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« 「差異の異化」と「強度」〈僕にも分かる「差異と反復」2-14〉 | トップページ

2020年9月22日 (火)

「暗き先触れ」と、同一性が結果であるわけ〈僕にも分かる「差異と反復」2-15〉

ドゥルーズ「差異と反復」第二章「それ自身へ向かう反復」を読む。
(今日は文庫上p319~344)

いよいよ今日で第2章最後だ。強度を分節可能にする差異の異化のシステムにおいて、その異なるものを異なるものへ関係させるという「暗き先触れ」について考える。

「暗き先触れ・sombre précurseur」とは何か

「暗き先触れ」についての記述を見てみよう。
「〔強度が異化される話を受けて〕しかし次の最大の難問が残っている。以上のような強度的なシステムにおいて異なるものを異なるものへ関係させるのは〔何か〕…。我々は、差異、類似、そして同一性のそれぞれの役割に最大の注意を払わねばならない。まず手始めに、連絡を保証するあの作用者、あの強制力が何であるかを考えてみよう。雷は、相異なる強度の間で炸裂するのだが、ただしその雷の現われる前に、見えない、感じられない暗き先触れが先行しており、これがあらかじめ雷の走るべき反転した道筋を、まるでくぼみの状態で示すように決定する。同様にあらゆるシステムも縁取りの諸セリー間の連絡を保証する己の暗き先触れを含んでいる」(「差異と反復」文庫上p319)

前節まで、ドゥルーズが同一性を基準にせずに差異と異なる差異とを関係づけることによって世界を分節化するシステムの話を見てきた。だからここで、我々は同一性に基づかない世界の成立がどうやったら可能になるのかを考えなければならない。しかし、同一性を根拠にしないのなら、ある差異が他の差異と結びつく結びつき方はどんなものも許されてしまって、何でもありのワヤクチャになっちゃうのではないのか。しかし、ドゥルーズは、差異同士の結びつきを決定させる「暗き先触れ」がその結びつきに先立つものとして存在するとして、何でもありになるわけではないとする。

その「暗き先触れ」は、雷雲と地面の間で雷の通り道を先行して決定している「電場」に準えられる。雲の電気的セリーとそれと異なる地面の電気的セリーを雷が結ぶとき、その雷の道筋は、二つのセリー内外にある種々様々な電気的要素がそれぞれ互いに作用しあって構成される電場によって決定される。
でも、雷の通り道がそんな風に一意的に決定するように、様々な差異が関係づけられ異化されるというのであれば、そこにはもうすでに、見えていない同一性があって実はそれが基準とされていると言えることになるのではないのか。だって、差異のつながり方がすでに決定しているのであれば、その差異のつながり方を決定づけてしまった根拠がそこには隠れているはずであり、そこにもうすでに我々は知らず知らず、隠れた同一性を基準としてしまっているのじゃないのか。って疑えるように思われる。
その点について、ドゥルーズは次のように言う。

「先触れの同一性や、先触れによって連絡の状態に置かれる諸セリーの類似がある、ということは疑い得ない。けれども、その『ある』は依然として全く未規定である。では同一性と類似は暗き先触れの働きかけの条件であるのか、あるいは反対に結果であるのか。その場合、暗き先触れは架空の同一性の錯覚を必然的に自己に投影…するのか。そうだとすれば同一性と類似は、避けがたい錯覚すなわち、差異を表象のカテゴリーから出発して思考してしまう我々の習慣の所以としての反省概念でしかないだろう。…二つの異質なセリー、二つの差異のセリーが与えられるとき、先触れはそれらの差異を異化させるものとして作用する。そうして初めて、先触れは己自身の力によって、それらの差異を直接的な関係の状態に置く。要するに、先触れは、差異の即自あるいは『異なった仕方で異なる』もの(自己自身によって異なるもの)を異なるものに関係させる〈自己との差異〉である。…先触れは、その先触れが己のあるべき場所で欠けているといった意味での場所しかなく、その先触れが同一性において欠けているといった意味での同一性しかないのだ」同p320

