、
「有る」ことを「1」で、「無い」ことを「0」で表しているのですが、
この場合の「1」なり、「0」は、デジタルです。

「デジタル」とは、
「整数のような数値によって表現される(飛び飛びの値しかない)ということ。」
だそうです。

もちろん、
「苦」についても、「アナログ」的に思考することは可能です。
ある人(A)が「0.3」の苦しさを持っており、別の人(B)が「0.7」の苦しさを持っていれば、
(B)の方がより苦しんでいるとも言えるかもしれませんが、
これは、今回の議論とはまた別のことになります。

というのも、
今回の「苦の有無」においては、「1」「0」は、
デジタルの意味で使用されているからです。


以上のことから、ひとつの結論が得られます。
「苦の有無」の問題を考える場合、
「速度」について考えることは、
「デジタル」としての数字と、「アナログ」としての数字を混在させてしまっており、
議論を混乱させている原因となっているということです。

このことは、
「物差し」の「長さ」についても同じことが言えます。

議論をシンプルに整理するためには、
比喩として語られている「速度」や「長さ」の部分は、
すべてカットしなければならないと考えます。

6月16日6時41分投稿のように、

数字を、
「アナログ」的なものと、「デジタル」的なものに、
分けて考えた場合、
もう一つ考えてみたいことがあります。

それは、横山さんが、
「1」「0」と共に、「null」という概念を導入されていることについてです。

「Null(ヌル、ナル)は、何もない、という意味」ということで、理解したいと思いますが、

横山さんは「0」と「null」の違いについて、
>値としての「0」と値無しとしての「null」(1)
とも記載しておられます。

―――――――――――――――――――
紛らわしくなりそうなので、
ここで僕の議論の今後の流れについて、
一言したいと思います。

>「その人の存在」があれば、そこに「苦の有無」は有意味となる(2)。
>そのとき「苦の有無」は「1」か「0」かで表し得る(3)。

(2)という前提の上になのですが、
横山さんは(3)のように言及されています。
(3)については、この後で取り上げるのですが、

より重要な問題となるのは、(2)の言及です。

この(2)は、
>なぜなら、「その人にとっての苦の有無」と「その人の存在の有無」とは、
>まったく次元の異なる話であるが、
>単に次元が違うというだけでなく、
>「その人の存在」無くしては、
>「その人の苦の有無」自体がナンセンスになってしまうような根源的な次元の違いがあるからである(4)。
という非常に鋭い横山さんの問題提起があり、
これについては、最後に取り上げる予定なのですが、
(実際のところ、きちんと論証し得るものなのか、
自分でもまだよく分かっていない部分があり、
論証の結果、僕自身が語ってきたことが間違いであったということを、
全部なのか、一部なのかはあるのですが、
認めなければならないこともあるかもしれないと感じているところです。)
今回の横山さんのレポートにはそれ以前にいろいろな問題点を含んでいるため、
(2)と(4)を議論するところまで、まだ到達することができずにおり、
今はその準備段階にあるという状況です。

―――――――――――――――――――――

ということで、(3)についての議論に戻りたいと思うのですが、
(3)では、「1」と「0」という数字は、
「デジタル」の意味で使用されています。
「苦が存在すること」が「1」であり、
「苦が存在しないこと」が「0」です。
つまり、この場合には、例えば「0.5」という数字には意味はありません。

それは、デジタルとして数字を用いた場合、
苦が「1」だけ存在するとか、
「苦」の存在が「0」であるということは意味しないからです。

横山さんが使用される言語は、
この部分に意味の曖昧さが残っていて、
同じ数字を、ある時は「デジタル」のように使い、
また別の時には「アナログ」のように使うため、
議論が混乱してしまうのです。

もし、数字を「アナログ」として使用した場合、
先ほども言いましたが、
「1」は、「苦が1だけある」
「0」は、「苦が0だけある」
ということになって、
「苦が無い」ことを表そうとした「0」の意味が異なってきます。
実のところ、
「デジタル」の意味で、数字を使った場合、
「0」と「null」には違いがないのです。

言いたいことは、
あえて「null」が導入されなければならなかったのは、
横山さんが、(3)において、「苦の有無」を「1」と「0」で表した際にも、
(1)のような、意味の曖昧さを残したままであったためであるということです。

これは、「苦の有無」という問題を考える際に、
「速さ」や「長さ」によって、
「たとえ」としてというのか、「例を挙げて」というのか、
そのような方法で論証しようとする傾向があるため、
結果することなのではないかと思います。
(本来は、両者はパラレルな関係にないため、論証不能です)。


