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2020年3月 4日 (水)

蝶番の外れた時間と中間休止と第3の総合〈僕にも分かる「差異と反復」2-7〉

ドゥルーズ「差異と反復」第二章「それ自身へ向かう反復」を読む。
(今日は文庫上p245~248)

「第3の総合とは何を意味するのか。デンマークの王子ハムレットは『時間はその蝶番から外れてしまった』と語る。もしかするとデンマークの哲学者キルケゴールも同じことを言うのではないか。彼はオイディプス的であるがゆえにハムレット的であるのではないか。蝶番、カルド―とは時間によって測定される周期的な運動が通過するまさに機軸的(カルジナル)な点に、その時間が従属しているということを保証するものである(その時間は、宇宙にも魂にも同様に必要な時間すなわち運動の数である)。反対に己の蝶番から外れた時間は発狂した時間を意味している。発狂した時間とは神が時間に与えた曲率の外へ出て、己の単純すぎる循環的な形態から自由になり、己の内容を作ってくれた諸々の出来事から解放され、己と運動との関係を覆してしまうような時間であって、要するに、己を空虚で純粋な形式として発見する時間なのである。事物は(円環という単純すぎる形態に即して)時間の中で繰り広げられるのだが、それに反して時間は、それ自身が繰り広げられる(すなわち円環であることを公然と止める)のである。時間は機軸的(カルジナル)なものであることをやめて、順序的(オルディナル)なものに、つまり純粋な順序としての時間へと生成するのである。」(「差異と反復」文庫上p245)

ギャグかと思うほどの難解文だけど、でもがんばって意味をくみ取ってみると、これが悪文でなく、伝えたいことを伝えるための工夫をかなりていねいに尽くした美文のように思えてくる。そこで今日はこれらの難解な文の読解と時間の第3の総合の考察にチャレンジしてみたい。

「蝶番」、「基数」と「序数」、「円環」と「円環の解放」、「太陽」と「星雲」という様々な比喩のもとで、時間の第1と第2の総合並びに第3の総合や「永遠回帰」、さらに「純粋過去」と「イデア」との関連の考察に結びつく。なんとも派手な比喩描写のオンパレードだ。無駄に派手なカッコつけのように見えるけど、その一つ一つの比喩を味わおうとするうちに、第3の総合が腹の中にずっしりと入ってくるような気になってくる。それを味わってもらいたい。


蝶番と円環

『時間はその蝶番から外れてしまったle temps est hors de ses gonds.』というのは、シェークスピア劇「ハムレット」でハムレットが父の毒殺を知らされた時の嘆きのセリフである「gonds」は「joint」のフランス語訳でまさに「蝶番」なのだけど、「軸を中心にして回転させられるもの」という語イメージのものであるらしい。何度も何度も回転してはまた同じ場所に帰ってくるもの、それはまさに円環である。ドゥルーズはここではベルクソンの名を出していないけれどもこの「円環」はベルクソンの「習慣の記憶」による「円環図」がそこでイメージされていることの一つであることは疑えないと思う。ベルクソンはその主著「物質と記憶」で、記憶を「表象の元になる記憶」と「習慣としての記憶」に分けて考えた。「表象の元になる記憶」とは内容としての記憶、「朗読」を思い出すときにそこに立ち上がる豊かなイメージの意味論的な意味のことであった。対して「習慣としての記憶」は、「学科の記憶」であり、「7×8=56」などという九九の記憶であり、同じ努力を反復することで獲得できる記憶である。我々は「赤いもの」を「赤」とする振る舞いを何度も反復することで「赤」という語の意味を獲得する。同じものを何度も同じものとするところに帰ってくることができることによって、我々は語の意味を自分のものとすることができ、その分析的で統語論的な語の働きによって世界を理解することができるのだ。「蝶番」は「同じもの」を「同じところ」に繰り返し反復して帰してくるものの象徴なのではないか。だから、「時間が蝶番に」収まっているなら、我々はどこまでも安心して固定的な同じ語の下で固定的な同じ世界を生きることができる。でも「時間が蝶番から外れてしま」うと、我々は一つの語を同じ語として同じところに帰すことができなくなってしまう。「7×8」は「56」ではなくなってしまうかもしれないし、昨日あんなに「赤」かった夕陽が今日は「緑色」になるかもしれない。世界はたがが外れて狂気の果てに連れていかれてしまう。これが「蝶番」の比喩の意味するところではないか。