ドゥルーズによれば、やはり「先触れ」の同一性は「ある」のだ。「ある」のだけど、それは、未規定な「判らないもの」としての「ある」なのだ。我々は、我々の経験を同一性に基づいたものとして表象されるのだと反省してしまう習慣があるので、同一性によって「先触れ」の内容が決定されていると「錯覚」してしまう。すでに我々は同一性を前提としないことを決意したのだから、それを条件だと反省するのは、まさに「錯覚」なのだ。そしてもっと言うと、「同一性」は必ず「反省」においてはじめて現れる二次的な条件でしかないものなのだ。「先触れ」は、差異をそれ自身によって異なるものに関係させる〈自己との差異〉として差異を捉えるものであるので、その視点においては、もはや「差異」だけが世界の第一次存在なのだ。それは、〈認識論的〉なだけの話ではなくて(つまり、その認識に向こう側に「本物」の世界があるのだけど、我々の認識においては、「差異」のみを第一義としなければ世界が認識できないという話ではなくて)、もともとその差異の奥にある「本物」の世界などというものは、我々の認識が言語的に分節化する以外には世界に到達できないものなのだから、逆にバーチャルな空間において普遍化され言語化された単なる「ファンタジー」でしかないのだ。だから「先触れ」の同一性とは、我々の世界においてもともと「欠損」でしかないところを埋め合わせただけのもの(いわゆるラカンの「対象a」であり、カントの「対象=x」)なのだ。(この捉え方では、認識論的な世界の限界と存在論的な世界の限界は一致してしまうので、もはや認識論と存在論とを分けることは或る意味で意味がなくなってしまう。)

つまり、「先触れ」は経験そのものを差異そのものとして意義付けるために、異なる差異同士を結び付ける「差異の場の状況」であるのだけれど、それは認識論的な限界であり同時に存在論的な限界でもあるところでの、認識不能な欠損を埋め合わせるための「置き換え」としての「場の状況」だと言えるだろう。したがって、

「したがって、我々は第三者の同一性と諸部分の類似が差異の存在と差異の思考とにとっての条件であるとは考えることができない。そうした同一性と類似は差異の表象にとっての条件でしかない」同p322
となる。そして
「異質なあるいは齟齬する諸セリーそれ自身を関係の状態に置くような、第二段階の即自的差異つまり暗き先触れを、我々は齟齬をきたすものと呼ぼう※Nous appelons dispars le sombre précurseur, cette différence en soi, au second degré, qui met en rapport les séries hétérogènes ou disparates elle-mêmes.」同p322
(※これ、財津訳では「dispars」を「齟齬する」とし、「disparates」を「齟齬をきたすもの」としているが、これを解釈するときには注意が必要だと思う。辞書によると「dispars」は「異なる」の、「disparates」は「消えるもの」のニュアンスがあるから、「異質なあるいは『異なり見えなくなる』諸セリーそれ自身を関係の状態に置くような、第二段階の即自的差異つまり暗き先触れを、我々は『異なり見えなくなるもの』と呼ぼう」ってくらいの感じで受け取るのが良いかな。)
それはまさに「異なるもの」を結び付ける働きあるので、その異なるものの間にはもともと「似ている」とか「似ていない」とか「差が小さい」とか「差が大きい」などという関係は無いのだ。反対なのだ。たとえば、「3分前の私」のセリーと「現在の私」のセリーが結び付いて「3分前の私が現在の私に『なる』」とされることについて、同一性に基づく捉えられ方では、「3分前の私」と「現在の私」にもともと同一性や類似があることが根拠になってそのように捉えられるのだけれど、「暗き先触れ」と捉え方では、「3分前の私」と「現在の私」が「先触れ」によって結び付けられてしまうからその「結果」として、それらが「同一」とされたり「近いもの」とされたり「差が小さいもの」とされたりするのだ。
「類似とはいずれにせよ、『暗き先触れ』の働きかけの効果、所産であり、外的な結果であって――作用者が己に欠けている同一性を横取りするや出現してくる錯覚なのだ」同p324
というわけだ。

