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2020年8月16日 (日)

「流産したコギト」とエロスにおける受動的総合の深化〈僕にも分かる「差異と反復」2-12〉

ドゥルーズ「差異と反復」第二章「それ自身へ向かう反復」を読む。
(今日は文庫上p281~299)

前節では、時間の第2の総合において、潜在的対象のセリーが〈バーチャル〉な世界を拡張し、現実的対象のセリーが〈リアル-ポシブル〉の分節化することで、ひとが純粋過去から世界を構成してゆくときの、そのメカニズムについて、フロイトとラカンの精神分析の視点から見た。それは、フロイトが無意識の奥に「本当の答え」があるとしていた考え方から、ラカンが人の意識できる意味とは欠損に対する補填にしかすぎず「本当の答え」など無いとする考え方への、世界の捉え方の大転回の話でもあった。前回は「自己保存欲動」中心の話だったので、今日は、もう一方の欲動であるところの「性的欲動」がそこにどう関わりどのようにしてその大転回が為されるのかについて見ていき、考察したい。また、リクールの「流産したコギト」の話を見ることで、なぜその転回が必要であったのかを、そして前回僕が示した時間の第2の総合の図において、「その感覚的な生そのもの(エロス)」と「何者でもない記憶でありながら、すべての現実世界に通じている過去の記憶(ムネモシュネ)」とがどのように関係しあって、意味のある生の世界を織り上げていくのかを、考えたい。
2_20200813133201
前節で考えた第2の総合の関係図。今日はこれをさらに深めるような考察にしたい。

今日の考察
①リクールの「流産したコギト」と、フロイト説がダメなわけ
②無意識が欲望しかしないことと問いと問題の探求
③問いが持つ存在論的射程について
④エロスにおいて受動的総合が深化するメカニズムについて

 


①リクールの「流産したコギト」と、フロイト説がダメなわけ

「抑圧ゆえの反復」から「反復ゆえの抑圧」へ

フロイトの視点からラカンの視点へのそのような転回について、次のように述べている。
「反復は、実在性の〔2つの〕セリーの諸項と諸関係に関与する偽装とともにその中で、初めて構成される。ただしそうした事態は反復がまずもって置き換えをその本領とする内在的な審廷としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立するのだ」(「差異と反復」文庫p285)
「ひとは、抑圧するから反復するというのではなく、かえって反復するから抑圧するのだ。また同じことだが、ひとは、抑圧するから偽装するのではなく、偽装するから抑圧するのであり、しかも反復を決定する焦点〔潜在的対象〕の力によって偽装するのだ」(同p286)
 Freud_20200816085902 ジークムント・フロイトSigmund Freud1856-1939
Lacan_20200816090201 ジャック・ラカンJacques.M.E.Lacan1901~1981

フロイトモデルについて

フロイトの精神モデルでは、固着が反復強迫をなすときに抑圧が起こり、それが原因となって反復が偽装されてしまう、とする。そのことを、ドゥルーズはフロイト精神分析用語としての「固着」「反復強迫」「抑圧」を次のように解説し説明している。
【固着】「反復に対して最初のもしくは最後のものとして仮定された項」(同p282)
【反復強迫】「反復を覆う偽装に対して裸の反復として仮定された反復」(同)
【抑圧】「葛藤の威力によって必然的に反復を付け加える偽装」(同)
ひとは、自分自身がなぜそのような行為をしたのかについて、無意識の抑圧によって偽装されてしまうので、そのまま知ることができない。しかし、その偽装を剥がしその裏に潜む最初の項としての「本当」の自分の姿が固着としてそこにある、とフロイトモデルは考える。そしてその固着によって生じるもっとも深いところに隠されている裸の反復は、現実主義的で唯物論的で主観的個人主義的でもあるとされているとドゥルーズは言う。それは存在論的に、真なる在り方をしている「外在的な存在」でありながら、独我論的な「私の世界」でもある。だから、そこは現実的に人が知ることはできないものだとしても、その隠されている奥底に、個物としての真実であるとともに真に普遍的でもあるような、まるで「モナド」であるような存在があるとするのだ。

 

