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2020年9月 8日 (火)

「差異の異化」と「強度」〈僕にも分かる「差異と反復」2-14〉

ドゥルーズ「差異と反復」第二章「それ自身へ向かう反復」を読む。
(今日は文庫上p313~319)

いよいよ第2章も大詰めだ。ドゥルーズは同一性にもとづかないで世界が構成されなければならないと説くが、いったいどうすればそんなことができると言うのか。今日は、そのメカニズムを見る。

 

4つのアスペクトと差異の異化

「同一性、類似、対立、類似」の4つのアスペクトによって世界は規定され表象され得る、とギリシア哲学から延々と信じられてきた。ある意味で絶対な同一的概念が可能だからこそ類似的概念が可能になり、その形式がきちんと取り決められているのからこそ、初めて異なるものの存在が可能になる。つまり〈類似するものだけが異なる〉と、人類は数千年間ずっと信じてきた。しかし、ハイデガーの存在論に従うなら話は逆になる。〈諸差異だけが類似する〉とされねばならないことになるのだ。
そこでドゥルーズは
「差異はそれ自身において連接であり連結でなければならず、同一類似類比対立によって全く媒介されることなく異なるものを異なるものへ関係させるのでなくてはならない」(「差異と反復」文庫上p314)
とする。だから、差異としての世界を無条件にそのまま受け止めようとするのであれば、はじめに差異それ自体があるとするからこそ類似があるとし、同一性や類似はその結果として後から現れるものでしかないとしなければならない、と言う。

そして、そこに
「差異différenceの異化différenciationがなければならず、異化させるものdifférenciant(つまり『〔ハイデガーが言うところの〕己を異化させるものSich-unterscheidendes』)としての即自がなければならないのであって、そうした即自によってこそ、異なるものが、先行的な類似同一性類比対立を条件として表象される代わりに、同時に集められる」(同)
というように世界を捉えることで、同一性に基づかない世界構成が可能になるとする。

この「差異différenceの異化différenciation」を展開するシステムについて、ドゥルーズの説明を見てみよう。(少し長いが引用する。)

「その条件はいったいどのようなものであろうか。その第一の特徴は、諸セリーにおける組織化であると思われる。システムというものは、二つ以上のセリーをベースとして構成されねばならず、しかもそれらのセリーはどれも、そのセリーを合成する初項の間の諸差異によって定義される。諸セリーが何らかの威力の下で連絡の状態に入ると仮定するとき、その仮定から明らかになるのは、その連絡は、諸差異を他の諸差異に関係させること、あるいは、システムの中で諸差異の諸差異を構成することである。その第二の諸差異〔「諸差異の諸差異」の後者の「諸差異」〕は「異化させるもの」の役割を担い、第一の諸差異を相互に関係させる。そのような事態は、或るいくつかの物理的な概念の中で十全に表現されている。たとえば、異質の諸セリー間のカップリングがそれであり、そこからシステムにおける内部共鳴が生じ、またそこからベースそのものとなる諸セリーをはみ出している振幅をもつ強制運動が生じる。一つのセリーに属している諸要素はそのセリーにおけるそれらの要素間の〈差異〉によって有効になり、同時に一つのセリーから別のセリーへ向かって成立するそれらの諸要素の〈差異の差異〉によってもまた有効になる。しかも我々はそうした諸要素の本性を規定することができる。すなわち、そのような諸要素は強度なのであって、強度に固有な点はそれ自体他の諸差異を指し示すような差異によって構成されるということである(〈E-E’〉において、Eが〈e-e‘〉を指し示し、eが〈ε-ε’〉を指し示す…)。」(同p316)

この話のポイントは、
①「差異の異化」について、
②「差異が強度であること」について、
③「差異が差異によって示されること」について、の3点だろう。
そして、これに
④「その世界を開く主体が幼生であること」について、というもう一つの視点を加えると話がうまくまとまるので、後でこれについても考察し、今日はこの4点を確かめたい。

 

①「差異の異化」とは何か。

ドゥルーズがここで説明している「差異の異化」のためのシステムは、(ア)差異、(イ)セリー、(ウ)セリー間の異化、(エ)カップリングによる差異の共鳴、(オ)セリーをはみ出す強制運動、の5つの条件から成っている。