この、異なる差異同士を結び付ける「暗き先触れ」は同一性の後ろで「見えないもの」になりがちなのだけれど、それでも、「同一性」ではなく、「先触れ」によって結びつけられているからこそ、我々は差異を経験の個物そのものとしながら分節化可能なものとして普遍的に語り得るものとなる。同一性に基づいた分節化によって世界を捉えようとすると、そのある同一性の基準に当てはめることによって世界を切り分けることになる。だから、この仕組みで世界を語ろうとするとき、世界の具体な対象はつねに同一性の基準とは違う「否定的なもの」として存在し、言葉はつねに不足なものでしかない。世界が無限であるのに対して、有限な言語活動の語彙は必然的に貧困なものにならざるを得ないからだ。それゆえ、同一性のシステムは世界を十分に語り尽くすことができない。ところが、「暗き先触れ」のシステムでは語は貧困どころか過剰になり、世界を統語論的に語るだけでなく意味論的に語れてしまうようになると、ドゥルーズは言う。
「まことに言語活動における語彙の貧困によってではなく、その過剰によってはじめて、しかももっと定立的な統語論的かつ意味論的力によってはじめて、言語活動は己が暗き先触れの役割を演じる形式を創出するのだ」同p325

 

「billard〔ビヤール撞球台〕」と「pillard〔ピヤール略奪者〕」

しかし、どうやったらそんな語の過剰などという状態が生じるのか、それについてドゥルーズはルーセルとジョイス、プルースト等の文学作品を例示して説明する。まず、ルーセルの「billard〔ビヤール撞球台〕」と「pillard〔ピヤール略奪者〕」という言葉遊びについて次のように言う。
「先触れは己の同一性によっては…けっして作用することがない。そのことは2つの語(bとp)の差異的特徴と一体とならないと機能しない準同型異義語のなかに見て取れる。同様に同型異義語もシニフィアンの名目上の同一性としては現れず、区別された複数のシニフィエを異化するものとして現れるのであって、こうして異化するものがシニフィアンにおける同一性や類似という結果をも二次的に生産するのだ。こう考えると、システムというものは或る否定的な規定に基づく(すなわち事物の対する言葉の不足に基づく――それゆえ一つの言葉が複数の事物を指示せざるを得ない――)と言うだけでは不十分ということになる。…〔暗き先触れの〕その形式においての言語活動は異なる諸事物について語るときそれらの諸差異を、その言語活動が共鳴させる諸セリーの中で直接互いに関係させつつ異化させるのだ。だからこそ、語の反復は、差異なき裸の反復として提示されるのでも、否定的な形で説明されるのでもないものとなる」同p325