フロイトモデルが多くの問題を解決するように見えること

フロイトのように、そのようなモナド的存在を認めるなら、さまざまな哲学問題が解決されてしまう。
「想像的なもの」と「現実の事実」が対置するような視点においては単に「究極的根源的なものとされる心的な現実」がちゃんとあるのだってことになり、それを問題にすればよいことになる。
「精神」と「物質」が対置するような視点においては単に「己の最後の同一性に身を据えた裸の精神」なるものがあり得ることになり、それを問題にすればよいことになる。
またユングのように「集団的無意識」と「個人的無意識」が対置するような視点においては単に「独我論的主観に表象を吹き込む己の力能によってでしか作用しない」等ということだけが問題になる。そこでは、もはや他者はない。だから、

「人は反復を古い現在における同一性とアクチュアルな現在における類似規則に服従させる」(同p283)

というように、「古い現在」や「昨日の私」は「アクチュアルな現在」や「アクチュアルな私」ときちんと地続きな存在としてある。というか地続きなものでしかない。
だから、フロイトモデルの世界はは、「世界は私の世界。私は私の世界」というようなウィトゲンシュタインタイプの独我論的世界観に近い。それは「ナルシシズム的なイマージュ」とも言えるもので「イマココ」に感じ得る受動的自我こそが私であり世界である。それゆえそれは「イマココ」にある生が世界そのものだとする点で「時間の第1の総合」にも近い。それは受動的無意識的な習慣(ハビトゥス)でもって、この唯一の現実の生としての「イマココ」が開き直されることで、その感覚的な生そのもの(エロス)とすべての現実世界に通じている過去の記憶(ムネモシュネ)とを結びつけることができる、と考える。

「第1の受動的総合、すなわちハビトゥスの受動的総合は生ける現在という再開される様態で反復をエロスとムネモシュネの紐帯として提示していた」(同p294)

 

フロイトモデルがダメなわけ・「流産したコギト」

これで話がうまくいくのであればすべてが丸く収まって万々歳であった。その話がうまくいくのなら、私の私秘性が「イマココ」において実在世界につながることができ、私だけが感じ得るこの個物を普遍的な世界に結びつけられる。紀元前から延々と問われ続けてきた普遍論争を解決できてしまえるのだ。
しかし、そんなうまい話はなかった。
なぜなら、そもそもデカルトが「我思う我あり」で確実だとしたコギトが実はすでに、そのコギト自体を私が自分で掴むことができないものだからである。独我論的世界の想定を持ってきても、世界そのものを個別的かつ普遍的に掴むことができないのだ。ドゥルーズは、リクールの「流産したコギト」の話がその点を説明しているとする。
Ricoeur_20200816090501 ポール・リクール Paul Ricoeur 1913.2-2005

【流産したコギト】リクールのフロイト論に関する用語。必当然性が不十全性の下でしか証明され得ないゆえに、〈我思う我あり〉の必当然的真理が疑似明証性に塞がれてしまうこと
この「必当然的真理が疑似明証性」とは、もともとフッサールが明証の十全性と必当然性が両立できないとした言説である。

「明証の十全性と必当然性は必ずしも一致しない」(フッサール「デカルト的省察」)

その「十全性」「必当然性」の意味は次のとおり。

【必当然性】「完全に規定された固有の意味での絶対的な疑いのなさ」同
【十全性】「概念や認識がその対象(事物)と完全に一致・適合していること」大辞林

「先験的経験は私の先験的な〈我あり〉を必当然的確実性でもって把握するが、この必当然的確実性の、それ自体第一のものである認識地盤の現実存在は…ただ推定されているだけである。この推定は、その充実の可能性についてその有効範囲についての批判を要求し、その有効範囲は必当然的に画定される。先験的自我はどの程度まで自身を誤り得るのか」(リクール「フロイトを読む」)

