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2020年8月24日 (月)

第3の総合における非人称的な死と永遠回帰〈僕にも分かる「差異と反復」2-13〉

ドゥルーズ「差異と反復」第二章「それ自身へ向かう反復」を読む。
(今日は文庫上p296~313)

前節では時間の第2の総合が純粋過去を根拠に形成されることをみた。今日は、さらに、その第2の総合の、それを世界規定のルールが定まらず発散してしまう直線的なものと捉えるのか、閉じて収束する円環と捉えるのかという問題を解決するためには、第3の総合へと踏み出さねばならないとドゥルールが言ったわけを考える。そしてその第3の総合において、ボルヘス「八岐の園」の迷宮などを考察してフロイトの「死の本能・タナトス」に関する捉え方を深めることで、永遠回帰がその問題解決に関わるものになることを考えたい。

今日の考察
1)第2の総合から第3の総合へ
2)フロイトタナトス説のよい点と「順序・総体・セリー」
3)「八岐の園」と多世界解釈
4)フロイトタナトス説のダメな点
5)ブランショの死の2つのアスペクト
6)《非》《死》《時間》の無知
7)紐・染み・消しゴムと3つの総合
8)無底ゆえのポジティブな虚無
9)未来の生成と永遠回帰
10)まとめ


1)第2の総合から第3の総合へ

第1の総合のナルシシズム的で受動的で独我論的で観念的な世界把握から、第2の総合の現実的で客観的な世界把握に展開するためには、それが本質的に欠損を孕むことを受け入れなければならなかった。そして、それゆえに世界構成が本質的に潜在的対象の代理的な置き換えに頼らねばならなかった。さらに、その上で、世界を既定のルールの下に収めることができないような直線的な時間であるとすることも必要であった。しかし、ここに大きな問題が生じる。現実の世界が或るルールに則って語り得るものでないのであれば、我々はその世界を理解できなくなるのではないか、という問題だ。つまり、いくら世界を円環から外れた直線として捉えようとしても、そのために我々がルールの定まった円環的な言語が使えなくなってしまうのであればダメだろう、という話である。結局、世界が我々にとって理解可能なものである限り、純粋過去が古い過去と変わらないものにならざるを得ないということになってしまう。それだから第2の総合では、この直線的な時間と円環的な時間の間に矛盾を解消させることができていなかったのだ。そこで、ドゥルーズは、この矛盾を解消し乗り越えるために、第3の総合とニーチェの「永遠回帰」を持ってきて世界把握の仕組み自体を根底からひっくり返す。その理解のために、その第3の総合とは何者なのかについて、フロイトの「タナトス」から「死」に関する考察をさらに深め、ボルヘスの多世界解釈的世界モデルをそこに絡めて考えてみたい。
その「死」の考察において、ドゥルーズは、フロイトのタナトス分析がとても有意義なものであることを認めつつ、それでもそれが不十分であるとするのだが、タナトス説のどこが良くてどこがダメなのか。


2)フロイトタナトス説の良い点と「順序・総体・セリー」
Freud_20200824223001 ジークムント・フロイト1856-1939
フロイトは、リビドーが外的世界に向かうのではなくナルシシズム的な自我との関係に逆流してくるとき、そこに「脱性化」が起こるとした。
【脱性化】désexualisation。非性化。フロイト精神分析において「昇華」の一つ。性的な衝動を性的でなくする働き。(糞便を弄ぶ衝動が昇華されると芸術活動となり、母親の性器を見たい衝動が昇華されると知的好奇心学問研究となるなど)ただし、フロイトやドゥルーズにおいては、「エロス」は性に関するだけでなく、生や概念形成のエネルギーまでを請け負うものである。同様に「脱性化」も性の失効だけでなく、生や概念形成の失効という意味も含んでいる
「性愛的対象選択が自我変化に転ずることは自我がエスを支配しエスとの関係を深め得る一つの方法である。対象リビドーが自己愛的リビドーに変わることは明らかに性的目標の放棄をもたらし、非性化すなわち一種の昇華をもたらす」フロイト「自我とエス」
そしてフロイトは、その「脱性化」によって「タナトス」がはたらき、生に基づかないでも世界を把握することができるような置き換えを可能にするとし、そのタナトス(死の本能)が性的なエネルギーからも脱性的なエネルギーからも独立し、しかもそれらに先立って存在するとする。
このフロイトのタナトスの捉え方について、ドゥルーズは次のように強く同意する。