(ア.差異を差異として捉える)
まず、経験できる世界にある諸々の対象は、最初は何者でもない単なるカオスである。その諸々を何かの差異として捉えてみる。ただし、このときドゥルーズは同一性を基盤としないのだから、「そこに差異がある」とするための根拠になるものが無い。だから、手当たり次第に無根拠に適当にでたらめに「そこに差異がある」としてみるしかないことになる。イマココに見えている現象の対象、その視覚的見えや、聴覚的聞こえや、様々な感覚、イマココに現象してはいないが心の中に思い起こされる記憶内容や未来へ向けた思いの内容、思考的な内容、などなど、ありとあらゆるイマージュをすべて何か分からない「何者でもない差異」として捉えてしまう、ということになるだろう。とんでもないカオスである。


(イ.差異をセリーの項として捉える)
次に、そうやって「差異」だとしてみたものを、今度は何らかのセリーに当てはめてみる。
【セリー】sériesはフランス語で「級数」「系列」「シリーズ」の意。世界をある連続的な順序をもつ対象として捉えたときの系列のことである。
ここでもやはり「同一性」や「類似」を根拠としないのだから、無根拠に適当にでたらめに「そこに何らかのセリー(系列)がある」としてみることだけしか(論理的には)できないはずではないか。時間の系列、空間的な系列、色彩の見え方の系列、聞こえの系列、言語的な意味の系列、私という意識体の経験の系列、そのようなちゃんと意味づけられるもだけでなく、何の意味もない出鱈目な系列まで含めて、あらゆるセリーをすべてセリーとして生じさせることになりそうだ。ただし、我々は現実に生きてある主体なのだから、生物としての習慣(ハビトゥス)によって受動的に世界との関わり合いの仕方に幾ばくかの形式が現実的に生じてしまう、という側面もある。だから実際、現実世界ではそれによって、その「差異」と「セリー」は何でもありというわけではなく、ある程度拘束された世界の捉え方を強いられることになるであろう。それによって世界を順序づけたり形式づけたりされ、「差異」はそのセリーの内部で意味をもつことができるようになる、ということになる。


(ウ.複数のセリーの間で差異を異化させて関係づける)
そうして、幾つものセリーを生じさせても、そのままでは異なるセリー同士は、互いに何の関係も持てないまま全く異なるものとしてあるだけのものになってしまう。そのようなバラバラなセリーが乱立するだけの世界では、世界を構成するための形式が不十分で、最初の「差異」をきちんと意味づけることができない。たとえば本来「りんご」であるところの赤く丸いその「見え」のセリーと、「りんご」という「音声信号」のセリーとの間には、それを関係づける根拠は何も無い。またたとえば、私が何かを「赤」だとして見ていることと、私の脳神経回路が「赤」い視覚刺激に反応することとの間には、本来それを関係づける根拠はない。もともとそこには論理的な繋がりは無いのだけれども、今、僕たちは「類比」を根拠にしないと言っているのだからなおさらである。そうやって、その無関係のセリー同士を異なるものだとすることによって、或るセリーの構成要素の「差異」と別のセリーの構成要素である「差異」が異なるものとして関係を持つことができるようになる。これを「差異différenceの異化différenciation」と呼ぶ。世界を構成するあらゆる要素としての「差異différence」は「異化différenciation」されることによって互いの関係性を構成し、それによって、それが何者であるかを説明することができるようになる。つまり、
【差異化=微分化】différentiationが、世界の要素である差異が連続性をもち、数値化可能で微分可能なものであると捉え、ある一つのセリー内で分析し構成しようとするやり方、
であったのに対して、

【異化=分化】différenciationは、異質で他なる複数のセリーの間で、その要素である差異を異なるものだとすることによって、その異なるものの関係を構成するやりかた、

だと言えるだろう。
「異化」は他なるものを関係づける作用であるという点で、まるで「同一性、類比、類似、対立」の「類比」そのものであるように見える。しかし「類比」が同一性に基づく仕組みであって、世界を、絶対的超越的な正しさで確定され得る世界だとして映し出すやり方てあるのに対して、「異化」はそのような超越者の力に頼らず、同一性にも頼らないで、「とりあえず」、他なるものとすることで差異を関係づけるのだ。
1_20200909234001
「りんご」の認識に関する諸セリーとセリー間の異化

