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2020年7月19日 (日)

第2の総合と潜在的対象を精神分析の視点から整理する〈僕にも分かる「差異と反復」2-11〉

ドゥルーズ「差異と反復」第二章「それ自身へ向かう反復」を読む。
(今日は文庫上p272~281)

前節ではメラニー・クラインの部分対象と潜在的対象の関係について考察し、受動的総合と能動的総合とによる世界構成とは異なる次元の世界構成の視点として、潜在的対象と現実世界との関係があることをみてきた。今日は、この考察を、さらにフロイトからラカンに続く精神分析の視点で整理し直している箇所を読む。
Freud_20200719155401 ジークムント・フロイトSigmund Freud1856-1939

課題文(No.0)「幼児は二重のセリー〔系列〕に沿って己を構築する。その2つのセリーはオブジェクタルなものである。一方は能動的な総合の相関者としての現実的な対象のセリーであり、他方は受動的総合の深化の相関者としての潜在的な対象のセリーである。深化した受動的自我が己をナルシシズム的イマージュで満たすのは、まさに虚焦点の観照によってである。一方のセリーは、他方のセリーなしには存在し得ないだろう。それでもなお、それら2つのセリーは類似していない」(「差異と反復」上p272)

ドゥルーズは2つのセリー、「一方は能動的な総合の相関者としての現実的な対象のセリー」と「他方は受動的総合の深化の相関者としての潜在的な対象のセリー」に注目し、それが補完し合って世界を構築すると言う。ドゥルーズは、「ベルクソニズム」という著書で「『バーチャル』は『リアル』に対するものではなく『アクチュアル』に対するものであり、『リアル』は『ポシブル』に対する」ものだと書いているが、僕は、「能動的な総合の相関者としての現実的な対象のセリー」が「リアル-ポシブル」に関するセリーで、「受動的総合の深化の相関者としての潜在的な対象のセリー」が「アクチュアル-バーチャル」に関するセリーだと読んでいる。
世界を言語のyes/noで切り分け分節化することで、「可能(ポシブル)」な世界モデルの中から実際の経験に一致した内容を「現実(リアル)」な世界として取り出す。つまり、言語によって有意味に語られ得る可能(ポシブル)世界の中で現実(リアル)世界がどこに位置するのかを知ることによって、世界の意味をつかむことができるとするのが、「現実的な対象のセリー」である。
そしてその「リアル世界」の構築において、その可能世界が何を意味するものなのかを構成したり味わいあるものとして意味づけたりするのが、アクチュアルな「イマココ」からは到達し得ないはずのところにある「潜在的(バーチャル)な対象」である。それは、能動的な総合によって現実のセリーが構築されるのとはまったく別のセリーとして、受動的な総合において深化される。…というのである。

でもこの話、分かるようで、具体的にどうイメージすればよいのかよく分からないのだけど、ドゥルーズは精神分析の視点でこれを整理し直して、話を少しだけ具体化してくれる。


潜在的対象の〈体内化〉と〈分離〉

少しずつ読み進めよう。
課題文①「潜在的なものは現実的なもののセリーから控除されている、しかも、潜在的なものは現実的なもののセリーに〈体内化〉されているということが、同時に確認される。そのような控除は或る〈分離〉を巻き込んでいる。これは、 現実的なものからひとつの部分を引き出すためにその現実的なものを凝固させる」(差異と反復p274)

他の箇所もそうなのだけど今日の課題文はとくに、精神分析用語などの専門語やそれっぽい語が次々と出てくる。それをきちんと専門語かどうか、専門語であればどんな意味なのかを確かめていかないと正しく読めない。
【控除prélèvement】天引き。先の取り出し。採取。サンプル。(これは精神分析用語ではないみたい。「最初に取り出しておくもの」のことの意と取ればよいと思われる)
【体内化incorporation】フロイト精神分析用語。のみこみ。主体が対象を空想的に体内に取り入れること。乳児が満腹時でも吸引活動を示しやがて指しゃぶりに没頭したり、成人の性生活においても口唇と口腔が大きな役割を演じたりすることなど。幼児期は対象を体の中にとり入れてゆく時期であり、体内化が人間の心的機制としての同一化の原形をなす。
【分離isolation】フロイト精神分析用語。過酷な状況の認識における思考と感情、あるいは、これから実行しようとしていることに関する行動と感情とを切り離すことによって、そうした状況や行為がもたらす心理的なストレスから逃れようとする心の働き。