「ナルシシズム的自我の代わりに潜在的対象の置き換えと現実的対象の偽装を引き受けるとき…時間は可能な記憶内容を放棄しエロスによってその内容がもたらされる円環を打ち砕く。時間は繰り広げられ真っ直ぐにされ、…ボルヘスの言う「見えない絶えることのない」直線をなした迷宮の形態をとる。厳密な形式的かつ静的な順序と重圧的な総体と不可避的なセリーをそなえた、蝶番から外れた空虚な時間はまさしく死の本能である」(差異と反復上p300)

ややこしい文だが、深い内容が潜んでいると思われるので、これを今日の読解の中心的課題に据えて、読み解いてみたい。この文を要約すると、「私が第2の総合の下で時間を規定しようとすると、それは『順序・総体・セリー』をそなえていて、蝶番から外れた直線的な『死の本能』にならねばならない」とドゥルーズは言うのだが、語の一つ一つの意味を確かめないとどういう話なのか、このままではさっぱり掴めない。

まず、「順序「総体」「セリー」について、ドゥルーズは次のように解説している。

「《私Je》における時間の規定は、順序、総体、セリーである。
【順序(ordre)】、〈前〉〈中間〉〈後〉という静的な形式的順序は、時間においてナルシシズム的自我の分裂或いはその自我の観照の諸条件。
【時間の総体(ensemble)】は、超自我によって同時に提示され禁止され予言されるような行動のイマージュ、すなわち〈行動=x〉のイマージュの中に取り集められる。
【時間のセリー(série)」】とは、分割されたナルシシズム的自我と時間の総体との、すなわち行動のイマージュとの対照を指示する。ナルシシズム的自我は、一度目は〈前〉或いは欠如という様態でつまり《エス》という様態で反復し(この行動は私に大きすぎる)、二度目は理想自我に固有の無限な〈行動に等しくなる〉という様態で反復し、三度目は超自我の予言を成就する〈後〉という様態で反復する。」(同p299)
Mctaggart_20200824223301 ジョン・マクタガート1866-1925

これを見ると、この「時間の順序(ordre)」は、マクタガートの「時間の非実在性」という論文の「順序order」という語の意味に近いと思われる。マクタガートは、C系列(series)を説明する中で、「順序order」を並びの配列具合があるだけのものだとし、そこには「変化」や「向き」がないと説明している。「1・2・3・4・5」という並び順が「3・5・1・4・2」という並び方になっていればこのとき「order」は違うものになってしまうが、並び方が反転して「5・4・3・2・1」になっても「order」は変わっていないと考える。そのような「向き」を問わない並び順が「order」である。ドゥルーズの「順序」も同様にC系列的な変化や向きのない並び方のことだと考えられるのではないか。少なくとも同じニュアンスがある語として扱われていることは確かなように思われる。そうすると、このドゥルーズの言う「順序・総体・セリーが時間を規定する」という話は次のようになるだろう。まず、今のt0や過去のt1、t2などという時刻がそれぞれ独立にナルシシズム的時間世界をもっているとし、それらが「向き」や「変化」とは関係ないものとしてただ並んでいるとする。そこに並んでいるだけで、t0がt1に「なる」こともないし、そのような「生成」がないと考えるわけだ。それに対し「時間の総体」は、行動主体が世界とアクチュアルに関係することによってイマージュとなったものの総体だと考える。つまり経験のすべての内容を指すとする。そしてその上で、「時間のセリー」はその「順序」と「総体」を互いに連関づけて系列化しそこに「向き」や「変化」や「生成」が生じたものだと考える。
つまり、「厳密な形式的かつ静的な順序と重圧的な総体と不可避的なセリーをそなえた時間」というのは、「向き」もなく「変化」するものでもないような独今論的世界としてのナルシシズム的な時間が、厳密なその「形式」と厳密なその「並び方」をもって複数個存在し、それとは別に、現実世界を映したものとしてイマージュの経験の総体が「圧倒的重圧的」な内容をもってある。その両者が《私》が主体として生きることによって「不可避的」に連関される。そしてその連関によってはじめて時間の「向き」や「変化」や「生成」があることにされ、そこに「時間のセリー」が生じる。それは、《私》にとっては不可避的連関なのだが、しかし同時に「順序」と「総体」があってはじめて成立する連関であるので、必然的に閉じたものとして初めから既定されていたものではなく、後付け的に偶然的に開いたものとして「その都度」「その場限り」の展開にもなり得るのだ。