「必当然性」は「完全に規定された意味で絶対的な疑い得なさ」のことだというのだから、それはまさに定義の言語的な絶対確実性のことだとも言えるだろう。現実世界の完全なる詳細にその「必当然性」を届かせようとするってことは、だから、現実世界を定義でもって確定させようとする働きだと言えるだろう。しかし、定義でもって確定させてしまった世界はそれが定義であるとされたその時点で、それは現実世界ではなくファンタジックで観念的な模型としての世界になってしまうのだ。だから必当然性が必当然性を求める限りにおいて必然的にそれは現実世界から離れた世界になってしまうのだ。言語はその有効範囲を拡張することによって必ず現実から遠のいてしまうのだ。
それゆえ、リクールは、我々が自分自身の「コギト」でさえその名称の十全性と必当然性の両方を一挙に入手することはできないのだから、フロイトの抑圧理論を受け入れることができないとしたのだ。我々は自分自身が何者であるか世界が何者であるかを知ることはできないのだ。

 


②無意識が欲望しかしないことと問いと問題の探求

ラカンモデルにおいて「無意識は欲望しかしない」こと

また、フロイトの弟子のラカンもリクールとは違う方向から、人は世界と自分自身を捉えられないとしてフロイト理論の転回を図った。他者を欠如として捉え、その穴を想像上の潜在的対象でもって埋め合わせることで世界を捉える。同様に自分自身を欠如として捉えその穴を想像上の潜在的対象でもって埋め合わせることで自分自身を捉えるのみというものである。(潜在的対象が世界を構成しているという点で、ラカンのモデルは「時間の第2の総合」に極似したものとなっている。)
そしてこのフロイトからラカンへの転回に、ドゥルーズは「答え」と「解」への関与から「問い」と「問題」の探求を読み取りそれが無意識裡に行われるとする。そして次のように言う。

「無意識は欲望し、欲望することしかしない。しかし、欲望は潜在的対象において、己と欲求との差異という原理を見出すと同時に、否定の動力としてではなく、対立というエレメントとしてでもなく、むしろまさに、欲求と満足という場とは別の場において展開される、問いかけ的かつ問題提起的な、探究の威力として現れるのだ」(「差異と反復」上p289)

この文章、なかなか深い内容があって、ここにこそ、リクールが指摘する「流産したコギト」の必当然的真理が疑似明証性を乗り越え得るような、フロイトからラカンへの転回が示されていると僕は読んでいる。
まずラカン精神分析における「欲求」「要求」「欲望」用語確認から。

【欲求besoinブズワン】生命維持のための身体反応としての欲求。(ラカン「エクリ」邦訳では「欠乏」と訳されているので注意)
【要求demandeドゥマンド】欲求がシニフィアンの形式で求められるもの。欲求が言語的に分節化されたもの。
【欲望désirデジール】欲求と要求の裂け目で構成される領野。(ラカン「エクリ」邦訳では「欲求」と訳されているので注意)

なので、「無意識は欲望し、欲望することしかしない」というのは、シニフィアンとして言語的に分節された欲求の内容こそが無意識に働きだとするもので、単に、「身体的欲求は無意識的な反応だ」とするだけの話ではない。

 

「問題」と「問い」について

さらに「問題」と「問い」の用語確認。

【問題probièmes】「問題というものは、現実の諸セリーを構成している諸項および諸関係との相互な偽装と『照応している』」(同p289)。

【問いquestion】「問題の源泉としての問いというものは、潜在的対象に即してそれらセリーが展開されるときのその潜在的対象の置き換えに対応している。潜在的対象としての男根(ファルス)はつねに、それがそこで欠けている当の場所において、謎となぞなぞによって指示されるのだが、それはまさに、ファルスがその置き換えに空間と渾然一体となっているからである」(差異と反復上p289)。

