フォト

ウェブページ

無料ブログはココログ

« 第1の総合の受動性能動性とハビトゥス〈僕にも分かる「差異と反復」2-9〉 | トップページ | 第2の総合と潜在的対象を精神分析の視点から整理する〈僕にも分かる「差異と反復」2-11〉 »

2020年7月 5日 (日)

受動的総合の深化と潜在的対象とクライン部分対象〈僕にも分かる「差異と反復」2-10〉

ドゥルーズ「差異と反復」第二章「それ自身へ向かう反復」を読む。

(今日は文庫上p268~275)

時間の第2の総合のメカニズムと、自我と世界に対する精神分析学的認識と、潜在的対象について考える。前節では、時間の第1の総合の意味づけに関して受動性・能動性の両面が必要であるとするドゥルーズの考察を考察した。時間の第1の総合とは、世界が私のイマココにおいての経験として現在と過去と未来を見通すことだとする世界モデルであった。また世界が受動的に把握できる対象とするだけでなく、自分が演者として能動的に関わり得る対象とすることによって現実的(réel)な世界となり得るとした。しかしドゥルーズはその考察に続いて、メラニー・クラインやラカンなどの心理学的な視点から見直した場合に、第1の総合の独今論的な舞台設定のままでの世界把握は不十分であること、さらに「潜在的対象」の視点を持ち込んで新しい世界モデルを組み直す必要があることを説いている。今日はそこのところの、とくにクラインと潜在的対象の話を見ていく。


無理な話と精神分析学

なんで第1の総合ではダメなのか。それは、第1の総合のレベルの能動性では世界が十分に現実化できないからだ。と言うのは、主体が能動的主体的に行動することで、その世界の現実性を確かめようとするときに、その世界が独今論的で相関主義的空間に収まってしまうようなモデルであるとしてしまうと、その確かめが現実世界に届くことはあり得ないからだ。そして、独我論的世界の外に実在論世界があることを想定しないことには我々は現実世界を生きることができないからだ。
しかし、その実在世界は主体が経験する経験と相関的なものでなければ、その存在を問える訳はないという疑念から、第1の総合という独今論的な世界把握を想定したのではなかったか。だから、そのような外部世界への超出を求めるやり方など無理な話なのではないか。そこで、そのような無茶無理を求める議論において、その無理を考えるために、メラニー・クラインやラカンの精神分析学において幼児がどのように世界を構築していくのかをヒントにして、ドゥルーズは考察を洗い直している。そしてベルクソンの純粋過去と同一性の廃棄の必要性から第2の総合を構築していく…という話になっていく。


受動的総合と能動的総合との相互の補完

【受動的総合】とは、対象の認識において自我の関与なしに自ずから生じる世界の総合化で、習慣的な反応で無意識的に世界を「再生」すること。対して、
【能動的総合】対象の認識において自我が積極的に関与するような世界の総合化で、意識的意図的に世界を「再認」することであった。
この二つの世界の捉え方はまるで反対の世界把握のやり方にも思えるが、ドゥルーズはこの二つが互いに補完し合って世界を構成するとする。能動的総合はそれのみでは世界を把握することができず、必ず受動的総合を土台としたその上にしか打ち立てられない。世界に対する自分の無意識的反応によって世界を自分なりの世界として法則化分節化して理解する(受動的総合)。それは仮説的で自分勝手な理解ではあるが、それがあって初めてその仮説を確かめそれを乗り越えてより現実な世界を探ること(能動的総合)が可能になるのだ。その意味で受動的総合は能動的総合を得るためには必須な土台なのだ。

「能動的総合の本領は、拘束された興奮を現実的なものとして、かつ我々の行動の目標として定立された対象に関係づけるところにある。いわゆる〈「対象」関係〉における〈現実吟味〉である。正確に言えば《自我》は〈現実原則〉に従ってはじめて「己を能動化し」、己を能動的に統一し、己の構成要素的で観照的なもろもろの微小な受動的自我を寄せ集め、そして、己を《エス》から〈場所論的topiquementトピッキメン〉に区別しようとする」(差異と反復p269)