って、この説明、何か分かるものがあるような気もするのだけれど、よく考えようとするとこれが何を問おうとしているものなのか、僕にはやっぱりさっぱり分からなくなってしまう。そこで、この「順序・総体・セリー」と「直線的時間」と「死の本能」がどうかかわりあって問題とされるのかに重点を当ててさらに読み進めたい。

 


3)「八岐の園」と多世界解釈
Borges_20200824223501 ホルヘ・ルイス・ボルヘス1899-1986
ドゥルーズはボルヘス「八岐の園」を挙げて、「順序」についての説明を補強している。
【八岐の園】は、無限に分岐する時間の可能性をテーマとした短編小説。兪存(ユソン)博士は自分の祖先の崔奔(サイペン)の著書『八岐の園』を知って戸惑う。それは「本といってもそれは、矛盾だらけの原稿の雑然とした塊にすぎない。死んだはずの主人公が、次の章で生きているというぐあい」の不完全なものであった。しかしそれは無限に広がるさまざまな未来を含めた書籍であり迷路そのものであった。たとえば、「憑という男が秘密をもっていてもっていて見知らぬ侵入者を殺す肚を決めたとする。いろいろな結末が考えられるが崔奔の作品ではあらゆる結果が生じる」という不思議な時間が描かれていた。
Photo_20200824224301
まるで、の量子物理学の「多世界解釈」のような話である。時刻t0のある状態から起こり得るすべての時刻t1の状態は無数に存在していて、それも初めからすべて存在しているとするのだ(ボルヘスは量子力学から影響受けたのかと質問されて「自分が影響を受けたことはないが、物理法則の方が真似ていることには驚かない」と答えたらしい。ボルヘスの「八岐の園」が1941で、エヴェレットの「多世界解釈」提唱が1957だから、ボルヘスが「真似したのはあっち」と言うのはそれぁそうだわね)。
ここで、重要なのは、この「八岐の園」における時間が、