2_20200909234001
時間における差異の異化

(エ.カップリング的に関係する複数の差異の共鳴)
【カップリング】とは、物理学において2つの系の間で相互作用があること。核磁気共鳴分光法におけるスピン-スピン相互作用など。(wiki)
例えば酢酸エチルCH3COOCH2CH3の最初の3つの水素Hはどれも同じ一つの炭素原子に結合しているのだからその磁気状態は等価なもののように思える。なのに、それぞれその分子内で諸原子が互いに作用しあい、特に強く作用しあう原子のカップル(カップリング)とそうでないものを生じさせるので、その3つの水素の磁場スペクトラムにずれが生じる、
というものである。
ドゥルーズのいう「カップリング」も、その物理的カップリングに喩えられるような、様々な2者間の関係性を示すものだと考えられる。つまり、一つのセリーの中の2つの差異が関係しあい規定しあうだけでなく、異なるセリー内の2つの差異も関係しあい規定しあう。そのようなさまざまなありとあらゆる差異が関係を持ち、その中で特に強い結びつきを持つカップルが関係しあい規定しあうことによって、それぞれの意味が共鳴résonanceする。この「共鳴」は、第2の総合の「純粋過去」において、あらゆる差異がその場を共有しあい共存して世界を構成することを示しているのではないか。純粋過去の場において、主体の受動性と能動性そしてエロスとムネモシュネが互いに関係しあって補完しあって世界内で響き合う。そうして世界を味わいのある豊かなものとして構成する。これは、ただしそこにある要素同士が互いに規定しあうことで意味を確定させてしまう自己完結の世界であり、第2の総合のレベルの世界でしかないとも言える。しかし、ドゥルーズの言うシステムは、さらに、第3の総合へ超え出て、その自己完結を崩すものを求めるものである。

(オ.基となる諸セリーをはみ出す振幅をもつ強制運動)
物理的な系では、その系内のあらゆる要素は全て互いに関係しあい共鳴しあうことによって、その場のあらゆる場が規定され系内のすべての在り方が決定づけられる。もし、その系に一粒の電子が付け加えられたとすれば、その一粒は系内の全ての原子と新たに関係しあい、それだけによって系全体のそれ以外のすべての関係までがそっくりとリニューアルされてしまう。第2の総合は自己完結する世界モデルであったけれども、そこに新たな条件が一粒加わるとその自己完結は崩され、世界は新しい共鳴の仕方へ超え出てゆくことになる。つまり第2の総合は、第3の総合レベルへ向かい、自己完結しない世界へ超え出るものとなる。それは、私の世界はそれぞれのセリーの中に納まっている「差異」だけではなくなってしまうことである。そのような純粋過去内にある基のセリーから外れることが未来を拓くことであり、それを強制することこそが世界を私の個物にきちんと沿うものにさせられる術となる。しかし、既定路線から外れると言いながらそれが「強制」とは変な気もするが、それが「永遠回帰」だと言うことなのだろう(永遠回帰については後ほど詳しく考える)。

これが、ドゥルーズのいう差異が即自を展開する世界モデルの枠組みである。セリー内にある〈差異〉と他のセリーの異なる〈差異〉とが異なるものであることをはっきりさせ、その〈差異の差異〉を明示することによって、世界が意味をもつものになり得るのだ。つまり、
「一つのセリーに属している諸要素は、そのセリーにおけるそれらの要素間の〈差異〉によって有効になり、同時に一つのセリーから別のセリーへ向かって成立するそれら諸要素の〈差異の差異〉によって有効になる」(同)
というわけだ。
以上が「差異の異化」のシステムである。この、(ア)差異、(イ)セリー、(ウ)セリー間の異化、(エ)カップリングによる差異の共鳴、(オ)セリーをはみ出す強制運動、の5条件によって、「差異の異化」が構成されることになる。
 
     