「問題」が、フロイトの抑圧による偽装によって隠されてしまっている真実の『解』としての裸の反復や固着を探るための問題であるのに対して、「問い」はその問題を探るためのもっと根本的問題として、その世界把握のための基本的なルール(ファルス)をいかに設定するか(あるいは、その世界を理解するための分節化のためのルールをいかに設定するか)の『答え』を求めようとすることである。「問題」が偽装に対応するのに対して、「問い」は他者の不在や世界の不在を潜在的対象で埋める「置き換え」に対応する。
フロイトの抑圧モデルでも「問題」や「問い」の下でその「解」や「答え」が求められるのではあるが、「問題」や「問い」そのものには、健全で完全な真実の「問題」や「問い」がありそれが正しく問われる限りにおいて、偽造の裏側に健全で完全なる真実の「解」や「答え」が必ず隠されてあるとする。それゆえ究極的に我々が求め目指すところはどこまでも「答え」でありその先の「解」であることになる。
しかし、ラカンモデルにおいては、生自体が生きていくうえで、世界や自我自身がすでに欠如でしかないことが既定だとされているために、それを埋めるはずの実在的な対象は必然的に代用でしかなく、そこにはもはや「本当」の世界の「対象」などというものはあり得ないとされう。その「裂け目」において、潜在的対象を要求することがラカンモデルにおける「欲望」なのである。だから、「答え」や「解」にはもはや「本当の答え」も「本当の解」のないのだ。

「仮面の背後には、したがって、またもや仮面があり、だからもっとも隠れたものでさえ、はてしなく、またもや一つの隠し場所なのである…反復の象徴的な器官たる男根(ファルス)はそれ自体隠れているばかりでなく一つの仮面である」(同p287)
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言わばただこの「欠如」こそがこの「欠如」だけが、「本当」の世界なのである。しかし欠如だけでは生は己の生を感受することはできない。だから、主体はそこに「希望」としての(あるいは「絶望」としての)代用的潜在的対象(対象a)を冒険的に持ち込まねばならないのだ。しかし、それはどこまでも代用でしかないのだから、「答え」や「解」よりもずっと「問題」や「問い」は重要になってくる。「問いかけ的問題提起的な探求の威力として現れるのだ」。

ラカンモデルでは「無意識が欲望しかしない」わけ

フロイトモデルにおいて、無意識的な欲求に応じて固着が強迫的に反復され抑圧偽装されるそのシステムの中で、それが無意識的な行動であるとしても、そこには真実の「問題」「問い」が隠されてあり真実の「解」「答え」が隠されてある。そこではその真偽二値論理による問題設定に下で、世界の内容を分節する対立軸と限定が置かれ、「否定的なもの」に対する「肯定」として理解されるべきものとして世界がある。そのような無意識的に分節化可能な世界がすでにあって、それが主体によって意識されることによってその生の中に表現される。フロイトモデルは、「無意識的な欲求」がそのような世界分節化の仕事をすることができるということを示した点で、大変意義深いと言える。
しかし、ラカンモデルにおいては「無意識」なのは「欲求」ではなく「欲望」だとされることでさらにフロイトを乗り越えるのである。
つまり、ドゥルーズがそのラカンモデルに基づいて「無意識は欲望し、欲望することしかしない」と言ったのは、「無意識は、(快楽原則や現実原則を示す抑圧理論に基づいたり、生の欲動や死の欲動を示す欲動理論に基づいたりした身体がその生命維持のために『欲求』するのではなく、それがファルスの下で欠如を補完するための『問いかけ的問題提起的に探究の威力を現す』ような)『欲望』をするのだし、そのような意味での『欲望』をするしかない」ということ主張したのではないだろうか。
つまり無意識化で私の身体は世界を問い続けているからこそそれによって、私は世界を意識して感じ取ることができるのだけれども、そこに開ける世界がいかなるものでありそれを見る私が何者であるかという「問い」「問題」に対する本当の「答え」や「解」なんてものはなくて、それを問おうとしている冒険的な運動そのものがまさしく世界を開けさせる威力なのではないだろうか。

 


③問いが持つ存在論的射程について

「否-存在non-être」と「(非)-存在(non)-être」

その「問い」はそれ自体が欠如を埋めるための冒険であるゆえに、常に、どこまでも、その問い自身がその問い方を問い直す視点を自身の中に孕むことになる。そして、その問い直しによって、問いには存在論的な射程があることが示されることになる。

「答えを呼び起こさずに黙らせるには問いというものが十分な執拗さをもって立てられさえすればよい。このような場合にこそ、問いは、己のまさしく存在論的な射程を発見するのである。存在論的射程とは、否定的なものの否-存在non-êtreには還元されることのない問いの(非)-存在(non)-êtreのことである。根源的な答えや解、究極的な答えや解というものは存在しない。〈問い-問題〉のみが、あらゆる仮面の背後にある一つの仮面のお陰で、またあらゆる場所の背後にある一つの置き換えのお陰で、根源的であり究極的であるのだ」(同p290)

