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2021年4月14日 (水)

多様なものの統一性としての時間空間によって世界に「もの」ができるわけ〈ザロモン・マイモンを読む2〉

ザロモン・マイモン「超越論的哲学についての試論」から、多様なものの統一性としての時間空間による実体の構成され方について読む。

前節で、カントが世界をアプリオリに認識する必要を説いたことを見た。今日は、カントがそのために考案した感性と悟性のシステムに対するマイモンの考察を見て、感性の形式としての空間と時間が世界の中に「もの」を生じさせる仕組みを考える。

Maimon_20210403234101ザロモン・マイモン
哲学の難問

多くの哲学たちは、アリストテレスの昔から、世界を認識するには「質料」と「形式」の両面から捉える必要があるとしながら、しかしその両者の折り合いの悪さにずっと苦しんできた。
「質料」とは、世界の対象においての特殊なもののことであり、個物、個体として捉えられる世界の内容のことである。たとえば「赤いりんご」という対象においてのその「赤さ」の感じのこと。数値化されたり言語化されたりする前の「赤さそのもの」のこと。あるいは「赤さそのもの」とすることさえも言い過ぎになってしまってるような言語化され得ないもの。あるいは私の眼前にあるこのこれを「これ」として端的に捉えてしまうような捉え方だと言えるだろうか。
対して「形式」とは、世界の対象についてそれがどんな部類に属し得るかというような普遍的な世界の様式のこと。たとえば「赤いりんご」という対象において、それが「赤い」「りんご」という語で分節することが可能なものだとされるような認識の可能性のこと。言語化したり数値化したりして対象の捉える捉え方のことである。私の眼前にあるこのこれを「赤いか・赤くないか」で弁別し「硬いか・硬くないか」で弁別し‥・等と言語によって分節化し切り分けることによって捉えるような捉え方と言えるだろう。
しかし、質料と形式はどこまでも異なるものなので、どんな形式でも質料を普遍化することができず、個物としての対象を我々は言葉で認識することができない。要するに(と言うか、強引なまとめ方をすると)、この難問こそが永年哲学を苦しめてきた普遍論争の問題である。我々は言葉を言語的分析によって分析的に捉えることはできる。しかし、それを質料と交わらせることができないのなら、それはどこまでも「分析命題」でしかなく、経験的に捉えられる現実の世界を語る「総合命題」にはならない。


カントの超越論的哲学

そこで、カントはこの難問に対して、我々は我々に認識可能なものしか世界の存在を問うことができないのだから、逆に、認識可能な世界だけが語られる価値のある世界なのだとしてしまった。すなわち、現実世界を示す「総合命題」は、経験に頼らずにアプリオリに語る命題だけで作ることができるとして、それを可能にする形式を提案したのだ。それが感性の形式としての「空間と時間」であり、悟性の形式としての「カテゴリー」である。(また、感性が「空間と時間」でもって世界を形式づけるその方法とその内容を「直観」と言い、悟性が「カテゴリー」でもって世界を形式づけるその方法とその内容を「概念」と言う。)


マイモンによる肯定的カント批判と「多様なものの統一性」

さて、マイモンはカントのこの超越論的哲学の方法を肯定しながら、それをさらに深める必要があると考えた。
「空間と時間とは何であるのか。カント氏は、それらは我々の感性の形式であると主張したが、この点において私は彼とまったく同意見である。私はただ、これら我々の感性の特殊な型式は、我々の思惟一般の普遍的な型式に内にその根拠を持つと付け加えるだけである。なぜなら我々の思惟の条件(意識)一般は、多様なものにおける統一性であるからである」(マイモン「超越論的哲学についての試論」平川愛訳p105)
質料的な「多様なもの」を形式的な「統一性」の下で結合されることによって、世界が現実的で認識可能なものにすることができる形式とは何か、それはどんな形式でなければならないか、を問おうというのである。この「多様なものの統一性」という語がマイモン哲学の最重要キーワードの1つで、その視点に強くこだわって、カントの感性の形式と概念の形式を点検し直す。
感性の形式については、カントはそれを「空間と時間」だとしたが、それに対して、マイモンはそれが「多様なものの統一性」であることに根拠を持つものであり、それゆえ感性の形式は「空間と時間」でなければならないとして、カント哲学のさらなるバージョンアップを求めたのである。