幼児が世界を捉えようとするときに、そこに現認されるアクチュアルな対象だけによってリアルな現実世界を構成させることはできない。そこに必ず潜在的なものがなければならない。潜在的なものがあるから、現実的な対象のセリーと潜在的な対象のセリーの2つのセリーが互いに互いを補完しながら世界を深化させて、それによって意味論的にも統語論的にも有意味に成立することができるようになる。潜在的な対象は、現実的な存在を構成するための一つの要素だとも言えるのだけれども、同時に現実的な存在のセリーとは異なるセリーを持たねばならず、その上で、現実的なセリーから潜在的なものは別のものとして排除されて「控除」され「分離」されながら同じものとして対応しあうものとして「体内化」されなければならないと言う。そしてドゥルーズはこの「控除」「分離」「体内化」は、「取込み」や「同一化」ではないとする、というわけだ。

(この「分離」について、ここで語られている「分離」は「isolation」の訳なのでフロイトの精神分析用語としての「分離」である。同じ「分離」でもラカンの「分離」は「separation」であって別の物である。すなわち、潜在的対象が現実的なセリーに「体内化」されながら「分離」されるというのだが、幼児は世界を認識するとき、本来「イマココ」には無く知覚できないはずの「潜在的対象」を現実的な存在構成を助けるものとして自分の中に〈体内化〉する。しかし、それなのに同時に、その体内化した潜在的対象が別の物として切り離され〈分離〉されなければならないとする、と解釈できる。ただし、この〈分離〉はフロイト精神分析の「分離isolation」だが、ラカンの「分離separation」とも深く関連していることは確かだと思う。)


受動的総合-能動的総合と質的な分離

続いて次の部分について。
課題文②「ただしそうした分離は質的なものである。分離の本領は現実的な対象からひとつの部分を抜き出すことにあるばかりではない。抜き出された部分は潜在的な対象として機能することによって新たな本性を獲得する」(同)

この〈分離〉は「質的」なものの抽出であり、現実的対象から分離された「潜在的対象」が質的性質を受け持つとドゥルーズは言う。この「潜在的対象」について、例えばある幼児にとっての「ここに居ずそこに居る母」という潜在的対象を考える。その幼児は潜在的な「そこに居る母」を思い描くことによって、アクチュアルな母の経験を紡ぎ合わせて、実在的な存在としての一人の母を認識することができるようになる。そして、このときにその潜在的な対象が様々な質的内容をもつことができるから、現実的存在もその質的内容をもったものとしてのリアルであり得るようになる、という話。そして、その潜在的対象が「部分対象」として質的な内容を持つと言うのだ。この潜在的対象が「部分対象」だとする点について再考するため、ドゥルーズは、幼児と母の次の具体的関係例を考えている。

「歩き始めた幼児は、己の興奮を受動的総合において拘束するだけではない。幼児は決して内因的仕方で歩いたのではない。幼児は一方で興奮の拘束を超え出て対象の定立へ、あるいは対象への志向性へ向かう。例えば、目標としての母、すなわち『現実において』能動的に立ち戻るべき項としての、つまり自分の成功失敗を測る項としての母。しかし幼児は、他方で同時に、自分のために別の対象を構成し、それは、幼児の現実的能動的活動を統制し、その失敗を補償するようになる潜在的対象あるいは焦点なのだ。例えば幼児は自分の口の中に指を何本か入れ、他方の腕でその焦点を抱き、その潜在的な母という観念から状況の総体を把捉する。幼児の視点は現実的な母に向けられるということ、かつ、潜在的な対象は見かけの能動的活動(おしゃぶり)の項になっているとするのは、観察者に誤った判断をさせるかもしれない。おしゃぶりは受動的総合の深化において観照さるべき潜在的対象を提供するためにしか、なされないのだ。現実的な母の方は、逆に、能動的総合における行動の目標として、かつそうした行動の評価の基準として役立つためにしか、観照されない」(同p271)

