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2021年5月18日 (火)

僕の反反出生主義)「苦の有無の可能性そのものが無いこと」は「苦が無いこと」ではない

「苦の有無の可能性そのものが無いこと」は「苦が無いこと」ではない。「苦が無いこと」が善いことであったとしても「苦しみの有無そのものが無いこと」が善いことだとは限らない。

〈僕のアンチナタリズム批判の3論点〉のページでこの主張に対してもらったいくつかの反論コメントに対して回答した内容が僕の主張の補足になるかと思い抽出してみた。

 


反論1)「『苦しくない』も『苦しみの有無の可能性そのものが無い』も、いずれにしても『苦しみ』が無いのだから望ましいことには変りはない。

反論1に対する僕の答え)
『無い紙の長さは1mより短い』は必然ではない。同様に、生まれた子の苦と存在しない子の苦についても、『存在しない子が味わう苦は、任意の生まれた子の味わう苦のどれと比較した場合でも、必然的に少ない』とは言えない。

このとき、「生まれた子と生まれなかった子のどちらか一方の苦が少ない」は必ずしも言えず、その「どちらか一方の苦が少ない」という問いに何らかの前提を持たないうちは、それに対する『正当な答え』そのものがまだ備わっていないはずである。


反論2)「事実として、速い、短いなどに関しては相対的な評価だが、『苦しい』というのは脳内で起こる現象であり他の状態と比べなくても存在できる絶対的なものである」

反論2に対する僕の答え)

そもそも、ある命題が意味を持つということ自体が、その命題自身とその命題の否定とを比較して、否定の状態ではなく肯定の状態であることを選択することそのものである。ある命題の真偽がその肯定否定によって比較されずに与えられるとするならば、その文は、真理値を持つような有意味な命題にはなり得ない。単に何かが「在る」というだけの場合でもそれが「無い」状態との比較において「無い」では「ない」とすることによって初めてその命題は有意味になり得る。だから、何とも比較しないままでそれだけで絶対的なものとして「苦がある」と語ることはできない。また、もちろん「苦がある」を「苦の有無の可能性そのものが無いこと」と比べることもできず、「苦がある」を有意味に語り得るものにするためには「『苦が無い』ではない」として語る以外にない。「生まれた子に苦がある」と言う人がどんなに「何とも比較していない絶対な苦」を言っているのだと力説したとしても、その「苦がある」が有意味な文だと主張したいのであればそれは同時に「苦が『0値としての無い』ではない」と言っているものでもなければならないのだ。「生まれない子に苦が無い」と言うのが有意味な言明だとするのであれば、それは「生まれて苦しむ子との比較において『生まれて苦しむ子の苦がある』のではない」という意味を含意していなければならないはずである。そのような比較なしで語ろうとしてもナンセンス文にしかならない。

 

反論3)「『無い物差しの長さは0だとは必ずしも言えない』について、存在しないものの数値を敢えて定めるなら0じゃないとおかしいのではないか

反論3に対する僕の答え)

或る存在者の状態や性質を表す何らかの量には、足し算して合計することが適当なものと不適当なものがある。例えば、エネルギー量や質量や鉛筆の本数は可加算で、僕が上で挙げた速度や物差しの縦の長さやそれから密度や温度などは非可加算と考えらる。「苦」はどっちになるかが問題になるが、問題とすべき「苦」は誰にとっての「自分の苦」ではなく、「生まれないものの苦」という或る意味で「絶対的他者」の苦とも言えるようなものである。しかし、他者の苦はその都度の言語ゲームにおいてその「苦」の意味を紡ぎ続けていくしかないようなあやふやなものでしかないはずだ。それゆえ、その苦をどう扱うのかは厳に慎重に考えるべきである。「生まれないものの苦」を単純に可加算だと結論付けてしまうのは言語の射程を越えた勇み足になってると思われる。それは、もしかすると、〈事実から倫理規則は引き出し得ない〉という話なのかもしれない。その上で、物差しの例で言えば、ある物差しの縦の長さと重さとを比べるとして、縦の長さ30cmで重さ300g、20cmで200g、10cmで100gと順に減らしていき、縦の長さ0cmで0gとなる。それで、その物差しの縦の長さとその存在量が比例すると考えて、「物差しの存在が0の値であればその縦の長さも0の値となる。すなわち、その物差しが無ければ縦の長さも0の値となる」とするような考え方をすることは決して無意味ではないと思われる。しかし、この考え方はかなり恣意的な前提が差し込まれている。その推論がアリなら、「存在しない物質の温度は絶対零度である」とか「存在しない車の速度は0m/sである」などということまで言えてしまうような前提である。まあ、それでも、そういう恣意的な前提を組み込んでしまえば「存在しないものが何らかの値を持ちそれが0値である」とするような言語ゲームを仮設することは不可能ではないと思われる。

さて、そこで、Xも同じように「自分の死後にも苦痛が値を持つことが可能でそれが0値として想定できる」と自分で考えそれが妥当な推論だと『思い込む』ことは可能であろう。Xが無意識にでも何らかの前提を差し込んで、そのような思い込みをする場合には、「自死によって明日の自分が救われる」と考えることはあり得るし、それは有意味にもなり得る。その意味では、「生きているXは実際にその生きているXの視点において、自死によって自らの苦悩から救われることができる」と言えるだろう。ただし、それをするには、どこまでも、何らかの前提が必要であることには変わりがない。

続く ベネターの語る「生まれてこないほうが良かった」が語り得ないわけ

僕のアンチナタリズム批判の3論点

アニマルライツと反出生主義から倫理を考える

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コメント

こんばんは。
今日初めて、訪問しました。
最近「現代思想 2019年11月号 特集 反出生主義を考える」(ⅰ)を読んでいます。

「ナタリズム」という語を検索したら、
「アンチナタリズム」ということでこちらのサイトに行き当たりました。

長い長い議論があると思うのですが、
そのすべてをフォローできないままに、書いています。
どこかで僕自身の理解を確認する必要があるためです。

2018年8月28日
僕のアンチナタリズム批判の3論点の、
1つ目の論点について、確認したいと思います。

1)無い車は速度0でなく、速度そのものが無いように、無い物差しは長さ0cmなのではなく、長さそのものが無いように、不在は苦しくないのではなく、苦しくないことそのものがない。だから、不在がマシとは言えない。

この点について、上記(ⅰ)において、
ベネターは、
(存在する者にとって)苦の存在は悪いものであるが、
(存在しない者にとって)苦の不在が「悪くない」(良いではありません)のは、
あくまでも存在する者との関係における相対的な判断であって、
存在しないものにとって、
苦の不在は内在的には、良くも悪くもないと言っているようです。

僕自身も、
何者も存在しないならば、
快が存在しようと、存在すまいと、
苦が存在しようと、存在すまいと、
問題にならず、
何事かが、問題になるとするならば、
それを受ける者が存在するからだ、と思います。
内在的には、存在しない者においては何物も「良い」も「悪い」もないからです。

ここから次のような問題が浮かび上がります。

反出生主義は、「存在するもの」と同時に「存在しないもの」を問題として取り上げるからです。
そして、「もし存在しなければ」という問いを立てるのです。
そこで、「苦の存在と不存在」、「快の存在と不存在」を取り上げ、
存在するものにとって、苦の存在は悪い(存在しながら、苦痛を経験しない存在はあり得ないからです)、
存在しないものにとって、快楽の不在は「悪くない」(存在しないがゆえに快の不在が、もともとないもががないだけであり、快の剥奪にはならないため、「悪くない」となるようです)。
ここに非対称性があるがために、存在しないもの方が、存在するものよりも、
相対的に良く、
故に、存在しないほうがより良いという結論が導かれるということらしいのです。

1)の比喩で言えば、
存在するものが、速度0であることは、
速度の剥奪です。動きを封じられているからです。
だから、快の不在として悪い。
しかし、存在しないものにとっては、もともと存在していないがゆえに、
速度が0だろうが、何だろうが、
決して何かを剥奪されているわけではないから、悪くはない。

だから、相対的には存在しないもののほうが、存在しているものよりも良いのです。


そういう意味で僕自身は、1)を正当とは認められません。
存在しないものの強みとは、何もないこと、
苦痛も快楽も、損も得もないことだからです。
そして、何物も剥奪されることがないゆえに、
剥奪されうる「存在しているもの」よりも、相対的によい。


何ものも、存在しているがゆえに、語り得るのかもしれないですし、
存在しないものをも語ろうとすることこそが、限界を超えているのかもしれないのですが、
そのあたりが、どうなのか分からずにいます。

あまおとさん、コメントありがとうございます。歓迎します。

しかし、あまおとさんの話は僕にはどうも分かりません。

>存在しないものの強みとは、何もないこと、苦痛も快楽も、損も得もないことだからです。そして、何物も剥奪されることがないゆえに、剥奪されうる「存在しているもの」よりも、相対的によい。

のところですが、あまおとさんは存在しない車の速度が0m/sとは限らないことは認められるのですよね。何らの前提がないならその速度値自体が無いことも認められるでしょうか。もしそれを認められるなら、生まれない子の苦しみが0でなくその苦しみの値自体が無いことを認められることになるでしょう。そのような値を持たないものが、どうやって「『相対的に』よい」と言えるような比較が可能になるのでしょう。残念ながら僕にはさっぱり分かりません

>速度が0だろうが、何だろうが、決して何かを剥奪されているわけではないから、悪くはない

特にここが気になります。ここで『悪くはない』と言われるとき、『無い車の速度が0だろうが(0でなかろうが)何だろうが』としつつ『無い車の悪さは0』としてしまってるのではないでしょうか。
もしそうであれば、単に僕の1)に対する反論としては、「1)は認められないから1)は認められない」と言ってるだけになってしまってるように見えて、あまり説得力を感じられずにいます。

横山さん

さっそく返信いただき、ありがとうございました。

上にあげた「現代思考 反出生主義を考える」の中には、
ベネターへの賛成、反対のどちらの意見も取り上げられているのですが、
おっしゃられている「相対性」についてのところがいくつかの反対意見の対象となっている観があるのです。

なので、そのあたりに何かしらの曖昧さが残っているのだと感じられます。

横山さんがおっしゃりたいのは(僕の想像が入るのですが)、
物事について良い、悪いを判断しうるのは、
それが存在すればこそである、ということではないでしょうか。
存在しなければ、それについては良いとも悪いとも言えるものではない。
それゆえ、存在するものと存在さえしてないものは質的に異なっているために、
比較することはできず、
どちらが相対的に良いとも、悪いとも言えない。

>特にここが気になります。ここで『悪くはない』と言われるとき、『無い車の速度が0だろうが(0でなかろうが)何だろうが』としつつ『無い車の悪さは0』としてしまってるのではないでしょうか。

言語で表現すると、不在についても、存在するもののようにしか語れないので、
分かりづらくなってしまうのかもしれないのですが、
存在しない車には速度そのものがない。
しかし、それは存在する車の速度が0ということとは質的に異なっている。

このあたり、僕の理解が曖昧なのですが、
ベネターという人は、
存在しているものしか、思考の対象とせず、
批判の対象とならないという考え方自体に対して問題提起しているのであって、
そこに「剥奪」という概念を持ち込んでいるのではないでしょうか。

存在している車は速度を剥奪され、0kmで走らなければならなくなるが、
存在していない車は、もともと存在していないがゆえに、
速度というものを持たず、剥奪されることはない。
そして、存在していなければ、もともと走るということからまったく自由である。

これを人間の存在に置き換えて、
そのどちらが相対的に良いか、という問いを立てているのだと思います。

さらに、
生まれてくることが害である人生を生きている者が存在してしまった場合でも、
その人が存在し続けることが害であるとは限らない、とも言います。

生きる価値がある、いうことを考える場合に、
生まれてくる価値と、生き続ける価値を分けて考えるようです。

生まれてくることに関して、
存在と不存在を問いとして立てて、
どちらが相対的に良いのか、悪いのかを問おうとしているのが、
ベネターの反出生主義ということなのだと思います。

うまく言葉にできないため、うまく伝わっているといいのですが。

あまおとさん、
僕にはベネターの論においていくつか納得できないところがありますが、その一つが否定と否定でさえない無関係との混同です。「ない」という表現でそのどちらもを語ってしまうことで、本来導出され得ない結論付けをしてしまう誤謬をしてるように思えてなりません。


