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2021年4月29日 (木)

カントが直観と概念に空間時間を求めたわけ〈ザロモン・マイモンを読む3〉

カントが「概念的空間時間」と「直観的空間時間」の両者を必要としたわけを、「ライプニッツ原理」「カント原理」の対立やカントの「右手問題」などと絡めて考える。
前節では、「空間」と「時間」がそれぞれ互いに独立でありながらも互いに補完し合って直観形式が構成されることを見た。今日はさらに「概念」と「直観」がそれぞれ異なるやり方でそれぞれの空間時間を作り、その互いが互いを規定し意味づけることによって世界の総合を果たそうとするメカニズムについて考察しつつ、ザロモン・マイモン「超越論的哲学についての試論」1章後半を読む。今日はマイモンでなくカント中心。


直観としての空間時間・概念としての空間時間

「空間と時間は概念であり直観でもある」(「超越論的哲学についての試論」平川訳p111)
とマイモンはカント哲学を解説する。「概念としての空間と時間」というものと「直観としての空間と時間」というものがそれぞれ別のものとしてあるというのだ。
しかし、それが本当なら、なんとややこしい世界モデルだろう。そんなにややこしい世界モデルを作る必要があるのだろうか。それがあるのだ。カントがいわゆる「カントの問題」に答えるためにはどうしてもこのシステムが必要だったのだ。


ライプニッツ原理とライプニッツの「右手」

そもそもカントの「純粋理性批判」は、ある意味でライプニッツ哲学への反論書だと言える。ライプニッツ哲学において、空間は実体(モナド)を説明するための形式に過ぎないものだった。世界にはまず実体があって、空間はその実体の関係性を考えるために悟性によって表象され取り出されるものでしかない。その世界は開闢の主体のための世界として、そして、イマココにあるこの生を絶対化するための舞台としてのみ存在し得ることになる。まさに「何が起ころうとそれが起こるのが現実世界だ」とする、永井均が「ライプニッツ原理」と呼ぶ原理に基づく世界なのだ。
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しかし、カントはこのライプニッツモデルでは納得できなかった。なぜか。それはライプニッツの世界が閉じた世界でしかないからだ。
ライプニッツの世界における空間や時間は、単なる経験を関係づける可能性に過ぎず、悟性によって、つねに世界を肯定するだけの形式でしかない。そのため、世界の絶対的な基盤は経験そのものの側にあるとされるため、時空間に絶対性はないことになり、世界のあらゆるものは単に相対的なものでしかない。たとえば右手が右手であるのは、世界中のその右手以外の者共との関係においてそれが右手だとして定められているとことだけを理由とする。もし世界中の全てのものがその世界ごと鏡像になったとしても、その右手であったものはそのまま右手あることになる。なぜならそのとき世界は鏡像化によってあらゆる関係ごとそっくりとすべてが裏返されるのだから、関係性は何も変わらないからだ。ライプニッツの把握では世界の全てが鏡像化反転するとそれを観察する主体ごと反転してしまうので、世界がひっくり返ったことに誰も気づき得ないのだ。その意味で、ライプニッツの世界では右手と左手は根源的に合同なのだ。それがライプニッツによる、空間が単なる概念でしかない世界である。


