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2020年3月 2日 (月)

内感のパラドクスとひび割れた《私》〈僕にも分かる「差異と反復」2-6〉

  ドゥルーズ「差異と反復」第二章「それ自身へ向かう反復」を読む。
(今日は文庫上p237242

時間の第12の総合から第3の総合の考察を進めるために「差異と反復」は、カントの「内感のパラドクス」を取り上げ、そこに、主体を「ひび割れた《私》」として捉えることにつながるものがあるとする。今日は、それについて考える。

 

内感のパラドクスとは何か

「《私なるもの》は一つの他の私であり、内感のパラドクスである。思考の能動性が受動的主観に降り向けられるので、…結局、その能動性を己の内において一つの《他》なるものとして生きるのである」(ドゥルーズ「差異と反復」文庫上p239)

内感のパラドクスとは、カント「純粋理性批判」において、我々が外感と内感が他なるものに基づかねば認識できないこと、そして、自分自身を内的に直観することしかできないはずの我々が外的なものから触発されて受動的にふるまわねばならないというパラドクスを問うものである。
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イマヌエル・カントImmanuel Kant1724~1804

カントはその「パラドクス」を次のように説明する。

「内感の形式を究明した差異に誰もが奇異な感じを抱いたに違いないパラドクスを解明しておく。すなわち、内感は我々自身をさえ、ただ我々が自分に現象するとおりに――我々が我々自身として存在するままにではなく――、意識に呈示する、ということの次第である。その理由は、我々はつまり内的に触発されるがままに自分を直観するほかないことにあるけれども、そうなると、我々は自分自身に受動的にふるまわなければならないことになるから、これは矛盾しているように見える」(「純粋理性批判」超越論的分析論第1篇第2章第2節§24 B版 熊野訳p174)

 

なぜ内感が受動的だとされなければならないのか

なぜ内感が受動的だとされるのか?それを考えるには、デカルトタイプの「コギト」とカントタイプの「コギト」を対比させて問うことから考えていく必要がある。
 01dekarto_20200302004201
ルネ・デカルトRené Descartes1596~1650

デカルトの「コギト」は、方法的懐疑によって「我」の存在を問うことで、神の視点から離れた「我」という近代的な《私》の視点を取り出したことで、巨大な哲学的功績があったと言われる。それでも、それはカントのコギトによってさらに問われ直される。
デカルト的コギトについてドゥルーズは次のように言う。

「規定作用(「私は思考する」)は、未規定な存在(「私は存在する」、なぜなら「思考するためには存在しなければならないからである」)を含意しており――そしてまさにその未規定な存在を、思考する存在者の存在として規定する」(「差異と反復」文庫上p237)

デカルト的コギトにおいては、「我思う」という〈規定作用〉が「我あり」という〈未規定な存在〉を含むとされる。

これに対して、カントはそんな把握は無茶だとした、とドゥルーズは言う。それによると、カントは、〈規定作用「我思う」〉が〈未規定な存在「我あり」〉を含むとしても、「我思う」がどのようにして「我あり」を規定し得るようになるのかは何もわかっていないとした。

カントは、「我思う」には「自己意識」の側面と「自己認識」の側面があると言う。そして、私が私を「自己認識」するには、必ず認識のための形式が必要になるとする。

 

「『我思う』の自己意識」は、経験的だが直観的方法において無規定である。それは、規定されないままの何者でもないものとしての「我」に捉え方であり、何ものでもない世界が唯々「ある」とするだけの意味においての、「我思う」だとも言えるだろう。
一方、「『我思う』の自己認識」は、私自身の現存在の経験的規定である。それは私を(何者でもないものではなく)私というものだと規定して捉える。それも経験的な世界における存在としての私としての規定である。「我思う」にそのような規定作用があるとすると、その「自己意識」に対してその「自己認識」でもって認識しようとすると内感において『対象化』する必要がある。そして、カントは、その内感による対象化とは「時間において限定することに他ならない」とした。

「構想力の総合はアプリオリに行使されたとしても、それでもなおつねに感性的である。その理由は、構想力は多様なものがひたすらに直観において現象するとおりにその多様なものを結合する点にある。たとえば三角形の形態を直観する場合がそうだ。多様なものが統覚の統一に対して有する関係を通じて概念が生じる。この概念は悟性に属するけれども、感性的直観との関係でその概念が成立するのはただ構想力を介することによってだけである。私がどのように自らのうちで定立すべきかという仕方は、これによってはいまで与えられていない。それが与えられるために自己直観が必要であるが、その自己直観はアプリオリに与えられた形式、すなわち時間を根底に存するものとして有しており、時間は感性的であって、規定されるものの受容性に属しているのである」(カント「純粋理性批判」超越論的分析論第1篇第2章第2節§25の注作品社熊野訳p181)