Roussel_20200922222301 レーモン・ルーセル
レーモン・ルーセルRaymond Roussel 1877-1933は、フランス小説家詩人。「billard〔ビヤール撞球台〕」と「pillard〔ピヤール略奪者〕」というのは、「黒人の中で」という短篇内の言葉遊びである。その小説は「Les lettres du blanc sur les bandes du vieux billard. (古い撞球台のクッションに書かれた白墨の文字)」という一行ではじまる。「私」は友人宅で「今年最も感動した本は?」というクイズを出して遊んでいる。それでそのクイズのヒントを古い撞球台のクッションに白墨で書いたのだ。答えは「黒人の中で」という本だったのだが、それは、老黒人王に捕らえられた白人船長がその略奪者の行状を伝書鳩の脚に結び妻に送る、という小説だった。それで、この短篇は最後、「Les lettres du blanc sur les bandes du vieux pillard. (年老いた強盗の一味についての白人の手紙)」という一行で終わる。つまりこれは、それぞれbとpの一字が違うだけでまるで意味の異なる2文「Les lettres du blanc sur les bandes du vieux billard. 」と「Les lettres du blanc sur les bandes du vieux pillard. 」の間を埋める物語である。
Billardpillard
作品の最初と最後でまったく同じ語が反復されるのだけど、その同じ「lettres」が最初は「文字」で最後は「手紙」の意味になる。「blanc」は最初は「白墨」で最後は「白人」の意味になり、「bandes」は最初は「クッション」で最後は「一味」の意味になる。それは、全く同じ形の語でありながら異なる意味を持つ「同型異義語」である。それらの「lettres」「blanc」「bandes」の語の意味は、それぞれの文の最後に「billard」が置かれるか「pillard」が置かれるかがはっきりするまで、定まらない。それゆえ、「lettres」の語の意味は、それ自身の語の形だけで決定することはなく、その文の中の「b」と「p」の文字に依存しているとも言える。そしてこの「lettres」の語の意味が「b」と「p」の文字に依存しているという状況は、やはり「lettres」と「b」と「p」の関係性だけによって形成されているわけではなく、この小説内のすべての語のそれぞれの多彩な関係性の中で意味の「場」が構成され、それによって初めて形成されたものと言えるだろう。まさに、雷の前にその通り道を規定する場であるところの「暗き先触れ」と同様に、それぞれの語の意味がその系の中のすべての語の関係性によって規定されているのだ。そのすべての語の関係性がそれぞれに異化されて、互いに異なるものとしての関係性を持ち合う中で意味を発生させる。その多彩な関係性の糸が互いに絡み合い縦横に互いを編み合って他の意味を支え合うことになる、そこに多彩な意味が共鳴しあって、豊潤な世界を生じさせる。それは、同一性システムのように確定された規則によって語られる世界ではないので、語られる世界の内容はつねに移ろい続けるあやふやなものでしかないかもしれない。それでも、それは同一性システムのように語彙の不足によって、必然的に個物を語り得ないものにしてしまうような言葉足らずのシステムではなく、逆にすべての関係が新たに語の意味をどんどん作り出してくる中で共鳴するような語の過剰によって構成されるので、つねに個物を語り得るものとなり続けるのだ。

 

ジョイスの「エピファニー」

その、語の意味が他に支えられ全体と関わり合う中で新しく立ち上がってくるというのだが、同一性に基づかないまま、その支え合いの基礎となる土台を持たないままでどうやって、語は意味をもつことができるというのか。それについて、ドゥルーズはジェイムズ・ジョイスの作品を例示して「エピファニー」なるものを挙げる。その「エピファニー」によって、ジョイスは「フィネガンズウェイク」という不思議な物語において、無茶苦茶なカオスでありながらきちんと構成されたコスモス的な記述が組むことができた。
「共鳴する諸セリーによって成立するシステムの中で、暗き先触れの作用のもとで生起するものは「エピファニー」と呼ばれる」同p326
と言う。
Joyce_20200922222801 ジェイムズ・ジョイス 1882~1941
【エピファニー】とは、「『エピファニー』はふつうキリスト教『公現祭』を指すが、ジョイスの用いる語としては些細なことから人間の本質が突然啓示される瞬間を意味する」(「差異と反復」訳注)であり、また、
「エピファニーとは、彼によれば言葉あるいは身振りの卑俗性の中にであれ心それ自体の記憶すべき様相の中にであれ突然の精神的顕現のことであった」(ジョイス「スティーブンヒアロー)
つまり、「エピファニー」とは意識の中で何かの閃きだと思って良いだろう。語が、同一性に依らないで意味を立ち上げるとき、ちょうどポエムが生まれるときのように、その閃きによって意味が生じるということだろう。もっと言えば、すべての語の意味とは、他の語との関係性の中でではあるが、単に閃きに基づいて、その都度どんどん新しく意味を立ち上げ続けるだけのものであり、すべての記述はポエムでしかないと言えるのかもしれない。
「エピファニー」によって立ち上がった語の広がりは、複数のセリー間を往復し振幅しながら意味が失われる果てへとはみ出しながら、意味を共鳴させる。
また例えば、ジョイスの「ユリシーズ」の主人公の一人である22歳英語教師スティーブンが己自身への問いとして呟く「ノー」に対し、また別の主人公の一人である38歳ユダヤ人男性ブルームに向かって妻モリーが最終話で二人の愛を再確認しつつ繰り返す「イエス」の語を対応させるが、この対応が互いの語を響かせ合って意味を豊かなものにしている。このような、小説内での語の響き合いも「エピファニー」の力だと言えるだろう。