右手問題とカント原理

僕なんかは、このライプニッツの世界像のすごさに圧倒されてしまってとても親近性を感じてしまうのだけど、カントは、このライプニッツの世界が不十分だとした。「右手問題」を「不一致対称物問題」として取り上げ世界中の他の何とも関係しなくても右手は右手でなければならないと反論したのだ。 (不一致対称物とキラリティ問題の詳細はこちらに.僕にも分かる「差異と反復」序論9.対称的事物のパラドクス) 世界中がそっくり鏡像になったとしても、世界ごときちんとキラリティ反転したことに意味があるとし、全ての右手は左手になると捉えるのでなければならない、と。そうでなくては、私のこの右手は、イマココにあるこの「これ性(スコトゥスのいう「ヘクシアティhaecceity」)」とでも言うべきものを持てないのではないか、と。
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だからこそカントは、起きたことをすべて現実としてしまおうとしたライプニッツに対して、その「現実」をより深めより味わうために、過去の所与だけで完結する世界だけを現実だとすることに満足しないで、私が見ていない場所までもを語り得るような世界把握のシステムが必要だとし、未来へ開かれる世界を必要としたのだ。そして、それを可能にするカントの空間を編み出したのだ。単なる関係性の概念でしかない空間ではなく、ある意味でニュートン空間のように絶対化され得る空間である。絶対空間の中に私の世界があるとするからこそ逆に、私の生における個物をアプリオリな形式によって捉え得るようになる、とするのだ。
そして、それゆえ、カントは「何が起ころうと起きたことが現実」としてライプニッツ原理で世界を捉えるのではなく、「起きることの内容的つながりによって何が現実かが決まる」とするカント原理でもって世界を捉えるべきだとしたのだ。


カントの問題

また、ライプニッツ原理の下では、世界がどこまでも認識主体の世界でしかないので我々は我々が経験したことを越えて外部を語る権利を持たない。だから、メイヤースの言う「カントの問題」すなわち、「自然の数理化科学化はいかに可能か」という問題(①「言明は、ある存在者が目撃者の無い世界に存在し得るものとされることをいかに立証するか」、②「自然法則がそれ自体絶対的な固有性を持っていることをいかに立証するか」の問題)に答える権利を持つことができない。なぜなら、ライプニッツのモデルにおいては、世界は必ず経験的な所与の全てを現実の世界として肯定しようとされるため、経験の全てがつねに肯定される世界になる。逆に言えば、全てが肯定される世界の範囲内でしか語ることができない世界なのだ。そう考えると、ライプニッツの世界では、私は「明日」や「あなた」を外部のこととして語る権利を失うだろう。そしてさらに、私が「私の知らない未来」や「私の知らないあなた」に支えられて、世界を深く豊かなものとして見ることができているのだとしたら、このイマココの個物を語る権利さえ減じるかもしれない、と思われてくる。


カントのシステム

そのために、カントは空間時間を単なる概念でなく、直観だとしなければならなかったのだ。しかし、話は単純ではない。空間時間が単なる概念でないとするとしても、それを単なる直観だとするだけではいけない。直観が完全に概念と無関係なものだったら、我々はやはり世界を規則立てて言葉で語ることができなくなってしまう。だから、カントは「概念としての空間」と「直観としての空間」が互いに補完し合って「直観としての空間」を構成するというシステムを考えた。
マイモンが解説したそのシステムは次の表のようにまとめられる。
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順に、その内容を確認していこう。


所与・概念・構想力と、想像物としての直観の空間

カントモデルにおいても、世界は私に対して「所与」として表れる。所与はあまねく必然的な世界そのものとして私の前に現れる。しかし、それはまだ何者でもないカオスでしかない。それは全くのカオスなのでその所与をそのまま直感的な空間として構成することはできない。
そこで、所与を空間として分析的に関係づけるための規則を、所与の経験に頼らずに立てる必要がある。それを為すのが「概念」である。世界に存在するものが互いに外にあるものとして捉えるための規則、つまり「存在者aと存在者bが互いに空間的に外にある」とするようなその取り決めそれ自身が「概念としての空間」である。概念としての空間は、しかし、他のものとの関係としての存在規定に過ぎないので、そこにはまだ視覚的なイメージも分量的な把握もない。そこでさらに概念でしかない空間のイメージ化を果たし分量の把握を可能にするようなものが必要になる。それが「直観としての空間」なのだ。そしてその「直観としての空間」を構成するのが「構想力Einbildungskraft」である。
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カオスとしての所与が概念的空間によって統語論的に規定されて直感的空間の中に意味論的にイメージされる(なんかこうやって図にまとめたら「所与・概念的空間・直観的空間」がそれぞれラカンの「現実界・象徴界・想像界」そのものに見えてきた)