 


クラインの「対象関係」と「現実吟味」
Klein_20200705230501 メラニー・クライン(Melanie Klein1882-1960)
【対象関係】とは、フロイトの弟子のメラニー・クラインによる心理学理論。対象は欲動から生まれるが、乳児の現実はまったく空想に満ちて妄想的である。母子関係の中で生の欲動とともに死の欲動にも塗れたアンビバレントな存在である乳児は、アンビバレントな自我でもって良い対象と悪い対象という好悪に二分された対象と関係を持つ。乳児にとって母乳を出すおっぱいは「良いおっぱい」であって、母乳を出さない「悪いおっぱい」とは別物としてしか捉えられていない。世界を初めてとらえ始めた乳児にとって、世界は全然統合されていないバラバラな部分でしかないのだ。
そして、それが現実吟味によって初めて統合されてゆくのだ。
【現実吟味】とは、空想・観念などの内的体験と、感覚器官を通じて知覚された外的体験とを識別する自我機能の一。幼児は成長につれて、内界と外界の区別、自己と他者の区別をするようになるが、このとき言語の発達によって全能感を放棄して快感原則から現実原則に沿った行動をすることが可能になる。
「良いおっぱい」を「良いおっぱい」として認識するのみの「局所的localsロカル」な統合しかできていなかった乳児が、「良いおっぱい」と「悪いおっぱい」をより「大域的globaleグローバル」な統合をできるようになり、それを「ママ」という語で貫けるような対象として捉えられるようになる。そのような大域的な認識を為すには、「今現在与えられていない母乳」を対象として言語的に捉えることが必要となる。「今ここに無いもの」を仮想的に「在ったり無かったりすることができるもの」として捉えることができたときに初めて主体は、眼前に無いものについて考えたり存在者として捉えることができるようになる。


「無いもの」と「潜在的対象」

そして、この「無いもの」を捉えることによって世界の現実化を図り得るようになるという構造は、ベルクソンの「潜在的」という捉え方に直結する。
【潜在的virtuelバーチャル】とは、イマココで能動的にアクチュアルに知覚することできず実質的ではないのだけれども、それでもリアルな在り方を示す一種の可能性のこと。実在の在り方についてドゥルーズは「現実・実在リアル」と「可能性ポシブル」が相対する対になっていて、「現働的アクチュアル」と「潜在的バーチャル」が相対する対になっているとした。「リアル」と「ポシブル」は可能世界において現実化したか否かという区分で世界を分節化する捉え方であるのに対して、「アクチュアル」と「バーチャル」は「イマココ」で能動的に確認し知覚できるか否かという区分で互いに補強しあって「リアル」を構成する。
たとえば、「アクチュアルな現在」に対して3分前の「古い現在」というものを考えるとき、その古い現在において味わったカップ麺の味は、リアルな実在であるがアクチュアルではない。「無いもの」として潜在的にリアルな存在を補強していると言えるだろう。この「アクチュアルでは無いもの」としてリアルを補強するような在り方が「潜在的」な在り方である。
またたとえば、ある建物の前面がアクチュアルに見えているとき、「その建物には奥行きがあり、側方から見れば側面が見える」というのはリアルな存在の仕方であるが、アクチュアルではない。アクチュアルを補強し「リアル」を構成するためのの「今は見えないもの・潜在的にあるもの」だ。
たとえば、ヒッチコック「サイコ」のシャワールームでの殺人シーンで「シャワーを浴びている女性の影像」「刃物をもった人物の影像」「バスタブに血が流れる影像」という断片的な影像があるが、これらの断片を断片には映っていない「潜在的対象」でその間隙を埋めていくことで連接し共存させることで「一つ」の出来事を構成させることができる。
この「潜在的対象」をもって世界を捉えられるようになったときに、幼児は初めて部分対象同士を連結させ「良いおっぱい」と「悪いおっぱい」を繋いで「ママ」をリアルな存在として認識することができるようになる。