>横山さんがおっしゃりたいのは(僕の想像が入るのですが)、物事について良い、悪いを判断しうるのは、それが存在すればこそである、ということではないでしょうか。存在しなければ、それについては良いとも悪いとも言えるものではない。それゆえ、存在するものと存在さえしてないものは質的に異なっているために、比較することはできず、どちらが相対的に良いとも、悪いとも言えない。

僕の考えはおおよそそのようなものですが、「存在しなければその善悪が言えない」というのとはちょっとだけ違いまして、「比較可能な対象として規定されないものはその善悪を語ることはできない」なのです。存在しないものでも無根拠に恣意的に某かの規定をすることは可能であり、そのような規定を施せばその善悪を語ることは可能だと考えています。しかし、ベネター論では、そのような恣意的な規定をしないでも善悪を「相対的に」(あるいは、比較さえしないでそのものとして「絶対的に」)思考することでその「存在しないもの」の善悪が有意味に語り得るものになるかのようなことを言っています。そしてその論展開のなかに「否定」と「ナンセンス」の混同の誤謬があるというのが僕の理解です。


>存在している車は速度を剥奪され、0kmで走らなければならなくなるが、存在していない車は、もともと存在していないがゆえに、速度というものを持たず、剥奪されることはない。そして、存在していなければ、もともと走るということからまったく自由である。

の話のところでも、その点について違和感を覚えます。存在する車は比較可能なものとしてすでに規定され得ているがゆえに速度0m/sの値を持ち得て、速度を失うことができるというところまではそのとおりなのですが、まだ何の規定もされてないままに某かがそれ自体で対象化されるとするのはナンセンスであります。対象とされ得ないのですから、それは「速度が0になること」もあり得ませんが、「速度が0にならないこと」もあり得ないとしての「あり得『ない』」でしかないはずです。そこで僕は「無い車が走ることから自由」ということが言える権利を誰が持ち得るのかと考えてしまいます。それは何らの論理的根拠がないポエムとして語られるか、無意識のうちに恣意的な規定を介入させてしまっているような、いわゆる詭弁として語られるかしか無いのではないか、と感じています。

この事についてもう少し、付け加えます。
例えば、また比喩なのですが、物差しの『縦』の長さを順に短くしていくとその質量(質料ではなく存在量としての質量)も減っていき、最後に縦の長さ0になったときに存在量も0になるのでそこから「無い物差しは長さ0である」と結論づけることは不可能ではないと思われます。ただしこれはもちろん恣意的な前提を敷いた上での話で、同じ例で物差しの『横』の長さを考えるとそれが始め2㎝だったとしたら存在量0になったときにも2㎝のままになってしまうので、そのような前提によっては「無い物差しは長さ0」と全く同じだけの権利をもって「無い物差しは長さ2㎝」とも言えることになります。そして、そのように様々な前提を差し込むことを許すなら「無い物差しの長さ」は0から無限大まであらゆる値を取ることが許され得ることになります。まさに規定に対して「自由になる」と言えるかもしれません。しかしだからこそ逆に何も前提を差し込まないとするのであれば「無い物差し」は比較可能なものとして対象化されることは叶わないことになるのではないでしょうか。つまり、「規定から自由である」とさえ言えない全くの「ナンセンス」でしかないと。全くのナンセンスなので、「速度や長さや苦を剥奪されることが無い」というのは「剥奪されることが無いものである、ということでさえ無い」という意味でしかなく、「走ることから自由」というのは「走ることから自由なものであるとさえ言えない」という意味のものでしかないと考えねばならないと思います。そこのところで、そのナンセンスでしかないはずだった「ない」を否定の「無い」だとして捉えられるとしてしまったのが、ベネターの誤謬ではないか。

と、そんな風に考えます。

ちなみに、ここで僕が「ナンセンス」と言ってるのは、ウィトゲンシュタイン「論考」において「Sinnlos無意味」でさえない「Unsinnナンセンス」とされている意味での、矛盾でさえない意味のなさのことです。

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/4-25ff.html

横山さん

議論について行けているのかどうか、
自信がないのですが、
考えたことがあるので、書いておきます。

ここでお互いに意見を述べ合っているわけですが、
その中に「車」や「物差し」が理解のための比喩として語られています。
もちろん「人間」についても語られています。
そして、そのどれもが個別具体的な、「他のものと比較可能な対象」として語られているわけではなく、
経験から抽象された、「車一般」や「物差し一般」、「人間一般」の表象として語られているわけです。
だからこそ、横山さんが「物差し」について述べたようなことができるわけで、
現実には存在しないけれども、表象を形式的に操作して思い描くことはできるのですが、
しかしこの段階ですでに、何も前提を差しはさんでいないわけではなく、
現実を抽象する段階で取り込んでいる、現実原則とか、経験則とでも言えばいいようなものを、前提としていて、
言語的、論理的には語り得え、表象としては思い描くことができるけれども、
現実には存在しないものについては、きちんと理解できているのです。

僕が「存在しなければその善悪については言えない」と書いたのを、
横山さんは、「比較可能な対象として規定されないものはその善悪を語ることはできない」と言い換えられたわけですが、
そして、実在する車については、比較可能な対象として規定されているとも言われているのですが、
実際のところは、ここで話し合われている車については、あくまでも「車一般」について言われているにすぎず、個別具体的な、他のものと比較可能なものではありえていません。
しかし、横山さんが、この「実在する車」を「比較可能な対象」と認識されたのには、おそらく訳があって、
現実に実在するものは個別具体的に存在するという経験則を盛り込んでいるだけのことなのではないか、と思われるのです。
つまり、現実に「存在するもの」は、個別具体的に存在しており、それゆえ「比較可能な対象として存在している」という経験則をあえて明確にされただけのことで、僕が言った「存在しなければ、その善悪は言えない」ということと、内容としては何も違うことを言ってはいないのです。

表象される「人間一般」はある現実的な枠を持っており、
それを実在する人間に適用することができるように、
存在しない人間にも適用することができるのではないか。

このあたりに不明確さがあるのですが、
僕たちは、人間の不在について語る際にも、
現実から抽象された「人間一般」をそこに適用しているのであって、
存在しない人間について、無根拠に、恣意的に規定しているということにはならないのではないか。

言えるのではないかと思うことは、
実在しないものについて語っているからと言って、
それゆえにナンセンスだということにはならないのではないか、
ということなのです。

あまおとさん、
なかなか議論が噛み合いにくいですが、少しずつ前進できていると信じて、疑問点を挙げます。

あまおとさんの考えでは、存在するものでもそれがどんなであるかを把握するためには、某かの形式化を施し、ある程度の一般化をして捉える必要があるのだから、「無いもの」についてもそれが人である限りにおいて、車である限りにおいて、物差しにある限りにおいての一般化は可能だろうということですね。 
そこまでは分かるのです。ですが、その一般化において、その「無い子供」や「無い車」や「無い物差し」のそれぞれ「苦」や「速度」や「長さ」の値までが一意的に(或いは準一意的に)限定され得ると言うのはどうも分かりません。僕は物差しの例で、無いものの「長さ」は0cmとするのも100cmとするのも100mとするのも、どれかが優位だとはどうしても思えないのです。僕としては上の例でそのことを説明したかったのですが、そこは、あまおとさんは違うのですよね。
人間としての本質的な形式は、「いない人」についても、「いない人」が人間である限りにおいて継承されなければならないと、僕も感覚的に分かりますしそうだと思います。しかし、苦がどれ程のものかという点については人間の本質的な形式とは言えず単なる偶有性だとしか思えません。なので、それが「無いもの」に対してまで継承されるというのは、やっぱりどうしても理解しにくいのです。

横山さん

人間にはさまざまな苦悩があって、それをどのように評価するかは難しい問題だと思います。
存在している子どもについても、ある子どもは障害を負っているかもしれないし、
また、貧困の中にあるかもしれないし、内戦の恐怖に怯えているかもしれないし、
不合理な差別を受けているかもしれません。
またそのどれでもなく、満足のいく環境で、親から愛され、健やかに成長しているかもしれません。
幸せな子どもは生まれてよかった、そうでなければ生まれない方がよかったのか。
僕自身はそのような考え方はしたくありません。
実際、そのような考え方は優性主義に結びつくものでもあり、
危険な思想だと思います。

反出生主義は、不幸が存在するどころか、蔓延している現実の観察を基礎に持つのでしょうが、
ベネターの議論自体は、生まれた子どもたち対しては、
死んだ方がましだと、いうものではないというのが、僕自身の理解で、
死んだ方が良いではなく、生殖自体を否定して、
もう誰も生まない、生まれないのがより良いと言いたいのでしょう。
それゆえにこそ、存在するものに存在しないものを対置させているのだと思います。
そして、「人間一般」という表象を使用し、「剥奪」という概念を使うことで、
とりあえずそれは可能になっているように僕には思えます。
ただ、僕自身は反出生主義に全面的に賛成というわけではありません。

とりあえず、ここまで議論してきたのですが、
僕自身が思うのは、
反出生主義を完全に論破してしまうには、
横山さんの論理では十分だとは思えません。
また別の切り口が必要なのではないでしょうか。

>反出生主義を完全に論破してしまうには、横山さんの論理では十分だとは思えません。また別の切り口が必要なのではないでしょうか

そこのところ、詳しく教えてほしいです。

現状で、僕はこの議論のポイントがうまく掴めておらず、あまおとさんが僕の批判のどこに穴や傷があると考えられているのかが分かっていません。
それは、もしかすると、生まれない子の苦が生まれない子の快と非対称だから生まれるよりも生まれない方が好ましいとするベネターの論と関係するところなのかなとも思われていますが、そうだとしても、僕は《それが「一方が好ましい」というためには比較可能なものとしての対象化が為されねばならず、また比較可能なものとして対象化されるのであれば「快」の方も比較可能なものとして対象化され、快と苦の比較によって「損得勘定」の話として解釈されなければならなくなり、非対称だとは言えない》として、僕の批判1)と2)で反論し終えたつもりでいます。
なので、僕としては、この反論に穴があるとして批判されるのはたいへんありがたいと思いつつ、「これまでの議論では僕の批判を十分に理解してもらえていないが故の齟齬なのじゃないか」という認識にしか立つことができないでいます。
僕の批判に穴が無いとはもちろん思えないですが、あまおとさんの問題意識や言葉と僕の問題意識や言葉にあまりに大きな違いがあるみたいでどうしても分からないのです

或いは、お互いに、相手に話が通じるようにさらに自分の哲学を熟成させ発展させ得る時間をしばらくおいて、その上で議論した方がよいのかも

すみません。
僕自身は、最初に書いたものと2番目に書いたもので、
間接的に1)と2)への反論になっていると思っていたのです。
おっしゃられているように、僕が書いたことは、ベネターの非対称の理論です。

まず確認として、以下のことを書きます。

存在するもの(生きているものと言ってもいいと思います)には、つねに快楽と苦悩が存在する。
(ただし、その程度は今のところ問わない)。
存在しないもの(生まれてきていないものと言い換えられると思います)には、常に快楽も苦悩も存在しない。
(存在しないのですから、もちろん程度の問題も生じません)。

このことを確認しておいて、

まず、1)について
存在するものの苦悩は、それ自体悪いことである。
存在しないものには、0の苦悩が存在するのではなく、そもそも苦悩そのものが存在しませんから、苦悩の不在は良いことである。
ここで、1)で語られているのは、
存在するものの苦悩と存在しないものの苦悩は、本質的に、まったく異なるものであるから、比較ができないのではないかとの理由で、不在がマシだとは言えない、ということになる、との主張なのですが、
ここので良い、悪いは相対的な意味合いのものなので、
苦悩に関しては、不在のほうがより良いことになります。

2)について
不在における苦悩の値が0とされていますが、これは1)で言っていることと矛盾します。
不在における苦悩は、そもそもないのであって、値が0という前提は成り立ちません。
なので、これ以上の反論は必要ないのですが、
あえて、続きを書くと、