「直観としての空間は想像物ens imaginariumである。なぜなら直観としての空間が生じるのは、構想力が、他のものとの関係においてのみ存在するものを絶対的なものとして表象することによってであるからである」同p107
と言われるように、構想力が、他のものとの相対的関係性だけの空間(概念としての空間)を絶対空間化してイメージできるものとして想像し表象されたものが、直観としての空間なのである。だから直観としての空間は世界に元からある実在ではなく、単なる想像物でしかない。


構想力と悟性の仲介物としての空間創作能力

その想像物が絶対空間としてイメージされることで、単なる関係性の空間でしかなかったものが、幾何学的判断の可能な対象になる。
例えば、悟性が「2本の線がもう1本より長ければ三角形を作れる」とか「2本だけならどんな角形もできない」などと規定しようとするとき、この構想力の空間創作能力が実際にそのようなことができるかどうかということを確かめ得る空間を作る。例えば、悟性が「2点間の最短を直線とする」と規定する

とき構想力がその要求を満たす線を引き得る空間を作る。そうやって、構想力は悟性の概念的規制に従い空間を作り、悟性はそこで創作された空間によって概念の妥当性や産出可能性を測る。そのような「創作能力」は「構想力と悟性の仲介物」だと言える。それは悟性の活動的な能動性と、構想力の受動性との仲介物である。構想力は規定された法則に従って空間イメージを構成する点については受動的なのに対し、悟性は客体を受容するだけでなく客体をそれ自身自発的にアクティブに秩序づけ結合させる。そして、構想力によってイメージ化される空間において、現実の世界として客観的に根拠があると言える帰結に結びつくような総合だけを現実の客体をすることができる。それゆえ、悟性の働きは、恣意的なものと言うよりも自発的で客観的根拠のある世界構成だと言える。もしかすると、構想力に構成される直観としての空間は単に悟性の指示に従って産出されるだけだから、それ自体で暴走すると現実から乖離して、恣意的なでっち上げとも言えるような総合になってしまうかもしれない。しかし、それは悟性がそれ自身で客観的根拠に従って産出されることによって、直観もが客観的に根拠をもつ現実世界の総合になることが可能になるので大丈夫なのだ。

つまり、それ自体では意味を持たないカオスではあるが「必然的な総合としての所与」が、悟性自身が客観的根拠に従って産出する「自発的な総合としての概念の空間時間」と、感性が悟性に従って産出されたものをイメージ化した「恣意的な総合としての直観の空間時間」とによって形式化されることによって、多様なものの統一が果たされる、と言うわけである。

 


カントのカテゴリー

そこで、そのとき対象を関係づけるにあたって、概念はカントのカテゴリーに基づいて対象を関係づけるわけである。カテゴリーとはこういうヤツだった。
【カテゴリー】悟性が感性を受け取り、対象を認識するときの、多様な物を統一する規則のこと。純粋悟性概念とも呼ばれる。次の表で示される。
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たとえば「量」のカテゴリーが空間の判別で使われる。悟性が直観の空間において三角形を規定する。そのとき悟性の規定は具体的な一つの三角形を形成するのでなく、一般化された統一性(単一性)としての三角形を示すだけである。それが直観の空間において様々に無数の具体な三角形が描かれる中で、悟性によってさらに「直角三角形」や「鈍角三角形」や「鋭角三角形」などが思惟され分類されて「数多性」が生じる。

たとえば「関係」のカテゴリーが時空間の意味づけで使われる。「原因」のカテゴリーによって「aが措定されるなら他のbが必然的に措定される」とする関係の規定がされるとする。そのときその規定だけでは、具体的な個物としてのa自体b自体が何であるかはまだまったく分からない。現実を欠くカテゴリーとして意味を持てない。あるいは、「実体と偶有性」のカテゴリーを欠いたままでは規定された対象はそれが具体的な個物として何であるかが分からず、意味を持てない。そこで、その「純粋な時間」の形式が「原因と結果」として使用されつつ、「実体と偶有性」のカテゴリーによって語られる「もの」として浮かび上がることによって、所与への形式化が働き、直観は(単に多様なだけでなく)「多様なものの統一性」として世界の具体的な個物を語ることができるものになるのだ。

 