①「運命というものがあって、どんな運命が来ても肯定される」
②「運命などないとして、あり得る可能性のすべてが肯定される」

という二つの捉え方の①でなくて、②でなければならないってことだと思う。この二つ、似ているが全く反対な世界把握の仕方である。
①の場合は、「時刻t0」において侵入者と出会った憑が「時刻t1」において「侵入者を殺害したか」「侵入者が憑を殺害したか」「どちらも死んだか」「どちらも助かったか」の内のどれになるのかという問題について、真なる解が一つあって、我々人間にはそれを知ることはできないだけで神にはその解が分かっている、ってことになるはずだ。
一方、②の場合は、「時刻t1」で上のどれになるのかという問題に対する解は「すべてが起こる」になる。「憑が侵入者を殺害した」という世界に分岐した場面においてはそれが現実になり、「侵入者が憑を殺害した」という世界に分岐した場面においてはそれが現実になり、「どちらも死んだ」という世界に分岐した場面においてはそれが現実になり、「どちらも助かった」という世界に分岐した場面においてはそれが現実になる。それらすべてが現実に起こるのだ。
①の想定では、我々の知らないところに秘密であるような本当の真実が隠されているのだが、②の想定ではもはや秘密はなく、我々はすでに真実に到達しているとも言える。
①では、「時刻t0の憑」が「時刻t1の憑」に「なる」と考えられる。①で時間は「時刻t0」の状況から「時刻t1」の状況へ向けて「向き」を持っていて、「時刻t0」の状況から「時刻t1」の状況へ「変化」するものであることが初めから既定されている。
ところが、②では、「時刻t0の憑」と複数の「時刻t1の憑」がそれぞれ配置されているだけなのだ。①でそこに時間の「向き」や「変化」があるように見えたのは、単に「時刻t1の憑」の記憶において自らが「時刻t0の憑」であったことやそれが今の自分に「なった」ことが、そのそれぞれの「分岐した未来」において確認されるだけだったのだ。このとき、②の視点では、私がイマココにいる限り「分岐した後の本当の一つの未来」などというものは無い。しかし、①の視点では、そこに時間の「向き」と「変化」を想定することができているのだし、実際に本当の未来が一つあると言えてしまう。だから、①はある意味でたいへん役に立つ世界の見方だとも言えるだろう。ただし、それは別の意味で、自分で自分を騙す不当なやり方だと言えるものではないだろうか。
対して、②の捉え方は、もともと「変化」も「向き」もない「順序」が、そこで「あらゆる可能性のある世界の総体」と連関しあって結ばれることによって、そこに後から《私》の生きる「セリー」が形成されるとする。それはある意味でたいへん虚無的な世界である。しかし、その虚無の世界を肯定することで、《私》は自分で自分を騙さずに世界を現実の自分の生活世界として認めることができるのだ。
さらに、この虚無的世界は、神による視点において真なる「私の生の物語」があることを否定するものなので、その意味で「私の死」を含むものだと言えるだろう。
だから、

「ナルシシズム的自我が己の先を予見してひび割れた《私》のかけらのようになるのは、まさしく死の本能を貫通してのことである。ナルシシズム的自我と死の本能はフロイトが述べるようにきわめて深く関連する」(同p300)

とドゥルーズは、フロイトがその精神分析論に「死の本能」を持ち込むことを評価する。
(また、それは自分を騙さない真っ当なものであるという点と、それが私の死を含むという点だけでなく、さらにその先に「永遠回帰」を獲得できるという点でも、ドゥルーズはこの虚無的な視点を高く評価しているのだけれど、今は論点を広げすぎないで一つずつていねいに考察していこう。)


4)フロイトタナトス説のダメな点

こうしてドゥルーズはフロイトのタナトス論を高く評価する。しかし、それが不十分なものでしかないとも言う。なぜか。
時間を考察するうえで本来必要になる「死」は、エロスとタナトスが本性において異なるものだとしなければならないはずだが、フロイトは単にそれを程度の差でしかないとするからだ。
それは本来、外的でも科学的でも客観的でもないような、無意識における別の死の原型でなければならないはずだが、フロイト説ではそれは外的で科学的で客観的でしかないからだ。
フロイト説では単に対立的であったり矛盾的であったりするだけだが、本来は問いかけ的問題提起的でなければならないはずだからだ。
フロイト説では、偽装の彼岸において裸の力として「隠れた神の視点における本当の解」があるとするのだが、本来は偽装と置き換えの中で後から主体が織り上げるものでしかないはずだからだ。