>世界中に60億いる人間がそれぞれに苦を抱えている。
>簡単のためにその一人一人がみんな苦しみ度「1」の苦を抱えているとしよう。
>すると世界中の苦の総量が苦しみ度「60億」になる。
>そこで、世界中の人間を順に消失させていきその数をどんどん減らしていくと、
>その苦の総量もどんどん減っていくだろう。
>そして、人類最後の一人が消えるときその瞬間に人間のあらゆる苦も無くなることになる。
>しかし、そこで誰が救われるのだろうか。
>そこで消失している苦は、
>その消失によって誰かが救われるような苦では「ない」のではないだろうか。
上の議論を(1)と呼ぶ。


この議論はもっともである。
何も言うことがないほど、完璧な論証であると思います。

が、
これは、反出生主義を相手にしたものではなく、
「死亡促進主義」とでも呼ぶべきものを対象にした論証になっています。

それゆえ、反出生主義について論証している現在の議論の中では、
取り上げる必要のない部分になっています。

「反出生主義」と「死亡促進主義」の違いについては、
それぞれにご参照してください。

では、なぜこの箇所を取り上げようとするのか。
「石の重さ」についての横山さんの議論がどのように理解しづらいかを、
実際に、横山さんの(1)の議論を用いて、示そうとするのが、
その意図となっています。

石の重さについては、文章としては全容を書かれていないのですが、
示された図の中から読み取ることができます。
(ご自分で書かれているのでしょうか。
僕にはない能力なので、うらやましく思っています。)


では、始めます。

横山さんの議論では、

ある「石」は「重さ(10kg)」を持っている。
それをどんどん減らしていって、「0」とするのであるが、
「無い」「石」の「重さ」は「0」ではないかもね、というものだ。

想像するにではあるのだが、
この議論を複雑にしているのは、
「重さ」という「連続量」を使っていることと、
(「重さ」も「アナログ」な数値であるということです)、
「石」は「形」や「色」、「重さ」「種類」など、さまざまな属性を持っていますが、
そのうちの「重さ」だけを操作しようとしているためだと思います。
「重さ」が変化したときに、それ以外の属性がどのように変化するのか、
検討されていないのではないかと思います。


この議論を、先に引用した横山さん自身によって書かれた部分(1)と同様な手法を使うと、
次のように書き換えることができる。

石は重さを持っている。
石の重さは、そのうちに含まれている「原子」の「数」によって決まる。
「万物は原子からなっている」のであり、
「原子に還元できる」からである。
重さとは、「原子」の多さであり、
「原子」がどんどん減っていけば、重さも減っていく。
「重さ」が減っていくとは、その「石」の中の「原子」が減っていくことである。

「石」から「原子」がどんどん減っていき、ついには「0」になると、
「石」は、重さをなくす。
と同時に、石であることもなくなる。
そこには、すでにもう何もないからだ。

>そして、人類最後の一人が消えるときその瞬間に人間のあらゆる苦も無くなることになる。
>しかし、そこで誰が救われるのだろうか。
と横山さんも書かれています。

つまり、この場合、「0」であることと、「null」であることには、
実は、違いがないのです。

横山さんの議論との違いは、
横山さんが「重さ」を「アナログ」の意味でとらえていることに対して、
僕が「重さ」を「デジタル」の意味でとらえていることです。

人はひとりひとりしか、死なない。
「0.5」人が死ぬなどということは、現実的にはありえないからです。
(統計的にはあり得るかもしれません)


実のところ、
ここまで書いてきたのは、
今朝(6月17日6時34分投稿分)も書いたのですが
横山さんが提起しているもっとも鋭い問いに向かい合うためです。
ここまで、何回かに分けて書いてきたことによって、
今回の横山さんのレポートで提起された問題の中で、
それ以外の問題はおおむね解消したものと僕自身は考えています。

一番難しい問題を今、考えているのですが、
横山さんに突き付けられた問いに対しては、
僕自身がこれまで語った言葉だけでは、おそらく解けそうもありません。
それ以外の要素が必要になりそうです。
つまり、こちらのブログで僕が語ったことでは、
十分でなかったことは、認めなければならないと思います。

今考えているのは、
「存在しないもの」に対しては、
何をどう語ろうと、「ナンセンス」「無意味」になってしまうという部分です。
その通りなのでしょうが、
確かにベネターに対する批判にもその部分を突くものがあったことを思い出します。
もう少し考えさせてください。