②「差異が強度である」とはどういうことか

次に、強度について、考えてみる。
「強度intensité」とは何か。「intensité」は「内包量」や「内包性」とも訳される物理用語で、「外延量」と対になって一般的に次のような意味をもつ。

【外延量・外延性・空間性extensité】は、「示量変数variable étendue(つまり、系全体の量が部分系の量の和になり、また、系の大きさ体積質料に比例する変数。たとえば、体積、エントロピー、物質量、質量、エンタルピー、内部エネルギー、磁化など)」に関する量のこと。外延的で延長的な量。

【強度・内包量・内包性intensité】は、「示強変数variable intensive(つまり、示量性を持たない状態変数。たとえば、圧力、温度、化学ポテンシャル、密度、磁場など)」に関する量のこと。内包的で質的な度合い。

多くの場合、物理量としての「外延量」は、ある一つの単位をもつ量である(例えば長さの単位m)か、またはその一つの単位の乗除によって表される量(またはそれに類する量)である(例えば体積は長さの単位の3乗、例えばm^3)。それに対して、「内包量」は異なる単位の乗除によって表される(例えば、圧力の単位kg/m·S^2)。それは物理学においては、「外延量」が先に測られるもので、「外延量」を基にして計算して出すものが「内包量」だと考えられていたってことを表していると言えるのじゃないか。つまり物理においては「外延量」が先んずるものであり「内包量」の基準となるものとされている。しかし、ドゥルーズのやり方ではそのように「外延量」を先に測ることができない。それは同一律を前提としなければ測り取れないものだからである。

だから、ドゥルーズはその外的で延長的な「外延量」に先立って、内的で質的な度合いを基盤とする必要があった。それが「強度」である。

「強度とは感覚されうるものの理由としての差異の形式である」(「差異と反復」5章文庫下p146)

というのは、まさにそのことを示していると思われる。
また、「強度」について、千葉は「差異と反復」の一文を引用して次のように語る。

「差異は、多様なものではない。多様なものは所与である。しかし差異は、所与がそれに与えられる当のものである。差異は、多様なものとしての所与がそれによって与えられる当のものである。差異は、現象ではなく、現象にこの上なく近いヌーメノンである」(「差異と反復」5章文庫下p144)
「カント用語を使って(潜在的な)差異=本体的なもの、(現働的な)多様=現象の区別がなされる。その上で『いかなる現象も、その条件となる不当性を指し示している』という主張へと進む。現象の条件となる『不当性』とは難しいことではない。例えばどこかで水が流れるという現象があるときに、高さの不当性=差異がその条件になっているということである。『すなわち水準の、温度の、圧力の、張力の、ポテンシャルの差異、強度の差異』」(千葉「動きすぎてはいけない」文庫p312)

「強度」は、物理学の「内包性」に至極近いものではあるが、しかしそれは、時間空間の直観形式や同一性に基づいて把握された上でアクチュアルな「イマココ」における「現象」として知覚されるものではなく、そのような形式に当てはめて量として計算可能なものとされたり、何者であるかを測られたりする以前のもの。まだ「イマココ」でさえなく、「潜在的」で何者でもない「本体」であり、現象を現象として所与する当のものとしての「内包性」だと考えるべきではないだろうか。つまり、強度とは、例えば白紙に引かれた黒線を、その外延的延長でなく内包的なコントラストによって差異化されるものであり、それが現象として現働化する前のバーチャルなものとしての差異の形式であるようなものと考えられるのではないだろうか。

 

③「差異が差異によって示される」とはどういうことか

そしてさらに、本体的な強度としての差異が、「差異を示す差異」としてどこまでも別の差異によって次々と指し示されるものだとすることができると、ドゥルーズは説く。
(〈E-E’〉において、Eが〈e-e‘〉を指し示し、eが〈ε-ε’〉を指し示す…)というどういうことか。
これについて、千葉は次のように読み解く。

「すなわち、何らかの差異のカップル、例えば『色彩のコントラスト』の例にするなら、それは、別の差異のカップル、『光の波長の差異』の表現であり、それもまた…等々と続いていく、といったことである。ことさら『強度の』と言われる差異は、要するに差異である」(「動きすぎてはいけない」文庫p313)