存在しているものの快楽は、良いものです。
存在していないものには、快楽は存在しません。
しかし、この場合、存在しないものは、その本質上そもそも快楽を持っていないのであって、
剥奪されたわけではなく、
そもそも快楽の主体自体が存在しないのですから、
存在しないものにとって、快楽の不在は「悪くない」のです。

1)についての反論と、2)についての反論から、
苦悩については、不在のほうがより良い。
快楽については、存在者にとっては良いが、不在者にとっても「悪くない」
(ここに存在と不在の非対称性があります)
ゆえに、不在のほうが、存在することよりも、より良い。

これがベネターの結論ということになるでしょう。

基本的に1)と2)で言われていることは、これだけです。

なので、
>《それが「一方が好ましい」というためには比較可能なものとしての対象化が為されねばならず、また比較可能なものとして対象化されるのであれば「快」の方も比較可能なものとして対象化され、快と苦の比較によって「損得勘定」の話として解釈されなければならなくなり、非対称だとは言えない》
という主張は、1)と2)からは出てきません。

快楽と苦悩を含めた、人生の質(QOL)の議論に入るには、
それについてまず、主張しなければなりません。
人生における快楽とは何か、苦悩とは何かについてまとめ、
それが存在することにとってどんな意味があるのかについての理論が必要となります。

横山さんが主張されている、1)、2)にはそれがないので、
議論は、今のところここで終了となる、
というのが、僕の主張です。


あまおとさん、

>存在しないものには、0の苦悩が存在するのではなく、そもそも苦悩そのものが存在しませんから、苦悩の不在は良いことである

ここのところがやはり、僕には同意できないのです。なので、議論を深めるべき中心はここにあるような気がします。
しかし、
僕)不在の何かは某かの前提なしに比較することはできないから、不在がより良いとは言えない。
あまおとさん)不在は苦そのものの不在であり、苦があることはそれそのものとして悪であるから、相対的に不在は良いこと。
僕)いやいや、その苦があること自体が良くないとしている点でも、在と不在を相対的に評価してる点でも、すでに比較しているではないか。
あまおとさん)いやいや、存在する苦はもうすでに苦として存在し、非在は苦そのものが存在しないのだから、苦があることはもうそのままで悪であるじゃないか。
僕)いやいや……

と、同じような相互不理解の繰り返しになってしまっていますので、少し手間と時間がかかりますが、一問一答の形でスモールステップの確認をしながら議論をしても良いかと考えています。それによって、僕は僕で、僕の、非在が比較できないとする主張を組み立てるためのステップを一段一段組んでいって、理解の共有を目指してみたいと思います。あまおとさんはあまおとさんで、僕の不理解だと思われる点を聞いてくださったらありがたいです。

[ それと、これは議論の本流から外れるかもしれませんが

>2)について 不在における苦悩の値が0とされていますが、これは1)で言っていることと矛盾します。不在における苦悩は、そもそもないのであって、値が0という前提は成り立ちません。

については、誤解があると思います。1)で「不在には苦の値がない」としているのは、何らの前提が差し込まれない場合に限ってのこととして言っています。例えば「居ない子供の苦は0とする」という前提が差し込まれることは可能だと考えていますし、その前提の上での議論もできると思います。ただし、そこで「居ない子の苦が0」とされるなら「快も0」とされないといけない、という主張が僕の2)です。なので、そこに矛盾は無いと考えています ]

さてそれで、まず一つ、スモールステップの質問を許してもらえるなら教えてください。

問い)「生まれない子の苦は不在」と言われるとき、その「不在」は誰にとっての「不在」ですか。また誰によって判断される「不在」ですか。
その生まれない子にとって?子によって?
生む親にとって?親によって?
それを問うている私にとって?私によって?
誰でもない誰かにとって?誰でもない誰かによって?
神にとって?神によって?
或いは、「生まれない子の苦は不在」は、誰にとってでもない命題?
判断不要な命題?
或いは、命題でさえない?

いかがでしょうか。すでにこの辺りで、あまおとさんと僕は議論の土台が違ってる気がしてるのですが。

ちなみに、上の問いに対して僕の回答はないです。あまおとさんが回答してくださった内容を前提とした土俵の上に乗ってゆけたら議論が噛み合いやすくなると思いますので、できるだけあまおとさんに合わしたいと思ってます。

まず、ベネターの議論の前提について確認しましょう。
僕たちは今、ベネターの非対称性の論理について議論しているのであり、
横山さんはそれを否定しようとしておられるからです。
まずその部分で共通理解が必要です。

一つ前の横山さんの論点1)、2)に対する反論に書いた、
ベネターの非対称性に関する議論の前提です。

ここには、個々の人間は出てきません。
ベネターは、
人間一般について、その存在一般と、非存在(非在)一般を、
快と苦という基準を用いて、比べると、
どちらがより良いことになるか、ということを述べているにすぎません。

そして、ベネターがこの非対称性を発想した理由は、
4つの非対称性を説明するためです。
(あるいは実際には順序は逆かもしれませんが)。
この4つの非対称性を一緒に議論しないと、
ベネターの非対称性の意義については理解できません。

4つの非対称性とは、次のようなものです。

1:生殖に関する義務の非対称性
悲惨な人生を送るだろう人々を生み出すことを避ける義務はあっても、
幸福な人生を送るだろう人々を生み出さなければならない義務はない。

2:予想される利益の非対称性
子どもを持つ理由として、その子どもがそれによって利益を受けるだろうということをあげるのはおかしい。
子どもを持たない理由としてその子どもが苦しむだろうということをあげるのは、同じようにおかしいわけではない。

3;回顧的利益の非対称性
苦しんでいる子どもを存在させてしまった場合、その子どもを存在させてしまったことを後悔すること、そして、その子どものためにそれを後悔することは理にかなっている。
対照的に、幸せな子どもを存在させることができなかった場合は、その子のためにそのできなかったことを後悔することはあり得ない。

4:遠くで苦しむ人々と存在しない幸せな人々の非対称性
私たちが遠くで苦しんでいる人々のことを悲しく思うのは当然だ。
それとは対照的に、無人の惑星や無人島、この地球の他の領域に存在していない幸せな人々のために涙を流す必要はない。

ベネターの非対称性を否定する場合には、
ベネターの土俵では、
上の4つの非対称性を説明する別の原理を創造しなければならない理屈となります。
 
この前提をまず確認しないと、
横山さんが陥っているような、迷路に陥ることになります。

要するに、この論理の射程をどこまでと見るかということです。

ベネターがこの前提で話をしている以上、
この前提を受け入れるか、受け入れないかによって、
話は全く変わってきます。

例えばですが、
苦は本当に悪いのか、ということは確かに問うことができます。
「夜と霧」のフランクルはナチスの収容所を経験しますが、
その苦の経験を通してより深い人生の理解を得ます。
ならば、苦は本当に悪いのか。

実際ベネターの議論をそのような点から批判していくことはできます。
ベネターの理論は非対称性だけではないのです。
その場合、ベネターを非対称性の議論とは別の角度から批判することなります。

このあたりのことが未整理のまま、議論しているので、
議論が噛み合わないのです。

いったいどの程度の共通理解があるのでしょうか。

あまおとさん、
あげていただいた4つの非対称について、どれも僕は完全に認められないと考えています。なので、それはすべて前提することはできません。

ですので、もっと基本的なところで、つまり、僕の主張や、あまおとさんの主張における言葉がどんな前提で何を意味するものなのかを共有する努力をすることで、問題を共有する手だてになると考えています

そして、ベネターの4つの非対称について、僕はその1に対して僕の反論3)で反論し、その2に対して僕の反論2)で反論し、その3に対して僕の反論1)で反論しているつもりなのです。そして、それを伝えられるように努力しているつもりです。伝わりませんが。

そして、この議論をさらに深めるには、様々の問いに関して、僕とあまおとさんがお互いに当然だと考えているその土台を掘り起こして、その土台にしてしまっているものの意味を問い直す必要があるように思われてならないのです。

それで、その意味で、先の僕の質問がとても重要だと思っているのです。

問い「生まれない子の苦が「不在」だというとき、その「不在」は誰にとっての不在だと捉えるのか?誰が「不在」だと判別するものと考えるのか?」
これです

多くのAN支持者の方とこれと同じような議論をしてきましたが、このように僕の疑問点を突き詰めようとすると、「言葉遊びだ」とか「心がない」とかと言って咎められることが多いのですが、僕はまったく本当にまっすぐに真摯に問いと向き合おうとしています。少なくともその点は、了解してもらえるとありがたいです

了解しました。

やってみましょう。

あまりここにばかり時間をかけられないので、
回答は遅くなることがあると思います。


>問い「生まれない子の苦が「不在」だというとき、その「不在」は誰にとっての不在だと捉えるのか?誰が「不在」だと判別するものと考えるのか?」

誰にとってについては、「主体はない」。
誰が判断するのかについては、「第三者」。

ということになると思います。

次の問いはどうなりますか。
回答は明日以降になると思います。

あとすみません。

2)についてです。
[ それと、これは議論の本流から外れるかもしれませんが

>2)について 不在における苦悩の値が0とされていますが、これは1)で言っていることと矛盾します。不在における苦悩は、そもそもないのであって、値が0という前提は成り立ちません。

については、誤解があると思います。1)で「不在には苦の値がない」としているのは、何らの前提が差し込まれない場合に限ってのこととして言っています。例えば「居ない子供の苦は0とする」という前提が差し込まれることは可能だと考えていますし、その前提の上での議論もできると思います。ただし、そこで「居ない子の苦が0」とされるなら「快も0」とされないといけない、という主張が僕の2)です。なので、そこに矛盾は無いと考えています ]

何の前提も差し込まれない場合、
2)はどのように形になるのでしょうか。
快について、不在がよりマシとは言えない、という結論になる、前提の差し込まれない形の2)を提示してください。

今のままでは、明らかに矛盾です。

提示されなければ、2)については、誤りであると理解します。

ありがとうございます。
次の質問もよろしくお願いします。

問2)その回答「誰にとっては『主体はない』」とは、「生まれない子の苦が『不在』だというときの『不在』とは、居ないものにとっての『不在』」だということでしょうか。

この質問における僕の狙いは、『居ないものにとっての苦の不在』が何を意味するのかの詳細を明らかにすることです。それがどのようなところまでどんな意味を持つのか、そしてどのようなところでナンセンスになるのかを詳細に解明し、共有することです。そして、できればベネターの誤謬を明らかにするところに繋げたいと考えています。

コメントがテレコになっちゃいました。 

>何の前提も差し込まれない場合、2)はどのように形になるのでしょうか。

えっと、その2)って
『2)もし恣意的に不在の苦しみ度が0値だと定義する場合、快の度合も0値になるので、不在の方が損なこともあり得る。』
のことですよね。
その時はこの文の前半の前提がなくなるので、文の意味が全部なくなるだけだと思います。

スミマセン。さっきの問2)を提出し直させてください。あまおとさんとのこれまでの話を振り返ると、その『生まれない子の苦の不在』とは、誰か一般的な生まれた子を(一般的に)想定して、その(一般的な子としての想定した)『生まれた子』の不在を考えてるのですよね。そして、だから「良い、悪いは相対的な意味合いのものなので苦悩に関しては、不在のほうがより良いことになる」ということですよね。

そうであるならば、次のように質問を差し替えさせてください。

問2の差替え)「一般的な生まれた子」の苦の度合いが仮に1点だったとする場合、『苦に関しては、生まれるよりも生まれない方が数値的にその1点分だけより良くなる』と言えるとされますか。

どうも書き換えなどと混乱の原因になりそうなことしてしまいまして、申し訳ないです。ですがよろしくお願いします

差替えた質問の狙いは、「居ない子にとっての苦の不在」が0値として想定されているのかどうかを明らかにし、それが0値なのであれば、議論の論点を「不在のナンセンス性」ではなく、「居ないものの快の不在も0値とされるのか」や、「居ないものの快の不在」と「居ないものの苦の不在」がどのように対称で、どのように非対称なのかを明らかにするところを目指すものにしたい、というところです

2)についての問題点は、
「快が、不在の方が損なこともありうる」と言いうる条件が、恣意的に規定されていることです。
恣意的に規定された条件で、ある命題に反論できるのなら、
勝手な条件をでっちあげてしまえば、どんな命題にも反論できることになります。

