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2020年6月29日 (月)

第1の総合の受動性能動性とハビトゥス〈僕にも分かる「差異と反復」2-9〉

ドゥルーズ「差異と反復」第二章「それ自身へ向かう反復」を読む。
(今日は文庫上p263~268)

前節まで、時間の第1~第3の総合がどういうものなのかを見てきたが、今日はさらにそれを心理学的視点などからその成立の実効性を考察しその意味するところを明らかにすることにチャレンジする。
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ドゥルーズは世界把握の根拠を差異そのものに置くとするとどんな構成が必要であるかを追って、第1~第3の総合を考察してきた。ここでさらに、①その世界の根拠と人の生との関わりを問うために精神分析的な主体の視点で見ればどうか、②その世界構成は主体の側からの能動的なものか客観の側の受動的なものかという視点で見ればどうか、という2点でもって再度、第1~第3の総合を洗い直す。そして、現在としての第1の総合では、十分な世界構成が望めないこと。そのために純粋な過去としての第2の総合やさらに未来を展望する第3の総合が必要なことを洗い出していく。

まず、ドゥルーズは第1の総合とフロイト「快感原則の彼岸」の視点について問う。そしてドゥルーズは、「快感原則の彼岸」が単なる「快感原則」に例外があることを指すだけのものではなく、
「快感が実際に原則へと生成するための条件の規定」(差異と反復上p264)
であることを強調する。フロイトの説では「自由な差異」としての興奮を解消する体系的システムとして、差異が「備給(リビドーが対象に向かう)」され、「拘束(リビドーを手に入れる)」され束縛されるとするのだが、それは「差異の拘束や備給によって可能になる対象は快感そのものでなく、快感が身につける原則という価値」だということである。快感そのものではなく、快感のさらなる原因となるような原則であり価値であるようなもの(快感原則の彼岸)を展望する必要があるということだ。


第1の総合と拘束〈ハビトゥス〉


そのような視点で、差異の拘束を考えるときいちばん初めに大きなポイントとなるのが〈ハビトゥス・習慣※〉である。

【ハビトゥスhabitus・習慣】とは、「人々の日常経験において蓄積されていくが、個人にそれと自覚されない知覚・思考・行為を生み出す性向」(大辞林)アリストテレスの10カテゴリーの一つで「所有ヘクシス」のことで、一定の性質を有する行為の反復を介して成立した魂の持続的状態を差し、また、ベルクソン「物質と記憶」で言われる第1の記憶における「習慣」にあたる。それは表象ではなく反復する行動であり、行動的記憶だとも言える。それゆえ、これによってその内容は類型化され得るものとなる

なぜ〈ハビトゥス〉なのか。それはこういうわけである。ドゥルーズの哲学は「超越論的経験論」と言われるとおり、世界構成の根拠を経験(それも純粋な経験そのものとしての「差異」)のみに求めようとするものである。その経験(その差異)が何者であるかを示す形式も言語も意味もそんなものはすべて後付けのものでしかなく、ただ何者でもない経験そのものだけが世界であり、経験そのものだけが世界構成の真の根拠なのだ。そのような何者でもない「差異そのもの」だけを根拠として、世界が何者なのかを立ち上げていこうとする試みなのだ。しかし全く何者でもないものだけからそれが何者かである有意味なものを構成するなどというのはそのままでは無理な話だから、そこで〈ハビトゥス〉の作用を拝借する。
ドゥルーズのそのハビトゥスに基づくその世界構成では、例えば、ある生物が光に興奮しているときの経験は、最初は光そのものではなく、外的な光に対する興奮でもなく、何者でもない単なる興奮の経験である。しかしその興奮が興奮であるところの差異として「拘束」され、それが外的な光の「再生」であるところの一つの対象なのだとされると、その興奮が「光」であり、またそれを見る「私」や「目」であるという有意味な状況を形成することになる。この「再生」は、外的な光を内的経験として「私」が認識しているという意味で能動的な認識である。
しかし、その「光」なるものが何か統語論的な意味をもつためには以前にも同じ経験をしたものと同じようなものだとするとき、その判断を導くのは無意識的な〈ハビトゥス・習慣〉であるはずだから、その意味では受動的な認識である。そこでドゥルーズは、この能動性と受動性の両面が互いに互いと関係しあいながら「時間の第1の総合(イマココに開闢する現在としての相関主義的世界)」を構成すると考える。
つまり、
「差異としての興奮は、それだけですでに、一つの要素的反復の縮約※」(同p265)
だとするような一方の「縮約される内容」を保証する側面。こちらの縮約の側面で、経験そのものとしての差異が能動的に「光」としての世界だとして認識されることになる。
【縮約 contraction】ベルクソンの哲学において、持続の中でもともと分析不可能な質的内容を、主体との関係において認識可能なものに固定化し統語論的に分析可能なものとする作用。