まさに、ある差異と、異なるセリーの異化された差異との間の、その関係こそが、その初めの差異を意味づける(さらに異化された差異をも意味づける)ということだ。

「フロイトに従って、生物心理学的な生は、興奮として規定し得る〈諸差異〉と、〈疎通〉として規定し得る〈諸差異の諸差異〉とが、そこで配分されている当の強度的な場という形で提示される」(「差異と反復」p317)

この〈疎通〉というのは、ニューロン=シナプスが生理学的で物理的が連絡することである。だから、例えば、私が視覚的な「赤」を感じるときの、その感じそのものとしての「強度としての差異」というものは、それとはまるで違う話であるはずの、神経回路の発火反応という異なるセリーにおける「強度としての差異」でもって規定されて意味づけられるというわけだ。
すべての「差異」は、このシステムの中で関係しあうその「差異と差異」の関係のみでもって、意味づけられる。だから、その意味の付け方は「統語論的」なものだとも言える。ただし、その「差異の関係」はすべて「強度」のみを根拠として意味づけられているのだから、その出どころはすべて「意味論的」なものだとも言える。だから、この仕組みでもってドゥルーズのこのシステムは「統語論的」でありながら「意味論的」でもあるという、なんと凄い意味体系を形成してしまうのだ。


④「幼生の主体」とは何か

ただし、この「差異による規定」は必ずしも自己完結を許す規定ではない。世界はつねにリニューアルし続け、それを開闢する「私」もつねに生まれたての「幼生」の主体として「とりあえず」規定してみることしかできない。その「幼生」によって世界は一挙に構成されるのであって、「差異が採取されてからセリーが構成されそれから異化が起こり…」という「順番」で段階的に構成されるわけでは、決してない。だから、「哲学的システムの本来的な力動をなしているものとしての思考が、デカルト的コギトにおけるように、完成され完全に構成された実体的主体に帰せられ得るとはとうてい確言できない」(同p319)。世界は、我々が有限な存在で認識が有限だから完全な規定にならないというだけでなく、世界が「幼生」の世界であるがゆえに、世界そのものが物自体として完成されているなどとは決して言うことができない。だから、そこに立ち上げられる世界は「とりあえず」の世界であるし、それを語るための言語の射程の短い。しかし、それが冒険的にとりあえず立ち上げた世界だからこそ、短い射程しかもたない言語で語るような心許ない世界だからこそ、意味論的かつ統語論的な世界にすることができるのだ。

確かに、人はある意味で確実に受動者でしかあり得ないかもしれないが、それでもその受動者は生まれたての「幼生」なのだ。「進化は気ままな風に乗って行われるのではなく内に巻かれたものinvoluéだけが進化するévolue〔繰り広げられる〕のだ」(同p318)。つまり幼生が受動者として内向きなものでありながらも、同時に自ずから繰り広げられるものとして外向きに自分を超え出るものでもあること、ここに、「幼生」が「intensité内包・強度」という内向きの世界把握を「extennsité外延」という外向きの世界把握につなげるという凄い魔法のトリックがある。
そしてだから、
「システムは、そのシステムを縁取る異質な諸セリーによって定義されるばかりでなく、またそのシステムの諸次元をなすカップリング、共鳴、強制運動によって定義されるだけでもなく、そのシステムに住みつくそうした主体たちと、そのシステムを満たすもろもろの力動によっても定義されるのであり、そして最後には、それら力動から発して展開される質と延長によってもまた定義されることを、理解せよ」(同p319)
という風にこのシステムが世界を質的にも延長的にも定義する、と言い切ることができてしまうのだ。
この魔法によって、ドゥルーズのシステムは、質と量を定義することができ、それゆえ、世界を個物的にも普遍的にも語れるという凄いものになるのだ。

 


でも、この強度的システムで「異なるもの」を「異なるもの」へ関係させるという無茶をどうやって成し遂げられるのか、その難問がまだ解決されていない。ドゥルーズはそれを果たすのが「暗き先触れ」だとし、そのマジックの種として「永遠回帰」を持ってきて説明するのだけど、それについてはまた明日。

つづく

<僕にも分かる「差異と反復」>
「差異と反復」用語置き場

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