 

二値論理の分節化の限界

現実世界がどんなであるかを考えるために具体例を考えてみよう。たとえば「ここにりんごがある」という命題に対してそれを真偽二値論理で真偽づけて分節化するとする。現実世界が「ここにりんごがある」が真であるか否かで二分化され、切り分けられることによって、理解されることになるわけだ。そこで偽とされる側が「否定的なものの否-存在」として、真とされる「存在」の影となることによって、その真の側の「世界に存在するもの」を照らし出してくれるのだ。しかし、現実世界を分節化するにあたってはどうしても言語化できないものが出てくる。たとえば、カントの4つのアンチノミー「現実の時空間に限りがある」「分割不能な原子がある」「普遍的因果からの自由がある」「必然的存在者が実在する」などという命題について、我々は現実に対応させて真偽づけることができない。それは我々が言語でもって真偽づけられる能力を超えてしまうような、存在論的な射程からはみ出た命題だからである。そのように、我々の言語には命題を真偽づけられる射程があり、その射程を超えるものの真偽を問うことはもはや意味がなくなってしまうのだ。その射程の外では真偽づけが無効となるので「否定的なものの否-存在」なるものも意味をなさなくなり、ただただ「何を言っているのか分からない」ナンセンスなもの、つまり「否-存在non-êtreには還元されることのない問いの(非)-存在」になるのだ。
それは、カントのアンチノミーのような極限的な命題だけに関する話ではなく、日常的な会話においてまでも、またあらゆwる言説においてもそこに、その真偽を意味づけることを有意味にすることができる限界としての射程が必ずあるのだ。なぜなら、私は、この現実世界を把握しようとするときに、そのもっとも基盤となるであろう「コギト」でさえ、その必当然的真理の疑似明証性によって「流産してしまう」からだ。あらゆる言説はそのような「流産したコギト」の上に積み上げられた架空の言説でしかないのだ。私は、その、どうしようもなく不完全な根拠の上でしか夢を見ることはできないのだ。しかし、原理的必然的に、どこにも不完全な根拠しかないからこそ私は胸を張って、経験の中に無意識と意識との間に生じる問いがそれ自身の問いを問い直し続ける、そのことを現実世界の根拠だとすることができるのではないだろうか。まさに「〈問い-問題〉のみが根源的であり究極的」なのだ。

 

あやふやで心許ない言語だけが世界を理解する武器

しかし、そのような根源的であり究極的である〈問い-問題〉を根拠として現実を語るのであれば、どうしてもその言説は真偽の射程が限られたものにしかならない。「ここにりんごがある」という言説は結局のところ、「ここにあるこれをりんごだということにすれば、ここにりんごがあると言える」というトートロジーの形にするしかそれを絶対的な真だとすることはできないのだけれど、そんな風にトートロジーにしてしまっては現実世界を語れなくなってしまうという、とても心許ない、あやふやな言葉しか持てなくなってしまう。
しかしああしかしそれでも、我々にはもはや、そのようなあやふやで心許ない言語だけが世界を理解するための武器なのだとしたら、その無意識と意識との間で生ずるあやふやで心許ない言語でもって開かれる現実世界のみが、真に有意味な現実世界なのだと、胸を張って主張することができるのではないだろうか。もちろん、その言語は狭い射程しか持っていないので、確実だと言えることはほとんどなくなってしまうかもしれない。それでも、それだけが現実に私が生きていける世界なのではないか。無限の射程を持った言語で語られ得てあらゆる言説に確定的な真偽づけができるような世界は、逆におとぎ話でしかなく、この現実が不確定な射程しかない言語で冒険的に語られるようなファンタジックな世界こそが、それだけが現実に生きられる私の現実世界だと言えるのではないだろうか。
これは、普遍論争において普遍か個物かの論争がなされた対立を根元からひっくり返す転回である。また、実在論対観念論あるいは実在主義対相関主義または外在論対内在論という対立を根元とからひっくり返す。それらの対立はどれも、内か外か、私の視点か神の視点か、個物か普遍か、此岸か彼岸か、というように「これ」か「あれ」かの両立不可能な二者のどちらを取るかという対立だったが、ここでドゥルーズ-ラカンが取りあげているやり方は両立不可能なような言語の射程外を問題にするのではなく、その言語自体が「とりあえず」のものでしかないのだから、言語の方で調整して「とりあえず」両立可能な現実世界をとる立場に立つこともできる、とするのだ。根源的究極的な「答え-解」なんてものは無くて、根源的究極的なのは〈問い-問題〉だけだってするのだから、そのような無茶な提案までを、胸を張って堂々とすることができてしまうのではないだろうか。

