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2020年5月17日 (日)

想像界・象徴界・現実界・対象a上〈ラカンを読む1〉

ラカンの現実界・想像界・象徴界・対象aの考察にチャレンジする。ドゥルーズ「差異と反復」にラカンの対象aが出てきたので、あのラカンを自分なりの言葉でまとめてみることに挑戦してみた。以下は、斉藤環「生き延びるためのラカン」や松本卓也「人はみな妄想する」やその他さまざまな解説的二次文献とラカン「エクリ」の一部から僕が読み取り考察した内容である。ラカン原典の読み取りは不十分なので、いつものとおり眉唾な話として読んでもらいたい。
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ジャック・ラカン
かの悪名高きジャック・ラカンJacques Lacan1901-1981は、フランス精神分析家。フロイト(1856–1939)のエディプス・コンプレックスを深化させ、フランス精神分析に大きな影響を与えた。のちにフロイトの精神分析が再現性を疑われ非科学的だとして否定されたり、ラカン自身も数学的表現が間違っているとソーカルによって糾弾されたり、ドゥルーズ=ラカンからもエディプス・コンプレックスの構造を批判されたりして、その思索の正当性や価値について様々に疑問視されることが多い。しかし、ドゥルーズを読む上でこれを外すわけにはいかないし、実際、その思索は認識論・存在論に深く結びつくもので単純に面白い。ポモ批判に押されて、かんたんに棄ててしまってはもったいなさすぎると思う。
ラカンの精神分析は、生まれたばかりの乳児が自分にとっての世界を開闢していく中で、どのように自我と世界とを関わり合わせ、どのように成立させていくかを問う。そしてそれによって神経症や精神病へのアプローチ法を探るものである。だから、認識論や存在論に大きな示唆を与えられるものにもなっている。「差異と反復」においてもラカンの精神分析の認識論存在論に関連するところを問うている。そこで今日は、ラカンの分析の中でもその研究の中心である精神病理的な話よりも、認識論や存在論にかかわるところにとくに重点を置いて見ていくことにしたい。

生まれてきた子供は自我を持たない
初期のラカンは生まれてくる子供の発達の観点で「鏡像段階stage du miroir」というものについて論じた。
生まれてきた子供は初め自我を持たない。子供は乳房を乳房として認識せず、自分を自分として認識せず、自分と乳房を区別せず、自分の心や自分の身体と自分ではないものを区別しないままの、満ち足りたカオスそのものである。それは、完全な充足であり一種の享楽である。しかし、その子供はやがて、母の乳房が取りあげられたり母がいなくなったりすることがあるということに気づき始める。そこに何かが見え始め、何かが存在するものとして湧き上がってくる。そして子供は、この得体の知れない湧き上がりが何であるか、それが何を意味するものなのかを掴もうとする。しかし、子供はまだ自分の身体の統一性を得ておらず、自分の身体があるという意識さえ持っていない。自らおしゃぶりしている自分の右手と母にしがみついている左手はまるで関係のないものでしかない。でも、あるとき鏡に映った自分を見てそこに映った身体を一つの身体だと同定したり、母の身体を見てその身体が母という他者を受け持っていると同定したりするようになる。子供は、鏡像として映っている自分を一個の他者として受け止め、あるいは母の身体を他者として受け止め、それを鏡像として捉えることによって、その他者の中に自己像(自我)を見出す。人は自分を自己像として捉えられるようになるまでは、何者でもない空虚な主体でしかない(この空虚な主体はフロイトのエスに当たる)。そこに他者像の鏡として、想像的な自己像を結ぶことで、自我というものを紡ぎだし、世界を開くための糸口とするようになってくる。これが「鏡像段階論」1937である。

部分対象論
この鏡像段階論に先立って、ラカンと同じくフロイトの弟子であるメラニー・クラインが「良い対象・悪い対象(部分的対象関係)論」1932を説いている。乳児ははじめ、乳が出るおっぱいを「良いおっぱい」、出ないおっぱいを「悪いおっぱい」として、乳房を母親と無関係な存在として捉え、その場の快不快だけに関係するその場限りの対象として捉えるに留まるものである。やがて、そのような掴みどころのない認識が、「部分」ではなく母としての「全体」を対象として関係づけられるようになって、乳児は対象と対象を統合していき、自我と世界を構成できるようになっていく、という認知モデルである。(伊藤比呂美のベストセラー「良いおっぱい悪いおっぱい」1985はこれから取ったタイトルだったのね)
しかし、ラカンはメラニー・クラインのこの論は、存在価値的には同質なものの統合を示すものでしかなく、存在対象を存在対象として認識するための身分の転換が説明できていないとして批判する。そこで、現実的存在と象徴的存在という存在の身分の違いを考察する必要があるとした。そしてそのなかで言語論自体を解体し直してその成立を問う。これがラカンによる他者性とエディプス・コンプレクス論の整理である。