ですから、「快が、不在の方が損なこともありうる」と言いうるための、
論理必然的な条件が何か、きちんと提示し得なければ、
反論に失敗しているということです。

また、2)については、1)で書かれていることに矛盾しているのは、
何度も指摘しているところです。

ですから、現在の2)では、ベネターの理論に反論することには失敗しています。

失敗を認めて、取り下げるか、
あらたな論理をを再提示するかです。

内容は、僕に聞いたりせず、自分で考えてください。

問2に対する回答です。

(問1)で聞かれた、
生まれていない子どもの苦の不在について語る場合、
だれにとって苦は不在なのかという問いの答えは、
生まれていない子どもにとって、苦は不在である、となります。
そして、
生まれていない子どもは、生まれていない以上存在せず、
「苦の不在」の主体は存在しないとなります。


あと、長くなりますので、
問いの意味の説明は必要ありません。
問いだけを書いてください。

僕の考えと思いを答えます。

反論1)と反論2)が矛盾してるって言うのは、反論1)で存在しない子の苦が0であることはあり得ないとしつつ、反論2)では存在しない子の苦が0である場合について語っていることが矛盾だと言われているのでしょうか。僕の思いとしては、反論1)は「(恣意的な前提を何も差し込まなければ、)無い車に速度の可能性そのものがないように、生まれない子には苦が無いのではなく苦の可能性そのものがない」と言っているつもりでした。それで矛盾が解消されるならそのように解釈してください。


反論2)については、ベネターの「2:予想される利益の非対称性」にたいする批判のつもりで書いたもので、「生まれない子の苦を0とするなら、快も0とすべきであり、そうであれば、そのベネターのいう非対称は崩れる」ということを論証するつもりのものです。
すなわち、その非対称を語るベネターの論の「子どもを持つ理由として、その子どもがそれによって利益を受けるだろうということをあげるのはおかしい。子どもを持たない理由としてその子どもが苦しむだろうということをあげるのは、同じようにおかしいわけではない」という話において、ベネターは生まれない子の苦を0ととらえながら快を値がないと捉えてている。だから、ここでベネターは、快苦の非対称がすでに論の前提として敷かれている話しかしていない。
それが言えるのなら、その話をまるっと裏返して、
「子どもを持たない理由として、その子どもがそれによって苦しまないということをあげるのはおかしい。子どもを持つ理由としてその子どもが苦しむだろうということをあげるのは、同じようにおかしいわけではない」
ということも言えてしまうことになる。

ってことを論証したかったわけです。僕の文は言葉足らずか、とも思いますが、あの言葉足らずでも伝わる人にはある程度伝わってるので、まるで意味がなかった訳でもないかなとも思っています。

ここは、横山さんの王国なので、
それで横山さんが、
自分はきちんとベネターを理解しており、
自分の議論でベネターに対して正当に反論していると、
本当に納得しているのなら、
それでいいんじゃないですか?

僕には横山さんは、
個別の議論でまったく別々の論理を使っていて、
なので、1)ではこう、2)ではこう、という言い方になって、
全体にまったく調和がとれないことになっているように思います。
もちろん、全体の調和などどうでもよくて、
それで哲学が成り立つとお考えなのなら、
それはそれで横山さんの問題ですから、
僕にはどうでもいいことです。

ですが、もう議論は諦めます。
はっきり言って、時間を使うのがもったいないです。

>内容は、僕に聞いたりせず、自分で考えてください。

これは厳しい。もちろん自分で考えますが、僕は、基本的に哲学論議や哲学対話は問い合いだと考えてますので、問わせてもらえた方がありがたいのはありがたいです。でもそれが不要ということでしたらやめておきます

こちらでのコメントは初めてになります。
いつも楽しくブログ拝見させて頂いています。更新楽しみにしています。

上記議論にそもそもついていけていないので反出生主義についての私見は差し控えますが
「哲学議論や哲学対話は問い合い」という部分には非常に同感です。

割と毎回コメントなどを読んでいて思うのは、せっかく有意義な議論がなされていると思うのに
「くだらない」とか「時間の無駄」とか言われてしまうのは本当にもったいないことだと思います。

もちろんそれで横山さんの哲学探究が止まったり問い合いのスタンスを崩したりするとは思えませんが
横山さんのブログを見て育った1ファンとして、これからも素晴らしい活動を続けていって頂ければそんなに嬉しいことはないです。

私もいつか横山さんと議論できるくらいのレベルまで勉強したいと思います。

割り込みのコメント失礼致しました。それでは。

あまおとさん、そうですね私は私の問題として考えたいと思います

今回、最後は少し残念な形になりましたがコメントに書き込んでくださったことには僕の考えを深めるにたいへん役立ちました。ありがとうございました。また機会があればよろしくお願いします

コウセイさん、ありがとうございます。涙。
心折れそうになったタイミングでの応援メッセージだったので、なんとも申し訳なくなんともありがたく、とても励まされました。大感謝です

僕も残念になりましたので、
改めて反論を書こうと思います。

実のところ、下に採録しましたが、
横山さんの議論は、突っ込みどころ満載です。
そのあまりの多さにうんざりしてしまった、
これではどれだけ時間があっても、共通理解は得られないと、
諦めてしまおうと思ったのですが、
横山さんや、これを読んでくださっていた方も、
議論が深まっていたと感じておられたと聞き、
そのような評価があればうれしくもありますので、
続けて書ければと思いました。

長くなると思いますので、反論1)に関するものと、
反論2)に関するものに分けて書きたいと思います。

>反論1)と反論2)が矛盾してるって言うのは、反論1)で存在しない子の苦が0であることはあり得ないとしつつ、反論2)では存在しない子の苦が0である場合について語っていることが矛盾だと言われているのでしょうか。
僕の思いとしては、反論1)は「(恣意的な前提を何も差し込まなければ、)無い車に速度の可能性そのものがないように、生まれない子には苦が無いのではなく苦の可能性そのものがない」と言っているつもりでした。それで矛盾が解消されるならそのように解釈してください。

まず、ここで確認したいのは、
「生まれない子には苦がないのではなく苦の可能性そのものがない」と書かれていることです。

もうひとつは「恣意的な前提を何も差し込まなければ」とされています。
ここでは、恣意的な前提は何も差し込まれていないということも確認しておこうと思います。

この点を押さえて、1)を見ると、
僕自身がベネターの議論を最初に読んだに感じたものを
横山さんの感じておられるのだと思いました。
まったく存在しないものの快や苦、利益が害悪については論じることができないではないかと
僕自身思ったのです。

そういう意味で、もちろん完全ではないと思いますが、
1)についてはかなり共感できる議論だと思います。

では、2)についてです。
1)についての議論の中に誤字が多くありました。
すみません。

>反論2)については、ベネターの「2:予想される利益の非対称性」にたいする批判のつもりで書いたもので、「生まれない子の苦を0とするなら、快も0とすべきであり、そうであれば、そのベネターのいう非対称は崩れる」ということを論証するつもりのものです。
すなわち、その非対称を語るベネターの論の「子どもを持つ理由として、その子どもがそれによって利益を受けるだろうということをあげるのはおかしい。子どもを持たない理由としてその子どもが苦しむだろうということをあげるのは、同じようにおかしいわけではない」という話において、ベネターは生まれない子の苦を0ととらえながら快を値がないと捉えてている。だから、ここでベネターは、快苦の非対称がすでに論の前提として敷かれている話しかしていない。

まず、1)から言えることですが、
生まれていない子には、苦の可能性がないように、快の可能性もありません。
苦に関しても、快に関しても、速度は0にはならず、速度そのものがないということです。
そして、1)において、この原則を反論に用いている以上、
論理の一貫性を保つためには、速度自体がないということは維持されなければなりません。

そして、この原則を一貫性を崩してまで、変えるというのであれば、
それを変更するための合理的な理由が必要となりますが、
ここには、それが書かれておらず、
そのため、一貫性がくずれており、
そのため、2)が正しければ、1)が誤りであり、
1)が正しければ、2)が誤りである、
という関係になってしまっています。
それが、僕が2)は1)と矛盾しているという意味です。
これは、1)については、こう考え、2)についてはこう考える、ということでは解決できない、
横山さんが行っている反証の根本的な問題です。

次に進みます。
僕にはどういうことなのか、まったくわからないのが、
どう捉えれば、「ベネターは生まれない子の苦を0ととらえながら快に値がないと捉えている」という解釈になるのかということです。
ここについても、更なる説明が必要となります。

また、仮にベネターがそう考えていたとしても、
「恣意的に、苦について0にし、快についても0にしてしまえば」、
ベネターの理論は間違っていることになる、というのは、
まったくでたらめな論証です。
なぜ、苦が0になり、快が0になりうるのか、
恣意的でない、論理的な根拠が必要なのに、
その説明が一切されていないからです。
あるいは、
ベネターが苦に関して0に、快について値なしに恣意的に想定しているので、
横山さんは、恣意的に苦に関しても、快に関しても0に想定してみた、
ということであったとしても、
横山さんは、1)において、苦は0にはならないと規定しておられます。
なので、繰り返しになりますが、
1)の論証を否定することなしには、
苦を0と規定することはできません。
ここでも1)と2)は両立し得ない論証になっているということになります。

>「子どもを持つ理由として、その子どもがそれによって利益を受けるだろうということをあげるのはおかしい。子どもを持たない理由としてその子どもが苦しむだろうということをあげるのは、同じようにおかしいわけではない」

>「子どもを持たない理由として、その子どもがそれによって苦しまないということをあげるのはおかしい。子どもを持つ理由としてその子どもが苦しむだろうということをあげるのは、同じようにおかしいわけではない」
ということも言えてしまうことになる。

どうしてこのような操作が可能なのか、まったくわかりません。
実際のところ、子どもが苦しむのが、生まれてくる前に確実に分かっているなら、
それを理由に子どもを持たないと考えることは合理的だと思います。

もちろん、現実的に確実にそんなことが分かるのか、という点が問題になる可能性がはありますが、
それはまた別の議論です。

もうひとつの後段については、
今の段階では確かに議論があるでしょう。
まだ、非対称性についてきちんと議論しつくされていないからです。

しかし、命題の内容について何も検討せず、
2)において、恣意的に値を0にする議論から、
命題の内容がひっくり返るという議論は、あまりにも根拠がないものになっています。


あまおとさん、議論の再開をうれしく思います。しかし、再開に当たって確認したいと思うことがありますので、記します。

このコメント欄でいろんな哲学議論ができることに大きな喜びを感じています。これまでにも多くの方にお越しいただいて議論できそのことに感謝しまた楽しんでいます。しかし、哲学の議論においてはどうしても両者が理解できない岩盤にぶつかってしまって、理解し合えないままに終わってしまうことも多いです。分かり合えないままに互いに残念がりながら、しかしきちんと謝礼しあって終われる場合も多いですが、残念ながら議論内容ではないところまでの互いの不出来をあげつらいあって終わることもありました。
哲学の議論について、僕は、その立場の異なる他者と分かるか分からないかギリギリのところでの理解を図る「冒険」のようなものだと思っています。なので、それはとてもストレスフルで、確かに楽しいかもしれないけれど、確かにとてもツラいもので、ついつい相手の不理解にイライラしてしまうことがあると思います。
それでも、その不理解の岩盤を1㎜だけでも掘り下げようとするときのその1㎜が、哲学の議論をする意義だと思われてなりません。

あまおとさんと僕のこの対話において、僕たちには現にすでに理解し合えない岩盤に到達しているように思われます。確かに僕の読解力や表現力には大きく難があるでしょうから、理解が遅すぎでご迷惑をおかけしてしまうでしょうけれども、決してバカにしようとしてるわけでも、なにも考えずに対立しようとしてるわけでもありません。そのような難しい状況において、自分に理解できることを探して広げようとし、自分の考えをていねいに伝えようとし努力しているつもりです。ただし、そこで、相手を理解し受け入れようとすることは、無批判な議論をすることでも相対主義に走ることでもないとも考え、逆にしっかりと自分の意見を持とうとしてるときほど、相手を理解しようとすることができる、とも実感していますので、僕の納得できないところは、正直に納得できないとし、僕から見てあまおとさんの誤解があると思われるところはそのように指摘させてもらっています。
それも、真摯にていねいに不理解の岩盤を1㎜掘り下げようとしているためであります。