蝶番と基数・順序数

ドゥルーズは、さらにこの「蝶番」の比喩にさらなる親父ギャグ的比喩を重ねる。「蝶番gonds」はフランス語で「カルドーcardo」とも言うのだけど、それを「基数・カルディナルナンバー」の「機軸的・カルディナル」(財津訳では「カルディナル」を「機軸的」と訳しているが「カルディナル」だけで「基数」という意味もある)と、「順序数・オルディナルナンバー」の「順序的・オルディナル」とに対応させている。これもよく考えると、イメージ的に通じるものがあるように思われる。「基数」と「順序数」は一般的に次のような数とされる。

【基数・カルディナル】とは、数の全体の大きさを測るために定義し自然数を一般化させた概念。
【順序数・オルディナル】とは、整列集合同士の「長さ」を比較するために自然数を拡張させた概念。

 

ドゥルーズのイメージにおいて、「基数」という数は、その全てを数え終わり得るものとしての全体がすでにそこに存在するものととらえた上での、数の大きさを表すものだと捉えられているように思われる。つまり、ここで捉えられている数システムは、完全に「同じもの」の円環がどこまでも無限に繰り返されることがすでに決定しているような数のシステムだと思われる。だから同じ円環の「運動」を数える数という意味で「運動の数」だと言うことができることになるだろう。(「運動の数」は元々アリストテレスの時間概念で、「今」という点における最小運動の集まりが時間だとするものだけど、その「運動の数」としての一つ一つの点が基数的なものとして計測可能だとするのは、それを円環として捉えているがゆえだと言えるだろう。)そして、「順序数」という数は、そのすべてを数え終わらないままにとりあえず一つ一つの数を積み上げていって数えた数の大きさだと捉えられているのではないだろうか。つまり、「同じもの」が帰ってくるかどうか未規定なままに「とりあえず同じものとされたもの」が積み上げられているだけの数システムと捉えられるものではないか。

だから、蝶番に留められた時間は「基数・カルディナル」なものとしてどこまででも決まりきった同じ円環の中に納まり、蝶番の外れた時間は「順序数・オルディナル」なものとして己を覆し続け、同じところに帰ってくるための一定の曲率を次々と外れていき、円環を止めてしまう…というものになるのだろう。

 


中間休止

そして、ドゥルーズはこの蝶番や円環から外れる時間を「中間休止」というアイデアで考察する。

「《私》の亀裂を構成するのはまさに中間休止であり、また中間休止によって〈これを最後に〉順序付けられる〈前〉と〈後〉である(中間休止はまさしく亀裂が誕生する点なのである)」(「差異と反復」文庫上p246)

「中間休止・césureカエス―ラ」というのは、詩の韻律において、詩行の中間にあって耳で聞き取れる休止のことである。ヘルダーリン(Hölderlin1770-1843ドイツの詩人)は詩に中間休止があると、それによって韻が途切れて、詩の前半と後半が不等な順序を成す形式によって配分されるとするのだが、彼はこの「中間休止」理論でもって物語をも解釈しようとするのだ。たとえば、ヘルダーリンによれば「オイディプス」の話に「中間休止」がある。
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「オイディプス王」あらすじ