概念の空間と時間は排除し合い、直観の空間と時間は前提し合う

さらに、概念としての時間と空間はもともと(前節ページで見たように)互いに排除し合うものであったが、その問題についても直観と概念が補完し合って時空間を構成していることで解消するとマイモンは言う。つまり、概念としての時間と空間は互いに排除し合うが、直観としての時間と空間は、絶対化されたイメージであるがゆえに互いを同居させることができるし、それだけでなく、それらは互いを前提とするのだ。時計の針の運動によって時間が空間化され得て、空間が時間化され得るからこそ、時間が空間によって規定され、空間が時間によって規定される。そうして、時間と空間は互いに排除しつつも、互いを前提として成立することになる。
そして、代数的な形式である概念としての時間が幾何学的な直観としての空間を構成するとする。そしてそこに直観としての空間が外延量を持つことを認めてしまう。外であるような時間や空間を統一性と見なして世界を加算的なものだとしてしまうのだ。そうして、概念が、現実の個物があることを認めながら、かつ、加算的な分量を取り出すことができるものにしてしまうのだ。


まとめ、カントのシステムが現実世界を語る「権利」を持つわけ

以上が、「概念」と「直観」がそれぞれ異なるやり方でそれぞれの空間時間を作り、その互いが互いを規定し意味づけることによって世界の総合を果たそうとするメカニズムである。
このように直観と悟性が手を組んで時間と空間を構成するとき、現実世界は、主体がアプリオリに形式化した時間空間においてもちゃんと現実的なものだと言うことができるのだ。我々は権利問題においてそれを言う権利を得るのだ。
「私は以下のように主張し得ると思っている―空間と時間の表象は、純粋な悟性概念すなわちカテゴリーと同程度の実在性をもち、またそれゆえカテゴリーについて権利を持って主張され得ることは、空間と時間の表象についても権利を持って主張され得る」同p110
時間と空間の実在性はまったくそっくりとカテゴリーの実在性だとしてしまって良いのだ。
だから、我々はその権利を持って、現実世界の所与が概念と直観の空間時間という形式でもって当てはめられ得ることができ、それができると言うことができるのだ。そうすることで、現実世界の個物を語るという無理を果たしてしまえるとしたのだ。

このメカニズムによってカントのモデルは、空間を絶対空間的なものとしても捉えることができるようになる。これによって、ライプニッツ原理的の下でつねに肯定されるだけの世界であったものが、「起こることの内容的なつながりによって何が現実かが決まる」とするカント原理に基づいて概念が世界を仮説的に捉えることが許されるようになる。これによって我々は、「目撃者の無い世界にまで関する言明についての立証」が可能になり、「世界の側がもつ自然法則がそれ自体として絶対的な固有性を持っていることの立証」の可能性が開かれることになる。それによって我々は、仮に世界全体が鏡像反転したときに右手が右手でなくなるとするような世界の「これ性」を捉えようすることができるようになるかもしれないのだ。それは、自らつねに修正し続ける概念によって規定される、仮説的な世界でしか無いとも言えるが、我々は世界がそのような仮説的世界としてしか捉えられないものであることを認めることによって、その仮説的世界が現実の像であることとして語る権利を得るのだ。

 

やっぱり、カントは凄いねえ。僕はこれまで、カント=ライプニッツの対立については圧倒的にライプニッツを指示する派だったのだけど、カントの哲学もなんと素晴らしいのかと見直したくなる。
しかし、マイモンはカントのこの功績を讃えつつ、概念と直観の摺り合わせの課程で「微分」を考慮しなければ、真に個物に向かおうとする世界把握にはならないと考え、カントのやり方をさらにバージョンアップしようとする。
しかしそれについてはまた明日。

 

つづく

「超越論的哲学についての試論」は、現在邦訳書籍はないが新潟大学の平川訳が以下で公開されているのが無料で読める
https://niigata-u.repo.nii.ac.jp/records/29483#.YGh1VM9xe00 

<ザロモン・マイモンを読む>

<僕にも分かる「差異と反復」>


「差異と反復」用語置き場

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