そうは言っても、フロイトも「死の本能」説を自ら打ち出しているだけあって、ちゃんと「『快感原則の彼岸』に生けるものが『還ろうとする』生命のない無差異の物質の客観的モデル」というものを想定して、そのような「死の世界」があると考えてはいる。しかしドゥルーズはそれでもまだ不十分だとする。それは単に生命が「死」に「還ろうとする」とするだけで、それは〈生者にとって目標となる死〉でしかない。本来ここで考えられるべき「死」は、主観的で異化=分化した経験として〈生きるものの中に現前する死〉でなければならない。生者が今すでに経験している「死」でなければならないはずなのだ。
また、フロイト説では「死」は物質の一つの状態に過ぎないが、ここで問われるべき「死」は、「あらゆる物質を放棄してしまった純然たる形式(時間という空虚な形式)」として捉えられねばならない。ここで問うべきは「形式としての死」であるはずなのだ。その「死」は状態ではなく、生きてあるイマココにおいてつねに経験できる形式であり、それゆえ答えや解となる「死」はもはやどこにもないのだから、それはつねに、答えも解もない「問い」や「問題提起」としてのみ存在することになる。
Photo_20200824224401
5)ブランショの死の2つのアスペクト
Blanchot_20200824223701 モーリス・ブランショ1907-2003
ここで問われているその「死」は、ブランショが「死」を「人称的なアスペクト」と「非人称的なアスペクト」の二つに分類したときの後者「非人称的な死」に近い。その死はこの僕が「横山信幸」であるかぎりにおいての「私」には決して経験できない。「横山信幸である私」が死ぬことができるのは、「横山信幸」という意識の時間系列の物語を想定した上での、〈人格としての横山信幸の死〉あるいは〈人体としての横山信幸の死〉など人称の名の下で系列化した「物語の終焉」である。それが物語化された名称的な主体の死だとする前提の下でなら「その主体が経験している〈差異そのもの〉を失うこともできる」とさえ言えてしまう。でもそれゆえ、その「人称的な死」は、世界(あるいは経験)を「横山信幸」という物語にしたうえででなければそれを対象化することができない。そこにすでに恣意的な前提を持ち込まれているのだ。だから、今考察しているような、第3の総合の視点での世界設計に使うわけにはいかない。
一方、「非人称的な死」は、この世界の経験がまだ「横山信幸」の経験として分析される以前の、まだ〈誰でもないものの経験〉である。それは〈誰でもないものの生〉である。それを「八岐の園」に描かれたような多世界解釈的世界における瞬間の意識として考えてみると、この瞬間の意識はただこの瞬間の意識としてあるだけであり、それが3秒後に3秒後のどの意識に「なる」かということが予め決まっているわけではない。それは別の言い方をすると、この意識は単なるこの瞬間の神経回路の発火でしかなく、3秒後の意識との関係が予め決まっているものでもないのだ。そこには、〈そこに「物語」があるという設定を後づけすることによって、その「物語の終焉」が設定されるだけの死〉があるだけなのだ。そのような〈設定された死〉しかないのだ。そしてそこには、〈そこに「物語」があるという設定を後づけすることによって、その「物語」が設定されるだけの生〉があるだけなのだ。そのような設定された「生」しかないのだ。
しかし、そのように考えると、イマココに現にあるこの「生」は、初めから次に継続するものとしてある訳ではなく、何者でもない、まったく虚無的なものであり、その意味では誰でもないものとしての「ひと」の「死」が現にここにあり死に続けているとも言える。

フロイトは、生が死に支えられていることを明らかにした点で大いに評価できる。しかし、その考察は不十分でしかない部分があった。その死はいつか死ぬ私の死ではなく、誰でもないものの死がイマココにすでに在ること、それが世界を問い続けるための最も根源的な無底を示すことまでをはっきりとさせて突き詰めるべきだったのだ。でも実は、フロイト自身がもっともそれを突き詰めたかったのではないかとも思われる。