ここで、時間的に隔たった潜在的対象を考えてみよう。たとえば「ここに居ずそこに居る母」という潜在的対象を時間的に隔たった向こう側にいるとする。それは、幼児にとって「さっき『イマココで』触れることができていた母」が「さっき」という時間的に隔たった「隣室」に行ってしまったとして考えてみるのだ。その母は「さっき」という隣室に居るので、幼児はアクチュアルにイマココで母の存在に触れることはできない。触れられないのだけれども、幼児は「さっき」という過去において「触れた感触」を(潜在的にではあるが)ありありと感じることができている。そして、その母のおっぱいが自分の左手の前方に見えていて、そのおっぱいの代用として自分の右手をしゃぶりながら、おっぱいを思っているとしよう。その幼児が「今すぐに」そのおっぱいに触ろうとして左手前方の母に歩み進んでいるとしよう。この想定で、その「今すぐ触り得るだろう母」が「今すぐ」という時間的に隔たった未来の「隣室」に居るのだとしてみる。その母は「今すぐ」という隣室に居るので、幼児はアクチュアルにイマココで母の存在に触れることはできない。触れないのだけど、幼児は「今すぐ」という未来において「触れられるだろう感触」を(潜在的にではあるが)ありありと思い浮かべることができる。
幼児は、おしゃぶりという偽物のおっぱいの感覚を「イマココ」で経験し、「さっき」という隣室にあるおっぱいの潜在的感覚を「イマココ」で経験し、「今すぐ」という隣室にあるおっぱいの潜在的感覚を「イマココ」で経験する。それらはそれぞれ代用物であったり潜在的対象であったりするが、いずれもが個々に幼児にとっての真に「質的」内容を持っている。ただしそれらは元々それぞれ別々で無関係な経験たちでしかない「部分対象」なのだ。そのバラバラな部分対象をそれらが「さっきという隣室にある潜在的対象」だとして捉えたり、「今すぐという隣室にある潜在的対象」だとして捉えたりすることによって、バラバラだったそれらを、同じ一つの対象だとすることができるようになる。そしてその時に幼児が能動的な運動でもって「今すぐ」の方の隣室に本当にたどり着けるかどうかを確かめるテストをなすものだとすることによって、この想定がリアルな外部の現実に開かれ得る想定となる。
そのようにして、部分対象を「潜在的対象」として見なすことによって、幼児はそこにある経験を「質的」に有意なものとしながら、現実に開かれた世界だとすることができるのである。
そして、そのような訳で、この世界把捉のやりかたにおいては「潜在的な対象 は〈部分対象〉なのである」という話になるのである。


潜在的対象と部分的対象

そうして②の文章は、次のような文章につづく。
課題文③「潜在的な対象 は〈部分対象〉なのである。それは単に潜在的対象が現実的なものの中に残存している対象を欠いているからだけでなく、さらに潜在的対象がそれ自身もそれ自身に対しても〈分離〉し二分化され互いに他方において欠けているような二つの潜在的部分になるからである。要するに、潜在的なものは現実的対象に関わる大域的特徴に服従していないのだ。潜在的なものは、その起源からしても、そればかりでなくその固有な本性からしても、切片であり断片であり剥皮である。潜在的なものは、それ自身の同一性において欠けるところがあるのだ。〈良い母と悪い母〉、あるいは父親的二重性に基づく〈謹厳な父と遊んでくれる父〉は、二つの部分集合ではなく、分身において己の同一性を失ってしまっているものとしての同じものなのである」(同p274)

ドゥルーズは、「潜在的対象」の欠損は「現実的なものの中に残存している対象を欠いている」だけの欠損ではないのだけど、それでもまずは「現実的なものの中に残存している対象を欠いている」と言う。そして、このことを考察するためベルクソンを取り上げる。

「潜在的対象は本質的に過去のものである。ベルクソンは『物質と記憶』において、一方は現実的で他方は潜在的二つの焦点をそなえた世界に関する図式を示した。そして一方では『知覚-イマージュ』のセリーが、他方では『記憶(スヴニール)※』のセリーが発出し組織させる。なぜなら、それは、潜在的対象は古い現在なのではない。現在という質と、過ぎ去るという様態は、能動的総合によって構成されたセリーであるかぎりでの現実的なもののセリーに、それしかないやり方で関与するのだが、しかし純粋過去は(すなわち己自身の現在と同時的で、過ぎ去る現在に先立って存在し、あらゆる現在を過ぎ去らせる過去として定義された純粋過去は)潜在的対象の質を表しているからである」(同p276)
※この「記憶souvenir」は財津訳では「追憶」とされていたのだけれど、本ブログではベルクソンのページとの関連で「記憶スヴニール」とした。「習慣化された記憶mémoire」に対して「表象としての記憶」を意味する。