「多様なものの統一性のうちにある空間時間の根拠」とは

マイモンが言う「多様なものの統一性のうちにある空間時間の根拠」とは何か。(それがマイモン「超越論的哲学についての試論」の第1章の内容の全てである。)
これについて、マイモンは次の手順で考察している。
㋐.多様な質料は、時間と空間があって初めて形式づけられ語られ得る「もの」になること。
㋑.多様なものの統一は、空間と時間が互いを廃棄しつつ補い合うことによって、可能なこと。
㋒.さらに、直観と概念のハイブリッドな助け合いによって構想力が時間と空間を構成すること。
㋓.そしてそれは、所与としての「必然的総合」と、直観の時間空間としての「恣意的な総合」と、概念としての時間空間としての「自発的な総合」が関わり合って為されること。
㋔.カテゴリーと直観の統一の例としての原因結果の考察。
この順にそってマイモン「試論」第1章の考察を辿っていく。(今日はこの内の㋑までを見る。㋒~㋔はまた明日以降に)


㋐.多様な質料は、時間と空間があって初めて形式づけられ語られ得る「もの」になること

時間空間とは何か

「我々はそれら〔認識に与えられた赤い色〕における多様なものを時間と空間の中で秩序づける。これら時間と空間は形式である。なぜなら多様なものを秩序づけるこうしたやり方は、特殊な対象としての赤い色に置かれるのではなく、例外なく我々の認識能力に基礎が置かれるからである。それゆえ・・・あらゆる対象もまたこれらの形式を持っているはずであると我々はアプリオリに確信している。またこのことから、対象の知覚によってはじめてこれらの形式が我々の内に生じるのではなく、すでに前もって我々の内にあったのだということが見て取られる。・・・空間と時間は経験を捨象した概念ではない。それらは経験概念の構成要素ではない。すなわちそれらは多様なものではなく、それによって経験概念の多様なものが結合されるような統一性である。・・・したがって時間と空間は経験概念の単なるかせである」(マイモン「超越論的哲学についての試論」平川訳p104)

空間と時間は経験の内容ではなく、経験を秩序づける形式である。それは経験のなかから捨象※されるものではなく、経験の中の多様なものでもない。経験を形式の枠に当てはめさせるだけの単なるかせである。しかし、空間と時間があって初めて経験の所与の対象は秩序づけられて認識可能になる。
(※【捨象】とは「現象の特性の共通性以外を問題とせず考えの内から捨て去ること」(オックスフォードラングウエッジ)物事の余計な情報を切り捨てて本質部分を抽出すること。つまりここでは、経験から時間空間を抽出するような「捨象」ができない、と言っている。)


空間時間がものをものとすること

「たとえば金は延長、不可入性、黄色など金における多様なものを構成するものについての経験概念である。この多様なものはしかし、ただそれが時間と空間において一緒にあるからという理由だけで、ひとつの概念において結合される」同p105

ある金塊を金塊とするのは、その長さや重さや不可入性や色や見た目や硬さや密度などのさまざまな性質によっての判断だろう。けれども、そもそもその多様性はそれが時空において一緒にあるからという理由だけでそれが同じ一つの対象物であるとされ得るのであって、それがなければそれが金塊であるかどうかを問うこともできない。何かの対象がどんな性質のものであるかを問うためには、そこにある何かがある一つの対象であることを定められなければならない。そしてその何かを何か同じものだとして設定するのが、空間と時間であるのだ。つまり空間と時間がなければ、世界はただ多様なカオスであるばかりで実体が存在し得ないのだ。そうは言っても、我々が見ていないときにも世界には時間があり空間があり実体がある様な気がしてしまう。しかしそれは、世界を開闢している「私」という主体がすでに存在している世界を想定した上でその私が見ていないというだけの話でしかない。もし完全に私という生命が存在していなければ、空間や時間はいかなるものでもあり得ない。「私」が存在し私のこの視点が世界を切り取ろうとするとき、初めてその切り取るための刃物としての時間や空間が生み出され、そこに初めて実体が切り取られて生じてくるのだ。そのような意味で、空間や時間は世界の経験的対象ではなく、単なる「かせ」なのだ。


