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2020年5月17日 (日)

想像界・象徴界・現実界・対象a下〈ラカンを読む2〉

このページは前節からの続きなので、未読の方は先に前ページを読んでもらいたい。

前節に続いて、ラカンの精神分析論における想像界・象徴界・現実界や対象aなどのアイデアを読解しそれを足掛かりに認識論・存在論の考察にチャレンジしたい。

シェーマR
シェーマLの図式化をさらに、想像界・象徴界・現実界の関係を重視して書き換えられたのがシェーマRである。
シェーマRは、主体Sの周辺の「想像界」(想像的三角形)と、大他者Aの側の「象徴界」(象徴的三角形)と、その想像界と象徴界の間に挟まれた「現実の領野」(ファンタスム)の3つのエリアから成っている。
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シェーマSでは「自我」が四角形の左下の頂点aのみに示されていたが、シェーマRでは四角形の左辺S-aのなかで、「子供の自我m」と「理想的な自我I」の二つに分けて考える。また、シェーマSでは「鏡像的な他者」が右上の頂点a’のみに示されていたが、シェーマRでは四角形の上辺S-a’のなかで、「鏡像的イマージュi」と「前駆的大他者=母M」の二つに分けて考える。そのS-a―a’の三角形が「想像的三角形」を構成する。

想像的三角形
Sはやはり、もともと自分が何者か分からない何者でもない主体である。その何者でもない主体が世界と自分が意味するものを掴もうとして想像的に意味づけるエリアが「想像界」であり、「想像的三角形」によって示される。主体Sはそのために、母を頼りにして母を自我の鏡像とする。そのように小文字の他者に基づいてシニフィアンを作ることで、子供は世界を分節可能なものにすることができるようになる。
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しかし、ここで最初に捕まえられる母の像は、もちろん現実の母そのものではなく、それ自体が想像的(イナジナリー)な一つの偶像でしかない。だから子供が鏡像として使える母は、四角形の端にある現実的母M(Mère)よりもその分、左によったものにならざるを得ない(鏡像的イマージュi)。鏡像的イマージュiが左によってくると、それによってその鏡像として得られる自我像もずれたものになる。そしてそのiの欲望としての想像的ファルスφをもとにして、iの鏡像として自我m(moi)を描くことになる。だから、現実的母に基づいた理想的な鏡像としての自我を四角形の端のIだとすれば、ここで得られる自我mはそれよりも上にずれた場所に位置することになる。こうして得られた鏡像的イマージュiと自我mと想像的ファルスφとしての主体Sとの関係性において生じる空間が「想像的三角形」と呼ばれるものになる。子供はこの想像的三角形の空間を開闢することで、自分の世界を意味あるものとしてイメージすることができ、生活することができるようになる。ただしそれは自分と母の間だけで生じる狭い生活世界であり、ある意味では何からも阻害されないままのとても豊かな質感を持つ空間であるが、ある意味では現実的な不都合に目を向けられていないおとぎ話の世界でしかないとも言える。映画「マトリックス」における仮想現実、「いいね!光源氏くん」における源氏物語の世界でしかないというわけだ。ある意味で完全に予定調和が約束された世界であり、外部を持たない世界だろう。それは、すなわち外在を持たない世界であり、外延がない世界だと言えるのかもしれない。ある意味で内包だけで充足する独我論的世界。