 

プルーストの「コンブレでの現在」のセリーと「アクチュアルな現在」のセリー


さらにドゥルーズはプルースト「失われた時を求めて」の例も挙げて、その対象の響き合いが「純粋過去」における共鳴であることを説明する。
Proust_20200922223801 マルセル・プルースト1871~1922
主人公の記憶の中の過去の「コンブレという町で生きていたときの古い現在」のセリーと、この今の「アクチュアルな現在」のセリーとが響き合って世界を構成するときにも、やはり「暗き先触れ」が関わる。「失われた時を求めて」の第五篇「囚われの女」では、主人公が嫉妬と疑念から愛するアルベルチールを束縛し自宅に囲い込む話。ドゥルーズは、その主人公が母への愛とオデットに対するスワンの愛とアルベルチールへの愛が、秘密の先触れで連結され永遠の置き換えによって偽装される例として挙げる。
 Photo_20200922223402
それは、「古い現在」のセリーが先ずあって後から「アクチュアルな現在」のセリーができるのではなく、さらに、「古い現在」のセリーと「アクチュアルな現在」のセリーが先ずあってその後でそれを連絡する「暗き先触れ」ができるのでさえ、ない、ということ、だ。

 

「コスモス」と暗き先触れ

さらにさらに、ドゥルーズはゴンブローヴィッチ「コスモス」を挙げて、「暗き先触れ」がセリーの諸差異を異化させることを例示する。ゴンブローヴィッチはポーランドの劇作家。「コスモス」は或る村にやってきた青年がさまざまに登場してくる対象の「首くくり」と「口」に出会い、その不可思議な関係が危ういバランスのまま描かれていき、最後に主人公が猫を殺すことでもって、そこに新たな意味の連絡を創設してしまうという物語。猫殺しが一つの「暗き先触れ」の現われになって、それによって新しくその様々な「首くくり」と「口」がそれぞれ異なるセリーとして(異化され)構成されることになる。

つまり、「暗き先触れ」とは、経験されたすべてのイマージュが何者でもないもののまま全てをひっくるめて、その中に在る様々な差異そのものを新たに連絡させ合い、それによって異なるセリーを異なるものとして成立させ、同一性や類似もその後でそこに成立させてしまう。何者でもないものが響き合って新たにポエム的に意味が立ち上がり、エロスが構成され我々の生が「在る」ものとなる。だから、その「生」の共鳴はすでにつねに生でさえなかった「死」を孕み続け、つねにエロスを超え出て破壊しようとする「死の本能」を持ち続ける。そのように、何者でもないイマージュとしての「純粋過去」において、つねに新しい異なるセリーを作り続けるから、その結果として後から「同一性」や「類似」ができてくるのだ。もちろん世界をきちんと統語論的に有意味に分節化するためには真理値のある文法に基づいて文を構成しなければならず、そのためには同一性は不可欠である。だから、ドゥルーズのやり方でもちゃんと同一性に頼っている部分もあるのだけれど、その同一性は、つねに世界をリニューアルし続ける「暗き先触れ」のポエム的な働きの後から、結果として出てくるものでしかないのだ。しょせんポエムだから何を言っているのかはっきりしない面もあるかもしれない。しかしそれだからこそ、このドルーズのやり方は、意味論的に世界の個物をとらえながら、統語論的に世界の普遍性をとらえることができてしまうのだ。我々の言葉がちゃんと現実世界に届くのだ。
しかも、その世界が語り得るものになるというのは、単に認識論的に語が世界に到達するというだけの話ではなく、まさに認識論的に世界そのものが個物として存在し得るようになる話なのだ。すごい話なのだ。

 

「同一性が結果」とは?