そこで少し長くなるがまず「オイディプス」という物語のあらすじを押さえておこう。「オイディプス」は、父を殺し母と親子婚をしてしまうギリシア神話の悲劇。ここではソポクレス(BC497/6頃-BC406/5頃ギリシア劇詩人)による「オイディプス王」「コロノスのオイディプス」「アンティゴネ」の3作を指す。
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あらすじ:テーバイ国の王ライオスは「自分の子が自分を殺し妻との間に子をなす」という神託を預言者テイレシアースから受けていたので、子ができたときその子を殺すように命じた。しかし、殺されず捨てられた子は隣国コリントスの王ポリュボス夫妻に拾われ、「オイディプス」と名付けられ育てられた。オイディプスは「故郷に近寄ると両親を殺す」という神託を受け、自分がポリュボス夫妻を殺すと思い込んで旅に出る。怪物スピンクスに対処しようとして来ていたライオスとオイディプスは、デルポイの三叉路で出会い争いとなり、オイディプスがライオスを殺してしまう。オイディプスがスピンクスの謎を解いて怪物を打ち倒すと、怪物を倒したオイディプスは、テーバイの摂政クレオンによってテーバイの王として迎えられ、それとは知らず自らの母イオカステと結婚する。しかし、テーバイ国では疫病と不作が続くので神託を求めたところ「国の穢れを払え」と告げられる。そこで「ライオス殺害犯を追放せよ」という意味だと解釈して、殺害犯を捕らえるよう布告を出した。預言者テイレシアースの占いと隣国の使者からの話とイオカステからの話から、オイディプスは自分がライオスとイオカステの子であり、自分の手で父を殺していたことを知る。イオカステは自殺し、オイディプスは狂乱のうちに自分の目を刺して自らをテーバイから追放する。(ここまでが「オイディプス王」の話。そのあとに「コロノスのオイディプス」「アンティゴネ」の話が続く。)
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「オイディプスへの注解」と中間休止

ヘルダーリンはこれらの話について「『オイディプス』への注解」や「『アンティゴネ』への注解」という小論で「中間休止」という考え方を用いて「悲劇」を分析している。
「悲劇に組み込まれる事柄があらわされるリズミカルな表象の連鎖の中に、詩の韻律において、『中間休止』言い換えればリズムを中断する純粋な発言が必要となる。それが、激流のような表象の変化交替の頂点において、その行く手に立ちはだかり、その後はもはや表象の変化交替ではなく、表象そのものが出現することになる。それによって計測の連鎖とリズムは二つの分かたれる。そして分かたれた二つが並行関係になるのだ。」(ヘルダーリン全集4「『オイディプス』への注解」p48)
もともと「中間休止」とは、詩の構成において詩の前半部と後半部を転換させるような、韻律の休止時間のことであるのだけど、ヘルダーリンはそれを物語の構成にあてはめて、さらにその休止の意味を深める。つまり
【中間休止】とは、激流のような表象の変化交替の頂点であり、そこでその激流に立ちはだかって表象を変化させながら、その表象そのものの出現とするような、物語の連鎖とリズムの分割点。そしてそれほどの分割であるのにそこに平衡をも示してしまうような分割点。
だと言えるだろう。

その「中間休止」の瞬間が「オイディプス王」の物語のなかのオイディプスの「尋問」の場面にあるとされる。「中間休止」である尋問の前までは、オイディプスは自分がポリュボス夫妻の子であると信じ、自分は父を殺さずに済んだと信じていた。しかし、「中間休止」はオイディプスに対してその悲劇の運命を、父を殺し、母を娶って子を生してしまっていたことを明らかにする。この激流の運命において、その前半の安定した世界が、「中間休止」によって堰き止められ一変させられる。調和を失った狂気のなかに投げ出される。「中間休止」以前の世界は恣意的な判断によって偏った分析をされた世界だったと言えるだろう。そこでは、予定調和の中ですべてがいつでも今までと同様に同じものが回帰してくる円環としてあるのだけれども、それは限られた世界の情報量から思い込みによって構成されたおとぎ話的な空想物語でしかない。それは現実の世界の一部分だけから抽出された限定的データをもって一般化されたもので、その意味で「欠如」されてしまった「現実」だと言えるかもしれない。ドゥルーズが、時間の第1の総合が「欠如」だと言うのはそういうことじゃないかと僕は考えたのだけどどうだろうか。

 

中間休止と第2の総合

そして「欠如」としての現実だったものが「尋問」において覆る。世界は今までのような予定調和ではなくなり、訳の分からないものになってしまう。私は、それまで某かの物語であった「過去」を再度何者でもない純粋な過去そのもの「純粋過去」として捉え直さなければならなくなる。その意味で、「中間休止」において世界と私は等しくなる。
「第2の時間は中間休止それ自体を指し示すものであり、したがってその時間は、変身の現在であり、行動に〈等しく-なる〉ということであり、自我の二分化であり、行動のイマージュへのイデア的な自我の投射である。」(「差異と反復」文庫上p248)
この〈イマココ〉という「中間休止」は、現実世界を如何なる物語でもなくしてしまい、何者でもない「純粋過去」だとしてしまう。そして、私自身までが世界とともに何者でもなくなってしまう。その瞬間において「中間休止」は「純粋過去」であるとともに、「自我」を変身させ「二分化」させる「変身の現在」でもあると言える。