ベルクソン「物質と記憶」は、主体が経験するあらゆる内容のすべてがイマージュ(過去の想起も現在のアクチュアルな感覚も、見えないことに関して想像することも、未来に向けての展望的想像も、どんな思いも感情もそれらが何者かとしてのデータとして仕分けられる以前の、分節化以前のイマージュ)だとして捉えた上で、その分節化以前の内容としての「記憶(スヴニール)」の系列と、その内容を知覚の対象として分節化可能なものとする「知覚」の系列との、組合せによって世界が構成されるとして、逆円錐図なるものを示した。(参照:本ブログ「ベルクソンの円錐図」のページ)それによると、記憶(スヴニール)の系列においては、世界のある時刻が現在や過去のものとして位置づけられるような或る意味で言語的な理解の内容に先立って、もともとすべてが言語化されずそれゆえに時刻も時間も持たないような本質的で純粋なる過去なのだとする。
「さっき」の部屋の「潜在的母」も、「イマココ」の部屋で口に含んでいるおしゃぶりも、「今すぐ」の部屋にいる方の「潜在的母」も、どれも本質的にはそれぞれが何者でもない豊潤なカオスとしての「記憶(スヴニール)」である。その意味において、その「さっき」の部屋の潜在的対象は本質としてもともと「現在」でも「古い現在」でもない。現在でも過去でも未来でもないという意味での「本質的な純粋過去」なのである。
そして、そのような「純粋過去」という現在でも過去でも未来でもないものが最初にあるのだとして、その何者でもないカオスな経験内容において、でもそのカオスには豊潤な味わいがあるととらえた上で、そのカオスに対して、まずそれぞれの経験を互いに関係ないバラバラの経験として捉えることで、それぞれバラバラではあるが豊潤な味わいを持ったばらばらの「部分対象」として知覚することができるようになる。さらにその後からその部分対象に「現在」や「過去」や「未来」という意味をつけて分節化したり、「今口に含んでいるが母の偽物としてのおしゃぶり」や「過去の記憶の母のおっぱい」や「これから味わうだろう母のおっぱい」などという意味をつけて分節化したりすることでその部分対象同士の関係性を考えて世界を把捉することができるようになる。つまりもともと豊潤な純粋過去だったものから生じた「部分対象」を、「潜在的対象」が分節化可能なものにすることでそこに現実的な存在を成立させ得るセリーを作ることになるのだ。


分離と欠損の穴

さらにそれゆえに、「潜在的対象がそれ自身もそれ自身に対しても〈分離〉し二分化され互いに他方において欠けているような二つの潜在的部分になる」とドゥルーズが言うように、その「さっき」の潜在的対象と、「今」のおしゃぶりで代用している潜在的対象と、「今すぐ」の潜在的対象のいずれもが、それぞれが他方において欠けたものを抱えていると言えるのだ。というのは、「さっき」の部屋にいる母に関して、幼児はそれを記憶した内容としてイマージュをもっている。それだからこそ幼児は「さっき」の部屋にいる母を現実の存在だと考えることができるのだけど、でもそれはそれを「イマココ」でのアクチュアルな経験ではないとする意味での現実でしかない。それは「さっき」という部屋に「イマ」入っていって覗き見てみたらそのように見える「だろう」という仮象的想定としての現実なのだ。だから、それは「イマココ」には無いもの(欠損)に対して、それがどうなっているのかを仮象的に捏造しただけの話なのだ。「イマココ」に無い「過去」や、「イマココ」に無い「あなた」においてみた世界がどうなっているのかという話は、原理的に、現実世界における欠損なのだ。だから仕方なくその欠損を補うために、「過去」や「あなた」ではない「私の記憶としての過去」や「私の思い描いたあなた」という他のもので代用して、その穴を埋めようとするのだ。
この「欠損」は、リアルの側(或いは、知覚-イマージュの側)からみた世界の内容の欠損という話である。しかし、「欠損」なるものは、その「リアルの側からみた欠損」だけではない。もう一つの側、つまり、カオスな純粋過去の側(或いは、記憶スヴニール-イマージュの側)からみた知覚的世界構成における欠損というものがあるのだ。もともと純粋過去にとって、それ自体に世界構成は設定されてないからだ。純粋過去としての世界はまさにある種のカオスでしかなく、その世界データのうちのどの部分とどの部分が同一物を差すなどという「正答」が既定されているようなものではない。そのカオスから或る意味で勝手にでっち上げられ捏造されたストーリーでしかないとも言えるものなのだ。つまり、潜在的対象は「過去の想起も現在のアクチュアルな感覚も、見えないことに関して想像することも、未来に向けての展望的想像も、どんな思いも感情もそれらが何者かとしてのデータとして仕分けられる以前の、分節化以前のイマージュ」から成っているということだ。
しかしそれでも、そのようなバラバラなカオスではあるが、そこに潜在的な対象の存在を設定すると、とりあえずの現実ではあるがそれでも確かに正当な現実の存在を考えることができるようになる。