これまでのさまざまな方とのこのコメント欄での議論を振り返るとき、その議論のなかで話の通じなさにイライラして、そのイライラから人格否定のようなところに繋がる書き込みになってしまい、それが討論ではなく違うものに堕ちてしまったようなときのことを思い出します。自分自身とても戒めないといけないと感じています。

この先この議論を続けるときに、互いにどうしてもイライラしてしまう議論になるかもしれないことを覚悟しておく必要があると思います。そうすることで、僕はこの議論が哲学的他者と真摯に向き合う冒険となるものになることを願っています。
この点、もし同じ思いをもってもらえるとありがたいと思います。

その通りだと、反省しています。

今回、反論を書きましたが
丁寧に読んでいくことによって、
横山さんがどこにひっかかっているのか、
少し実感することができました。

改めて、議論できれば、うれしいですが、
もうやめようということなら、それでも仕方がないことと思います。

確かに、
この問題は、時間がかかることは承知しておかなければならないでしょう。
存在と不存在。
あまりにも、大きな問題ですから。

議論の困難と向き合うことが確認されたことありがたいです。僕は完全に反ベネター派ですし、あまおとさんは相対的にベネターに近いと思いますので、僕のこれまでのANさんとの議論の経験から言うと、ここから先の相互理解にはかなりにの困難が待ち構えているはずです。議論がすぐに決着することはむずかしいと思われますので、場合によっては、相手に伝わるような説明の仕方が自分のなかで醸成してくるまで議論を休止した方が良いとなるかもしれません。その場合はすぐに気軽に議論を切ってくださって構いません。僕もそうさせてもらうかもしれません。よろしくお願いします。

では、あまおとさんの疑念に答えたいですが疑念の中身がやや多いので、順番に1つずつ回答させてもらい、それに関して僕からの問いを返すという風にさせてもらいます。そのなかでおそらく他の疑念への回答にも順次触れることになると思いますし、触れられないようならまた新たに回答するようにします。


まず、次の問題について)
>横山さんは、1)において、苦は0にはならないと規定しておられます。なので、繰り返しになりますが、1)の論証を否定することなしには、苦を0と規定することはできません。ここでも1)と2)は両立し得ない論証になっているということになります。


すでに回答した内容の繰り返しになってしまうのですが、
僕は、1)の主張で「何の前提も敷かないなら生まれない子の苦は比較不能なものであり、苦しみの度合いは0でさえないとされるべきである」ということを訴えていたつもりでした。なのでそれは、「苦しみ度合いを0とする前提を敷くなら、苦は0値として比較可能なものとして捉えるような言葉づかいをすることができる」とする話と必ずしも矛盾しません。しかしそれはまったく違う言葉づかいをしているまったく異なる前提の上での議論なので、1)と2)に整合性が無いという言い方もできるのかも知れませんが、僕としては、まったく整合するものだと考えています。

僕は1)最重要な論点だと考えているのですが、その僕がなぜ2)でそのような1)と異なる前提の話をしてるのかというと、それはベネターが生まれない子の苦が無だとしながらそれを比較可能なものとして捉えていると見えるからです。そのベネターの論の問題を考えるために2)の前提を「仮に」受け入れた訳です。

そして、僕のその、生まれない子の苦を快苦そのものを無いとしながらも、それを比較可能なものとしてるのではないかという疑念は、実は、あまおとさんさんにも向いています。
どういうことがというと、

先ずあまおとさんは次のように生まれない子には快苦が0ではなく快苦の可能性が無いものだとされています。
>「1)から言えることですが、生まれていない子には、苦の可能性がないように、快の可能性もありません。苦に関しても、快に関しても、速度は0にはならず、速度そのものがないということです。そして、1)において、この原則を反論に用いている以上、論理の一貫性を保つためには、速度自体がないということは維持されなければなりません」

しかしまたあまおとさんは次のようにも言われています。

>「存在している車は速度を剥奪され、0kmで走らなければならなくなるが、存在していない車は、もともと存在していないがゆえに、速度というものを持たず、剥奪されることはない。そして、存在していなければ、もともと走るということからまったく自由である。これを人間の存在に置き換えて、そのどちらが相対的に良いか、という問いを立てているのだと思います。さらに、生まれてくることが害である人生を生きている者が存在してしまった場合でも、その人が存在し続けることが害であるとは限らない、とも言います。生きる価値がある、いうことを考える場合に、生まれてくる価値と、生き続ける価値を分けて考えるようです。生まれてくることに関して、存在と不存在を問いとして立てて、どちらが相対的に良いのか、悪いのかを問おうとしているのが、ベネターの反出生主義ということなのだと思います。」

またこの後に続く文脈からも、あまおとさんは「不在」が自由とされて比較可能なものとされながら、その「苦からの自由」が「苦の存在」と「相対的に」比較され得て、その結果、「苦からの自由」の方がより良いと結論されているように見えます。

しかし、そこで「より良い」と結論付けてしまえるということは、その「自由」は比較可能なものとして捉えられているのではないか、というのが僕の疑念です。
その疑念によって、上で僕は「問2の差替え)」として「「一般的な生まれた子」の苦の度合いが仮に1点だったとする場合、『苦に関しては、生まれるよりも生まれない方が数値的にその1点分だけより良くなる』と言えるとされますか」という問いをあげました。

あまおとさんは、生まれない子が生まれないことによって苦から自由になることは、生まれた子が得る苦の度合いの分だけ「良く」なると考えられているのではないですか。

僕は、ベネターが、生まれない子が生まれないことによって苦から自由になることは、生まれた子が得る苦の度合いの分だけ「良く」なると考えられているのだと理解しています。そのように理解すると、ベネターのその比較において、苦からの自由がそこで「比較」されているときに「《生まれたときの子の苦の度合いの分》-《生まれない子の苦からの自由》=《生まれる子の苦の度合いの分だけの良さ》」という引き算が想定されていると考えられるように思われてなりません。そう考えて僕はその引き算から逆算してベネターが《生まれない子の苦からの自由》の値を結局0として捉えているとするのが妥当だと考えました。

それゆえ、「ベネターが生まれない子の苦からの自由を苦の度合い0なものとするなら」という議論において2)の話をした訳です。そうするとき「生まれない子の苦からの自由を苦の度合い0とするなら、生まれない子の快からの自由も快の度合い0とされねばならないし、生まれない子の苦からの自由が苦の度合い0でさえ無いとするなら、生まれない子の快からの自由も快の度合い0でさえ無いとされねばならない」と考えた訳です。

どうでしょうか。あまおとさんは、〈一般的な生まれる子」の苦の度合いが仮に1点だとする場合、『苦に関しては、生まれるよりも生まれない方が数値的にその1点分だけより良くなる』〉、と捉えていらっしゃるのではないでしょうか

お互いになのですが、
相手を本当に理解できずに、話をしているのだと、
改めて、感じました。

そのなかでも、1)が最重要というところは、僕も同感です。

本当は、ベネターのテキストを見ながら、
それを確認しながら、話ができればとも思いました。
そのくらい、ベネターについての理解が異なっているとも思いました。

では、論証していきます。

>ベネターは生まれない子の苦を0ととらえながら快を値がないと捉えてている。

>僕は、ベネターが、生まれない子が生まれないことによって苦から自由になることは、生まれた子が得る苦の度合いの分だけ「良く」なると考えられているのだと理解しています。

>1)無い車は速度0でなく、速度そのものが無いように、無い物差しは長さ0cmなのではなく、長さそのものが無いように、不在は苦しくないのではなく、苦しくないことそのものがない。だから、不在がマシとは言えない。

横山さんのベネター理解を前提として、
1)が何を論証しようとしているのかなのですが、
その内容に踏み込んでみると、
ベネターの論点のどこに矛盾なり、誤りがあるかのか、
それは、
ベネターは、苦を度合いとして、考えている。
だが、苦は度合では語り得ない。
それゆえに、ベネターの理論は間違っている、
ということになるということでしょうか。
この理解は合っていますか?

しかし、ベネターは本当に苦を度合いとして捉えているのでしょうか。

ここから、僕の理解について書きますと、
僕は、苦の度合いを想定していません。
そして、非対称性の議論の中では、ベネターも同様だと僕自身は理解しています。
なので、苦の内容については、質的にも、量的にも何も言っていません。

そして、ここで横山さんのベネター理解、あまおと理解の前提として何があるのかを、
横山さんが書かれているものから読み取って、言語化すると、

苦についてそれが比較可能であるためには、
その比較は、苦の質的な、あるいは量的な度合いの違いが前提となるはずだ。
ということになると思います。

そのため、横山さんの細かい議論は、
この「程度」、「度合い」を巡って行われています。

しかし、苦の存在と不在について比較する場合、
苦の内容がどのようなものかについては、考慮されません。
つまり、苦が深刻であるとか、軽いものであるとかいうことは、一切検討されないということです。
苦とはネガティブなものです。
それゆえに、その存在は悪く、不在は良い。
比較は、ただそれだけのことです。

なので、細かい議論を行われていますが、
そのすべてが、僕には当てはまっていません。
当然のことですが、最後の僕に対する問い、
>あまおとさんは、<一般的な生まれる子」の苦の度合いが仮に1点だとする場合(以下略します)
というようなことは、苦の度合い自体を僕が想定していない以上、全くあてはまりません。

「自由」については、横山さんに何かこだわりがあるのかもしれませんね。
僕が「自由」という言葉を使ったのは、
苦がネガティブなものであり、存在しないことはそのネガティブな苦を被ることがないため、
ネガティブなものからの自由だ、
ということを言いたかったということです。
ここでも、程度、度合いの話は、何も出てきません。


おそらく、僕と横山さんの意見の違いは、
ベネター理解の違いから来ているのだと思います。
やはり、その部分で、議論が噛み合っていないのだと思います。

あまおとさん、

ベネター理解の違いもあるでしようけれども、そのもっと根底に言語観の違いがあるような気がします。

僕は、
○ある命題が有意味に語られるにはそれが肯定され得るか否定され得るかの二者択一の判断が原理的に必要であると考えていて、
○さらに何かが何かよりも「良い」と言明するためには何かの比較判断がなければそれが根拠のある言明にはなり得ないと考えています。
○そして、ある二者が比較判断可能であるためには何らかの意味で大小の区別を持ち得て、それによって相対的な「差」を持ち得るものでなければならないと考えています。

ベネターはもしかするとこれに同意しないかもしれないという気がするのですが、
あまおとさんはどうなのでしょう。もしかして同意できないところがあるのではないですか。

>ベネターは、苦を度合いとして、考えている。だが、苦は度合では語り得ない。それゆえに、ベネターの理論は間違っている、ということになるということでしょうか。この理解は合っていますか?

およそ合ってるとも言えますが細かく言うと違います。続く

ベネターは苦が度合いではないとしているが、それを比較の対象としている以上はそこに何らかの度合いを持たせていると捉えられなければならない。それゆえ、つまり、生まれなく苦の無い方が生まれて苦のある方より良いとしている以上は、生まれなく快の無い方より生まれて快のある方が良いとも言えるしなければならないはず。なのにそこは非対称なのだとするのは無理がある

です


>○ある命題が有意味に語られるにはそれが肯定され得るか否定され得るかの二者択一の判断が原理的に必要であると考えていて、

同意します。
ある命題として、この場合は、
「苦とは、ネガティブなものであるか(そうでないか)」、
ということが二者択一の問いとして、立てられており、
「イエス(ネガティブである)」か、「ノー(ネガティブでない)」かで、答えられます。

>○さらに何かが何かよりも「良い」と言明するためには何かの比較判断がなければそれが根拠のある言明にはなり得ないと考えています。

同意します。
この場合、「苦」は、本質的にネガティブな価値を持っています。
この「苦」が本質的に持っている意味が、この場合の比較判断の根拠となります。
そのため、「(ネガティブなものの)存在は悪い」、「(ネガティブなものの)不在は良い」という結論が得られます。

>○そして、ある二者が比較判断可能であるためには何らかの意味で大小の区別を持ち得て、それによって相対的な「差」を持ち得るものでなければならないと考えています。

同意しません。

大小で区別し、ポジティブなものは、多いほどよい、少ないほど悪いと言えることは理解します。
また、逆にネガティブなものは、より多いほど悪く、より少ないほど良い、と言えることも理解します。

しかし、
大きいか、小さいかの比較ができ、
多いか、少ないかで比較ができるように、
(ここまでが、横山さんの理解から導かれる結論です。)

あるか、ないか、でも比較できます。
ポジティブなものは、あったほうが良い。
ネガティブなものは、ないほうが良い。


いかがお考えですか?