所与を異なるものでありながら同じものでもあるとする装置としての空間時間

「すると空間と時間は何であるのか。カント氏は、それらは感性の形式であると主張したが、この点において私は彼とまったく同意見である。私はただ、これら我々の感性の形式は、我々の思惟一般の普遍的な形式の内にその根拠を持つということを付け加えるだけである。なぜなら思惟の条件一般は、多様なものにおける統一性であるからである。AとBが完全に同一である場合、ここには多様なものが欠けている。それゆえいかなる比較も存在せず、したがっていかなる意識も存在しない(同一も存在しない)。しかしAとBが完全に異なる場合、ここには統一性が欠けている。ここにも比較は存在せず、したがって意識も存在せず、この相違自体が存在しない」同p105

カントが、空間と時間を単に感性の形式だとするだけだったのに対して、マイモンは、空間と時間が「多様なものの統一」を成すために必須なものであることを、よりはっきりと主張するべきだと言う。そして、それが必須な理由をはっきりさせるために、空間と時間の形式の構造が、所与が多様なものであることを統一されたものであることを詳しく分析していく。

そこでまず、ある所与のうちの何か異なるものであるか同じものであるかさえはっきりしないような対象の弁別について考察する。その対象の1つをAとし、もう一方をBとするとするとき、その二つが完全に同じものだとしてしまっても、完全に異なるものだとしてしまっても、比較することはできない。比較とは同じところがあるもののなかで違うところを探す作業だからである。比較ができないものは比較できないのだから、それを同じと言うこともできないし異なると言うこともできない。それゆえ、そこに何かが赤いとか赤くないとかを判別して語ることができない。何かがあるとか無いとかさえ言うことができず、だから、もはや、そこでは、実体も様相もあると言えない(し、無いとさえ言えない)。

そこで、所与を、異なるものでありながら同じものでもあるすることができる装置が必要になる。マイモンは、それが空間と時間の組合せだと言うのである。
そして空間と時間は互いに互いを廃棄しつつ、互いを頼りにして成立すると言う。


㋑.多様なものの統一は、空間と時間が互いを廃棄しつつ補い合うことによって、可能なこと

では、空間とは何か

「空間とは客体が互いの外にあることである」(同p106)

とマイモンは言う。つまり、空間の規定とは同一の場所にないこと。ここで注意しなければならないことは、今考えている「空間」は、世界に初めから「ある」とされるような空間ではない。世界の中に隠れている空間を掘り起こして顕わにしようとしているのではないのだ。そうではなく、世界に無かった「空間」が産出されるときにはどんなことが起こるのか、なのだ。すでに空間があるところに座標が組まれる様子を考えるのではなく、「空間の無なかったところ」に空間が生まれる瞬間のその空間を考えたいのである。そしてその「空間の無さ」と言うのも単に広がりが無いという意味での無さではなく、空間的広がりが0でさえないような無さにおいての「空間の無かったところ」に空間が生まれる瞬間の空間を考えたいのである。
そのような考察において、同一地点ではない2地点にある2つ客体を考えるのだ。

そのとき、空間の措定※とは時間の廃棄でなければならないとマイモンは言う。(※【措定】とは、命題を直接肯定し主張すること。それが存在するものとして前提を立てること。)

