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2021年4月 4日 (日)

アプリオリな総合とコペルニクス的転回〈ザロモン・マイモンを読む1〉

ザロモン・マイモン「超越論的哲学についての試論」を読む。

 

カントの哲学課題

マイモンは、カントの最重要な哲学問題が「いかにして客体をアプリオリに認識するか」であったとし、カントの答えが超越論的哲学にあったとする。今日は、その問いの意味とそれに対するカントのコペルニクス転回による回答について振り返る。それはまだ、マイモンの考察が混じっていない純粋なカント哲学の非常に簡単な要約だが、焦らないで順に見ていくことにしたい。
Kant_20210404222201イマヌエル・カント1724~1804

 

アプリオリとアポステリオリ

「アプリオリ」とは命題が経験に頼らないことで、「アポステリオリ」とは経験に頼ることである。つまりカントが言う「アプリオリな認識」とは「認識は経験に頼らないものでなければならない」という主張である。カント以前の哲学では、「アプリオリな認識」なるものは単に分析的な認識に他ならずアプリオリな認識が経験世界を語ることなどできるわけがないし総合的な命題などできるわけがないという考え方が主流であった。だからカントが言う「客体のアプリオリな認識」などと言うのは矛盾でしかないと考えられていた。でも、それが無茶であることを承知で、それを乗り越えようとするのがカントの超越論的哲学なのである。

 

論理学的命題が総合的でないわけ

「アプリオリな認識」のどこがそんなに無茶だとされたのか。マイモンによると、カントの求める「アプリオリな認識」は論理的命題でも、数学的命題でも、自然学的命題でも成し得ない。カントが発見(発明?)した超越論的命題のみがそれを成し得ると言う。その、「超越的」ならざる「超越論的」という新しい切り口があってはじめてアプリオリな認識は可能になるものなのだ。それはそれまでの常識的な世界観を根底から転回させる必要があるものだったので、カントはその転回のすごさを自画自賛して「コペルニクス的転回」と呼んだ。まあそのくらいすごい発想が必要だったため、カント以前は無茶な思索だとされていたのだ。

まず、論理学的な命題はそもそも「総合命題」にはならないから、カントの求める問いの答えになり得ない。それは確かにアプリオリな命題であるが、それはその命題によって規定される対象を持たない「分析命題」でしかない。「分析命題」とは、単にその形式のみによって(語られるものの関係だけで)その命題の真偽が決定できる命題である。それに対して、「総合命題」とその質料まで(語られた対象そのものについてまで)を語り得る命題のことである。論理学命題は形式だけによって成っているのだから、その真偽を測るためには何も現実世界と比較する必要もない。経験を必要としない完全にアプリオリな分析命題である。だから、それはそれによって現実の対象の個体を語ることはできない。「アプリオリ」ではあるが「総合命題」ではあり得ないのだ。

 

数学的命題がアプリオリであっても、外的客体を語り得ないわけ

ならば、数学的な命題ではどうか。
たとえば、「直角三角形は三角形である」という数学的命題はその数学的空間世界そのものをこの命題が作り出してしまうので、命題が語る対象が対象そのものになることになり、その命題を真とするための経験は不要である。つまり、数学はその命題が語る対象自体をアプリオリに規定して、その形式も質料もそれ自身から引き出せるのだ。だったら、数学的命題がカントの求める「アプリオリな認識」の一つになるのじゃないか。
ダメなのだ。数学的命題は、その形式も質料もその命題自身から内的に出てくるものでしかないので、数学的世界のものとしての形式と質料を内的に語ることができても、その命題でもって外的な現実世界のことを語ることはできないからだ。それゆえ、数学的命題はアプリオリではあるが総合命題として外的な質料は語り得ないのだ。赤りんごが2個と3個とが合わされば5個になるとは言えても、そこにある「りんご」とは「りんごの赤」とは「2」「3」「5」とは外世界においていかなる内容を指すのか、それは何者なのかという外的質料を語ることはできない。それは数学的空間でしか意味をもてないのだ。「2」が現実世界の「りんご2個」に対応しているように見えるが、そうではない。実はそれを言えるものにするためにはやはり超越論的な判断が必要になってくるのだ。それゆえ、いくら命題がアプリオリであってもそれが現実世界と繋がり得るものでなければ世界を語る道具としては役に立たないのである。