なるほど、やはりそこのところで同意されない。それが僕にはさっぱり分かりません。

>あるか、ないか、でも比較できます。ポジティブなものは、あったほうが良い。ネガティブなものは、ないほうが良い。

しかし、それは「ポジティブなものの存在と非存在とのいう二者の比較において、存在の方が良さがより多く、非存在の方がより少ない」や「ネガティブなものの存在と非存在とのいう二者の比較において、存在の方が良さがより少なく非存在の方がより多い」という風に言いかえることもできるかと思います。ある意味で言葉遊びだと思われるかもしれませんが、この問題の言語的分析においてこの言いかえが可能かどうかが真面目にとても重要なポイントだと思われます。と言うのは僕には逆にベネターやあまおとさんの言葉遣いに何らかのつまずきがあるように思われるからです。
どうでしょうか。
それは「ポジティブなものの存在と非存在とのいう二者の比較において、存在の方が良さがより多く、非存在の方がより少ない」と言い替え可能でしょうか?

>「ネガティブなものの存在と非存在とのいう二者の比較において、存在の方が良さがより少なく非存在の方がより多い」

>それは「ポジティブなものの存在と非存在とのいう二者の比較において、存在の方が良さがより多く、非存在の方がより少ない」と言い替え可能でしょうか?

できません。
残念ながら。

あるか、ないかは、
ALL OR NOTHING、1か0か、です。

この場合、
良さについて、
あるか、ないか、について問うているのであり、
あるか、ないか、を比べているのです。

より多くあるとか、より少なくあるとか、ではありません。

そして、非存在においては、
より多くあるとか、より少なくあるとか、言えません。
それは、「ない」のです。

うーむ、なかなかむずかしくて分かりません。すごく理解しがたいです。
では
「ポジティブなものが在るの方が存在しないより良いのは、ポジティブなものが在る方が無いより良い分だけ良い」みたいなことは言えるのですか?
これが言えなければなぜ良いと言えるのか分かりませんし、言えればなぜ「多い少ない」と言えないのか分かりません。

もちろん、言えません。
程度、度合いの問題は、ここでは問題とされていないからです。

より良い、より悪いと言えるのは、
より多い、より少ないの比較からではなく、

本質的にポジティブなものが、存在するからです。
あるいは、本質的にネガティブなものが、存在しないからです。


存在するもの同士を、比較するのであれば、
より多い、より少ないと言えるでしょう。

しかし、存在するものと存在しないものを比べる場合、
存在しないものは、何も存在しません。
そのため、より多い、より少ないの比較はできません。
あるか、ないかの比較ができるだけです。

良いものがあるのは、良いことだし、
悪いものがあるのは、悪いことです

良いものがないことは、悪いことだし、
悪いものがないことは、良いことです。

それだけの話です。


いよいよむずかしい。何を言われているのかさっぱり分からないです。

それでも、在は不在と比較可能なのですよね。そうするとその「不在」は比較されるものとしてあるのですか?それとも比較されるものとしてないのですか?

またその「不在」は無い状態であるのですか?無い状態でさえないのですか

比べるのは、第三者です。
以前に書きましたね。

不存在ですから、存在していません。
存在するものは、存在していますし、
存在しないものは、存在していません。

存在しているものと存在していないものを、
第三者が比較するのです。

存在していることの意味と存在していないことの意味を、
第三者が比較するのです。

その「在る」と比較される「不在」は比較されるものとしては無いのに、「在る」は「不在」と比較されるということですね。

○うーん、じやあ、その「在る」は、いったい何と比較されて「良い」のでしょうか。

○そして、そもそも、その「在る」ってどういう意味なのでしょうか。「無い状態」と比較してその対比としての「在る状態」なら、僕にはその意味が分かるのですが、「無い状態」でさえないものに対する「在る」ってどういう意味なのか、さっぱり分かりません。ここで言われている「在る」とはどういう意味だとお考えですか。

僕も、横山さんが何について分からないと言われているのか、
よく分からないのです。

その中でも、横山さんが分かると言われた部分があるので、
それが何をどう分かっているのか、聞いてみたいです。

>「無い状態」と比較してその対比としての「在る状態」なら、僕にはその意味が分かるのですが、

この文章で、何が分かると横山さんが言われているのか、
僕には分からないので、
意味を教えてください。

それは、

○ある命題が有意味に語られるにはそれが肯定され得るか否定され得るかの二者択一の判断が原理的に必要であると考えていて

の話に繋がるところでして、それはウィトゲンシュタイン「論考」における有意味性があるかないかを考えています。
すなわち、「在るの状態」の可能世界とその否定(「在るでないの状態」の可能世界)のうちのどちらかを肯定否定によって判別することができる、

という意味でわかると言っているものです

了解しました。

時間が長くなりましたので、
返信は、明日以降とします。

横山さんも、また、僕が言ったことも含めて、
考えてみてください。

また、これを読んでくださっている人が、
もしいたとしたら、
その方の意見も聞いてみたいところです。

ここまでの議論で、
ベネターの議論は、苦の度合いについて議論していないということは、
共通理解になったのではないでしょうか。
これは、1)にとって、大きな問題だと思いますが、
どうでしょうか。

そのあたり、議論がまだあるようでしたら、
先に進むためにも、また、ご議論ください。

では、また。

あまおとさん、

なかなか難しいですね、ここまで問いあったことにおいても、僕からの見ると、

「ベネターの議論は、苦の度合いについて議論していないということ」ではなく、
ベネターが「在る」を「在る」の否定でさえない「不在」というナンセンスとの比較において「在る」としているのであれば、そもそもその「在る」さえ、決して有意味な言明にはならない、

という風にみえるものでした。それゆえ僕にはどうしても、もしベネターが真に苦の度合いとはまったく関係の無いところで苦を問おうとしてたのであれば、それは決して有意味な言明にはならないこと、もっと言うとナンセンスでしかないものを扱っていただけなのではないかという懐疑が残ることになりました。

結局なかなか議論が噛み合わないままですけれども、昨日からの話し合いは僕にはとてもおもしろく、気づくところも多かったです。(ベネターの論では「在る」が有意味にならないことにも、今日気づきました。)

しかしそろそろもう掘り下げられる問いも少なくなってきたかもしれませんね。僕にはあまおとさんが言われていることを、なかなか理解できないですが、あまおとさんには僕の疑念のなかでどこか理解してもらえるところはあったでしょうか。

僕の考える分析哲学的な視点から見ると、ベネターの論には有意味な論理展開ができる可能性が見つかり難く、かなり成立し難いものにしか見えませんが、
あまおとさんの考えるベネターよりの視点からすると、僕の指摘はまるで本質を見失った的外れな思索にしか見えないでしょう。
討論は、なので、なかなかむずかしかったですが、それでも僕には新しい視点を得られる有意義なものでした。あまおとさんにも有意義なものだったら良いのですが、あまりお役に立つところはなかったかもしれないですね。

もし、まだこのまま議論するところがありましたら、もちろん続けたいと思いますが、いったん充電し思考を熟成させて、さらに自分の考えを伝え得るような言葉を蓄えてから、またの機会に話し合った方が良いのかもしれないとも感じています。

ベネターもまた分析哲学的な視点から、
この非対称性の議論を展開している、哲学者です。

もう少しだけ、議論ができればと思いますが、
結果、有意味なのか、ナンセンスなのかの水掛け論になるようでしたら、
その場合は、議論はいったん打ち切りましょう。
それが今僕たちができる議論の終着点ということになると思われるからです。

まず、昨日確認したのは、
比較には、必ずしも程度、度合いの差は必要なく、
あるか、ないかによっても比較できるのではないか、
ということが発端でした。

そうすると、

>それでも、在は不在と比較可能なのですよね。そうするとその「不在」は比較されるものとしてあるのですか?それとも比較されるものとしてないのですか?

と横山さんが問うような状態に至り、この比較が有意味なのか、ナンセンスなのか、という問題が出現してしまうのではないか、というのが、横山さんの理解であり、指摘であるようです。

そして、この指摘には、妥当性があると僕も思いますし、
実際のところ、ここは非常に重要なところだと僕も思います。
この部分が、もし議論を続けた場合ですが、
快というポジティブなものの存在について、
あることと、ないことを比較した場合の非対称性を導き出す重要な要素になるからです。
しかし、それはまだ先のことです。

では、ここまで確認しておいて、
僕の論証を進めたいと思います。

>存在していることの意味と存在していないことの意味を、第三者が比較するのです。
の続きとなります。

苦とはネガティブなものである。
この言説は、有意味なものです。
そして、「ネガティブなものの存在」についても語ることができます。

このあと、存在することと、存在しないことの比較となるのですが、
ここで対置されるのは、「存在」と非「存在」です。
この場合、「存在」の中身は同一のものです。
同一の内容を持つ「存在」について、
その「存在」があるとしたときの意味と、
その「存在」がないとしたときの意味とを、比較するのです。

ですから、この場合の比較は、
「存在しているもの」と「そもそも存在してさえいないもの」とを比較するわけではありません。

それゆえに、その比較は有意味となりますし、そもそも可能ということになります。

具体的に言うと、
苦とはネガティブなものです。
この苦が本質的に持っているネガティブという特性を比較原理として比較すると、
「苦というネガティブなものの存在」があるとしたら、それは「悪い」ことである。
逆に、「苦というネガティブなものの存在」がないとしたら、それは「良い」ことである。
ということになります。

ここには、「そもそも存在さえしていないもの」は含まれてきません。
ですから、この比較から結論されることは、有意味となります。

ゆえに、
あるか、ないか、の比較は可能であり、
程度、度合いの差がなくても、比較は可能である、ということとなります。

以上が僕の論証となります。

この議論のどこかに、ナンセンスとされる要素があるでしょうか。

あまおとさん、返信ありがとうございます。議論をもう少し続けられることもうれしく思います。


ナンセンスの問題は解消していないように思われます。
今僕が問題にしている「有意味性」とは、前述したようにある命題について肯定的な可能世界と否定的なそれとを判別することができるかどうかを指してます。あまおとさんが言われてる「有意味」も同じ意味でしょうか?


そうだとすると、
>この場合、「存在」の中身は同一のものです。同一の内容を持つ「存在」について、その「存在」があるとしたときの意味と、その「存在」がないとしたときの意味とを、比較するのです。

という言い方にはまた問題を孕んでるように見えます。と言うのはその有意味を保証するためには

「その「存在」が『ある』としたときの意味と、その「存在」が『ない』としたときの意味とを、比較する」

の『ある』『ない』が『ある状態であるところの可能世界』『ない状態であるところの可能世界』との比較でなければならなくなるからです。そうだとすると、その「存在」なるものの「ネガティブさ」はその存在がある『状態』と無い『状態』との比較においての比較ということになりそこでは量的な比較も可能になるように思われます。また、そうでないなら、これは有意味だとは言えないナンセンスな文となりそうです。そうして結局、この言い替えは問題の無限後退させるだけで、問題を解決して見せるものにはなりそうにないように思われます

なので僕の疑問は

「在は不在と比較可能なのですよね。そうするとその「不在」は比較されるものとしてあるのですか?それとも比較されるものとしてないのですか?」

にそのまま戻ることになります

そして、これが僕がずっと主張している1)の批判の本質です。あまおとさんは以前1)の批判については了解するとされてましたが、僕の印象ではまだまだ1)の問題はそっくりそのまま残ったままであるように感じられています

返信が遅くなりました。

では、昨日6時55分に投稿されたものについて、
論証を行おうと思います。

>今僕が問題にしている「有意味性」とは、前述したようにある命題について肯定的な可能世界と否定的なそれとを判別することができるかどうかを指してます。あまおとさんが言われてる「有意味」も同じ意味でしょうか?