ラカンの分析と自我形成と世界形成
ラカンの自我形成および世界形成のモデルは、
(1)生物学的生命維持的活動と意識的意図的な活動と、それらを可能にする欲望欲求と言語的な分析力の関係を問う視点、
(2)言語的な分析と男女の性的関係性における他者性との関わりを問う視点、の合成である。
(1)の視点は、精神分析から生物学にまでその視点を広げるものである。たとえばベルクソンが進化論と認識論・存在論を繋げたように、哲学的な問題にまで手を広げる視点だと言えるだろう。(2)の視点は、フロイトの問うたエディプス・コンプレックスをさらに深めるものである。ラカンは、この(1)と(2)を多層的に絡み合わせて考察するものであり、これによって、人間の心と自我に関する問いと哲学的問いとを複合的に問いながら、世界が分節化可能なものになるシステムを例示するものである。そして、この分析において、言語そのものの成立というところにも重点が置かれ掘り下げられた。


シニフィアン
ラカンは、これらの問いを問う上で、まず、生物学的生命維持の活動でしかなかったものが意識的意図的な分析を可能にする道具として「シニフィアン」を重視する。
【シニフィアン】とは、元々フェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913)言語学用語で、言語を乗せるアイテムとしての語。音声言語における音声データや記述言語における記述データのこと。意味の概念内容としての「シニフィエ」と、意味の媒介アイテムとしての「シニフィアン」とが対になって語の「シーニュ」(しるし)を形成する。ラカン用語としてのシニフィアンは、シニフィアン同士の関係性が重視されるので、シニフィアンは単なる音声や記述を指すだけのものでなく、内包的役割も負うこともある。また、ある一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を代理表象することもある。
Saussure
フェルディナン・ド・
ソシュール

想像界・現実界・象徴界
もちろん乳児が自分自身の自我を捉えるときに、初めからそんなしっかりとした言語を持ち出せるわけはない。だから、まだシニフィアンとは言えないような、あやふやな、しごく心許ないところからはじまるような、言語的にもっとも初歩の認識から考察する必要がある。
そこで、ラカンは、そのもっとも最初のもっとも心許ないあやふやな認識の時点について考察するのだが、その時点ですでに、世界の構成が、想像的側面・現実的側面・象徴的側面の3界に分けて捉えられる必要があると考えた。世界の想像的側面・現実的側面・象徴的側面とは何か。
「生き延びるためのラカン」で斉藤環は、この「想像界」「現実界」「象徴界」を映画マトリックスになぞらえて説明している。「想像界」はマトリックスの主人公ネオが初めに生活していたおとぎ話的な仮想世界に当たり、「現実界」はネオが夢から覚めたあとの外在的な現実世界にあたり、「象徴界」は想像界をデジタル的に分析したプログラムコードに当たるとする。この比喩、よくできていると思うが、僕はそれと似たような比喩で、「いいね!光源氏くん」というNHKドラマになぞらえられるのではないかと考えている。
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「源氏物語」のフィクション世界から多世界宇宙論的な次元スリップが起こってその主人公である光源氏がこの現実世界にやってくるという話である。光源氏は、自分が紫式部の書いたフィクションの登場人物だということを知るのだけど、このドラマにおいてフィクション世界の中にいた光源氏を主体とすると、その「源氏物語」の中の世界が「想像界」、そのフィクションの外の現実が「現実界」、その現実において書かれてある「源氏物語」のテキストデータが「象徴界」に当たる。これらの比喩のイメージがまさしく次の子供と母の二者関係の話における「現実」「想像」「象徴」の概念にスムーズに当てはまるように思える。

〇「現実的対象」
まず、生まれたてで自我を持たない子供が初めて母のおっぱいを〈物〉として捉えるとき、そのおっぱいはまだおっぱいではないし、何者でもない、単なる「現実的対象」である。この時点の子供は、生命維持のための欲求だけを活動の原理として乳を欲する。世界はすでに充足しており享楽のカオスのただ中にある。その欲求を満たしてくれるのは、ただただ何者でもない「現実的対象」だけである。

〇「想像的損失」
このような、ある意味で植物的で無意識的な生き方をしていた子供が、ある時、おっぱいがあることに気づく。それはおっぱいの不在に気づくことでもある。それは「自分は何が欲しいのか」という要求の意図を意味あるものにして、意味あるものとしてのおっぱいの「シニフィアン」を要求することができるようになる、ということである。そして、何が欲しいのかを自分で知ることが可能になって意図することができるようになれば、それは、意識的に自らを行動できるものにする原理になる。つまり、欲しいという意図を原因として、意識的能動的な活動ができるようになるということである。そして、ラカンは、この欲求を発生させる損失(おっぱいが無いこと)が、対象(おっぱい)がシニフィアンを持ったことによるものだとして、その損失を「想像的損失」と呼んだ。主体が損失を被るとき、その損失が想像的損失であることによって、世界に何かが在ったり無かったりすることが可能になるのだ。