しかし、「暗き先触れ」を根拠とし、その結果として「同一性」が発現してくるのだとしても、その「暗き先触れ」が私のあずかり知らないところで決定されているのであれば、どちらが根拠でどちらが結果であろうと、結局は同じことだと言えるのではないか。「同一性」が結果でしかないというのは単なる言葉の綾で、結局、ドゥルーズの言うシステムも、同一性によって構成されるカントのやり方と対して変わらないものでしかないのじゃないか。

 

ライプニッツの「都市」と「同じ一つの物語」

否、そうではないのだ。
この点についてドゥルーズは同一性を経験に後続するものでなければならないことを説明するのに、経験のカオスそのものを定立することの重要性を説く。そして、あのライプニッツでさえ経験をそのまま受け入れる姿勢が不十分だったと言う。(永井均は、「起こることの内容的つながりによって何が現実であるかが決定する」とする立場をカント原理と呼び、「何が起ころうと起こったことが現実だ」とする立場をライプニッツ原理と呼んだが、そのように言われるほどにライプニッツは経験をそのまま受け止めようとした経験論者であるが、そのライプニッツをしてまだ、経験を受け止め切れていないとドゥルーズは批判する。)
まず、ライプニッツは「モナドロジー」で次のように言った。
Leibniz_20200922223001 G.W.ライプニッツ1646~1716
「57.同じ町でも異なった方角から眺めると別な町に見えるから見晴らしの数だけ町があるようなものであるが、同様に単一な実体の無限を考えると同じ数だけの相異なった宇宙が存在していることになる。しかしただ一つの宇宙を各モナドの視点から眺めた際、そこに生ずる様々な眺望に他ならない」モナドロジー
それに対してドゥルーズはこう言う。
「都市に対して複数の視点があるというライプニッツの主張のように、同じ一つの物語に対して諸々の異なった視点があるということではなく、むしろ同時に展開してゆくまったく異なった複数の物語があるということだ」ドゥルーズ「差異と反復」文庫上p330

ライプニッツもドゥルーズも都市を見る複数の視点があり得ることを認めている点では同じなのだが、ライプニッツは複数の視点が見ているその都市そのものの物語が、それらの視点とは別に存在するとしているのに対して、ドゥルーズはその都市そのものの物語というような存在を認めない。その、都市そのものの「同じ一つの物語」は結局、フロイトの「裸の反復」のように同一性を基準にすることによって定められ得る「本当」の実在だと言えるようなものになるだろうが、ドゥルーズによれば、そのような「本当」は我々の言語の射程から外れざるを得ないものであり、そんなものが「ある」などと言ういうことはできないのだ。
複数の視点で見られたそれぞれの都市は、どれも置き換えられ偽装されたある種のファンタジーかもしれないが、それでもそこに見られたそれぞれの都市の物語が「ある」と言うことは意義がある。しかし、その複数の視点の奥にあるが誰にも見られる可能性が無い都市の「同じひとつの物語」について、これが「ある」ということは、ドゥルーズのこのシステムにおいてはもはやファンタジーでさえ無い。ナンセンスなのだ。ここに大きな断絶があるのだ。ドゥルーズにとっては、その誰にも見られない「同じ一つの物語」が実在する対象にはなり得ない。我々の複数の視点が見ているそれぞれの複数の物語どもがどれも実在する対象なのだ。アンティチョークを剥いていった最後に答えがあるのではない。その剥かれていく一枚一枚がすべてすでに実在の答えなのだ。
そして、このドゥルーズの立場に立って世界を見ると、その一枚一枚はそれぞれ固定的な錨になることはあり得ず、どのセリーもどこまでもよく分からないものに発散してしまう。
「ベースとなる諸セリーは発散するものだ。発散すると言っても、道を引き返せば収束点へ向かえるような相対的な発散ではなく、収束の地平がカオスの中にあり、つねにカオスの中で置き換えられるという意味で絶対的に発散するものだ。発散が肯定の対象であり、同時にカオスはそれ自体もっとも定立的である」同p330

 