数学的命題はそれでもアプリオリに数学的対象を語ることはできる。だからその意味では、数学的命題はアプリオリに語ることができるとは言える。そして、数学的対象を持ち得ると言う点で、ある種の認識ではあり得る。しかしそれは総合命題と呼べるものではないのだ。

 

自然学的命題もアプリオリに世界を語れないわけ

では、「雪が白い」などという自然学的命題ならばどうか。それなら、現実世界を経験的に(アポステリオリに)確かめて語ろうとするものであるのだから、現実世界の質料まで語れるのではないか。しかしやはりダメなのである。その「雪」や「白」をどうやってアポステリオリに確かめることができるか、というところに困難が生じるのだ。「雪」「白」という言葉が何を指すかという規則を考えよう。すでにあった既定の「雪」「白」についての規則でもって、今眼前にみえるこの現にある「これ」を真に「雪」だとし「白」だと言えるだろうか。それは無理ではないか。だって、「雪」という語がこれまでに「雪」としてきた対象を規定するその規則が今現に眼前にある「これ」に当てはまると保証する根拠は、もうどこにもないからである。だから、「これ」を「雪」と語れるべきものだと判別するためには、それを確かめるための新たな規則、つまり「現に今眼前にある『これ』を雪であるとするか」という規則が新しく必要になるからである。しかしそれは、その判断のための判断を探し続けて、無限遡求の門を開いてしまう道である。現実を確かめるための規則を規則立てようとしても、それを正当な規則だと根拠づけるためのさらなる規則を必要としてしまい、どこまでも遡っていくだけで、絶対的な判断を確定させるなんてできるわけがないからだ。だから結局のところ最終的には無根拠に「雪だから雪なのだ」「白いから白いのだ」というトートロジーとしか言えないような分析的命題を言わなければしからないのだ。自然学的命題といえどもアプリオリな総合命題に届くものではないのだ

 

超越論的命題のやり方

このような困難に対して、カントは、哲学が取り組むべき課題として、アプリオリな命題でなければ現実世界を現実のものとすることができないこと、そして、その命題が語る世界の質料をその命題自身ではない外部から得るものでなければならないこと、という一見矛盾するような命題を可能にするやり方を編み出すことだとした。これが「アプリオリな客体の認識をいかにして可能にするか」という問いの意味である。

そして、それに対する答えとして、超越論的命題であればそれができるとした。すなわち「超越論的哲学の命題は総合命題でありながら経験知識を原理とするものではなく、逆にその超越論的命題が経験に対する必然的な条件になる」とした。つまり、命題が世界を記述するための形式(それが他とどんな関係にあるものとするかの判断基準)を用意するだけのものでなく、その世界の対象の質料(それがそのものとして何なのかを表す内容)までを意味づけるための必要条件になる、としたのだ。

 

コペルニクス的転回の仕組み

たとえば、「雪は白い」という自然学的命題を単なる自然学的命題として(形式を語るだけのものとして)捉えるだけであるならば、それはアポステリオリな命題でしかない。しかし、その同じ「雪は白い」という命題を超越論的命題として捉えるならば、現実に存在する外的対象を語るものとして「雪は白い」という命題をアプリオリに真とすることによってその対象が「雪は白い」と語られるべき現象だとすることができるようになり、その命題以前に過去に「雪」とされてきたものや「白」とされてきたものと同一だと判断するための根拠を持ち得るようになることになるのだ。
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雪が白いから「雪は白い」が真なのではない。アプリオリに「雪は白い」と語るから雪が白いのだ。