受動的総合の深化

ここで、ドゥルーズは〈受動的総合と能動的総合〉の対と〈局地的部分対象と大域的全体対象〉の対と〈快感原則と現実原則〉の対と〈性的欲動と自己保存欲動〉の対と〈潜在的(バーチャルな)対象と現実的(レールな)対象〉の対という様々な対を、それぞれ対応させて考察しているのだけれども、この前者と後者がそれぞれどれも一律に同様に関係しあうのではなく、それぞれに関係しあう中でそれぞれに種々に深化していく。つまり、受動的総合は、能動的総合を得るためには必須な土台ではあるのだけれども、能動的総合を高く打ち上げるためだけに使い捨てられる単なるブースターではないのだ。受動的総合の方も、能動的総合に補完されて、それ自身として「深化」するのだ。そしてその「深化」が「潜在的・バーチャル」の視点において、とくに深い意味をもつことになる。
「歩き始めたばかりの幼児は、己の興奮を、それが内因的なものであり幼児自身の運動から生じるものではあっても受動的総合だけで済ましているわけにはいかない。幼児はけっして内因的な仕方のみで歩いたのではなく、一方で興奮の拘束という段階を超え出て〔現実的な〕対象の定立、あるいはそれへの志向性へ向かう。たとえば、努力の目標としての母(すなわち「現実において」能動的に立ち戻るべき項としての、つまり自分の成功と失敗を測る項としての母)。しかし幼児は他方で同時に、それとはまったく別の対象を構成するのであって、それは幼児の現実的な能動的活動の進歩を統制し、失敗を補償するようになる潜在的な対象あるいは焦点〔虚焦点〕なのである」(同p271)


自己保存欲動による現実的テスト

幼児が現実の母を目指して歩いていこうとする場合、現実の母を目指すというまさにそのことによって幼児は「快感原則」から「現実原則」へ踏み出して行動しなければならない。世界に対して、それを、自分の空想によるだけの対象だとしたり、あるいはカオスなままのバラバラな対象だとしたりしてるだけでは、幼児は現実の母を目指すことができない。現実の母を目指すには、その歩行によって現実の母に辿り着けたかどうかを測る現実的なテストが必要になる。そしてさらにそれだけでなく、幼児はそこにまだ辿り着けていない先に「イマココにはまだ無い潜在的な対象」を想定しすることで、歩行の先に現実にいるだろう母を目指して歩くことができるようになる。
このとき、前者の現実的テストによって、現実原則の構成する能動的総合と能動的な大域的な自我の形成を可能にする。幼児が母を目指して歩行し実際に成功したり失敗したりすることを重ねることで、自分の意識によって世界の中に母という存在が在ることを認知することができ、その母を母として捉えて行動することによって、それを求める自我を自我という存在しして捉えることができるようなる。また、それによって良いおっぱいと悪いおっぱいを統合し「ママ」を一つの対象として大域的に捉えられるようになり、それを求める自我までも「自分」を一つの対象として大域的に捉えられるようになる。それは外部の現実に自分自身を適応させる。それゆえ、これは「自己保存欲動」という欲動の力によって為される。
「自己欲動は、現実原則の構成、能動的総合と能動的な大域的な自我との基礎付け、満足または脅威を与えるものとして了解される現実的な対象と切り離すことができず」(同p273)
ということになるわけだ。