象徴的三角形
そこで、子供を想像的三角形のおとぎ話的な仮想空間から引っ張りだし、現実に向けることができるようにするのが「象徴的三角形」だ。図の右下の「P」は〈父の名Noms-du-Père〉の「P」、「A」は「大文字の他者Autre」の「A」で、右上の「M」は「母Mère」の「M」、左下の「I」は「理想自我Idéal du moi」あるいはドイツ語の「自我Ich」の「I」、右上の「a’」と左下の「a」は「小文字の他者autre」と互いに鏡像関係にある「a’」と「a’」であるらしい。これらが構成する三角形が象徴界である。
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「マトリックス」において、仮想空間に対してそれを構成するデジタルデータに例えられるものである。想像的世界では、主体は想像上のおとぎ話物語主人公でしかなく、気まぐれな母の在不在を統括することはできなかった。この統括をさらなる上位の視点からできるようにするため、それを統御することのできる法の場としての大他者が要請される。母が単なる「シニフィアンの場としての大他者」であったのに対し、〈父の名〉は「法の場としての大他者」なのだ。母は、「想像的ファルス」を生み出すだけの大他者であり、とりあえずその場でおとぎ話的なシニフィアンを構成する場としての大他者だからである。そして対して、〈父の名〉はそのシニフィアン自体の構成を法則化する、さらなる上位の法としての大他者である。〈父の名〉の外部世界の視点を持ったシニフィアンによって、象徴的な法が示されることで、想像界の自分勝手なでたらめさが統括される。「想像的ファルス」によって捉えられるしかなかった主体が「象徴的ファルス」という高次のファルスによって捉えられるようになる。そして、子供は、母子だけの二者関係から飛び出してその外部世界を展望することができるようになるというわけだ。想像的な「マトリックスの仮想空間」を規定している象徴的な「デジタルデータ」が想像界の外部にあることを展望できるようになることで、あるいは想像的な「源氏物語の内部世界」を規定している象徴的な「源氏物語のテキスト」が想像界の外部にあることを展望できるようになることで、その内部にいた人物は外在的な世界の対象について思いを巡らせることができ、外在的な対象を指示するシニフィエが外延的な意味を持つことが可能になる。
そして、この象徴的役割を根拠づけるための「象徴界」が〈父の名〉Pと、現実的母Mとそれによって生じるべき理想的な自我Iの3頂点による三角形だとされるのである。しかし、その現実的な母も理想的な自我も、想像界にいる子供からその全てが見通せるものでは、もちろん、ない。


現実の領野
そして、子供は、そのように立ち上がってきた想像界と象徴界をそれぞれ足掛かりとして現実を展望する。「マトリックス」の仮想空間しか知らないネオが、外世界に飛び出さないまま、マトリックスのデジタルデータを展望し、それをステップにして外世界を展望する、とか、「源氏物語」の中の光源氏が現実世界にスリップしてこないまま、「源氏物語テキスト」があることを展望し、それをステップに現実世界を展望する、とかそういうやり方で現実を展望するのだ。しかし、それはもちろん無茶な話で、物語世界の主人公が外の世界を知ることができないように、子供が現実を知ることはできるものではない。光源氏にとって「源氏物語」のテキストなどファンタジーでしかありえないし、それが書かれた外世界などさらなるおとぎ話なファンタジーでしかない。それでも、ファンタジーではあるが、そのような高次の視点から自分の世界を記述しているテキストがあることを、子供が空想することが不可能なわけではないし、そのようなテキストを想定して外世界を空想することも不可能な話だというわけではないだろう。子供はファンタジーとして現実を空想し、それに向けて冒険的挑戦的に生きようとすることで、現実を展望することはできる。この、シェーマRにおいて、子供が入手できるのは、このような冒険としての現実でしかないという意味で、この想像界と象徴界に挟まれた四角形M-i-m-Iを「現実界」とせず「現実の領野」とした。想像的な小文字の他者であるところの鏡像イメージである母iはその展望の中で現実的な母Mへ身体像の統一が図られ、小文字の他者の他者としての自我mはその展望の中で理想的な自我Iへ象徴的な同一が図られる。そのような冒険的展望が「現実の領野」を開くというわけである。
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子供は現実界そのものを見通すことはできないけれども、そのように能動的に外的世界に臨もうとすることで、外延的な意味を持つシニフィアンを入手することが可能になり、世界を現実的な外在として捉えることができるようになる、とは言えるだろう。それによって子供は、部分的ででたらめな母との間に形成されるような充実しつつも意味の薄い狭い想像的世界から飛び出し、現実のより広い世界への扉を開き、苦悩は多くなるだろうけれどもその分、多層的で多様な関係性を持っているような、より有意味なシニフィアンでもって外延として指示され得るような外世界こそが、子供が生きる現実世界そのものであるとすることができるようになるのだ。