僕自身としては、
反論に必要な論証を終えました。

ですので、
明日から言及しようと思います。

横山さんは「イライラ」すると言われました。
僕の中には、「罪悪感」があります。
なぜ「罪悪感」があるのか、僕自身にもよく理解できません。
横山さんが元気でいてくださればとは思います。
僕の議論について反論したい部分があれば、
もし書いてもいい、と思われるならば、
ぜひ書いてください。
たぶん、いろいろ問題点を指摘しえるのだろうと感じています。

土曜日と日曜日なので、
その2日を使って、論証しようと思います。

自分で書いたものを読んでいて、
言い足したくなりました。

結局、そんなに立派なものにはなりませんでした。
完璧に論証することは、僕にはできそうにありません。

僕にできる範囲で、論証したいと思います。

>なぜなら、「その人にとっての苦の有無」と「その人の存在の有無」とは、
>まったく次元の異なる話であるが、
>単に次元が違うというだけでなく、
>「その人の存在」無くしては、
>「その人の苦の有無」自体がナンセンスになってしまうような根源的な次元の違いがあるからである。

横山さんが指摘されている通りだと思います。

そこには2つの次元があるので、考察するためには、
その2つを別々に議論するほうが、わかりやすいと思います。

そのため、まず、「苦の有無」「快の有無」の次元について議論し、
そのことを確認したあと、
そこに「人の存在の有無」の次元を加えると、何がどのように変化し、変化しないのか、
を確認していきたいと思います。


>簡単のために、ここで言う「苦」はすべて悪であり、「快」は善であるとしておく。

簡単のためということで、ここでは議論はされていないのですが、
では、なぜ「苦」は「悪く」、「快」は「善(良い)」と言えるのでしょうか。

結果は同じでも、その過程が異なれば、
もしかすると結果の意味が異なることになるかもしれません。

そこで、この問題から考えていきたいと思います。

人間の「認知」や「思考」は「言語」によって規定されている。
ということを最初に言ったのは、ソシュールという人だったそうですが、
このあたりも僕は聞きかじっているだけで詳しくは知りません。
その後、ヴィトゲンシュタインなどが現れて、
では、その「言語」とは何であるのか、を分析していった、
という流れなのでしょうか。

そして、このあたりは横山さんのほうが詳しいと思うのですが、
「言語」の「意味」はその「使用」の中にある、としたのが、
ヴィトゲンシュタインだったということでしょうか。

言語の使用とは、人と人とのコミュニケーションということで理解したいのですが、
その場合、語の意味や観念が、両者に共有されていなければ、
コミュニケーション自体が成立しません。
(心理学の世界では「意味的ノイズ」というような言い方をするようです)。

「苦」や「快」についても、同じように人々に共有された観念があるはずです。
そして、使用の際に、両者に共有された「それ」が、
「苦」や「快」の意味ということになると思うのですが、
それが何であるか、が問われなければならないということになります。

残念ながら、ここで問題が起きてきます。
それは「苦」や「快」の意味を確定しようとする場合、
この議論のなかでは、僕の言語感覚や認知の仕方に従うしかないということです。
ここに曖昧さが入り込んできます。

結果としては、
ベネターがそのように規定し、
横山さんが簡単のためとして規定した内容と同じになるのですが、

僕にとって(これは以前にも同じことを書いたのですが)、

「苦」とは「ネガティブ」なものであり、
「快」とは「ポジティブ」なものです。
そして、
「ネガティブ」であると言われるのは、「それがないほうが良い」ためであり、
「ポジティブ」と言われるのは、「それがあったほうが良い」からです。

電気の「+」と「-」のように、
「ネガティブ」と「ポジティブ」は正反対のものです。

そこで、次のように言えることになります。

苦の存在は悪い(1)。
快の存在は良い(2)。
苦の不在は良い(3)。
快の不在は悪い(4)。

「苦」と「快」とは、「ネガティブなもの」と「ポジティブなもの」として、
正反対の意味を持ちますから、
ここでは、非対称性は出てきません。
この次元においては、世界は、対称的で、とても美しいものです。

これも聞きかじっただけのことなのですが、
思い出したことがあります。
それは、この世界に重さが生まれたのは、
「自発的対称性の破れ」があったからだという素粒子物理学での議論です。
もちろんですが、僕には中身まではわかりません。