だからこそ、「潜在的なものは現実的対象に関わる大域的特徴に服従しない」ことになるのだ。この「カオスとしてのイマージュ」から立ち上がってくる「潜在的対象」は、確かに確かな正当性をもったリアルな現実世界を構成するのだけど、それはどこまでも、カオスから冒険的に立ち上げた現実世界でしかないのだ。カオスとしてのイマージュの中から紡ぎ出された存在者は部分対象でしかなく、そしてそれが部分対象であるからこそ、その中に同一性が仕込まれているなどということはあり得ない話なのだ。最初から神の視点で確定されていた同一性ではなく、複数の部分対象を取り敢えず冒険的仮象的に同じものだとするのだ。
幼児は世界に対して欠損を抱えながら、同じものとなるような潜在的存在を設定することで、そこにある現実世界を構成し理解するのだ。つまり、「潜在的存在は、分身において己の同一性を失ってしまっているものとしての同じもの」なのである


良い対象悪い対象・過渡的対象・物神対象・対象a

そして次の課題文。
課題文④「部分的あるいは潜在的対象は、様々な形で、まさにメラニー・クラインの〈良い対象と悪い対象〉においても、〈「過渡的」対象〉においても、物神(フェティッシュ)対象においても、そして特にラカンの対象aにおいても再び見出される」(同p275)

用語の確認をしながら読んでいこう。
【良い対象・悪い対象】メラニー・クライン精神分析用語。「良いおっぱい悪いおっぱい」。対象とは主体とは別のものとして、主体の意識が向けられるもののこと。乳児にとっての対象とは母であるが、発達の初期には母親のおっぱいを対象として認識する。そして、母乳を与えてくれて暖かく包み込んでくれるおっぱいを「良い対象」として、欲求を満たしてくれないおっぱいを「悪い対象」として、その両者が別のものとして認識される。
Klein_20200719160301 メラニー・クラインMelanie Klein1882~1960
【過渡的対象】ウィニコット精神分析用語。「移行対象」。乳幼児が特別の愛着を寄せるようになる、毛布、タオル、ぬいぐるみなど、おもに無生物の対象。乳幼児の母子未分化な状態から分化した状態への「移行」を促すもの。
Winnicott ドナルド・ウィニコットDonald winnicott 1896-1971
【物神(フェティッシュ)】フェチ。呪術的崇拝の対象となるフェティッシュは、超自然的な力を備えていると信じられる自然物や人工物で超自然的な力を備えるもののこと。精神医学においては、性的対象の歪曲。
【対象a】objet aオブジェアー。ラカン精神分析用語。体験はするが表象として意識できず、シニフィアンへ翻訳されず喪失してしまった〈物〉(あるいは享楽)は、意識に到達不可能なはずであるが、〈物〉そのものとしてではなく痕跡として到来することがある。これを対象aという。(参照:本ブログ「想像界・象徴界・現実界・対象a下」http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2020/05/post-28658d.html)

幼児は、「イマココ」に捉えられたバラバラな世界の部分対象としての母のおっぱい達を、「イマココ」に不在であるような潜在的対象によって補完して繋ぎとめ、リアルな現実的な対象を紡ぎ出す。その、それぞれの段階において、幼児は「良い対象・悪い対象」や「過渡的対象」や「フェチの対象」や「対象a」として世界の存在者を想定し世界を構築していく。


〈リアル-ポシブル〉・〈アクチュアル-バーチャル〉と体内化・分離

課題文⑤「フロイトは、どのように前性器的な性愛が自己保存欲動の働きから控除された部分欲動で成り立っているのかということを、…虚焦点としてつまり性愛が関与する常に二分化された極として機能する、それ自体部分的な対象が控除の前提となっている。そうした潜在的対象は、現実的対象の中に体内化されている。その意味で、潜在的対象は、主体の身体や別人の部分に対応する対象、あるいは物神などの対象に対応すると見なせる。そのような〈体内化〉は、主体の限界からはみ出しているので〈同一化〉でも〈取込み〉でもない。〈体内化〉は〈分離〉に対応するどころか反対に分離を補完するものである。だが、潜在的対象は、どのような現実の中に体内化されていようと、どの現実にも統合されていないのである。潜在的対象は…母の身体に、まるで何か別の世界の樹木のようにゴーゴリにおける鼻のように、デウカリオンの石のように植え込まれている。しかしそれでも体内化は、自己保存欲動に対応した能動的総合が、性愛を現実的対象のセリーへと誘導して、現実原則の支配する領域へ外部から統合する」(同p275)