個物普遍問題とラカンモデル
この点には、ベルクソンが「創造的世界」で無意識的で受動的な世界把握では世界の有意味性が十分確保できないとした思索と、ずいぶんと重なるところがあるだろう。その意味で、ラカンのこのモデルは精神分析のためのモデルであるだけでなく。哲学的な生の問いを深めるものだろう。子供が母との二者だけの関係の無意識的受動的関係から飛び出して、より意識的能動的に世界把握しようとする局面に、世界を深く意味づけるような生の展開が生じることを示すものだとも言えるだろう。これはまさしく個物-普遍問題でもあることは明らかで、その意味でドゥルーズがベルクソン哲学と交差させてラカンを問うたことは意義深いと思われる。(これについては「僕にも分かる『差異と反復』」のページの方でより詳細に考察してみたい。)


疎外・分離・対象a
さて、ラカンの考察はこれで終わらない。シェーマLやシェーマRなどで示されたような子供が世界を認知するためのシステムは、これまで見てきたようにエディプス・コンプレックスと深く関連するのだが、その性的な構造が同時に言語の意味の限界を構成するような仕組みでもあることを明示する。それについて「疎外」と 「分離」と「対象a」をキーワードとして考察する。
〇疎外
【疎外】aliénationとは、象徴への参入によって享楽の喪失と引き換えに主体を現れさせる操作である。また、シニフィアンの構造としての大他者の導入によって、人間が原初的な享楽を失いこの消失の中で主体が姿を現すことである。子供がもともともっていた原初的な享楽のカオスはあまりに過剰で致死的な快であり、単なる快不快におさまるようなものではなく、快原理には到底受け入れ得ないものである。それが、シニフィアンによって世界の言語化と分節化ができ、ある種の普遍化ができるようになるのだが、その時に、言語にはおさまらない、個物的で致死的な豊潤なカオスが必然的に失われてしまうということである。
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この疎外におけるシニフィアンの導入で大他者自体もその豊潤なカオスを失った、欠如したものとしての大他者でしか機能しないのでその意味で大他者は「A」でなく「Ⱥ」として表記されることがある。母と自分の区別もできていなかった子供が、「母」というシニフィアンによって母が自分とは別の存在として存在するものだと分節化し理解できるようになる。しかし、「母」というシニフィアンは、他のシニフィアンとの比較においての意味(統語論的意味)しかもたないものなので、その統語論的意味だけが分節化され、豊潤であった意味論的意味はそっくり欠如されることになる。母をそのような統語論的アイテムとしてのシニフィアンだとすることではじめて、子供は世界を理解可能なものにすることができるのだから、子供が世界を理解するためには、生の享楽の「もっとも生き生きとした部分」を失ってしまわざるを得ないのだし、母自体も同様に原理的にその享楽の「もっとも生き生きとした部分」を失ってしまわざるを得ない仕組みになっているのである。

〇分離
【分離】séparationとは、子供が、自分が先に失った「存在の生き生きした部分」を以て、大他者(である母)の欠如に答えようとする操作である。そしてそれによって、大他者Ⱥの欠如を埋め、享楽を部分的に代理する対象aを抽出することになる。
よく考えると、母の欠如した部分について、子供は何が失われたのかを知っているはずではないか。それは子供が疎外によって失ったものそのものではないのか。そうだと言えるかもしれないし違うと言えるのかもしれないが、子供には母の欠如を埋めるには自分が失ったはずの何かを以てその穴を埋めることしかできない。そこで失われた享楽を一つの対象としてここに持ち込むことによって、欠如の代用としようとする。この代用品が「対象a」である。大他者に内在する欠陥(Ⱥ)を認めながら、その欠陥を対象aで隠し、大他者Aと取り戻そうとするのだ「Ⱥ+a=A」。
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この「疎外」と「分離」によって、世界を理解される肯定で必然的に失われてしまう享楽を取り戻そうとするこのラカンの言語的なメカニズムは、エディプス・コンプレックスのメカニズムとしても理解することができる。
子供は、絶対だと思われていた母が、実はファルスを持たず欠如を抱えた存在であったことを知る。そして自らも、自分のペニスが父に奪われてしまう去勢された存在だと知る。そして母欠如を埋めるため自分自身をもって代用しようとするが、その母自体が父に奪われてしまうものでしかないので、結局、父の名というファルスを受け入れなければ子供は満たされない。それは欠如を孕んだ充足でしかない。フロイトは、父母に挟まれた性的関係の中で子供の精神構造が成立するとしたのだけれど、ラカンはそこに言語的な分節化の構造を見出した。そのように言われると、フロイトの分析したエディプス・コンプレックスの性的な関係自体にもともと言語成立の構造が関係していたのかもしれないと思われてくる。
しかし、対象a自体がまた厄介なものだから、認識においてさらに困難がおこる。