「一方の措定は、まさに同じ客体において他方の廃棄を必然的にするのである。従って一方の措定は他方の措定一般を必然的にする。なぜなら、さもないと(単なる否定としての)他方の廃棄を表象sることは不可能であろうからである」(同p106)

ある2者が異なる場所にあると表象するためには、その2者が同時に表象されなければならない。だからマイモンは、二者が空間的に離れていると認識するためには、時間が廃棄されねばならないと言うのだ。だけど、その時間の廃棄というのは、時間的な距離が0で「ある」という意味での廃棄であるのだ。つまり時間は廃棄されると言っても、そこにはちゃんとした0としての時間を必要とするものである、とも言えるものなのだ。空間が生じるとき、そこには必ず同時な(時間継起のない)時間が生じなければならないのだ。


では、その時間とは何か

「時間とは客体が互いに先行後続することである」(同p106)

とマイモンは言う。つまり、時間の規定とは、ある何かの客体が時間幅のある時間的前後において同一なものとして存在することであるのだ。
そしてそのような時間を考えようとするとき、時間の措定は空間の廃棄であるとマイモンは言う。なぜなら、ある2者が異なる時点にあって時間継起のうちに表象されるためには、それが同一の地点で表象されねばならないからであり、そうでなければ2つの時点としての表象だとは言えないものになってしまうからだ。だから、マイモンは、二者が時間的に離れていると認識するためには、空間が廃棄されねばならないと言うのだけど、その空間の廃棄というのは、空間的な距離が0で「ある」という意味での廃棄であり、空間が廃棄されると言っても、そこにはちゃんとした0としての空間を必要とするとも言えるものなのだ。時間が生じるとき、そこには必ず広がりの無い空間が生じていなければならないのだ。

でも、ある客体が運動してる場合はどうなのだろう。運動において同じ客体は空間と時間が統合されなければならないのじゃないだろうか。しかし、マイモンは、運動においても空間と時間が同じ客体で統合されることは無いと言う。
例えば、aとbを、それぞれ互いに外にある2つの客体だとする。そこに、aからbへ移動するcを考える。このとき、aとbは同時に互いの外に表象されるが、c=(ca,cb)(すなわち<aにあるところのc>と<bにあるところのc>のこと)は、時間継起において表象されるだけで、空間においては表象されないと言う。
くり返すが、ここで最初から時空間が存在するものと考え、時空座標を思い浮かべるのは正しくない。最初から座標を想定してしまうと、上の運動は、単に、時刻t0においてのcaから、時刻t1においてのcbと捉えられるものになってしまうので、当然、時間継起も表象され得るだけでなく空間的な距離も表象され得る。でも、ここで考察しているのは時間空間が初めて生み出されるところにおいての時空なのだから、そのような座標の前提はできない。それだから、ここでは、2地点にある2者を捉えるならその2者を同時としての0時間の中で捉えることしかできず、また2時点間の時間継起を捉えるなら同一の地点にある1者の時間継起として捉えることしかできないのだ。
それゆえ、

「(ca,cb)はある時間継起においてのみ表象されるが、空間において表象されるのではない。なぜなら(概念としての)関係は、ある時間継起においてのみ思惟され得るのであり、互いの外では思惟され得ないからである。」同p107

という話になる。


「え?」

しかし僕は最初マイモンのこの一文を読んだときに「え?」と思った。「空間においての2地点が互いの外であるがゆえに思惟され得ないと言うのであれば、時間継起における2時点も互いの外になるとすべきなのではないのか?」と思ったのだ。この僕の疑問を分かってもらえるだろうか。今考えようとしている世界は絶対時間も絶対空間も前提としないはずだったのだから、「時間継起における2時点」は単なるカオスのなかでの2つのただただ他なる別々の2時点でしかないはずではないのか、だったらその2時点は互いの外にあるものとするしかできないし、そうすべきではないのか、と、疑ったのである。