【前性器的な性愛】フロイト精神分析用語。幼児性欲理論は、口唇期、肛門期、男根期(エディプス期)、潜伏期、性器期という5つの成長段階があり、身体成長と性的発達が複雑に絡み合って進展するとするが、性器期は人が成熟した感情を持ち他者を愛し受容できる、いわば理想的人格の期となる。「前性器性愛」はその性器期に及ぶ前の、世界と自分の関係を確立できていないような時期の性愛を示す。
【自己保存欲動】フロイト精神分析用語。人間を常に行動へと向ける無意識の衝動としての「欲動」を自己保存欲動と性欲動とに二分して捉えたものの内の一。生物が自己の生命を保存し発展させようとする本能に基づく衝動。
【虚焦点foyers virtuels】光学用語。凸面鏡や凹レンズによって発散した光線を逆方向に辿って得られる点。発散光線があたかもそこから出ているように見える点。人は、同一性に基づいて世界を認知することはできないので、経験から得られたデータを遡ってもその焦点に行き着くことができず、それは虚焦点に過ぎないという捉え方の比喩と思われる。
【同一化identification】フロイト精神分析用語。防衛機制の一。対象に向かって運動し対象と一体化すること。同化した者は他者のように振舞う。これはいわば模倣であり、自分自身でしらないまま他者を受け入れる。対象と同じになることで対象との感情的結合を可能にし、自我に取り入れることで対象との結合の代用物を機能させる
【取込みintrojection】フロイト精神分析用語。一般的に、周囲の取り巻く世界の行動、属性、断片などを自身が再現しようとするプロセス。投影の初期段階の防衛機制の一。未熟な防衛。 類似の概念に、識別、組み込み、 内面化がある
【分裂】フロイト精神分析用語。全か無か思考all-or-nothing thinkingとも呼ばれる。防衛機制の一。乳児が母を良い対象と悪い対象と見なして、同じ個人として統合できないこと

まだ世界構築の仕方がよくわかっていない「前性器的」な段階の乳幼児は、無意識的な「自己保存欲動」に従って「受動的」で無意識的な総合の構成をしていただけのところから、意識的な「性欲動」が取り出されて「能動的」で意識的な総合が構成されることによって、分節化可能なリアルな現実世界を構成できようになる。そのとき、受動的総合は、単に能動的総合構成のために使い捨てられるだけの補助ブースターではない。受動的総合と能動的総合の相互の補完関係によって、〈アクチュアル-バーチャル〉のセリーにおいて「イマココ」には無い「潜在的対象」が生み出され、〈リアル-ポシブル〉のセリーにおいて構成された「現実世界」の「体内」に植え込まれる。この〈体内化〉は、世界を自分の世界として取り込むことでもあるが、その〈体内化〉は、「イマココ」に不在である「潜在的対象」が欠損を補うものであるという事実によって構成されるものなので、世界の分節化可能性を可能にするものとして〈分離〉を補完するのである。だから、それは決して〈同一化〉や〈取込み〉などではない。我々は、同一性に基づいて世界を認知することはできないので、経験から得られたデータを遡ってもその焦点に行き着くことができず、それは〈虚焦点〉に過ぎないのだ。
それは、「ゴーゴリの『鼻』」や「デウカリオンの石」に準えられるようなものとして、世界に「植え込まれる」ものなのだ。

【ゴーゴリの「鼻」】パンの中に人の鼻を見つけた男はそれを棄てようと画策するがやがて自分の鼻を失っていたことに気づくというゴーゴリの小説
【デウカリオンの石】神の怒りの大洪水から箱舟で救われたデウカリオンが、人類をよみがえらせようと石を拾って投げると人間になったというギリシア神話

不要なものでしかなかった鼻が本物の鼻なり、人間の代理でしかなかった石がホンモノの人間だとされてゆくように、ここに不在である母がホンモノの母だとされてそれによって母そのものの捉え方にそのつどそのつど構成し直しを強いるものとなる…のだ。