6)《非》《死》《時間》の無知

フロイトは確かに突き詰めた問い方をすることはできていなかったかもしれないが、この「死の本能」の問題に問いの本質があることは深く感じ取っていた。フロイトは無意識において《非non》、《死》、《時間》に関して無知だとするのだけれど、その「非、死、時間」ばかりを問題にした。その問題視した視線の先は、我々の考察と同じ方向へ向かう。このフロイトが問題視した《非》、《死》、《時間》の3つの視点をふりかえることで、我々が第3の方向に向かわねばならない理由を明らかにすることができる。

無意識が「非」を知らないというのは、無意識が、意識下での表象に関わって真偽づけられ分節化された否—存在(無い状態である)を、生きる糧にするのではなく、それよりも、その「解」や「答え」を問う問い方である方の「問題」や「問い」においての(非)-存在こそが重要なのであり、「いつでもなくどこでもないはずの世界を問う問いの『いつ』『どこ』」としての、その(非)-存在こそを糧として生きなければならないからである。
無意識が「死」を知らないというのは、意識が人称的で分節化される「死」を捉える一方で、無意識はもう一方の死の裏面のアスペクトである非人称的なものを発見していると、フロイトはしていたのかもしれないし、そう捉えるべきなのだ。
そして、無意識が時間を知らないのは、無意識が意識的な表象の中で過ぎ去る現在の経験的内容に従属していない上に、より根源的な時間の中で受動的総合を遂行するからである。その時間とは、無意識において構成されるあの三つの総合である。


7)紐・染み・消しゴムと3つの総合

ドゥルーズはその無意識における三つの総合を、ロブ=グリエ(1922-2008)の作品内に扱われた3つの小道具で説明している。それは、「覗くひと」という小説での〈紐〉と、「嫉妬」という小説での〈壁の染み〉、「消しゴム」という小説での〈消しゴム〉である。
ロブ=グリエはヌーボー・ロマンの代表的作家でミステリーのような違うような実験的な作品が多い。「覗くひと」「嫉妬」「消しゴム」でもその世界の描かれ方に特異性があり、それぞれ独特な時間が流れる。
「覗くひと」の紐というのは、殺人犯が紐の蒐集家であることにおいて象徴的な小道具なのだけれど、それは、順に「つねに新しく集められていく細紐」であり次々と重ねられていく殺人の象徴として描かれていて、個々の別々の現在が次々と積み重ねられていく時間の第1の総合に対応していると考えられる。
「嫉妬」の壁の染みというのは、家の壁にムカデが潰されて染みになったものが繰り返し登場するのだけれど、それはムカデの代理として現れてくる「つねに置き換えられる壁の染み」であり、一つの嫉妬感情に対してそれを問うものの象徴として時間の第2の総合に対応していると考えられる。
「消しゴム」というのは、殺人事件を追っていた探偵がそのまるで「運命のいたずら」とでも言うような不思議な時間に翻弄されながら、オイディプス王のような悲劇に陥るという話であるが、そのストーリーの中で主人公がもとめる消しゴムは「つねにすり減らされる消しゴム」として描かれ、その時間それ自体を失い続ける第3の総合を象徴するものだと考えられる。
第1の総合では、私がイマココに現に世界を開いているという事実を「土台」とすることで、私の内に隠れた本当の解としての《エス》が絶対的原則となって世界を開闢しているとすることを許し、それによって世界を分節化可能で理解可能なものにする。
第2の総合では、純粋過去による時間が「根拠」となって、世界が理解される。それでも、その第2の総合の根拠もそれが根拠とされる限りでは、結局、「《自我》の諸内容への快感原則の適用の条件となる」ものでしかないとも言える。
しかし第3の総合は、もはや、エスや快感原則などの「本当の解」とされるものを失い、その根拠を失い、土台を失うことになる。
「根拠そのものが私たちを無底へ突き落すのだ。つまりタナトスがエロス(生の純粋な経験)という根拠とハビトゥス(無意識的な習慣による世界の分節化)という土台の彼岸において、まさにそうした無底として三番目に発見されるのだ」(同p309)。