性的欲動による潜在的対象の構成

しかしその前者の「自己保存欲動による現実的テスト」だけでは、世界の深まり方は不十分なのだ。そこにもう一つ、後者の受動的総合における「性的欲動による潜在的対象の構成」が必要なのだ。
「他方、性的欲動は、虚焦点の構成や受動的な総合の深化や、潜在的対象に対応する受動的自我の深化からなおさらのこと切り離し得ない…。たとえば、前性器的な〈性愛〉においては、行動はつねに、観察、観照であるが、しかし観照されるもの、観察されるものはつねに、潜在的なものである」(同273)
「自己保存欲動」の為す「行動」が能動的な意図的主体的肉体的行動だったのに対して、幼児の「性的欲動」の為す「行動」は受動的な無意識的に「見る」こと「観察・観照」であるのだけれど、その「観察・観照」において「観察される対象・観照される対象」が「対象」だとされるときに初めてその「観察・観照」は「性的欲動」を満たすものとなる。そして、それが「対象」だと認識されるためには、その対象をその場にアクチュアルに存在する「それ」とは別のものであるところの、その場にはアクチュアルには無くバーチャルな存在でしかない「潜在的対象」だとしてそれを「観察・観照」する必要があるのだ。
そのように考えると、幼児が世界を「現実的な対象」として捉えられるようになるには、「自己保存欲動による能動的で現実的な系列・セリー」と「性的欲動による受動的で潜在的な系列・セリー」の両者が互いに補完し合って構成しているのでなければならない。そしてさらに
「それらのセリーは単に互いに補完し合うだけではなく、さらにそれらの非類似と本質上の差異ゆえに、互いに他方に依存しあい他方で身を養っているということである。潜在的なものは現実的なもののセリーから控除されているということ、しかも、潜在的なものは現実的なもののセリーに体内化されているということが同時に確認される」(同p274)


意味論的意味と統語論的意味の両立

2つのセリーは互いに全く違うものでありながら互いに補完し、それのみならず、互いが互いを養い合って両者がそれぞれに立派に屹立することで世界を色付けられ意味付けられたものにすることができる。幼児は〈性的〉に「快感」に身を任せながら受動的に潜在的対象を対象として捉えることで世界を色づいたものとして捉えられるようになり、そして同時に、〈自己保存〉のために「現実」的に能動的身体的に行動しながら自らを一つの大域的自我として捉えられるようになり、現実的対象を現実的対象として捉えられるようになる。つまり、2つのセリーの両面によって、意味論的意味と統語論的意味を両立させることができるという話なのだ。


外への「超出」と「差異と反復」の読み方

しかし、その意味論的意味と統語論的意味の統合なんてそんな無茶な話が本当にこんなやり方で上手くいくのだろうか。ふつうのやり方では上手くいくわけがないのではないか。それに、このやり方で本当にこの幼児は外部世界に「超出dépassement」することができているのだろうか。外部世界に出るということ自体が矛盾なのだから、それは単なる勘違いでしかないのじゃないか。でも幼児はその無茶をやすやすとやり遂げているではないか。どういうことか。「それを可能にしたのは『同一性の棄捨』というそれこそ無茶苦茶な転回だ」というのがドゥルーズの回答である。もう無茶苦茶なのである。そして、その無茶苦茶をずっと問い続けているのがこの「差異と反復」なのだ。もしかすると「差異と反復」の文意の取りにくさから見逃され勝ちな時があるかもしれないが、ドゥルーズはこの不可能なはずの「外への超出」の可能性をずっと問い続けているのだ。読者はそこのところから振り落とされないように頑張って食らいついてその「超出」の可能性を探っていくのが、正しい「差異と反復」の読み方だと僕は思っている。

だから、話を急ぎすぎてはいけない。ドゥルーズは「潜在的対象」の「イマココには無さ」をクラインの精神分析論の上にさらにラカンの論にまで重ねて考察するから、そこでこの「超出」がどう問われていくのかを丁寧に追っていかねばならない。次節それを見ていく。

つづく

« 第1の総合の受動性能動性とハビトゥス〈僕にも分かる「差異と反復」2-9〉 | トップページ | 第2の総合と潜在的対象を精神分析の視点から整理する〈僕にも分かる「差異と反復」2-11〉 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 第1の総合の受動性能動性とハビトゥス〈僕にも分かる「差異と反復」2-9〉 | トップページ | 第2の総合と潜在的対象を精神分析の視点から整理する〈僕にも分かる「差異と反復」2-11〉 »