僕は有意味性の定義がどのようになるのか、把握していませんので、
この横山さんの理解については、そのまま受け入れます。

ここからの僕の論証において、
横山さんの論証の問題点を3点に渡って、挙げていきたいと思います。
その点が、もし成功しているとすれば、
同時に、「7時10分」「7時19分」に投稿されている内容も、
当然のことですが、否定されることになります。

では、始めます。

>この場合、「存在」の中身は同一のものです。同一の内容を持つ「存在」について、その「存在」があるとしたときの意味と、その「存在」がないとしたときの意味とを、比較するのです。
という言い方にはまた問題を孕んでるように見えます。

まず、横山さんが僕が論証している中から、この部分を引用されていることが問題となります。
なぜなら、この部分は、
存在するものと存在しないものとの比較がどのように行われるのかについて、
その方法を一般的な形式として、言い表しているものにすぎないからです。

つまり、ここで言われている「存在」は、未だどのようにも規定されていません。
何がどのように「存在」するのか、まったく無規定な「存在」なのです。
ですから、この文章を如何に分析しようとも、「有意味性」は出てきません。
肯定しているものが何であり、否定しているものが何であるのかについて、
何も規定されていないわけですから、
両者を判別することはそもそも不可能であり、
有意味性が出てこないのは、当然のことです。

この文章を分析しても「有意味性」が出てこないことを、全く理解せず、
この箇所を引用し、取り上げていること自体が問題となります。

何が言いたいかというと、横山さんは、有意味性について知識としては知っていても、
どのような文章が命題であり、何を取り上げれば、「有意味性」の議論ができるのか、
理解されていない。
有意味性という言葉を知っているので、使ってはいるが、
その意味をきちんと理解して使っているのではない、
ということを、自ら暴露しているということです。

なので、横山さんの論証全体が「有意味性」の議論を構成しておらず、
全く的外れな議論になっているということです。

僕の論証を続けます。

取り上げられた箇所自体が問題であるので、そこから先の論証自体が全て的外れなのですが、
その中で行われている論証方法にも問題がありますので、次にそのことを取り上げます。

>「その「存在」が『ある』としたときの意味と、その「存在」が『ない』としたときの意味とを、比較する」
の『ある』『ない』が『ある状態であるところの可能世界』『ない状態であるところの可能世界』との比較でなければならなくなるからです

取り上げられた文章が、このように展開されることには、特に異議は差し挟みません。
問題となるのは、次の点です。

>そうだとすると、その「存在」なるものの「ネガティブさ」はその存在がある『状態』と無い『状態』との比較においての比較ということになりそこでは量的な比較も可能になるように思われます。

ここで「量的なものの比較も可能」と書かれていますが、
このような論点は、どこからも導入され得ません。

なぜなら、「その存在がある『状態』と無い『状態』との比較」は、
もともとは「存在」がある場合と「存在」がない場合との比較から展開されてきたものですが、
最初の文章の「存在」が無規定なものである以上、
この『状態』についてもまた何も規定されていないからです。

ここで、少しこれまでの議論をふり返ってみたいのですが、
横山さんは、以前にも、
僕が苦についてどの度合いを想定さえしていないのに、
僕についての解釈の段階で苦の度合いを読み込んで解釈し、
それゆえ、細かい議論を進めていかれましたが、
そのすべてが僕には当てはまらないという結果になったことがありました。

そして、今回もまた同じことが行われており、
本来全く無規定な「状態」について、
「状態であるなら、量的にも存在すると言えるはずだ」という先入観から、
「量的なものの比較も可能」とされてしまい、
本来厳密に行わなければならない議論の前提を崩し、
議論の内容を変質させてしまっているのです。

これは、想定されていないもの、無規定なものに対して、
「度合い」や「量的なもの」を読み込んでしまう、
横山さんのくせというのか、傾向について、
横山さんご自身がまったく無自覚であることから帰結しているものと言えると思います。

つまり、横山さんはご自身の傾向への無自覚さから、
議論自体の内容を、これも全く無自覚に、無批判的に変質させてしまっているのです。

そのため、「量的な比較も可能となる」との指摘は全く当たりません。

もしかすると、ここでは「ネガティブなものの存在」について議論に言及しているのであり、
その「存在」はネガティブなものとして規定されている、と言われるかもしれませんが、
この場合の「ネガティブさ」についても、
僕はよりネガティブだ、よりネガティブでない、という度合いについては、一切言及していません。
つまり量的な意味は一切想定されていないのです。
そのため、量的な比較が可能ということは決して言えません。


最後に次の点を取り上げます。
>そうして結局、この言い替えは問題の無限後退させるだけで、

この点もまったく意味不明です。
なぜ無限後退することになるのか、無限後退するとは何を意味するのか、
まったく論証されてしないからです。

以上の点から、横山さんの昨日6時55分の論証は、
まったく論証としては、成立していません。

以上が僕の論証となります。

なかなかむずかしいです。ベネターの有意味論が僕にはちんぷんかんぷんなのですが、あまおとさんの論説も僕には理解し難いです。それも含めてなかなか問題共有がむずかしいです。


僕の考えでは、
①「存在」が無規定であるとしても、それが本当に何も規定されていないものであればそこから「存在すれば苦」とか「存在すれば良くない」とかの推論が導出され得るわけがなく、それらが導出されている以上は少なくとも「存在すれば苦」や「存在すれば良くない」を導出可能とするような何らかの規定があるはずだ。そうであればその「存在」は少なくとも「不在」と比べて「不在」よりも某かの「良くなさ」の優位がなければならないと思われる。

ここまでは多分了解してもらえる気がしますが、どうでしょうか。
多分この後が意見が違うように思います。

そして、ここで僕が問題にすべきだと思うのは、
②《「存在」が「不在」より「良くない」とは限らない》という言い分に対して、ベネターが《「存在」は「良くない」》を主張するのなら、それが《「存在」は「良い」》よりも優位である根拠を示す必要があるだろう

ということです。
ところが、僕には、

③「存在」が「不在」と比較可能なものであるとするならば、
そしてまた、
《「存在」は良くない》が《「存在」が良い》より優位だと示すならば、
その「良くない」が「良い」より大小関係において「大」なものであることを示す以外に、その方法はないように思われます。

まあ、僕にはそのようにしか考えられないのですが、ここはあまおとさんは違うのだろうなと勘ぐっています。どうでしょうか。

あまり回答っぽくなかったかもしれませんが、これがあまおとさんの、

>本来全く無規定な「状態」について、「状態であるなら、量的にも存在すると言えるはずだ」という先入観から、「量的なものの比較も可能」とされてしまい、本来厳密に行わなければならない議論の前提を崩し、議論の内容を変質させてしまっているのです。
 
という疑念にたいする一応の僕の回答です。
まとめると「大小関係」を付けないなら「より良い」という判断ができないはずだから「より良い」と言うためには「大小」を判断するだけの根拠となるような「より良さの量」或いは「より良くなさの量」というものが無くてはならないのではないか、というものです。
そして、そのような大小関係を付けないで「より良い」「より良くない」の判断ができるというのあればそのやり方を教えてほしい。というものです。
回答になっていたら良いのですが。

しかし、僕にはあまおとさんの疑念がどうにもつかめず何を言われているのかがまるでちんぷんかんぷんな感じになってしまっています。またこれまでの話し合いを振り返ると、僕の説明もあまおとさんの方には何ら届いていないように思われます。

なのでこの辺りでやはり、いったん充電し思考を熟成させて、さらに自分の考えを伝え得るような言葉を蓄えてから、またの機会に話し合った方が良いのかもしれないとも感じています。


僕と、横山さんの理解の違いが何であるのか、
そのことをお互いに確認できればと思い、
どうにか、共通認識に至れないかと考えています。

僕の論証の書き方も、厳密さを目指すあまり分かりづらくなっていると思いますので、
今回は、僕の意図が伝わりそうな部分を選んで、回答します。

なので、
かなり意図的に選択した部分だけを取り出しています。
もし、誘導していると感じられたら、
答えることを拒否してください。
おかしいと感じたことがあるなら、その点は指摘してくださってかまいません。

では、始めます。

>僕の考えでは、
①「存在」が無規定であるとしても、それが本当に何も規定されていないものであればそこから「存在すれば苦」とか「存在すれば良くない」とかの推論が導出され得るわけがなく、

その通りだと思います。
無規定な「存在」に関して、
「存在」がある方が「良い」、
「存在」がない方が「良い」、
このどちらも言えるはずがありません。
「存在」の内容が規定されていなければ、そんなことは言えるはずがありません。


>それらが導出されている以上は少なくとも「存在すれば苦」や「存在すれば良くない」を導出可能とするような何らかの規定があるはずだ。

その通りだと思います。


ここで、僕からも横山さんの議論に指摘したい部分があります。
お互いの理解の何が異なっているのかを僕なりに考えていて、気づきたことです。

例えばなのですが、
横山さんの1)において、取り上げられている言葉についてなのですが、
「速さ」「速い」という語は、価値的に中立である、ということは同意されるでしょうか。

どういうことかと言うと、
具体的に説明すると、
「100km/hで走っている車(A)と、50km/hで走っている車(B)では、どちらが良いか?」
という問いに対して、どう答えることができるでしょうか。
この問いに対しては、どちらが良いかを答えることはできません。
(というのが、僕の理解です。)
というのも、速さに関しては、価値は相対的だからです。
レースでもしているのであれば、より速いほう(A)が良いと言えるでしょうが、
制限時速が50km/hの道路を走っているなら、(B)がよく、(A)が悪いことになります。
このように、「良い」「悪い」は文脈が異なれば、違ってくるので、
「速さ」自体は価値的に中立な概念だということになります。

では、例えば、
「健康」とか、「環境破壊」という言葉では、どうでしょうか。
僕が考えるに、これらふたつの言葉はどちらも、
価値的に中立な言葉ではありません。
なので、
「健康」について言えば、
「あれば良く」、「なければ悪い」。
「環境破壊」は、
「あれば悪く」、「なければ良い」。
そのように、その言葉自体が価値を含んでいる言葉です。

とりあえずは、以上です。

これが、横山さんの②③に対する僕の回答になっているはずなのですが、
どのように理解されるかは、横山さん次第です。

残念ながら、僕の疑念もまったく伝わっていないと思われます。残念ながら、僕の回答もズレているのでしょうけれど、あまおとさんの回答も残念ながら僕の疑念を晴らすところとはずいぶん違う話になってしまっているように思われます。
僕は、違うんですそうではないんです僕の疑念はこうなんですと、同じ話を延々繰り返すことになってしまい、螺旋的に昇ることなくどこまでも同じところをぐるぐるしてるだけのように思われてなりませんホントにむずかしいです。

僕のいう「速度」や「長さ」は直接「よさ」や「よくなさ」の比喩のつもりでした。まったく直接に「よさ」そのものの喩になり得ると考えています

そのもの自体の「良さ」なんてものは無いというのが僕の感覚的印象ですが、(ライオンの善とシマウマの善が違うように「善が人それぞれでしかない」という意味でもありますが、僕の思いはもっと深くて、「良さ」なんてものは基本的絶対的に言語ゲームを為さない限りは何者でもあり得ないとしか思われないので、でも、その話にはここでは深入りしません)しかし、

仮にそんな「そのもの自体のよさ」等というものがあったとしても、ベネターは「良くなさ」が「良さ」より優位であることを示す必要があり、そこに「良さの大小関係」でもって比較する必要がある、ってところは変わらないと思います

>僕のいう「速度」や「長さ」は直接「よさ」や「よくなさ」の比喩のつもりでした。まったく直接に「よさ」そのものの喩になり得ると考えています

純粋に1)を読んでみてください。
「速さ」や「長さ」について確かに言及してありますが、
その「良さ」「悪さ」についての言及は、ありません。
実際、1)においては、「良い」「悪い」の言及は一切ありません。