でも、この僕の疑問に対して「あえて」それを飲み込み「あえて」それを超えて、そこに「時間継起においてはその客体が互いの内にあり得る」という捉え方を持ち込む必要がある、と解釈するのがこの話のポイントなのではないだろうか,と思い直した。
すなわち、「aからbへ移動したc」の話で「ca」においての「c」と「cb」においての「c」が1つの同じ「客体c」だとする、そのような(ある意味で恣意的な設定にも見えるような)設定を持ち込んでいるからこそ、この2時点は「同一のもの」のことだということになり、それゆえその2時点が互いの外になることはないということではないか、と思ったのだ。
そう想定することで、その時空の中に「同一のもの」が実体として存在し得ることになる。また、よく考えると、そもそも、2時点において「そこに時間継起がある」と言えるものにするために「同一のもの」が必要になるのではないだろうか。「同一のもの」が無いのなら、そこに時間が継起しているという言葉は意味を失ってしまうはずだからだ。


空間という多様性と時間という統一性・統一性としての実体と多様性としての偶有性

時間空間の生じる以前の何物でもないカオスとしての世界の中で、ある対象がそれ自身同一のものであるとしながら異なる2時点で継起的に存在することができるとされるとき、そこにその対象が存在者として存在し得ることになる。このときその存在者が実体となり、それをさせる形式が時間となる。ある意味では、時間が実体を生むとも言えるし、また別の意味では、実体が時間を生むとも言えるようなシステムがここで生じるのである。

そして、この、時間の下で、自身と同じものであるところの実体の存在が保証されるとき、その実体とは異なるものがその外にあり得ることが保証されなければならない。その多様性を保証するのが、「互いの外である」ところの「空間」なのだ。そして、その多様な「空間」があり得ることによって、実体が多様な偶有性を持ち得るものになるのだ。

つまり、「空間という多様性」と、「時間という統一性」が、互いに互いを保証し合うことによって、そこに「多様なものの統一性」が保証され、そこに「多様なものが統一されたもの」としての「実体」と「偶有性」が生じ得ることになり、また逆に、「実体」と「偶有性」が生じ得るがゆえに「時間」と「空間」が生じ得ることになるのだ。
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cの運動は?

じゃ、cの運動はどうなるのか?
(しかし、それなら、「caからcbへの実体cの運動」という話はどうなるのだろう。それは、この時間空間の発生によって生じ得ることになった実体と偶有性に基づいてそれを土台として、cの外にある他の「もの」たちを別の存在者として時間空間の中に位置づけるようになる。そしてそうすることで、cを他の存在者と時間空間の位置関係を比べることができるようになる。そうしてやっと、その比較の中で「cが移動した」とか「移動していない」とかを言うことが初めて意味あることになる。だから、時間と空間が生じて実体と偶有性が生じたばかりの今の議論においては、まだ、「運動」の有無が有意味に語れるような世界にはまだなっていない、と言うところではないかと思われる。)


こうして世界に「もの」があり得る

こうして、ある意味で恣意的に見えるその「関係は単に時間継起によってのみ思惟され得る」とする設定によって、我々は同一性を得ることができ、我々は初めて世界を分析可能な「もの」として捉えることができるようになるのだ。つまり、空間と時間のこの感性的な形式をそのような分析可能な概念的形式と結びつけることによって、世界には「もの」があることになる、と言えるのだ。

ただし、その「ある意味で恣意的に見える設定」について、マイモンは、主体がただ単に恣意的に自分勝手にでっち上げた世界で良いという話にはしない。直観と概念とが互いに世界の構成をサポートし合うことによって恣意的ではないような現実世界が構成されるシステムを考察する。


だけど、それはまた明日。

つづく

「超越論的哲学についての試論」は、現在邦訳書籍はないが新潟大学の平川訳が以下で公開されているのが無料で読める
https://niigata-u.repo.nii.ac.jp/records/29483#.YGh1VM9xe00 

<ザロモン・マイモンを読む>

<僕にも分かる「差異と反復」>


「差異と反復」用語置き場

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