時間という直観的形式の限定があってはじめて「我思う」は「我あり」に結びつく。ここにパラドクスが生じる。

この直観的形式となるようなあらゆる時間規定は「持続的」でなければならない。そしてその「持続性」なるものは、「イマココ」の外なる「以前」や「以後」というような、私の「外なるもの」の存在を認めることによってはじめて可能になる。また、「外なるもの」は外なる存在者でなければならず、それゆえ「外なるもの」は空間という形式の内にあることによって成立する。「純粋理性批判」の捉え方では、「内感」は時間に形式付けられ「外感」は空間に形式付けられるのだが、すべての時間規定は空間において捉えられるとしなければならないことになる。
つまり、私の意識規定は、時間規定でなければならず、しかも、空間的な外感において把握されるものでもあらねばならないのだ。

ここにおいて、「我々は我々の内感のための認識さえも、そのすべてを我々の外なるものから入手しなければならない」と言える。これは明らかに矛盾である。内感はそれ自身では認識のいかなる根拠にもなり得ず内的自己直観を供給することができない。そして、その外的な存在を認めたうえで、その外なるものに触発されることによる受動性によってはじめて、持続的な世界と私の存在を把握しなければならないことになり、内感の一つのパラドクスが生じる。「《私なるもの》は一つの他の私であり、内感のパラドクスである。思考の能動性が受動的主観に降り向けられるので、…結局、その能動性を己の内において一つの《他》なるものとして生きるのである」(「差異と反復」同)というわけである。

たしかにこれは一つのパラドクスだと言えるかもしれない。しかし、カントもドゥルーズもそこに逆説を見出だすのではなくそのまま受け入れてしまえとする。

 

パラドクスと神の死

デカルト的コギトにはいわゆる「持続」がなくすべてが瞬間に帰される。もちろん、デカルト的コギトにも時間があり現在過去未来がある。しかし、そのすべては「イマココ」の一瞬間に帰されてしまうような時間である。その「イマココ」にはもはや外部は無く、それは「神」の時間とも言えるようなものであろう。《私》が《私》であることを保証するための《私》の同一性は、神の一性に他ならない。その世界においてはその絶対的な「コギト」が一神教的な神の下に保証されていることで、すべての存在が保証される。その意味で神は生き続けなければならない。それは単なる第1の総合としての時間でしかない。そう考えると、デカルトがやり遂げたと言われる「中世的《神》」の視点を「近代的《私》」の視点に転換したという仕事は世間で言われているほどには重要ではなかったのかもしれない。

それに対して、ここで考えているカントのコギトは、神が死んだ後の《私》の同一性が神によって保証されないような場面を捉えようとしている。《私》から「神の商標(マルク)」が外され、安売り投げ売りの「商標外しの印(デマルク)」が押される。これこそ、カントが「純粋理性批判」で深く見抜いたことだとドゥルーズは評価する。(ただし「実践理性批判」で神と神に基づく《私》を復活させてしまったとして、カントの神殺しは結局全うされなかったとする。)神殺しは中途半端で終わったが、《私》の思考そのものに時間の形式を持ち込んだことには、超越論的哲学の最高の主導性があったはずだとし、そこに「この形式が、死んだ神と、ひび割れた《私》と、受動的な自我を破棄できない形で意味する」(「差異と反復」文庫上p241)とする。神殺しによって第1の総合の時間から飛び出してその外側に世界の根拠の求める問い或る意味矛盾となるような「持続的な時間」によって、《私》がはじめて《私》たり得るもの「ひび割れた《私》」になるとする。その他なるものから触発されて《私》のふるまいが生じ受動的な自我が生じるとする。それこそが、カントが深めるべき《私》であったが、残念ながら「カントはその主導性を徹底していない」(同)とドゥルーズは言う。

【ひび割れた《私》】とは、受動的自我が能動的自我と統合されるときに私を《他》なるものとして捉えながら世界を捉えなければならないこと。或いは、閉じたシステムから溢れ出てしまう開いたシステムとしての自我。
「引き裂かれた〈私〉とはまさに生成を引き受ける個体そのもの。だから情動とはむしろ個体であることの内容を積極的に表現する」(檜垣立哉「ドゥルーズ解けない問いを生きる」
私は私がその「持続的な時間」のなかにある他なるものに基づく「ひび割れた《私》」であると捉えることによって、個物としての世界を手中に収めることができる。それこそが、ドゥルーズが求める第3の総合につながる世界把握なのだ。

この「ひび割れた《私》」について、ドゥルーズはヘルダーリンの「オイディプス解釈」と「ハムレット」の類似点の思索する視点から迫り、第3の総合を考察する。でもそれは次節で。

 

つづく

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