「併せ含み・繰り広げ・巻き込み」の三位一体


経験を何者でもないカオスであることを認め、そのカオスをそのまま受け止める。ここに在る「これ」は、「我思うゆえに我あり」などとはまだ到底言えないようなカオスなのだ。「これ」は感性によって形式化できるような者などとはまだ到底言えないようなカオスなのだ。経験はカオスそのものであることを、勇気をもって受け入れてしまうのだ。だから、世界は、分からないものとして発散するものであることを受け入れるしかないのだ。何者でもないカオスが、発散する世界であることを受け入れ、それでも、そこにとりあえず「異化」をほどこして、とりあえず「セリー」を形成し世界を意義付けることに挑戦してみる。我々にできることはその程度のことしかないのではないか。
「併せ含みcomplicationコンプリカシオン—繰り広げexplicationエクスプリカシオン—巻き込みimplicationアンプリカシオン、という三位一体によって、システムの総体、すなわち一切を保持するカオスと、そのカオスから出たり戻ったりする複数の発散するセリーと、それらのセリーを互いに関係させ異化させるものが説明される」同p331
他なるセリーがセリーとなる前の、何者でもない経験そのものとしての「純粋過去」はカオスであり、それゆえあらゆる視点が世界を共有するものとして「併せ含みcomplication(共有する)」の次元を持ち、それが発散し続けるものであることを受け入れることで「繰り広げexplication(外へ出る)」の次元を持ち、しかしその発散を認めた上でその中でセリーの異化を立ち上げ、世界の分節化を試みることができるとする「巻き込みimplication」の次元を持つ。この三位一体によってドゥルーズのシステムはできているのだ。

 

フロイトの「幻想・ファンタスム」

「併せ含み・繰り広げ・巻き込み」について、ドゥルーズは、
「本質的であるのは、発散するセリーのすべてが総体的に同時的であること、同時間的であること、共存することである」同p332
と言い、それを、フロイトの「幻想」について考察することで問う。
【幻想・ファンタスム】主体が登場する想像上の脚本。その脚本は防衛過程によって歪曲されたかたちで、無意識的欲望の充足をあらわす。幻想は種々の形態であらわれる。意識された幻想、或いは白昼夢、分析によって顕在内容の基礎構造であることが明らかになる無意識的幻想、原幻想など(精神分析用語辞典)
「幻想は、ベースとなる二つ以上のセリーによって、すなわち一方は幼児期・前性器期のセリー、他方は性器期・思春期以降のセリーによって構成されると言われるとき…セリーが時間の中で継起するのは明白だ」「差異と反復」文庫上p332
Freud_20200922224001
ジークムント・フロイト1856-1939


としながら、フロイト用語「遅れ」について次のように言う。

【遅れの現象】「とは、〈原風景〉と仮定された幼児期の光景の効果が、…成人期の光景のなかに、隔たりを置いてはじめて現れるために必要な時間のことである」同

〈過去のセリーと今のセリーとが継起する〉って言ってるのに、過去の光景が「遅れ」の時間の後で「はじめて現れる」って言うのだ。この「はじめて現れる」過去と今が響き合うのが「共鳴」なのだ。先に見たように『失われた時を求めて』で、その主人公は、古い現在とアクチュアルな現在を新しく「はじめて現れてくる」幻想として受け入れる。古い現在を「幻想」とするだけでなくアクチュアルな現在までも「幻想」として一挙に立ちあげるのだ。〈前〉と〈後〉を共存させる時間の、この純粋な形式「幻想」こそが、フロイトにとっては最後の現実だった。

この「併せ含み・繰り広げ・巻き込み」のシステムは「永遠回帰」そのものである。
「永遠回帰」は基底なき法則として開示されるが、この「併せ含み・繰り広げ・巻き込み」も、つねに自らの外へはみ出し続け、自らを裏切り続ける規則を「とりあえず」立ててみることで、この現実世界を分節可能にする。それは、一回限りのサイコロの出目を何が出ようとすべて受け入れる「骰子一擲」であり、まさに、一回きりの永遠の繰り返しをイマココにすべて受け入れる「永遠回帰」である。
さて、永遠回帰とは「同じものの回帰」であるが、その「同じもの」には3つの意味がある。
「第1の同じもの」は「永遠回帰の基体」であり、それは「幻想」における純粋な何者でもない時間の中で、「異なるもの」であり、「似ていないもの」であり、〈多〉であり、「偶然」である。その、異なっていて似てなくて〈多〉なるもので偶然なものが「同じもの」にもなり得るような、何者でもない基体が、その純粋時間の中にあるということ。
「第2の同じもの」は、「永遠回帰のシステム」であり、発散するセリーの中で、差異が「シミュレート」された見せかけとして異なるものを異なるものに関係させられるということ。
「第3の同じもの」は、「永遠回帰」の結果が「同じもの」であり、「永遠回帰」そのものが「違うもの」についての「同じもの」であり、〈多〉についての〈一〉であること。