〇「象徴的母」
ここで、想像的損失はシニフィアンをもっているからこそ想像的損失になったわけだが、その想像的損失がシニフィアンを持つためには、シニフィアンをシニフィアンとして形式づけるための判別弁別の基準(あるいはスケール)が必要になる。この場合、スケールとなるのが「象徴的母」なのである。
子供の眼前におっぱいが「有ったり無かったり」することに子供が気づくためには、子供はそこにおっぱいが無かったとしても「何が無いのか」を分かることができねばならない。そのために子供は現実に存在するものとは別に、〈そこに「無い」象徴的な母のおっぱい〉を持っていなければならないことになる。それこそ、原初的な言語としてコード化された「象徴的母」としての〈おっぱい〉なのである。子供は「象徴的母」を持つことによって、そこに「おっぱい」が在ったり無くなったりすることを認識することができるようになり、それを要求することができるようになる。


充実した生の欲望
ただし、ここで注意しておかねばならないことは、その要求が単なるコード化された内容をもつだけのものでしかないなら、そこには子供の生きる意識は充足しているとは言えず、それは「空虚」な言葉でしかない、ということだ。最初の現実的な、何者でもなかった子供が、何者でもなかった「現実のおっぱい」と、コード化された「象徴的なおっぱい」が一致させられるところで、無意識的生物学的な欲求と意図的要求が合わさることによって「充実した実感をもった生の欲望」が生じることになる。それによって、「おっぱい」はもはや単にコード化されただけの中身のないシニフィアンではなく、きちんと内容と実感的な意味を併せ持つ世界として表象されるものを示し得るものになる。そして、子供は自らの意図をもって世界に対して行動することが可能になるというわけだ。


気まぐれな母・原-象徴界
そして、またもう一点、この時点での母の存在は、子供にとってただ気まぐれに在不在を繰り返すだけの象徴であり、世界を言語化形式化するスケールの目安とするには、あまりにもあやふやなものでしかない、ということも忘れてはならない。それでも、この時点の子供はこの母を取っ掛かりとして世界を開くしかなく、原初的な象徴界の存在としての母に頼るしかない。そこで、この時点の母は前駆的な象徴という意味で「原-象徴界」と呼ばれる。


ファルスと想像的三角形
さて、こうして世界の中に母(原-象徴界)の存在を見つけた子供は、次に母の存在を鏡像として自分自身の存在に気づけるようになるのだが、ラカンはその鏡像システムについてもさらに詳細な構造を示してくる。
子供から見た「原-象徴界」としての母は、気まぐれに居たり居なかったりするので、その在不在は不規則な象徴でしかなく、それは世界のスケールとしては不十分なものでしかない。そこに当てはめるべきスケールの基準原器とするために、ラカンは「ファルス」なるものがあてがわれなければならないと言う。そしてそれによって、フロイトのエディプス・コンプレックスをさらに深化させた心理モデルが構成できることを説く。
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【ファルス】とは、屹立した陰茎の意で、古代より様々な地域で様々なものの象徴とされてきた。ラカンにおいては、世界を表象として規則づけるための理想的な言語的な規範の基準を表す。
母は女性ゆえファルスが欠如し(去勢され)ているので、子供は、世界を理想的に記述できるような規則を母に期待することができない。そこで母がその欠けたファルスを子供に求めてくるはずだ、と子供は考えることになる。そこで、子供は、自分が、母の求めるものになることによって自分が何者かであることを確かめようとする。しかしここにおいて、母が求め自分がなろうとするそのファルスは、不確かな母と何者でもなかった子との二者間の関係の中だけで成立するファルスであって、全く一般性に欠けるものでしかない。だから、それはある意味で子供のイメージ内のおとぎ話世界におけるファルスでしかない。それゆえ、この段階のファルスは「想像的ファルス」と呼ばれる。そして、この、原-象徴界としての母と、現実的な子供と、想像的ファルスの三者関係が「想像的三角形」と呼ばれる。
その「想像的三角形」は結局、子供がいわゆる快感原則のみに身をゆだねて自分勝手におとぎ話的な世界にいられる範囲だけでの世界を示すものでしかない。