ちなみになのですが、
横山さんはおそらく、
ここまでの議論で非対称性は出てこないのに、
ベネターが存在が悪く、不在が良いというのは、
そこに、「量的な要素を恣意的に持ち込んでいる」からだ、
と想定しておられるのではないでしょうか。
横山さんの「批判の3論点」の1)、2)は、
その想定の上に成り立っているものだと思われます。

しかし、この次元での議論においては、非対称性は出てきませんが、
さらに根源的な次元に議論を進めると、
量的な要素を想定しなくても、非対称性が現れます。


次の「根源的」と横山さんが呼ぶ次元については、
また、改めて論証したいと思います。

>なぜなら、「その人にとっての苦の有無」と「その人の存在の有無」とは、
>まったく次元の異なる話であるが、
>単に次元が違うというだけでなく、
>「その人の存在」無くしては、
>「その人の苦の有無」自体がナンセンスになってしまうような根源的な次元の違いがあるからである。

>そのため、まず、「苦の有無」「快の有無」の次元について議論し、
>そのことを確認したあと、
>そこに「人の存在の有無」の次元を加えると、何がどのように変化し、変化しないのか、
>を確認していきたいと思います。

1つ目の次元においては、次のような結論が得られました。

>苦の存在は悪い(1)。
>快の存在は良い(2)。
>苦の不在は良い(3)。
>快の不在は悪い(4)。


では、2つ目の次元、「人の存在の有無」を加えると、どうなるのでしょうか。

まず、これを行う意義、ここで何を行おうとしているのかを確認したいと思いますが、
それは、「生殖行為を行い新しい命を生み出すことの倫理な意味を問うている」ということです。
「生殖行為が」、
「倫理的に正しい行為であるか」「そうでないか」を検討しようとしているのです。

では、誰がそれを問うのかですが、
それは、生殖行為を行おうとしている当事者かもしれませんし、
僕のような第三者かもしれません。
(これまでは、「第三者が行う」と答えていましたが、この点訂正します)。

誰にとって良かったり、悪かったりするのかも、実は同様なのですが、
これについては、
どのようにして倫理的な意味を問うのか、について検討する必要があると思います。

1つ目の次元から、これまでのところ、
「良い」とか「悪い」とか言いうる、根拠となる「基準」がどこにあるのか、
ということが問題となるのですが、
これは1つ目の次元と変更がありません。
つまり、
「苦」とは「ネガティブなもの」であり、「あれば悪い」、「なければ良い」、
「快」とは「ポジティブなもの」であり、「あれば良い」、「なければ悪い」、
というこの基準に則って、倫理的な判断することになります。
(導入されている基準がそれしかありませんから、そうするしかないのです)。

―――――――――――――――――――――
本論からいうと、余談になってしまうのですが、
横山さんの「批判の3論点」の3)は、
この事実から、反証されることにおそらくなります。

>3)「他者へ利益を為さなくても良いが不利益を為してはならない」という規則は、
>厳密には全ての他者関係を禁ずるものなので、原則的な規則でしかない。
>出生という限界状況では特に個人の判断に委ねられざるを得ない。

「限界状況」とは、
「人間がその生存において避けることも乗り越えることもできない根源的な状況」という
意味のようですが、
例えば、「死」などは、その典型なのでしょうが、
出生は倫理的な検討の可能な事例であるため、
限界状況とは言えないというのが、その理由です。
僕は「出生」を「出産」と読み間違えていました。

―――――――――――――――――――――


具体的にやってみるのが、一番早いと思うのですが、
その際にひとつだけ、導入される前提があります。

おそらく、この部分が、僕にとっても、横山さんにとっても、
盲点になっていたのではないか、という気がします。

それは、
>「その人の存在」無くしては、
>「その人の苦の有無」自体がナンセンスになってしまうような根源的な次元の違いがあるからである。

この見解からどうしても導き出されてしまうのですが、
「存在しない人」に対しては「責任を持っている」や「義務がある」とは言えない、
という点です。
「存在しない人に対する責任や義務」は「ナンセンス」だからです。


1つ目の次元では、「苦」や「快」の存在、不在を問題として取り扱っていましたが、
2つ目の次元では、
「生殖行為により子どもが生まれた場合」と「生まれなかった場合」として、
検討されます。
そして、
生まれた場合には、「苦」は存在し、「快」も存在することになります。
生まれなかった場合には、「苦」は存在しませんし、「快」も存在しません。