〇対象a

【対象a】オブジェ・アーobjet aとは、享楽が、シニフィアンと体系としての大他者における欠如を補填するために主体によってあてがわれる対象である。大他者における欠如(Ⱥ)を埋め合わせてくれる対象であるとともに、主体が原初的に喪失した「存在の生き生きした部分」を部分的に代理し、主体に別種の満足を獲得させてくれる対象でもある。(この「a」は「autre」との関連から取られたものではあるので「小文字の他者a」と深く関与するものではあるが、「小文字の他者a」と必ずしも同じものではない、と教えてくれた人がいた。でもWikipedia日本語版「小文字の他者」の項で「対象a(objet a)とも言われる」とされているし、斎藤環「生き延びるためのラカン」でも「対象aは小文字の他者とも言われる」と言ってるからあながち違うものとも言えなさそうだ。どうもややこしそうだ)

しかし、対象a自体も、それがシニフィアンの穴にあてがわれる代用品として使われるためには、シニフィアンによって形式化分節化可能されることが可能なものでなければならない。だから、対象aから享楽の「生き生きした部分」を失わせないでままで、対象aを取り出そうとするならシニフィアンによって分節化しないまま「何者でもない何か」としたまま、ただ「穴に当てはまる何か」として扱う必要がある。しかし、それではもちろん対象aは何者でもないことを許すものなので、対象aを分析的な世界の構成物とすることはできなのだけれども、そのようなぎりぎりの言語の突端において、個物と普遍と一致点を見出し、子供は「生き生きとした部分」がある世界に生きることができるようになるのである。
そして、そのために、子供は母と自分を分離しなければならないし、世界が思い通りならないことを受け入れなければならないし、そして言語的に見通せるはずがないファンタジーとしての現実に向けて能動的に飛び出さないといけないのだ。そのような言語の外部へ向かって飛び出そうとするその突端において、はじめて、この生の享楽の「生き生きとした部分」の個別でイレギュラーな内容を、言語とシニフィアンの普遍的な規則に乗せるというまるで矛盾に見えるような芸当を可能にするのではないだろうか。


ボロメオの輪
この「疎外」「分離」「対象a」による世界モデルについて、ラカンはさらに思索を進め、「ボメロオの輪」という図式でその関係を考察している。
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【ボロメオの輪】とは、イタリアの貴族ボロメオ家の紋章からきている3つの輪からできている図形で、どの2つの輪を見ても互いに繋がれていないのに、3つの輪に互いに絡まっていることで結ばれるというものである。1つだけ外そうとしても3つともバラバラになってしまう。

ボロメオの輪と意味・ファルス享楽・〈他〉の享楽
ラカンは、この3つの輪にそれぞれ「想像界」「象徴界」「現実界」を当てはめる。
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〇意味
そして、「想像界」と「象徴界」の重なりの部分に「意味」が生じるとする。それは、現実を想定しないから、そこで生じる意味は現実の生の「享楽の生き生きとした部分」を失った意味である。統語論的な意味はあっても個物としての意味を示すことはないような意味でしかないと言える。