〈父の名〉
しかし、やがて子供は、母のおっぱいの有無や様々なことが、現実には思い通りにいかないことだらけであることに気づく。このとき子供は想像的なファルスでは測り得ないようなもっと現実的な外の世界があることを知ることになる。
そこで子供はもっと現実的な世界を把握するために、母よりも上位の原則を求めなければならないことになる。ここで〈父の名〉が登場する。
〈父の名〉とは、母の欲望(原-象徴界)を統御し、想像界を司る法。象徴界の秩序を安定させるシニフィアン。
母と子の二者関係だけでの「想像的ファルス」による解釈は、気まぐれででたらめな母の在不在をその場限りの適当な規則に翻訳するだけの解釈でしかなかったとも言える。そのようなでたらめな出来事から可能になる解釈はでたらめな解釈にしかなり得ず、でたらめをでたらめでなくすような新しい意味作用を生じる作業にはならない。これに対して、〈父の名〉は、母のでたらめな行動さえ確定的に把握可能なものだったことにしてしまうものとなる。


換喩と隠喩
このことについて、ラカンは母の想像的ファルスによる解釈が「換喩的」であるのに対し〈父の名〉は「隠喩的」だと言う。
【換喩】とは、たとえば「一隻の船」を「一枚の帆」で例えるような、結局同じことを意味するだけで新しい意味作用を生じない比喩のこと。
対して、
【隠喩】とは、たとえば「彼はケチではなかった」を「彼の麦束はケチではなかった」で例えるような、元の語よりも別の内容まで表すことができ新しい意味作用を生じさせることができる比喩である。
つまり、〈父の名〉は単なるでたらめな規則ではなく、でたらめに見えていたものの奥に潜み隠れていた真の法則を父性的隠喩によって新しく示唆してくれるものだというわけである。(この父性的隠喩による意味作用は、新たなファルスを生じさせ得るものなので「ファリックな意味作用」と呼ばれる。)
そしてまた、ラカンは、子供との間に象徴的関係を結び、某かの意味でシニフィアンを生み出す鏡となるものを「他者a」(小文字の他者)と呼ぶ。そして、他者aに対して、その他者aも含めてあらゆるシニフィアンを究極的にファルスに帰着するようにさせるような他者、つまり、あらゆるシニフィアンにファリックな意味作用を孕ませるような他者を「大他者A」(大文字の他者)と呼んだ。(aは「autre」⦅他者、もう一つの、別の、other⦆のa。この図式での母は「小文字の他者a」であり、父は「大文字の他者A」にあたる)

シェーマL
これらの関係をラカンはシェーマLという図式で表している。
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〇 S:無意識の主体であったところのもの。大他者Aによる象徴的な承認によって意味あるものとして位置付けられる。「想像的三角形」の図ではまだ主体がなかったが、このシェーマLで主体の成立が問われることになり、「想像的ファルス」の位置に書き加えられている。ただし、この主体はもともと何者でもないものでしかなく、必然的に、すでに母を父に奪われ去勢され終わっているものだとも言える。そのことを強調するために、Sに斜線を引かれて示されることもある。(フロイトのエスの「S」であり、主体sujetの「S」)
〇 A:大他者。主体Sに対して象徴的な承認を与える。〈父の名〉として、でたらめな母の欲望を統御する法。
〇 S-Aのライン:「象徴的軸」という。何者でもないSが、もともと無意識の現実的子供として意味付けされない芳醇な生に満ちていたものが、パロール(その場で発声される音声言語)によって意味づけられる関係性を表し、その意味で「充実したパロール」を生む。
〇 a:自我。他者の他者としての私。他者a’との関係性において子供が鏡像的に得た自我像。母の鏡像としての私。鏡に映った僕の鏡としての僕。小文字の他者との二者関係において想像界を構成する自我。
〇 a’:autre。他者。小文字の他者。自分を映す鏡像としての他者。鏡像としての母。鏡像としてのマリオネット。鏡に映る私。
(図によってaとa’が逆になっていることがある)
〇 a―a’のライン:「想像的軸」。母を自我の鏡像に見立てたり、マリオネットを自我の鏡像に見立てたりして、自我を意味づける。その像と何か他のものとの関係性によってその像を意味づけるものなので、ここで得られる意味はシニフィアン同士の関係性による意味である。この軸にもとづく言語的作用をラカンは「空虚なパロール」だとしている。(僕にはこれが、ヘーゲルの「精神現象学」で、言語によって分節化されてしまった確信を「最も貧しい真理」だとされたのと同じ意味で「空虚」と言われたように思われてしかたない。)
象徴的軸S-A上で展開される充実したパロールは、しかし、しばしば、想像的軸a-a’上で展開される「空虚なパロール」に阻まれ主体Sに届かず、世界がその場限りで一貫性がなくなったり、充実感を失ったりしてしまうことがある。この象徴軸と想像軸の連携の不全状態が神経症に当たるとラカンは解している。

さらに、ラカンはシェーマRという図式で想像界・象徴界・現実界の区分を重視してその構造を考察し、対象aというアイデアにつなげていくのだけど、それについては、次ページに続くことにする

つづく

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