その事実について、
生殖行為の当事者として、あるいは第三者の立場から、
その倫理的な意味を問おうとするのが、
この次元で行われることです。

生まれた子どもの「苦の存在」を、
当事者として、あるいは第三者の立場から倫理的に判断した場合、
(すべての場合において、この目線で倫理的に判断されることになります)、
それは、良心に痛みを覚えたりして、「苦」を感じる事態です。
当事者や第三者から見て、倫理的に悪いことと結論しなければなりません。

生まれた子どもの「快の存在」は、
喜ばしいことであり、当事者等にとってもうれしいことで、
「快」に結びつきます。
それゆえ、良いことだという結論になります。

ここまでは、おそらく問題ないと思うのですが
問題は、ここからです。

生まれていない子どもの「苦の不在」は、
当事者等に安心をもたらします。
生まれてこなかったがゆえに、苦しむこともなかった、
良かったという安心感です。
それゆえ、これは良いことと結論できるでしょう。

生まれていない子どもの「快の不在」は、
やはり残念なことです。
そういう意味では、「苦」の原因ともなり得るのですが、
しかし、何人も、存在しない人に対して義務や責任を持ちえないがゆえに、
このことを苦しむことはできません。
(このあたりの議論を「剥奪がない」と別の表現で言い表すこともあるのでしょう)、
もちろん、当事者等に「快」をもたらすものでもありませんから、
このことは、「悪くはない」となるということなのでしょう。

子どもが生まれるシナリオでは、
「良いこと」と「悪いこと」が1つずつありますが、

子どもが生まれないシナリオでは、
「良いこと」があっても、「悪いこと」はありません。

非対称性が、現れたのです。

それゆえ、人が倫理的に正しい判断をすれば、
必然的に反出生主義となる、ということになるのでしょうが、
これが本当に言い得てしまうと、
さらに恐ろしい結論にまで結びついていくのでしょう。


振り返ってみると、
これだけの時間をかけて、行き着いた場所がこれか、というような、
徒労感があります。


>生まれていない子どもの「苦の不在」は、当事者等に安心をもたらします。生まれてこなかったがゆえに、苦しむこともなかった、良かったという安心感です

私のレポートは「生まれてこなかったがゆえに、苦しむことも『なかった』」ということが決して語り得ない内容でありそれは決して『あり得ない』ということを主張するものです。その主張においてそれは『苦しさ0の無さ』なんかではあり得ず『苦しさ自体がnullでしかない無さ』なのだから「生まれない子が苦しむことが『無い』」なんてことはあり得ないと考えています。生まれなかった子の回りの人がその誤謬によって安心して『良かった』と思うのは勝手ですが、それは勘違いによる『良かった』でしかないというのが僕の主張です。
あまおとさんは、「生まれてこなかったがゆえに、生まれなかった子が苦しむこともなかった」と有意味に語り得るとお考えなのでしょうか


僕のレポートを丁寧に読み取ろうとしてくださったあまおとさんの心は感じていますが、「0」と「null」の違いこそがこの問いの焦点であると考えている僕に対して、あまおとさんは「0」の連続性と非連続性に注目されていて、私達が問おうとしている内容には互いにずいぶん違いがあり、僕の主張はあまおとさんにあまり届いていないように思われています。

実は、今回の論証で、
横山さんの1)、2)、3)のすべてについて、反証しました。
そのすべてについて、再度論証しなければ、
すべてについて、もう主張することはできなくなっています。

>私のレポートは「生まれてこなかったがゆえに、苦しむことも『なかった』」ということが決して語り得ない内容でありそれは決して『あり得ない』ということを主張するものです。

実は、鋭いなと感じているのですが、
というのも、
(僕自身が検証していて感じていたことなのですが)、
苦の不在の部分の倫理的な評価が最も難しいからです。

しかし、僕自身は、論証して見せました。

逆に、
生まれてこなかった子どもが、どうしたら苦しむことができるのか、
そのことを論証してください。

苦がないと、当事者等が判断できれば、
当事者等に苦が生じることはないからです。

苦しむと考えなければならないからこそ、良心が痛むのですし、
良心の痛みを「苦」の存在として、「悪い」としなければならないからです。
そのことがなければ、
当事者等が、どうして苦しまなければならないのでしょうか。
安心して、「良かった」と言えないことになるのでしょうか。