8)無底ゆえのポジティブな虚無

世界がもともとは、土台のその土台となるものを持たない虚無な無底であること、根拠のその根拠となるものを持たない虚無な無底でしかないことが、第3の総合においてはっきりとする。
しかし、世界が無底な虚無でしかないからと言って、我々はそれを嘆く必要はない。

「第3の総合は、ある意味では、過去、現在、未来という時間の諸次元を再統一し、それらの次元をいまや純粋な形式のなかで活動させる。別の意味では、それらの次元の再組織化をもたらす。なぜなら過去は時間の総体に関して欠如による条件としての《エス》の側に投げ出されているからであり、現在は理想自我における行動の変身によって定義されているからである。さらにまた別の意味では、そうした究極的総合は、未来だけに関わる。なぜならその総合は超自我において《エス》と自我との破壊、過去ならびの現在の破壊、条件ならびに作用者の破壊を告知しているからである。まさにその尖端でこそ、時間の直線が一つの円環を、ただし特異な形で捩れた円環を再形成するのだし、また死の本能が、己の『他の』顔のなかで無条件的な真理を開示するのである」(同p309)

第3の総合は、無底であり虚無であるからこそ、主体は逆に第1の総合を受け入れて現在を生きることだってできてしまうし、第2の総合を受け入れて過去に生きることもできてしまう。だって、無底なのだから何でもありなのだ。そして同様に未来に生きることもできてしまう。そこでは、過去と現在が破壊され、条件と作用者が破壊され、その破壊の尖端で、これまでの条件からも原理原則からも開放された開いた世界(直線に延ばされて元に戻らない世界)を生きることもできる。しかし、その尖端において「これ一回きり」の「骰子一擲(賽の一振り)※」と捉えて、それをその一回きりの現実を肯定してしまうことによって、それが円環として分節化可能なものとして捉え得るものにすることもできるのだ。
(※「骰子一擲・齊の一振り」Un Coup de dés。フランス詩人マラルメ1842-1898の詩。正式な題は「賽の一振りは決して偶然を排することはないだろう」)
まさに
①「運命というものがあって、どんな運命が来ても肯定される」
②「運命などないとして、あり得る可能性のすべてが肯定される」
の①でなく②として一回きりの未来のすべてを肯定し尽くしてしまうことによって、時間は直線的でありながら円環となりえるものになるのだ。