それに、
「速い」ものが、即「良い」ものとは、言えません。
「遅い」ものが、即「悪い」ものとも、言えません。

逆もまた然りです。

また、
「長い」ものが、即「良いものとは、言えず、
「短い」ものが、即「悪い」ものとも、言えません。

逆もまた然りです。

「速い」「遅い」、「長い」「短い」などの言葉は、
それ自体に良い、悪いの価値を含んでいない、
価値中立な言葉だからです。


たとえになると考えることは、自由ですが、
上に書いた事実は、事実です。


>仮にそんな「そのもの自体のよさ」等というものがあったとしても、ベネターは「良くなさ」が「良さ」より優位であることを示す必要があり、そこに「良さの大小関係」でもって比較する必要がある、ってところは変わらないと思います

言いたいのは、
他者によって提示された論証に対して、反証しようとする場合、

まず、他者の論証をきちんと理解しなくてはいけません。

正しく理解したものに対して、反証するのでなければ、
反証そのものが意味を持たないことになります。

ですから、
いったん反証してみたのであれば、
その反証が正しいのかどうかの検証が必要となります。
横山さんがここでいくら書いても、
それに対して、ベネターは反証などしてくれませんよ。
ベネターに対して反証するほど、
ベネターときちんと対話したいと思っているならば、
(横山さんにとって出生主義が実存的にそれほど大切だと言われるならですが)
ベネターのテキストにあたって、
自分自身の反証が正しいのかどうか、検証してみる必要があると思います。
つまり、自分自身のベネター理解が正しいのか誤っているのかについての検証です。
それを不断に行うことが、
自分自身の言葉に責任を持つということではないでしょうか。
また、自分の哲学を深めることになるのではないでしょうか。

これは、僕自身に対しても言わなければなりませんが、
議論に勝つことが目的ではありませんからね。


もうひとつ。
>そこに「良さの大小関係」でもって比較する必要がある、ってところは変わらないと思います

これは本当にそうなりますか?
何回か指摘してきましたが、
このようにしか理解できないのが、
横山さんの思考の、「量的なものを読み込んでしまう」傾向から帰結してくる、
横山さんの思考の現在のところの限界なのではないですか。

その点は、ぜひ今後検証してみてください。


>僕の思いはもっと深くて、「良さ」なんてものは基本的絶対的に言語ゲームを為さない限りは何者でもあり得ないとしか思われないので、でも、その話にはここでは深入りしません)しかし、

横山さんは、ヴィトゲンシュタインに思い入れが深いようですね。
しかし、
「有意味性」にしても、「言語ゲーム」にしてもなのですが、
本当にきちんと理解されたうえで話をされているのでしょうか。

その内容を他人にも分かるように、ちゃんと説明できますか?

というのも、6月1日6:15の僕の論証にも書きましたが、
横山さんがそれをきちんと使いこなせているとは思えないからです。
こういう議論の際に、相手にはったりをかけるのには、使えるかもしれませんが、
実際、ヴィトゲンシュタインだの、有意味性だの言われれば、
確かに、相手は怯んでしまうと思いますよ。
しかしながら、今のところ、それ以上にはなっていないようにも思われます。

というところから、
ヴィトゲンシュタインを中心にするのであれば、
それについての学びも深められることをお勧めしたいと思います。


ということで、老婆心から余計なことを言ったかもしれないと思いますが、
実際、議論は今後も噛み合わないままでしょうね。
横山さんからもご提案がありましたが、
このあたりでいったん議論を終わらせるのも、いいかもしれないと思います。

1)、2)については、
僕がこれまで書いてきたことで、反証できていると僕は思っているのですが、
横山さんを納得させられなかった以上、
1)、2)を維持するかどうかの判断は、
横山さんにお任せします。

ただ、反証に必要な論点は、
僕自身が書いたことの中にすべて含まれているはずです。
もし、そのつもりがあれば、
再検証してみてください。

コメントは、もうしないかもしれませんが、
また、こちらのサイトには寄らせていただきます。
短い間でしたが、ありがとうございました。

ウィトゲンシュタイン言語論に照らすとベネターの論は有意味な言明にならず破綻するというのが僕の考えですから、それははったりでもなんでもなく、ストレートにそのままのことを伝えようとしたつもりです。それがはったりとしか伝わっていないところがこの議論の噛み合わなさの一因だったように思います。
それがはったりでもなんでもなく、まったく率直で本質的な批判であることがきちんと伝われば、ベネターが「存在」の「良くなさ」を訴えている言明が少なくともウィトゲンシュタイン言語論的にはナンセンスでしかなく、そのを有意味とするには決定的に根拠が欠けていることを分かってもらえたと思うのですが、結局、僕の指摘が不当なものとしてしか捉えられないままで議論が進まなかったのは残念でした。
ぼくは、ベネターの論が肯定と否定の間でしか語は意味を持てないことを無視して、まるで否定との比較なしで語れるかのような言語体系を持ってしまっていること、言語ゲームの射程から外れた言明が意味を持てないことを無視してナンセンスに意味を持たせてしまっていることの、問題の根深さを指摘したいと思って伝えようとしました。しかし、ベネターが言語の限界を越えて語り得ないことを語ってしまっていることを議論する前の段階で討論は空回りしてしまい、議論がそこまで踏み込めなかったというのが僕の印象です。


確かに、哲学的に意見の異なる他者とその問題を議論するというのは、ホントにストレスフルで疲れる作業ですから、このように話が通じない状況が続けばイライラしてしまって、僕も言葉のはしはしにあまおとさんの不理解を詰るような言い方をしてしまっていたかもしれません。そうであればスミマセン。それでもなかなかに理解しあうことがむずかしいこの大変な状況のなかで不当な攻撃にならずにおおむね落ち着いて問題自体と向き合おうとすることができたことは、私たち二人ともよくやったと言えるようにも思います。
(ただあまおとさんの最後の老婆心な忠告は、もしかすると議論がうまく進まないストレスの捌け口としてこちらに向けられたものかもしれないと思えてしまい、今はまだまっすぐには受け入れられないでいます)
もしかすると今回の議論があまり有意義ではなかったとお思いになっているかも知れませんが、僕にはたいへんおもしろく興味深く思えるところがいくつもありました。これに懲りることなく、また機会があればいつでもお越しください。ありがとうございました

今さらながら、

「存在して走っている車は存在しない車より速い」とは言えない

という論点を了解してもらえてると思ってさらっと流してしまったのが良くなかったかも。ぼくはそこのところをもっとしっかりと押さえればよかったのかもしれません

そうすれば、「速さ」自体がそのまま「存在の良くなさ」の比喩だとしてる訳で「速さ」がそれ自体の価値を問う必要がないものだということが、もっと伝わったかもしれない

仮に「無」という概念を表現して、次の3つを考える。

①0.1000…
→0.0100…
→0.0010…
→0.0001…
という流れの果て(ε-δ論法のようなもの)

②0.0000…

③.

議論する以上③を前提にするのは厳しいのかもしれない。
①と②を同じと考えるならば「有」と「無」をおなじ土俵に立たせることができる。
→①と②の比較ができるが①=②の場合が出てきてしまう。
①と②は違うと考えるなら「有」と「無」は同じ土俵に立たせることはできない。
→①と②の比較はできない。(但し、比較ができると言ってしまえばそれまで)

因みに、上記の場合は数字だけで見たら①>②になるけれども、表現を
①0.9000…
→0.9900…
→0.9990…(以下略)
②1.0000…
にすることもできるから所謂「有」>「無」というのは、絶対的なものではないと考える。

私は①と②は違うと思っているし、この議論の場の「不在」には③の表現を尊重する。

Jさん、コメントありがとうございます。
①と②の数的な有無の議論とここでのANの議論について、Jさん何か交差するところがあるとお思いですか。僕にはよくわかりません。

③については、それか何を指すものなのか理解できていません。

①と②が異なるという点には僕はあまり賛同できません。それは拙ブログページ〈「0.999…<1」がダメなわけ〉
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/09991-c8c4.html

に記したものを見てもらえると少し説明になっているかもしれません。よろしければご覧ください

また、アンチナタリズムの僕の考察は最新のページにももう少し詳しいものをあげていますのでよろしければそちらもご覧ください

私の先のコメントをみて「①と②の数的な有無の議論をしている」と思うのならば、
私の主張を理解しているとは思えないですが、それは置いておくとして…

大事なのは自身が納得できる「表現」ができるかということです。
「表現」できなければ当然ながら「定義」することもできないです。

それがここの記事とコメントを読んだ感想で、故に「表現」しようとコメントしただけなのです。
特に「有」と「無」である必要もないので、「生」と「死」でも良いのです。
①は死にゆく生きた人
②は死人
③は生まれてもない人
でしょうか。だから①と②は違うと考えてしまうのでしょう。

ああ、「①と②の数的な『差異の』有無の議論とここでのANの議論について、Jさん何か交差するところがあるとお思いですか」のつもりでタイプミスしてました。それでも僕の読み違いであれば仕方ないです。僕にはわかりません。
後の話はすみませんまったくついて行けてません

ではANに関しての最新記事についてですが、
「無い物差しは何m?」の項の比喩が
実際にはあなたの言う「①と②の数的な『差異の』有無の議論」を必要とすると思います。
説明の図のように押し潰そうとすれば
とても薄いが0ではない物差しになってしまう。
もしくは、密度が無限大のブラックホールができてしまう。
結果的に現実としてあり得ない比喩になってしまう。

現実において「有」から「無」を目指すときは、
・①なのか②なのか
・①が達成可能なのか
・「有」と「無」の比較をしているのか
・「有」と「無に限りなく近い有」の比較をしているのか
・「無に限りなく近い有」は他人が納得できるほど「限りなく近い」のか
私には常にそういったことが潜んでいると思われるのです。

但し、これに対してあくまでも比喩だからと言えばそれまでです。
しかし、それで現実が説明できるとは私には思えないです。

失礼な物言いかも知れないが少なからずAN派の人は
「無」に対する表現が欠けていて(十分でなくて)、
そういう人に対して「null」という言葉を持ち出しても
良く分からなくて上手く使えない道具が増えただけに過ぎないだろう
と考えてしまうのです。
私は言葉を充てるより③を尊重します。

そうですか
表現が不十分だという話はその通りだという気がしますが、それを、言葉を充てないことで補うことができるとは、僕には思えません。よくわかりません

また、①と②の違いは無限に対する向き合い方の違い(か、或いはその量的な捉え方の違いであるかのどちらか)であるとしか、僕には理解できず、今回の生まれない子の苦の話とどうか関わるのかも見当がつきませんうまく読解できません

そして、③については何を指すものなのかいまだにさっぱり掴めていません

いや、僕が理解できないだけで無限の問題は重要な視点になるかもしれないとも思います。しかしJさんはそこよりも③の視点こそが重要だとされていて、僕にはそれが何なのかがさっぱり分からないので、どうにもこうにも僕には返答のしようがない、という感じです

最初のコメントで
>議論する以上③を前提にするのは厳しいのかもしれない。
と書いているので、返答のしようがないというのは私も納得できます。

話を変えますが
ここの議論においては、快を剥奪されるから悪いという話にも関わらず、 
快を剥奪され0になった人間を想定した話が出てこないのは何故なのでしょうか。
意識のない昏睡状態の人はどういう位置づけなんでしょうか。
もしくは、快を視覚に置き換えてみたらどうでしょう。
盲目の人はどういう位置づけなんでしょうか。

ここの議論では「盲目」と「不在」の区別がつけられないと考えています。
また、区別がつけられないから想定した話が出てこないのではないかと考えています。
「盲目」を想定できない時点で①止まりだと思えたので、
最初に①と②を表現してコメントしています。

疲れたので一旦ここで終わります。

快を視覚に置き換えたうえで盲人を考える、ってことは一切の快を感じ得ない人を想定してみるって話ですか?
それを考えるとするなら、そもそも「快」とは何か「良い」とは何かから振り出しに戻して問い直すべき話になりそうな気もします。それはそれでとても興味深い話ですから、そういう思索をされたのでしたらとても興味深いです。教えてください。しかし、いまここで僕が考えていることと関連があるとしても、別の問いであると思います。なので、僕は今はそこを深掘りすることはしませんでした。

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