 


④エロスにおいて受動的総合が深化するメカニズムについて

そのように、主体と世界と言語とを捉えてみると、独我論的でナルシシズム的でしかなかった第1の総合がそのまま受動的な総合として第2の総合へ深化し、単なる感性であった私のエロスがその感性的な世界を分析することさえできるようになる。
再度、この地点から第2の総合を見直してみよう。
いまや反復は置き換えと偽装そのものである。第1の総合では、それが快感原理か欲動理論か分からないがとにかくその隠された原理に基づいてその土台の上に反復が起こった。しかし、第2の総合においては反復こそが快感原則の根拠になる。

 

根拠としての「このこれ」

その「反復こそが根拠」という話は例えば、今この眼前に見えている「これ」についても言えるかもしれない。その「これ」とはりんごのことで今眼前にりんごが見えているのだけど、僕の老眼にはそれはぼやけていてはっきりとその詳細を見ることはできていない。もちろんその裏面も見えないし、それが3秒前3分前の過去にどんなだったかは記憶された心象的映像としてさらにぼやけたものがあるだけで、その「古い現在」はここにはもうない。だからこの経験において、個物としての「これ」は、このぼやけたこの「これ」でしかない。この「ぼやけたりんご」を「くっきりとした輪郭をもった真のりんごがぼやけたもの」と捉えるのではなく、そのぼんやりとしたそのように見えるままのりんごとして存在をうけとめる、それが個物としての存在の本来の受け止め方であろう。否、厳密にはそれも言い過ぎで、個物として捉えるには、それは最早「りんご」でさえないもの、否否、そーやって「でないもの」とさえ言わないで言語で表現できない何かをモヤモヤしたそのもの自体としての「これ」として受け止める。それが真の個物としての存在ということになるだろう。

 

第2の総合の2つのポイント

第2の総合における反復の捉え方には2つの大きなポイントがある。
(1)1つ目は、(「本当は」眼前にりんごが在るのだけどそれがぼんやりとしか分からなくなっている、という反復ではなく)眼前にりんごっぽく見えるが何かはっきりしないものが見えているそのままの「見え」自体をそのままそれだけを「本当のこと」として受けとるということだ。
(2)2つ目は、それが快感原則の根拠になりながらその原則に従うだけでなく、現実原則にも従うということだ。
その2点を認めると、私は「この本当の見え」だけを根拠として、そこからその奥に逆にある仮面としての快感原則や現実原則があると架設する。もうすでに眼前に見えてあるぼんやりだけが「本当のこと」なので、そこに架設してみる世界把握としての概念づけや理論づけなどの作業は「とりあえず」やってみてうまくいけば採用するというだけの冒険的な物語づくりでしかないとも言える。冒険的な物語づくりではあるけれども、私がすでに「本当に」経験している「これ」を根拠にして立ち上げた世界なのだから、そこに快感原則を取り込めるのであれば、それはもう正しく「私の個物としての世界」なのであるし、そこに現実原則を取り込めるのであれば、それはもう「現実世界」でもある、と言えてしまうのだ。

 