中間休止と時間の第3の総合

そしてさらに、その「尋問」は私を「父殺し犯であり、母を娶り、子を生してしまう者」にしてしまい、世界を「オイディプスが父殺し犯だった世界」に変えてしまう。しかし、その変身は単に今までの物語を新しい物語に書きかえるだけのものではない。そこで示されるのは、新しい同一性ではないのだ。世界はもはや分裂してしまい、同じものが帰還しない。世界の円環は中心を失いタガが外れたものになっていく。それが第3の総合なのだ。私は世界を受動的に受け止めるのではなく、「中間休止」において能動的に自分の人生を選択し、自分の行動を自分で決められるようになるのだ。

「〔第2の総合の〕(そのような時間は…主人公は行動を起こすことが「可能」に〈なる〉ということだ)。未来を発見する第3の時間に関しては…すなわち、その時間が意味しているのは、出来事や行動は、自我の一貫性を排除する秘密の一貫性を有しているということであり、この秘密の一貫性は、出来事や行動に等しくなった自我に背を向けるということであり、まるで新しい世界を孕むものが、多様なものに生じさせるものごとの炸裂によってもぎ取られ散らされるかのように、その秘密の一貫性は、自我を無数の断片に砕いて投射するということである」(同p248)

もはや私は、「尋問」という「中間休止」によって世界が覆されてしまうことを知ってしまった。もはや私は「第1の総合」のようなおとぎ話の世界を現実だとすることはできない。だから私はもはや、「オイディプスは父殺しだった」と「解釈」することを新しい同一性の基盤にして新しいおとぎ話を作り、それを現実だとし、それでもって自分を納得させることはできない。私は、第2の総合における自我に背を向け、新しい世界を炸裂させながらもぎ取られながら散らされながらその新しい世界で生きていこうとするからこそ、私はその行動を私の行動として起こすことができるのである。その意味で第3の総合の世界は「未来」であり「冒険」であり「大きすぎるもの」なのだ。

これが、「蝶番が外れ」「オルディナル順序的な」「太陽の周りを回らない」ような時間の意味なのではないか。つまり、同一性という「蝶番」を基準にして現実を物語化し理解しようとするときに、世界の一回性つまり個物としての現実がそこで失われてしまうと捉え、それを取り戻すために世界と自分自身を分裂させる。それが「時間の第3の総合」の正体なのではないか。

ここで再度、冒頭の難解文を読んでみよう。

「第3の総合とは何を意味するのか。デンマークの王子ハムレットは『時間はその蝶番から外れてしまった』と語る。もしかするとデンマークの哲学者キルケゴールも同じことを言うのではないか。彼はオイディプス的であるがゆえにハムレット的であるのではないか。蝶番、カルド―とは時間によって測定される周期的な運動が通過するまさに機軸的(カルジナル)な点に、その時間が従属しているということを保証するものである(その時間は、宇宙にも魂にも同様に必要な時間すなわち運動の数である)。反対に己の蝶番から外れた時間は発狂した時間を意味している。発狂した時間とは神が時間に与えた曲率の外へ出て、己の単純すぎる循環的な形態から自由になり、己の内容を作ってくれた諸々の出来事から解放され、己と運動との関係を覆してしまうような時間であって、要するに、己を空虚で純粋な形式として発見する時間なのである。事物は(円環という単純すぎる形態に即して)時間の中で繰り広げられるのだが、それに反して時間は、それ自身が繰り広げられる(すなわち円環であることを公然と止める)のである。時間は機軸的(カルジナル)なものであることをやめて、順序的(オルディナル)なものに、つまり純粋な順序としての時間へと生成するのである。」(「差異と反復」文庫上p245)

どうだろう。無理して酷くカッコつけたように見えた文が、存在についての思索を結構ていねいに記そうとしている美文に思われてこないだろうか。

さて、しかし「中間休止」と「第3の総合」の話はまだこれでは終わらない。さらに「アンティゴネ」と「ハムレット」の物語と、ムネモシュネとエロスと、永遠回帰そしてイデアがこの話に絡んできて、さらに深い考察を迫る。でも今日は長くなりすぎたので、また明日。

つづく

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