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2020年5月 1日 (金)

ベルクソンの「意識」が「自分を広げ緩めること」であるわけ

ベルクソンは「意識」を「自分を広げ緩めること」とした。それって一体どういうことなのだろうか?これについて、前節でも取り上げた岸谷五朗の「完璧な未完成」の話と絡めて考察してみる。

「演劇はその日プレイしてカーテンコールに立つまで完成を目指していって、その終わりを未完成として次の日また完成を求める。完璧な未完成を目指す」(岸谷五朗「ボクらの時代」2020.3.22)
舞台上で演劇はどこまでも完成を目指す途上の未完成品でしかない。それでも、未完成なのに完璧だったと言えるような舞台を作ることは可能で、演者はそれを目指すことができるという話。これがベルクソンの進化論における意識の考察と関連するように思えてならない。
Bergson_20200501221501 アンリ・ベルクソンH.L.Bergson1859~1941

「想像的進化」はベルクソンの進化論に関する思索なのだけど、そのなかで生物が意識を持つメカニズムについてまで考察してしまう。
ベルクソンはまず、生物の自動的な活動には意識は不必要で、そこに意識は生じないとする。生物が自動機械であるだけなら、自身を反省したところで何の得にもならないからだ。しかし生物は、本源的な「飛躍・エラン」をしてしまうという傾向を元々持つので、様々な場面でそれまでの自身の在り方を変化させようとすると、ベルクソンは言う。例えば、ある胚が成長して親になり子の胚を生むとき、親の胚と同じものが再生産される。ところがそのときに「飛躍・エラン」の傾向性ゆえに親と異なるものが生じることがある。その場合に、突然変異によってランダムな多様性が生じ不適応なものが淘汰されていくとするのがダーウィン進化論だが、ベルクソンの説はやや違う。子の多様性は単なるランダムではなくて、その種全体が目的的な意志のようなものをもって、或る程度の方向性が担保され得るとするのだ。だからそれは、ラマルクの目的論的な進化論にも親和性があるとも言えるものである。ここまでの話、生物の進化が目的をもってなされるというのだから、ベルクソンの進化論はまるでスピリチュアルで眉唾な話にも思える。


しかし、この、種としての変化や進化には目的的な面があるという話が、生体の一個体の活動の中だけで目的に向かって活動するという話になっていくのだ。そうすると、そこに「意識」が生じてくるという話になり、とたんに説得力をもつようになる。
たとえば、植物は光を受けてそれに適応した生長の仕方をするのだけれど、その反応の仕方は、何世代も掛けて進化した結果ようやく得られるだけのもので、その植物単体としてはもうすでにご先祖様によって決定しているやり方に則して機械的無意識的に為されるだけである。
ところが、生物の進化は、一個体の生体が、ご先祖たちの敷いてきたレールから外れて自由に自分の行動を選ぶことができるという方向へ進む。その方がその種が生き延びるのに圧倒的に有利だからだ。
このことを考察するのに、ベルクソンはまず、生物を構成する界を二つに分類する。一つは「植物的で自動的無意識的な生の継続性」もう一つは「動物的で意図的意識的な生の非継続性」だ。植物的な反応は、単に機械的で無意識的でしかないので、つねに同じ反応が継続されるだけになる。一方、動物的な反応は、機械的ではなく意図的で意識的な反応をすることができるので、今までと同じ反応が継続されるとは限らなくなる。
たとえば、森山徹著「ダンゴムシに心はあるのか」という本によると、ダンゴムシはどんな場面でどう反応するかが決まっていて基本的には機械的に反応しているだけなのだけど、「未知の状況」が出現したときにはある程度の割合で「冒険」をする個体が出てくるらしい。そしてそのときにそこで現れる「迷い」がダンゴムシの心だと森山は考えている。この考察がどこまで説得力のあるものか僕にはよく分からない。ベルクソンの考察もこれに似ているのだけど、ベルクソンはこれだけでは終わらない。ダンゴムシには動物的意識的な界があるだけでなく、植物的な自動的無意識的な界もあって、その両面があって意識が構成されるとする話をさらに発展させ、意識が発生によって幾何学的空間が保障されるとする話にまでつなげてしまうのだ。

まず、ベルクソンは「意識」を次のように定義する。
【意識】「自分を広げるためには自分を緩めるだけで良いとする原理。これ以上適切な言葉がないのでこの原理を意識と呼ぶ」「意識は空間のある点に位置付けられたある生物の意識」「意識は自らの原理と同方向に進んでいながら絶えず逆方向に引っ張られ回顧的に物事を見る」(「創造的進化」ちくま学芸文庫p302)
つまり「意識」とは、空間の中に己が存在していることにする原理そのものだ、としてしまうのだ。機械的無意識的植物的な界から新たなものとして別の界が飛び出し開けてくる。機械的決定論的に固定された行動様式しかなかったものが、ほどけて、緩まって、己が広がっていくことによって世界が開かれるという原理、その原理そのものを意識と呼んでしまう。ここに開闢した意識は、動物的な自由を持ちながら同時に、植物的な不自由な界をも開くことになり、その両方から引っ張られることによって、「私」の身体が空間の中に位置づけられることを保証してしまうというのだ。