ムネモシュネの側の分節化

そこで、純粋記憶としてのムネモシュネであるところの「なにものでもないこのこれ」が受動的な記憶と能動的な行動の力によって現実的(リアル)な対象として分節化される得るようになる。
「なにものでもないこのこれ」という「見え」が過去の習慣によって「私が見ているもの」とされ、「手を伸ばせば私の手で握れるもの」とされ、「齧ればりんごの味がするもの」とされる。そして実際に能動的に手を伸ばして握ってみたときに、その触感を感じられればその実在性を確かめられるし、実際に齧ってみたときにその味を味わえたならばさらに実在性が確かめられる。そのように、受動的な総合が私の身体でもって能動的に確かめられることによって、その世界の実在性が確かめられることになるのだけれども、ここに問題がある。というのは、時刻t1に感じていた「これ」がリアルなりんごであることを確かめるために、能動的に手を出し齧ってみて確かめてもその触感と味覚を確かめられるのは時刻t2という別の時間になってしまうのだ。能動的に確かめた時刻t2において確かめられたその実在性は、厳密に言うと、もう僅かに過去のものになってしまっていて、そこにあるのは既に受動的な総合でしかないのだ。リアルなりんごはそこにはまるまる欠如しているのだ。そこで私は、仕方なくその欠如にそこにあってほしい潜在的なりんごを想像的に持ち込む。それは確かに欠如であるし潜在的なりんごを仕方なく持ち込んだものでしかないのだけれど、それでも、我々が世界を掴むための武器がそれしかないのであれば、その欠如を埋めるりんごがもう実在だと言って良いのではないか。こうして、私は、ムネモシュネから自己保存欲動がリアルなりんごを産出することができる。
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第2のの総合におけるエロスの深化

 

エロスの側の分節化

ムネモシュネから現実原則を取り入れられて現実が産出されるとき、世界のもう一方の側、この世界の味わいそのものが私であり世界だとする感性論の側で、私のエロスがその受動的な世界を感受する。性的欲動はどこまでも受動的なものなので、世界を分節化し構成する力はないとされることが多い。しかし、《「本当は、ムネモシュネによる外的世界と、それとは独立にエロスによる内的世界がある」などというような「本当」の世界があって、今眼前に感受している「このこれ」がその「本当の問い」の「本当の答え」として、或いは「本当の問題」の「本当の解」として存在する》とするような考え方をし「ない」としたらどうか。「このこれ」そのものだけが本物の世界だと認め、「解」や「答え」でなく「問題」や「問い」そのものを求め続けて良いと認めるとしたらどうか。その場合、ムネモシュネが分節化し構成した世界を、エロスの側でも利用して良いとしてしまってもまったく問題ないのではないか。それを受け入れることで、「受動的総合」を「第2の受動的総合」へと、「性愛」を「構成された性愛」であるような私の世界へと深化させることができるのではないか。そうすると、エロスによって開かれたこの私の感性の世界が分析論として総合化され得るのだ。そして、ムネモシュネと自己保存欲動から総合された外在的で分析的な世界と、エロスと性的欲動から総合された内在的で感性的な世界を、一つの現実世界として成立させてしまえるのだ。

なんと、すごいのだ。

 

まとめ

こうして、第2の総合によって
(1)反復を置き換えと偽装そのものだとし、
(2)純粋記憶としての、何者でもない「このこれ」だけが「本当の世界」だとしてしまい、
(3)受動的総合から能動的総合に向かって自我と世界を超え出させる
ようにすることで、エロスとムネモシュネが総合され、個物と普遍が総合される。
(4)ただし、そこで使える言語は射程が限られたものであるし、そこで立ち上がる世界は欠如を潜在的対象で埋めただけのとりあえず冒険的に架設しただけのものでしかない。
(5)しかし、我々が現実を掴むやり方がそれしかないのであれば、我々はこの「とりあえずの世界」をリアルな世界だと胸を張って言って良いものになるのだ。

こうして、眼前に今見えている「これ」を現実に存在するりんごだとすることができるようになる。

でも、さらにここで考察した世界はすでに純粋過去から飛び出しているのではないか。第1の総合は独今論的な「現在」の世界であり、第2の総合は純粋過去からできている「過去」の世界だったのだけど、今日のこの考察をきちんと受け止めるには、さらに「未来」としての第3の総合が必要なのではないだろうかという疑問が生じる。

しかし、今日はここまで。「未来」については次説で考える。

 

つづく

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