すでに有意味な世界が客観的世界の側にあるとしてしまうと、その客観的外部世界の有意味性をアポステリオリに取り入れないといけないことになる。しかし元々世界は無意味なカオスでしかないとするなら、我々がアプリオリに用意した言語の形式によって、初めて、その質料までが有意味なものになり得ることになる。それによって我々は世界をアプリオリに語れるようになる・・・というのがカントの「コペルニクス的転回」であった。それは、神の視点によって意味づけられた世界を我々に貰い受けるという「超越的世界」から、我々が生きているこの視点によって初めて意味づけられ得る世界だけが唯一の現実であるとすることによって、世界を神から貰い受けるという「超越論的世界」へ、の転回だとも言えるだろう。

 

感性直観と悟性概念とマイモンの批判

そのような超越論的世界をアプリオリに認識することを可能にするためのメカニズムとして、カントは「直観としての空間時間」と「悟性の形式としての概念」とをマッチングさせるシステムを考案した。

マイモンはこのカントのシステムの有効性を完全に肯定した上で、さらにその形式が世界の客体にぴったりと沿うものにするためには、そのカントの仕組みをより厳密なものにして無限小までを追おうとすることができるものにする必要があると考えた。そして、そのために直観と悟性がどのような関係であらねばならないか再考し、微分を導入してマイモンなりのシステムを新しく提案する。

Maimon_20210404222501ザロモン・マイモン 1753-1800

でも、そのマイモンのやり方についてはまた明日。

つづく

「超越論的哲学についての試論」は、現在邦訳書籍はないが新潟大学の平川訳が以下で公開されているのが無料で読める
https://niigata-u.repo.nii.ac.jp/records/29483#.YGh1VM9xe00 

<ザロモン・マイモンを読む>

<僕にも分かる「差異と反復」>


「差異と反復」用語置き場

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コメント

>雪が白いから「雪は白い」が真なのではない。アプリオリに「雪は白い」と語るから雪が白いのだ。

についてですが、次の感じでしょうか?

外的世界にある「雪」が、外的世界にある「白い」という状態であり、そんな外的世界について語ることがアポステリオリに真なのではない。
外的世界にある「雪」に、アプリオリに「白い」という内包を持たせておき、そんな「雪」について語れば「白い」は分析的に導かれる。

以上がカントの言ったこと(だとマイモンが解釈したということ)ですか?
うまく言えているかいまいち不安ですが、宜しくお願い致します。

小松菜さん、コメントありがとうございます。

>外的世界にある「雪」が、外的世界にある「白い」という状態であり、そんな外的世界について語ることがアポステリオリに真なのではない。外的世界にある「雪」に、アプリオリに「白い」という内包を持たせておき、そんな「雪」について語れば「白い」は分析的に導かれる。以上がカントの言ったこと(だとマイモンが解釈したということ)ですか?

はい、僕も、そういう感じで理解しています。マイモン同著2章で次のような文章があります。
「私が『何かを意識している』と言うとき、意識の外にあるものを理解するとするのは矛盾している。根源的意識に使用される『表象』という語は誤解を招く。なぜなら実際は、この根源的な意識はいかなる表象でもなく、単に現前しないものを現前させることではなく、むしろ描出すなわち以前には存在しなかったものを実存するものとして表象することなのだ」
マイモンは、そのようなものとして表象を捉えるのがカント理論だとしています。悟性によって「存在」を新たに創出し、そこに構想力が直観の内容を当てはめることによって実在が表象され、世界が有意味な内容として立ち上がる。悟性にはもともと、経験に基づいてアポステリオリに概念を抽出する権利をもつことができないので、「存在」の概念をアプリオリに立ち上げるしかない。だから、そのアプリオリな概念を基盤にして立ち上がってくる世界だけしか実存にはなり得ない。

と、そんな感じだと思います。何かあやふやな説明しかできなくて申し訳ないですこれで伝われば良いのですが。

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