「知性の観点からすれば、空間から幾何学を幾何学から論理学を生じさせるのは論点先取だ。しかし、空間が精神の弛緩の運動の終着点であるならば空間を措定するときには必ず幾何学と論理学を置かざるを得ない。幾何学と論理学は終着点に純粋な空間の直観があるような軌道の上にある。」同
さらに人間は、そのようにして意識をもった上に、その意識内容をさらに反省的に捉えなおし、知性でもって分析までしてしまう。ここにおいても、もともと空間が、植物的で機械的な継続性と動物的で意識的な非継続性の引っ張り合いによって構成されるとし、その引っ張り合いによって物理的空間が生じるのだとするのであれば、物理的空間を想定するために必要な論理空間を用意してくる必要がある。その用意ができなければ、そもそも物理的空間を立ち上げることはできないのだからだ。つまり、世界が幾何学的で論理的で物理的な空間であるとことは、主体が意識体として生きていく命であるということと共に、さまに生そのものとして立ち上がるのだ。
「世界の創造は自由な行為であり、生命は物質的世界の内部で、この自由を帯びている。腕を持ち上げる動作について、腕は放っておけば下に落ちるが腕に生を吹き込んでいた意志がそこに残っていると想定すると我々は、みずからを解体する創造的な動作というイメージとともに物質についてより正確な表象を持つ。そして生命に行動に直接的な運動がそれとは逆の運動の中に残っていること、つまりみずからを解体するものを横切ってみずからを作る、ある実在をみる」同p315

ここで生じることになる生の空間は、しかし、空間が存在者に先立って存在者の受け入れる基盤として存在するものではない。空間は決して単なる器でないのだ。
「存在によって埋められ塞がれる無が、権利上、存在に先立つという考え、充満とは空虚のカンバスにされた刺繍だとする考え、『無』の表象が『何か』の表象より含まれているものが少ないという考え、そこからすべての神秘が生じる」同p350
空虚な空間は生に先立って存在し、それに遅れて生じてくる生を受け止めるものではない。空虚な空間は生と共に意識そのものとして生じるものであって、はじめて、我々の生を活動させる舞台となり得るのだ。

まとめると、ベルクソンの「意識」は次の条件で発生したと言える。
1.生物が「創造的進化」をしていく中で「植物的機械的な継続性」から「動物的意識的な非継続性」が生じてくること。その「意識的継続性」が生物種の進化過程を自ら新しく「発明」し「創造」していくような方向性を持つようになること。
2.進化が進み生物種の構成が複雑なものになっていく中で、人間の一個体の活動で「植物的機械的な継続性」と「動物的意識的な非継続性」の両面が引っ張り合う状況において自己の活動を自ら振り返ることが可能になること。
3.自己の身体活動と、身体を取り巻く環境の物理的空間性と、それらを意味づける論理空間や論理性とを、一挙に立ち上げることで、「物的状況を論理的に認知する意識」が可能になること。
というわけだ。それゆえこの話は、これらの条件を意識の定義づけに含めてしまい、空間を認知する意識の成立という結論を、その前提にもってきただけの「論点先取」でしかない話だとも言えるかもしれない。確かに論点先取であろう。しかし、その論点先取は、我々の世界が我々の生の世界だとする論点先取であり、その生を意味づける論点先取なのだから、我々が世界を我々の生だとする限り、その捉え方をした時点でもう十分な根拠になってしまうとも言えるのだ。

ベルクソンのこのベルクソンの進化論・意識論は、前提にやや無理やりなところがあるのだけど、だから僕には、なかなか説得力がある世界モデルにも思えてとても興味深い。このモデルのおもしろさが伝わったらいいのだけど、どうだろうか。


さて、こうして見ると、ベルクソンの意識モデルというのは、それが生の世界そのものであるという意味で、世界モデルでもあると言える
そして、それは、自分自身がすでにそのように規定された軌道上のものとして存在すると同時に、軌道から自由に踏み外して飛び出してゆく未規定なものとして存在するものであるからこその意識であり、世界なのだと言えるだろう。つまり、我々の世界と生はまさしく「完璧な未完成」だとも言えるものなのだ。(ここに「完璧な未完成」が出てくる。)
つまり、我々の生は、すでに出来上がった完璧な生でありながら、同時に、破壊され何が何だかまるで分からない生として発明し直されることで、はじめて生たり得るのではないだろうか。
我々の世界は、すでに出来上がった完璧な世界でありながら、同時に、破壊され何が何だかまるで分からない世界として発明し直されることで、はじめて世界たり得るのではないか。
我々が世界を発明し、我々が世界に発明される。それが世界であり生じゃないかだろうか。

ね、こうしてみると、ベルクソンの意識モデルと岸谷の舞台論は、この一点において交わっているのがはっきり見えていたく感動的ではないか?どうだろうか?伝わるかなあ?

前節〈岸谷五朗の「完璧な未完成」ニーチェの「永遠回帰」とヘーゲルの「弁証法」〉

思いつきの言々

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