9)未来の生成と永遠回帰

上の②の捉え方では、あり得るべきすべての可能性を均一に肯定するという視点が強調されている。もちろんそれも重要な視点なのだけれど、もう一つ重要な視点として、それらの未来のうちのどれか一つが現実に実際に私のアクチュアルな「イマココ」に「なる」ような未来が来ること、そのような「生成」が現実化するということを積極的に肯定するという点がある。第2の総合の視点での未来は、決してやって来ることがない、無限の向こう側の存在であった。しかし、第3の総合の視点での未来は実際にやって来るものだとしてしまこともできる。「順序」と「総体」の二つだけで成立する時間では、それぞれの時刻においてバラバラな個々の「異なる現在」があるだけなのだけれど、世界がそのように所詮は虚無的で空虚なものにすぎないことを認めながらそれでも、その上で、そこに「私のエロスとしてのセリー」を組み込み、バラバラだった順序のなかに私の物語が成立し得ることにしてしまう。それは誰でもないものの死を受け入れた虚無の世界であるからこそ、逆に為し得る「冒険」としての物語の成立なのだ。「〔ブランショが言う非人称的な死は〕つねに来たるべきものであって、執拗に持続する問いにおける絶えることなき多様な冒険の源泉」(同p303)なのである。
起こり得る未来のすべてを肯定し。そのうえで実際にやって来る未来がただ一つの私のエロスにおいて「現実」に「なる」ことを肯定してしまう。これはまるで二つの相反する規定を飲み込む矛盾的な世界設計にも見える。しかし、この一見矛盾のような無茶な世界の構成が、「だれでもないものの、どこでもない場所の、いつでもない時間の」つねに死に続けている場で問われる「問い」「問題提起」でしかないのだから、この段階ではまだ「矛盾」にさえなり得ないのだ。
ここで、この「未来の生成」によって、ナルシシズム的で自己完結的だった第1の総合は、第3の総合へ飛び出すことになり、きちんとすべての現実を受け入れえるものになることになる。それは、メイヤスーの思弁的実在論の視点で言うところの、自己完結的な「相関主義」からすべての外的な経験の事実を受け入れる「思弁実在論」への展開に似た飛躍だとも言えるだろう。(ただし、メイヤスーの場合はカントの物自体そのものを受け入れるとしているので、見ようによっては、外的で科学的、客観的、対立的で矛盾的にさえなり得るようなレベル(非人称的な死のレベル)に収まる話だとも言えるだろうから、メイヤスーとドゥルーズは近いようでまるで遠いかもしれない。)
またこの「未来への生成」は、「八岐の園」のような虚無的な肯定を、永遠回帰の虚無でありながらポジティブな肯定へと導く。
Meillassoux クヮンタン・メイヤスー1967-
「永遠回帰は肯定する力である…永遠回帰が本質的に死と関係しているのは、永遠回帰が〈一〉であるものの死を『これを最後に』促進しかつ巻き込んでいるからである。永遠回帰が未来と関係しているのは、未来が多様なものの、異なるものの、偶然的なものの、それら自身のためのかつ「その都度の」展開であり、繰り広げであるからだ」同p310

「未来に関するシステムは神的な賭けと呼ばれるべきである。なぜなら、規則が予め存在するということがないからであり、賭けはすでにそれ自身の諸規則を対象にしている限りにしているからであり、―――偶然の全体は毎回そしてその都度肯定されるがゆえに―――〈子供—賭け手〉は勝つことしかできないからである」(同p312)

「運命などないとして、あり得る可能性のすべてが肯定される」とするなら、その賭け手はもはや「嘘の世界」や「矛盾する世界」や「否定されるべき世界」に生きることはあり得ないのだ。「死」の虚無の受け入れることで我々は逆にこの生の世界をポジティブに肯定することができるのだし、肯定することしかできない。もはや「〈子供-賭け手〉は勝つしかない」のである。


10)まとめ

結局、今日の課題「順序・総体・セリーの時間が直線的なとき死の本能になる」とは、「順序」が虚無であるゆえにそこで認め得る経験世界はあらゆる規定から外れる直線的なものになり、それは非人称的な死を孕むものとなる、という話であった。そして、経験世界が非人称的な死を無底(底なしの底)とするから、我々は冒険的に私の生の物語を現実世界の中に立ち上げることができることになる。そのような無底において私は世界を問い、私の言語自体をも問いながら、その問いとともに世界を組み上げてゆくのだ。だから、私の言語は未熟で、無限に世界を語ることなど到底できない。しかし私の言語が無限を語れないものでしかないからこそ、世界をこの時限り一回きりのものだとし、回帰してくることなどあり得ないとしながら、それを一回きりのルールづけをして冒険的に回帰するものとしてしまうことで、短い射程ではあるが、世界を語り得るものにすることができるのだ。こうして、第3の総合は、第2の総合の孕んでいた矛盾を乗り越えることができるのだ。そして、それによって、この眼前の個物としての世界を分節化可能な普遍的な存在として捉える道を開くのだ。

以上で、今日の考察はおしまい。第3の総合が未来において、永遠回帰と結びつく理由をはっきりさせることができたように思えるのだけれど、どうだろうか。
次節では、この第3の総合が具体的にはどのようなメカニズムで永遠回帰という無茶苦茶なものを構成するのかを見ていく。いよいよ「差異と反復」第2章の読解も大詰めである。


つづく

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