ラカンの「盗まれた手紙」解釈と潜在的対象

だから、そういうわけで、
⑥「現前する現実的対象から控除されている潜在的対象は、本性上、その現実的対象と異なる。潜在的対象は、それがそこから抜き出されてくる当の現実的対象に比べて、何者かが抜けているばかりでなく、さらに、それ自身において何者かがすなわちつねに自己自身の半身であるものが欠けているのであって、潜在的対象は、自己自身のそうしたもうひとつの半身を、異なるもの不在のものとして定立するのである。この不在のものは、存在するべきときところには存在しない場合にのみ、それが存在しているのだ。それは、存在しないところで探し求められる場合にのみ、それが発見されるところに存在しているのだ。また同時に、不在のものは、その不在のものを持っている者たちにとっては所有されていないのであり、不在のものはその不在のものを所有していない者たちによってもたれているのである。不在のものはいつでも一つの『存在していた』ということなのである」(同p277)
というものとして、「潜在的対象」は、世界の欠損を埋めるための、異なるものとして定立されて世界を構成するのである。そして、乳児にとって「さっき自分を抱いてくれていたおっぱい」はすでに「不在のもの」として「さっき」という隣室に在り、乳児はそれを「さっきそのおっぱいに抱かれていた過去の自分という他者」が所有しているだけの不在として、イマココに存在する。
Lacan_20200719160201 ジャック・ラカンJacques.M.E.Lacan1901~1981
さらにこれについて、ドゥルーズは次のようにラカンを持ち出して考察する。
⑦「ラカンの著作〔『エクリ』〕で、彼は潜在的対象をエドガー・ポーの盗まれた手紙に準えている。現実的対象は、現実原則のゆえに、どこかに存在するかあるいは存在しないかのいずれかであるという法則に従っているのだが、潜在的対象は、それがどこかに行ってしまったとしても、それが存在しかつ存在しないということの特性としているのだ。『隠されているものとは、結局、あるべき場所に欠けているものでしかない、とそのように言うことができるのは、その場所を変え得るものすなわち象徴的なものに関してだけのことである。なぜなら現実的なものこそが、つねに現存するからであり、またあるべき場所を己の足裏にくっつけて運んでいくからである』。」(同p278)

【盗まれた手紙】The Purloined Letterエドガー・アラン・ポーの短編探偵小説。ボードレールによる仏訳「La lettre volée」について、ラカンは《「盗まれた手紙」についてのゼミナール》(「エクリ」1)で考察している。女王が王に内緒にしていた手紙を大臣に盗まれ、それを探偵デュパンが見つけて取り返す話。王は女王の机に上にあった手紙に気づかなったのだが、そこに来た大臣が手紙に気づき、その机の上に代わりとなるような手紙を置いて入れ違いに元の手紙を盗み取っていった。大臣が盗んだことははっきりしており、手紙は大臣の官邸にあるはずのなのにどうしても見つからない。そこで、デュパンが官邸に出向き、壁に掛かっているボール紙の状差しに差し込まれていたぼろぼろの手紙を見つける。そして、代わりとなる手紙と入れ替えて元の手紙を取り戻す。というストーリーである。ラカンは、第一の盗みの場面(原場面)で、何も知らない王とそれに対して手紙の存在を知っている女王、そしてその二者関係をさらに見下ろして手紙を盗み取ってくる大臣との三者の関係がある。そしてこの関係おいて、第二の盗みの場面にも同様の対応関係にあるとする。つまり、どこに手紙があるかまるで見つけられない警察とそれに対して手紙の在処を知っている大臣、そしてその二者関係をさらに見下ろして手紙を盗み取っていくデュパンとの三者関係である。ラカンはここに、子供が認識を持つときの形式を当てはめる。何も知らない主体としての子供は相対するものとの二者関係のなかで世界を意味づけるゲームを理解し始めるのだが、その理解をさらにはっきりと意味づけるためには第三者的な〈他者〉が必要になること。また、探すべき世界の対象は、そこに、まだ見つかっていない「探している対称」として身代わりになるようなものとした捉えられなければならないということ。など、認識のメカニズムのメタファーとされる。