すべては、当事者等の視点からの議論であるからです。


>「0」と「null」の違いこそがこの問いの焦点であると考えている僕に対して、

言っておきますが、
「重さ」については、「0」と「null」に違いがないことは論証しました。
連続量(アナログ的な数値)を用いれば、「0」と「null」は区別しなければなりません。
しかし、その場合、「0」は「無い」ことを意味しなくなります。
存在しているのだけれど、程度としては「0」であることを言っているだけになります。


それらすべてについて、これだけの時間を使って、
論証してきたのです。

僕のレポートの意が本当に伝わってないことに愕然としています。

僕は上のレポートで、あまおとさんの論証では「(重さにおいての話だとしても、)0とnullが違いがない」と論じることができないということを、説明したつもりでいます。それは僕が問うている「null」は、「重さの消失と同時に失われ得るような存在の無さ」ではなく、「その世界そのものの消失によってはじめて失われ得るような存在の無さ」を問うものだからです。あまおとさんの論証は前者の無さの話でしかなく、僕の問おうとしていることとあまり関係のないことを問われているようにしか僕には思えません。

また、
>逆に、生まれてこなかった子どもが、どうしたら苦しむことができるのか、そのことを論証してください

という質問をされたことについては、正直ここまで話が通じていなかったと思ってなかったのでとても悲しいです。
僕が問う「nullとしての無さ」というのは、それが「生まれない子が苦しまないことがあり得ないという意味での無さ」でもありますが、それはもちろん「生まれない子が苦しむこともあり得ないという意味での無さ」でもあります。なので、僕の「生まれない子が苦しまないことがあり得ない」とする主張は決して「生まれない子が苦しむ」という主張ではないのです。これが通じてなかったことが本当にもう残念でなりません。

この回答をするにも、僕の残念な気持ちがあまおとさんの不理解を責めるものとして表れてしまっているように思われ、回答を控える方が良いかもしれないとも考えましたが、誤解のあまりに大きさにそのままにはできないと考えてお答えしました。しかし、この答えもおそらくは通じないのでしょう。とても悲しいですがおそらく僕の回答はこれで最後にさせてもらうことになると思います。失礼しました。


確かに、もう議論もできないほどの、乖離があるのでしょうね。

これほどの乖離を感じることは初めてなので、興味深いことなのです。


>それは僕が問うている「null」は、「重さの消失と同時に失われ得るような存在の無さ」ではなく、
>その世界そのものの消失によってはじめて失われ得るような存在の無さ」を問うものだからで。

僕自身としては、
このように、自分の意見に対する執着を持つことが、異様なことなのですが、
しかし、ありえないことではないと思います。

その結果、横山さんが何がしたいのかは分からないし、
どこに行き着けるのかもわからないのですが、
それは僕の問題ではありませんね。

僕は横山さんのしぶとさが好きです。
僕は持ちえないものですが、
これだけのしぶとさを持つことができればとも思います。

横山さんにしてみれば、
それは愕然とすると思います。
議論なり、他者への理解なり、
すべてを否定すれば、
違う意見はすべて理解しえないことですから。

でも、面白いんですよね。
すごく面白い。
そんな横山さんが哲学すること自体が面白い。

横山さんは何を分かりたいのでしょうね。
いったい実存的などんな問いがあるのでしょうか。

そのあたりが面白いのです。

>あまおとさんは、

>「生まれてこなかったがゆえに、生まれなかった子が苦しむこともなかった」(1)と

>有意味に語り得るとお考えなのでしょうか


本当は、こちらを取り上げなければならなかったのでしょう。
そのときには、それに気づきませんでした。

(1)自体は、有意味です。
ナンセンスではありません。

(1)はそれを聞いた人間の直感を裏切りませんし、
語られた内容を、同じ日本語を使用している他者と、
その内容を共有し得るのですから、
この言説は有意味です。


「無い」ものについて語れば、
すべて「ナンセンス」になるというものでは、
おそらく、ありません。

ないものについて、
「何人も、存在しない人に対して義務や責任を持ちえない」ということは、
実際に語り得るのです。

残念ながら、
僕に言えるのは、ここまでのようです。
「ない」ものについて、何が言えて、何が言えないのか、
すべてを明らかにすることは、
僕の力を超えています。

ハトちゃん、
こちらこそ勘違いの返答をして失礼してしまいました。ご勘弁ください。
関連のコメントは削除させていただきました。

次回の僕のレポートとして、ドゥルーズの微分を読解するための、マイモンの微分哲学を読解のための、「カントとライプニッツの空間論」を書こうと思い、勉強しています。もうすぐ上げられると思います。読んでもらえるとうれしいです。今後ともよろしくお願いします。

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