〇ファルス享楽
「象徴界」と「現実界」の重なる部分に「ファルス享楽」と呼ばれるような享楽が生じるとする。それは、想像界を想定しないので、分析的規制的な言語によって統御されるような享楽であったとしても、それをイメージする人がいないままの享楽であり、誰のファンタジーにもなり得ないような享楽でしかない。

〇〈他〉の享楽
「想像界」と「現実界」の重なる部分に「〈他〉の享楽」が生じるとする。それは象徴界を想定しない致死的な享楽である。語による分析が不可能で語り得ない享楽であるため、主体がその表象を直接認識することはない。

〇対象a
そして、その「意味」と「ファルス享楽」と「〈他〉の享楽」とが重なる中央の部分に「対象a」があてがわれるとする。対象aはそれ自身として本来語り得ない、個物的な生の享楽を理解可能なものにしようとするものなので、それぞれ互いに否定しあう言語と非言語のぎりぎりの先端において、その意味を作り出してしまうことによって、子供は初めて世界を真に有意味(統語論的にも意味論的にも有意味)なものとして味わうことができるようになる、ということだろう。

 

「想像界」としての「源氏物語」と「いいね!光源氏くん」
また話が飛ぶが、ドラマ「いいね!光源氏くん」にこの話を当てはめて考えてみる。「源氏物語(想像界)の登場人物でしかない光源氏にとって、「源氏物語」のなかの世界だけで、その生を完結してしまうとすれば、その運命はすでに完全に決定していて予定調和が約束されたものであり、外部を持たない世界だと言える。そして、「源氏物語」の内部があるだけでは光源氏はフィクションの人でしかないので自らの生を味わうことはできない。外部にある、致死的でもあるような真の享楽を味わうことができてはじめて、彼は自分の生を真に豊かにすることができる。つまり「想像界」から「現実界」へ飛び出してその狭間で世界を堪能することで、彼は世界の意味論的に意味づけ得る真の享楽を味わうことができる。

しかし、世界を「想像界」と「現実界」のみだけの構成だとしてしまい、「象徴界」に関わらないままにしてしまっては、世界が分節化できず分析的に理解できずに終わってしまう。それでは、まるで無意識の、ある意味で植物的な受動的な生でしかない。

そこで、「象徴界」へも飛び出してその狭間で世界を味わう必要がある。それは、光源氏が、自分自身が「源氏物語」の登場人物でしかないことを知るということに当たるのではないか。ドラマでは、現代に来た光源氏が「源氏物語ミュージアム」の掲示で自分がどんなキャラクターでどんな人生を送るのか知ったうえで「源氏物語」の世界に戻りたいと言っていた。しかし、そのような予定調和の世界に戻った光源氏は、真の享楽を失うことになるのではないだろうか。またそれは、すなわち外在を持たない世界であり、外延がない世界だと言えるのではないか。彼が真の享楽を味わいながら、自分の世界を分析可能なものとして理解できるようにするためには、「源氏物語」の記述によってすでに規定されたルールに縛られないで、その生を自らの生として飛び出し続けることで、「源氏物語」の内側と外側を繋げられるように、「想像界」「象徴界」「現実界」の三界の先端で、その三界を結ぶ「対象a」を探し続けることが必要なのではないかと思う。このレポートを書いている時点で「いいね!光源氏くん」の最終回前なので、ドラマがどう展開するのか知らないけれど、光源氏は「源氏物語」の中に戻るのでも「現在」に留まろうとするのでもなく、どこまでも、その外を冒険的挑戦的に開き続けようとする必要があるのではないか。「源氏物語」の中に戻っても彼が自分の自由意思によって世界を切り拓くことができれば、それは外部世界を臨もうとする生になるだろうし、「現代」に残ってもただただ自分の運命に従うだけの無意識的植物的な生に陥ってしまうのであれば、それはもう内部世界しか見えていない生になってしまうのかもしれない。そうして、外部世界を臨もうとする生が、外延をもつような豊かな世界の存在を許す。・・・というような世界の構成を考えることもつながるかもしれない。
そう考えると、ラカンの思索した認識モデルは、やはりかなりベルクソンの世界モデルとつながりが深いとも考えられる。

