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2020年3月 9日 (月)

「オイディプス」「アンティゴネ」と第3の総合が未来であるわけ〈僕にも分かる「差異と反復」2-8〉

ドゥルーズ「差異と反復」第二章「それ自身へ向かう反復」を読む。
(今日は文庫上p242~262)

前節で「オイディプス王」の物語と「蝶番の外れた時間」について考えた。物語における中間休止の前後の変化において、時間の第1・2の総合と第3の総合への転回があり、その一般化による世界分析からの脱却においてこそ個物への到達が可能な世界把握があるとされる。今日は、その点について、「アンティゴネ」や「ハムレット」の物語やベルクソンの「円錐」、ニーチェの「永遠回帰」とも絡ませて考察し、第3の総合が生の冒険であるがゆえに個物に到達するシステムだってことを明らかにしたい。

 

ヘルダーリンの悲劇論

ヘルダーリン(1770–1843ドイツ詩人)は「オイディプス王」とともに「アンティゴネ」の物語についても「中間休止」の視点で考察している。その二つはどちらも「中間休止」で分かたれる構造になっていながらも、かなり対称的な構造でもあるとされる。まずその点について中間休止論への理解を深めていきたい。

しかし、それを考えるにはヘルダーリンとその周辺の悲劇論を見ておく必要があるだろう。

Aristoteles_20200309061801 アリストテレスAristotélēs
アリストテレス(BC384~BC322)は、「詩学」でもって「オイディプス」を評価したうえで、悲劇に値するのは「不幸に陥るのにふさわしくない者が過ちを侵し不幸に転じていくような筋」だとした。その悲劇論を受けてシェリングやヘーゲルも「オイディプス」や「アンティゴネ」について悲劇論を記している。

Schelling フリードリヒ・シェリングFriedrich Schelling
シェリング(1775-1854ドイツ哲学者)は「芸術哲学論議」において、「不可避な罪と罰を進んで担うことで自由の喪失によって自由を証明しその自由に堕ちてゆく、その偉大さ」のことを悲劇だとした。
Hegel_20200309062201 フリードリヒ・ヘーゲルFriedrich Hegel
ヘーゲル(1770-1831ドイツ哲学者)は「美学講義」でもって、悲劇的な人間は普遍的な「世界の状態」と特殊な「世界の状況」と個別的な「行為」によって成立するとして、悲劇の本質が普遍性の中に描かれる個物にあるとした上で、神の人倫性の一面が他の人倫に対して必然的に負い目となることが悲劇だとした。

シェリングもヘーゲルもヘルダーリンとほぼ同世代の哲学者である。シェリングが自由の喪失による自身の自由という興味深い視点を問い。ヘーゲルがその問いとは別に「人間の生の個別的性が神とも他とも一致しない」というまた興味深い悲劇性の視点に注目する。そして、ヘルダーリンはさらにそれらの悲劇論に「時」を問う視点を持ち込む。つまり、神と己を過剰に親密に同一視することが神に反することが『時』として経験されることが悲劇だとした。

「悲劇の描出とは、神と人間が結合し、自然の威力と人間の最内奥が怒りのうちで無際限に一体となる。ついでそのことを通して無際限の一体化が無際限の分離によって浄化されることが把握されるということである」(ヘルダーリン『オイディプスへの注解』)
「安逸の時代に世界に空隙をあらしめんとして、神々への記憶の消失をあらしめんとして、ペストや狂気に燃え広がる予言の中に、神と人間があらゆる顧慮を捨てた不信実という形式で己を顕現する。その瞬間に人間は己を忘れ、神を忘れさながら反逆者のように己を転回する。…すなわち苦悩の極限において、人間には時間と空間の制約以外の一切が消失する」(同)

ヘルダーリンの悲劇論において、人間は「中間休止」以前には世界を普遍的でありかつ個別的でもあり得るものと信じている。しかし「中間休止」においてそのような普遍的世界も個別的な世界もともに分裂し破壊されてしまう。そのとき人間は神と無限に一体化しつつ無限に分離することになる。世界は無限な何者かでありながら何者でもないものとなってしまう。そしてさらに「中間休止」以後には、神の死によって己が分裂させながらも世界を個別的な世界として受け止めることが可能になる。だから、人は世界を自分の意志で切り拓く自由な世界として受け止め得ることになる。まさに悲劇論に「中間休止」や「時間」の視点を持ち込むことで、シェリング的な悲劇の論点とヘーゲル的な悲劇の論点を飲み込んでしまうのが、ヘルダーリンの悲劇論だと言えるかもしれない。

 

 