 

同一性が結果である訳

こうして、この「幻想」という〈時間〉においては、はじめに純粋な何者でもない経験そのものがあり、そこに「異化」と「複数のセリー」とが一挙に生じる。その後でそれに適応するような言語体系を作る方便として「同一性」や「類似」が「二番煎じ」として制定されるのだ。
それゆえ、このシステムで語られる「同一性」はどこまでも「とりあえず」のものでしかなく、「異なるもの」として「同じもの」でしかないのだ。それゆえ、やはり「同一性」は「結果」でしかないと、はっきりと声を大にして言わねばならないのだ。

ここまで2章「それ自身へと向かう反復」を読んできたが、ドゥルーズの問いは、どこまでもこの現実の経験をどうすれば私自身で掴むことができるかというところにあった。それは、経験そのものを絶対化し、とにかくその現実経験を掴むためのシステムを求めようとするものだった。
光速度一定だけを定立させて他のすべてを整合させようとしたのがアインシュタインのシステムだとすれば、経験のカオスそのものだけを定立させ他のすべてを整合させようとしたのがドゥルーズのシステムだ、とまとめても良いように思う。「相対性理論」はその整合を図るために、ニュートン力学の時空の形式の根底から全体を作り直すという大転回を行った。同様に、ドゥルーズのシステムは現実経験のカオスをそのまま定立するために、同一性をその基底に置かないという大転回を行ったのだ。それは、科学の求める世界の先に「究極の本当の現実」がある訳ではないとする点で、科学までもひっくり返す。究極の本当の現実は、この現前の「幻想・ファンタスム」にすでにあるとしてしまうのだ。僕の老眼の目に映るこのぼやけたはっきりしない世界が、すでにもう究極の本当の現実世界なのだ。それら、それぞれの視点から見る都市の物語どもだけが現実なのだ。ウィトゲンシュタインは「論考」で「像は現実に到達する」と言い、「探究」で「鋤は硬い岩盤に達している」と言ったが、まさに我々の言語はすでに現実に到達しているのだ。そのウィトゲンシュタインが問うたその現実に届く言語のメカニズムを模索したのが、「差異と反復」だったように僕には思われる。
Wittgenstein2 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン1889~1951

プラトンへの批判

ドゥルーズはこの2章の最後で、プラトンがソクラテス一人、「イデア」一人が真実を見据えられているとしたことを批判しているが、このように見てくるとそれは当然のことのように思われる。もはやドゥルーズにとっては、「幻像・ファンタスム」「見せかけ・シミュラクル」「似像・コピー」こそがまさに現実であり、その向こう側にあるという「イデア」や「範型・モデル」というのは、もう「幻像」や「見せかけ」の後から二番煎じとして生じさせるしかできないのだし、それを無理して「その奥に隠れている真実」なるものを「ある」としてしまうとその時点で、この眼前の現実の経験とは別の世界の話にしかならないのだ。

Platon_20200922225301プラトン BC427~BC347

「プラトンは永遠回帰を《イデア》の効果だとし、範型の似像だとして律しようとしたが、しかし、劣化した類似の、似像における似像の無限運動の中でこそ、我々は、似像そのものが見せかけの中で転倒し、類似が反復に道を譲ってしまう点に到達するのだ」同p344

Deleuze_20200922223701ジル・ドゥルーズGilles Deleuze1925~1995

以上。ながながと見てきた「差異と反復」2章の読み取りを終える。

つづく

<僕にも分かる「差異と反復」>
「差異と反復」用語置き場

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