 

ラカンの三界と〈形式-質料〉と〈内包-外延〉

もう一つ、僕の妄想的悪深読みな考察を紹介させてもらうと、このラカンの三界の話はより伝統的な哲学問題への一つの新しい切り口を示すものだと思えるのだ。それは、アリストテレスの「質料と形式」と「外延と内包」に深く関わっているように見えるということだ。すなわち、ラカンの「象徴界」は「形式」にあたり「内包」にあたるものではないか。そして「現実界」は「質料」にあたり「外延」にあたるのではないかということだ。「象徴界」はシニフィアンを司るのだからもちろん言語の領域を示す。だからそれは世界を「形式」づけるものである。そして、そのシニフィアンはシニフィアン同士の関係性によって意味をもつのだからそれは「内包」としての情報を持つと言えるだろう。「現実界」はその形式の示す先を充実させるものだから世界の内容としての「質料」の領域を示すものである。そして、その「現実」は外部の存在であるのだから「外延」に相当するものだと言えるだろう。そのように当てはめて考えると、〈形式-質料〉〈内包-外延〉のそれぞれのペアに相当するのだから「象徴界」と「現実界」の二つだけで世界は構成されることにされても良いように思われる。でも、ラカンはそこにもう一つ「想像界」という界が必要だとする。言語と内容があれば世界は成立しそうにも思われる。けれども、言語と内容だけの世界では、それは、「誰にとっても客観的に存在する世界」であり、それゆえそれは「誰にとっても客観的にしか存在しないような世界」でしかないと言えるものではないか。そのような世界は、結局、自分自身の世界としての「現実性」を誰も味わうことはなく、自分自身の世界としての「言語的分析性」を誰も味わうことはないようなものでしかない、のではないか。そこで、精神分析家さんからの視点で、そこに自分自身の想像的でファンタジックなストーリーの場が用意されねばならないと考えた、とラカンを読むことはできないだろうか。形式にあたり内包にあたるような「象徴界」と質量にあたり外延にあたるような「現実界」を結び、その現実性と分析性を実現させるためには、「私が生きている」という「物語」としての「想像界」が必要だという話だったと考えることはできないだろうか。そして、その三界の先端としての対象aにおいて、世界は、私の生の世界として、そして現実的で、分析可能なものとして立ち上がるtことが可能になるという話ではないか。僕には、どうもラカンの認識論がそのような、〈形式-質料〉繋ぎ、〈内包-外延〉を繋ぐつなぎ目として〈私の生〉がある。そしてそのつなぎ目があってはじめて世界は有意味になるという世界モデルと示す。と思われて仕方がない。
そのように考えると、ラカンの世界モデルは哲学的な意味においても、かなりユニークで有意義な問いを示してるものだと思う。

 


さいごに
ここまで、ラカンの精神分析が、エディプス・コンプレックスの考察の先で、言語的世界把握と非言語的享楽と、受動的な世界把握と能動的な世界把握とが絡み合って構成されるものを考察されたものではないかという視点で、これをまとめてきた。今日の考察はこれでお終い。

僕はこれまで、ラカンへの否定批判の評価をきくことが多かったので、ラカンは敬遠してきたがこの機会に学んでみて、ラカンの世界モデルが思いのほか、ベルクソン哲学に近いもので、分析哲学にも十分になじむものに思えてびっくりした。とくに、想像界、象徴界、現実界と生の哲学のつながりは結構面白いものがあると思えてかなり興味深かった。ラカンは精神分析家なので、精神病神経症からのアプローチをするのが、本来の道筋だとは思うが、今回は哲学的な認識論・存在論に関するところに身に視点を絞って考察してみた。それでも、かなり興味深い話を辿ることができたと思う。ソーカルなどの批判を鵜呑みにしてこれを避けてしまうのは非常にもったいないという気がした。
ラカンについての理解がんばって読みとろうとしたけれども、間違いも多いと思う。何かお気づきの点があれば教えてほしい。

 

次節はまた、「差異と反復」読解に戻る

 

つづく

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