そして、これに、
「〈興奮〉が縮約を遂行するような総合は、拘束と備給によって表象された第2の力〔2乗〕へと高められる。備給、拘束、あるいは統合は受動的総合であり第2段階〔2次〕の観照-縮約である」(同)
とされるようなもう一方の「縮約する構成」の側面を合わせる。こちらの縮約の側面が、「ハビトゥス」がリビドーへの反応を受動的に反復的なものにし、それによって過去の「光」としての存在と今存在している対象が同様のものだと判断できることによって、その「光」に統語論的な意味付けをなし得るものにする。
ところが、いまドゥルーズが考察しているような世界の発生の地点においては、過去の「光」が実在していたことはまだ規定の事実として確認されていないはずである。だから、ここで世界を開闢する主体は、その同じ「ハビトゥス・習慣」でもって「今光っている光」と対比して、そこにある過去の光の記憶を「過去の光の記憶」として統語論的に意味付けることということまでを、「今の光」の意味付けといっしょにやってのけることを要求されることになる。「今の光」と「過去の光の記憶」とをそれぞれに「今の光」と「過去の光の記憶」だとし、そして同時にそれらが互いに反復の要素であるとし、それらを「ハビトゥス」によって同様に反応する「私の目」との関係において世界を構成するとする…という多重な支え合いによる世界モデルを一挙に立ち上げるのだ。この多重な支え合い構造をドゥルーズは「第2の力〔2乗〕」や「2次の観照」と表現した(のではないかと僕は解釈した)。


受動的統合と能動的統合

私はもともと私ではなく、世界は世界ではない。ただ何者でもない経験だけがある。そこに、「光」としての世界と、それを観照する主体としての私と、私の慣習として世界を縮約する〈ハビトゥス〉が、一斉に一挙に立ち上がるというわけだ。私の慣習は私の〈欲動〉にもとづいてなされるものなのだけれども、その私には自我などなくって、それは初めカオスであり訳の分からない《エス》でしかないものでしかないのだから、〈慣習〉も〈欲動〉さえもカオスでしかない。そのドロドロの混沌から、主体と客体と対象と形式が一斉に立ち上げられていくとき、その水準に応じて「自我」も形成されるのだ。この自我は私の世界における私の観照によって形成されるのだから、〈ナルシシズム〔自己愛〕的〉な自我だとも言えるのだけれども、それは、ある意味で世界の側から強いられた受動的な世界であるところの客観的な対象を観照することによってその副産物として「自我」が形成されるのだから、単なる〈ナルシシズム〉ではない。
「すなわち〔形成された〕眼、つまり見る自我は、おのれが拘束する興奮を観照することによって己を自己のイマージュで満たすのである」(同)
私が世界を観照しそれを理解しようとするとき、私に責任のない慣習・私の与り知らないような〈ハビトゥス〉に基づいて勝手に世界構成が成されてしまうので、この世界の総合は「受動的な総合」だと言えるだろう。しかし、その受動的な総合を土台として、私はその世界を私の生きる現実の世界として受け入れるとき、それは単なる受動的な総合ではなく、私が能動的に世界を意味づけた「能動的な総合」になるとも言えるものだとしなければならない。
そして、その受動性と能動性の統合がなされることによって、世界ははじめて現実の世界でありかつ有意味な世界になり得るのであろう。