ドゥルーズがここで考察している現実性は、まさに、ラカン理論の「現実界・象徴界・想像界」の3界に深く関連している。(3界については本ブログ「想像界・象徴界・現実界・対象a下」を参照)
ラカンの3界では、主体は「現実界」には決して到達し得ず、人は「想像界」というファンタジー世界で生活するしかない。ただし、子供は、母という他者の他者性を、欠損として自らの内に植え込むことで、現実世界と向かい合って、想像界を超え出ようとすることはできる。その時に、想像界から超え出るための手掛かりになるのが「象徴界」である。ラカンの「象徴界」とは言語的にシンボル化された世界である。それは、世界を指定するための規則づけ基準(としての「父」のシンボルとしての「ファルス」)があって初めて規定され得る。それは、世界において「あるものが存在するかあるいは存在しないかのどちらかだ」とする言語の真偽の2値論理でもって規定されるものであり、そして、その真偽2値は、世界が現実原則によってその有無のどちらの可能性が真であるかを確認できるものだとすることによって、有効になる。この真偽2値による分節化は2値による切り分けなので、そこで立ち上げられる世界像はデジタルなものになる。だからつまり世界の内容のほとんどは、2値の網の目から零れてしまうはずであることになってしまう。この言語から零れてしまう欠損は、そのまま潜在的存在が現実において不在であることによって欠損を抱えていることに直結する。
だから、そこで、失われた手紙の不在の穴を手元にある手紙でもって埋めてしまうように、潜在的対象でもってその欠けた穴を埋めることになる。ラカンの論においてはこの穴が対象aでもって埋められることになるが、基本的に同じ話だと思って良いと思う。


まとめ

そういうわけで、潜在的対象は次のようにまとめられることになる。
⑧「潜在的対象は、凝固した現在の中で、その対象がそれであるところの当の現在と同時的であるものとして、潜在的対象が一方では同時にそれであるところの当の部分を他方では欠いているものとして、潜在的対象があるべき場所に存在するときに置き換えられるものとして、過ぎ去っているのだ。だからこそ、潜在的対象は自分自身の断片としてでしか現実存在〔existeエグジステ・外的存在〕しないのだ。すなわち潜在的対象は失われたものとしてしか見出されず―再発見されたものとしてでしか現実存在しないのである。…潜在的対象は現在としての自己と同時的であり、己自身にとって己自身の過去であり現実的なセリーの中で過ぎ去るあらゆる現実に先立って存在するのであって、まさにそのような対象こそが純粋過去に属しているのである。潜在的対象は純然たる断片であり自己自身の断片である」(同p276)

現実存在とは、「イマ」ではない「過去」や「ココ」ではない「そこ」など、「そちら側」のものが「イマココ」において「無い」ことである。それがまさに、「イマココ」にはない「潜在的な対象」によって置き換えられたものなのだ。
そしてまた一方で、潜在的な対象は「純粋過去」から成っているものである。潜在的対象が純粋過去からできているからこそ、その純粋過去が持つ豊潤な内容でもって、現実における不在の穴を埋めることができ、そこに語られる世界を単なるデジタルデータでしかないものではなくする。

 

以上のような時間の第2の総合における「現実的な対象のセリー」と「潜在的対象のセリー」のメカニズムをまとめてみると次のように図示できるだろう。(この図、今思いつきで書いたもので、まったく一般的なものではないので、とくに眉唾なものとして見てください)

2_20200813133201    

このようにまとめてみると、ここまで見てきた「時間の第2の総合」はまるでベルクソンの「逆円錐図」そのものであるようにも思えてくる。
Photo_20200719155101  
しかし考えてみると、時間の第2の総合はベルクソンの哲学世界なのだから、それぁそーだろうって話かもしれない。
そういうわけで、エロス(性的欲動)とムネモシュネ(純粋過去の記憶)の紐帯が潜在的対象の引き抜きであると言える。

「以上のようなところに、エロスとムネモシュネの紐帯がある。エロスは、純粋過去から潜在的対象を引き抜いて我々にそれを生きるべく与えてくれる。ラカンは、すべての潜在的対象つまり〈部分対象〉の下に、象徴的器官としての「男根ファルスΦ」を発見した。このファルスという概念は、己自身の不在と、過去としての自己とを証示していること、本質的に自己自身に対して置き換えられていること、失われている限りでしか見出されないこと、分身において同一性を失うようなつねに断片的な存在であること、という概念を潜在的対象に包摂するものである」同280

今日の話は、自己保存欲動において、純粋過去としてのムネモシュネからいかにして潜在的対象が生み出され、いかにしてリアルな世界が構成されるかのメカニズムについての考察が中心だった。次節では、これを、さらに、性的欲動としてのエロスがどう関わるのかという視点で見ていきたい。

(2020.8.13一部訂正)

つづく

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