「快感原則の彼岸」

この受動性と能動性の統合という論点を見るとき、ドゥルーズがフロイトの「快感原則の彼岸」にこだわったわけがはっきりしてくる。習慣の反復において主体の精神が「快感原則」に従うのだとすれば、この受動と能動の統合がうまく働かないのだ。
「習慣の問題は、習慣を快感に従属させているかぎりではうまく立てることができない。一般に、一方では、習慣における反復は既得の快感を再生しようとする欲望によって説明される、と考えられている。他方では、その反復は不快な緊張それ自体に関わっている。ただし関わっているといっても、獲得さるべきかに快感を目指して支配するために関わっている、と考えられている。それら二つの仮定はすでに快感原則を前提にしている。既得の快感の観念および獲得さるべき快感の観念は快感原則の下でしか作用せず、その原則の二つの適用すなわち過去と未来を形成しているということだ。ところが習慣はこうそくの受動的総合である以上快感原則に先行しており、その原則をむしろ可能にしているものである。そして過去と未来が生ける現在の総合から生じると同時に快感の観念は習慣から生じるのである」(同p266)
「快感原則」が「原則」であるならば、世界構成の基礎であったはずの習慣が「快感」の下ですべて説明されるだけのものでなければならなくなる。しかし、そんな世界モデルを受け入れてしまうと、世界構成の受動性のすべては「快感」の下に統治されてしまう。そしてもちろん、受動性とともにその能動性までがすべて外的な「快感」の統治下におかれることになる。それは、上で考えたような、「世界と、観照する主体と、それを縮約する〈ハビトゥス〉が、一斉に構成される世界」などでなく、もちろん「能動的かつ受動的な世界」などではなく、単なる外的で単なる受動的なだけの世界に成り下がらざるを得ない。それはそれゆえ私の「生ける現在」にはなり得ない。


原則の「彼岸」とカントの「感性論」

 

だから、「快感原則」は乗り越えられなければならない。
「我々は、再生の能動性と、その再生によって覆われている〔習慣における〕反復という受動を混同しないように警戒せねばならない。興奮に関する反復の真の目的はそうした受動的総合を、快感原則と、未来と過去というその適用例とが生じてくる一つの力へと高めるところにある。習慣における反復あるいは〔興奮の〕拘束という受動的総合は、したがって〔快感〕原則の『彼岸』に存在するのだ」(同p267)
ドゥルーズが求めるように真に経験だけにもとづいて世界を構成するためには、「快感」という基準が経験と別の原理としてあるとしてしまってはならないのだ。〈ハビトゥス〉が何者であるかを請求に説明しようとせず、何者であるかが分からない一つの現実的な経験だとしてそのまま受け入れることによって、「快感」のさらなる向こう側「彼岸」に世界の根拠が存在するとする必要があるのだ。
そのように考えると、我々は「快感原則」のさらなる「彼岸」に世界の根拠があるとしなければならないし、いかなる外的な根拠も密輸入してはならないと言えるだろう。それゆえ。我々はカントの「感性論」よりもさらに深遠な「感性論」を模索しなければならないことになる。カントの感性論では、アプリオリな形式として時間空間を世界構成の場に持ち込んだが、それさえも、ドゥルーズからすると言い過ぎであると言えるだろう。

 


だから、ドゥルーズはそこで「世界と、観照する主体と、それを縮約する〈ハビトゥス〉が、一斉に構成される世界」を受け入れ、「私が生ける現在」としての第1の総合という世界モデルの必要性を説いたのだ。
しかし、この第1の総合は、このままでは不十分なものでしかなく、このままでは今日の思索でせっかく重視して取り入れた受動性と能動性がうまく機能しないのだ。それについては次節で第2の総合とともに考察する。

 

つづく

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