中間休止以前の「おとぎ話」

「オイディプス王」において、「中間休止」としての「尋問」の場面で世界はリズムを中断され、それまで信じられていた世界モデルが一変する。
「ヘルダーリンは、時間は詩の始まりと終りが一致しなくなるような『中間休止』の前半部と後半部に己を不等に配分するゆえに、時間は『韻を踏む』のを止めると語っていた。…ただしその〔中間休止によって生じる〕未来と過去は時間の経験的や動的な規定ではなくなって、時間の静的な総合としてのアプリオリな順序に由来する形式的で固定的な特徴である。その時間はもはや運動に従事しないゆえにその総合は必然的に静的である。根本的な変化の形式はあるが変化の形式自体は変化しないのだ。《私》の亀裂を構成するものはまさに中間休止であり、中間休止によって〈これを最後に〉順序づけられる〈前〉と〈後〉である(中間休止はまさしく亀裂が誕生する点なのである)」(「差異と反復」文庫上p246)
中間休止以前のオイディプスにとって、自分はコリントス国の王ポリュボス夫妻の子であり、テーバイはその隣国に過ぎないものであった。それは自分自身にとっても神にとっても真実な事柄なはずのものであった。けれどもそれは、ある種「おとぎ話」的な「どこかにある」一般的な「お話」でしかなく、自分の認識と情報の不足による一般化でしかなかった。その意味で、その「お話」は自らの個物を語り得るような言明にはなり得ないものだったと言える。
そして、そのおとぎ話世界が中間休止によって破壊され何者でもない世界とされてしまう。世界は単なる「おとぎ話」ではなくなり、そこにおいてさらに《私》に亀裂が走ることによって、私の「生」にとっての「現実」としての個別な世界を語ることが「できる」ようになる。
その意味で、〈前〉の世界と〈後〉の世界はもはや等しい世界ではない。それは、単に〈前〉と〈後〉とで異なる世界解釈がされるということだけではない。〈前〉の一般化された「おとぎ話」が、〈後〉ではこの私の生が亀裂する中でその個別の話が生じ得る、という意味でまったく〈これを最後とする〉順序付けによる世界構成がなされるのだ。


中間休止の〈前〉〈後〉と過去・現在・未来

だったら、その中間休止の〈前〉と〈後〉とは時間的な前後ではないのだろうか。
しかしドゥルーズによると、その〈前〉と〈中間休止〉と〈後〉は、それぞれ「時間の第1の総合」「第2の総合」「第3の総合」に対応するはずだが、その「第1」「第2」「第3」はそれぞれ「現在」「過去」「未来」に相応すると言っていた。ということは、〈前〉が「現在」、〈中間休止〉が「過去」、〈後〉が「未来」に相応することになる。しかし、「オイディプス王」においては当然ながら、それが物語である以上は〈前〉〈中間〉〈後〉が順番に「過去」「現在」「未来」に相応しているはずだと捉えないわけにはいかない。このずれはいったいどういうことなのか。
それは、物語の順序としての「過去」「現在」「未来」と、第1と第2と第3の総合においての「現在」「過去」「未来」は全く別の概念であって、それらには大した関係がないからだと言い切ってしまっても良いように思う。
〈前〉の世界は、一般化された「お話」として捉えられた世界という意味で「時間の第1の総合」であり、すべてが「現在」であるような世界であるのだ。それは、その物語の中での順序においては〈前〉であり「過去」なのだけれども、そこで行われる世界把握の手立てとしては「世界とは現在である」として把握された世界だということだろう。
〈中間休止〉の世界は、分裂し無価値化された世界という意味で「時間の第2の総合」であり、すべてが「純粋過去」であるような世界であるのだ。それは、その物語の中での順序においては〈中間〉であり「現在」なのだけれども、そこで行われる世界把握の手立てとしては「世界とは純粋過去である」として把握された世界だということだろう。
〈後〉の世界は、ひび割れた《私》の生の冒険において個物として立ち上げられた世界という意味で「時間の第3の総合」であり、すべてが「未来」であるような世界であるのだ。それは、その物語の中での順序においては〈後〉であり「未来」なのだけれども、(時間経過の順番としての「未来」とは別の意味で)そこで行われる世界把握の手立てが「世界とは未来である」という意味で把握された世界だということだろう。


「アンティゴネ」と神の法

さて、では、「オイディプス王」とは違っているという「アンティゴネ」の話では、その辺りどうなっているのか。どう違うのか。
まず、ソポクレス(BC497/6頃-BC406/5頃ギリシア劇詩人)著のオイディプス三部作「オイディプス王」「コロノスのオイディプス」「アンティゴネ」のあらすじをもう一度確かめておこう。
まず、テーバイ国の王となったオイディプスは自分がそれとは知らぬ間に先王であった父を殺し、母を娶って子を生してしまっていたことを知って己の目を刺し、己を国から追放した。(ここまでが前節で考察した「オイディプス王」の物語)
そして、盲目となったオイディプスは娘アンティゴネに手を引かれて放浪した末、コロノスの森にたどり着く。テーバイ国の摂政クレオンや自分の息子たちからテーバイへ戻るように求めるが、オイディプスは、その地の王テセウスに自らを葬るよう頼み、テセウスが見守るなか地中へ飲み込まれる。(ここまでが「コロノスのオイディプス」の話)
オイディプスの息子でアンティゴネの兄たちであるポリュネイケスとエテオクレスは、オイディプスが退いた後テーバイの王位を争っていたが、刺し違えて二人とも死んでしまう。摂政クレオンは、テーバイに攻め入る形になっていたポリュネイケスのことを国家への反逆者だとし、その埋葬と葬礼を禁じた。しかし、アンティゴネはこの禁令を犯しポリュネイケスを埋葬する。国家の法の厳正を唱えるクレオンと自然の法を訴えるアンティゴネは互いに譲らず、アンティゴネはクレオンによって幽閉され、自殺する。クレオンの子でありアンティゴネの恋人で会ったハイモンは父を恨み自殺する。さらにハイモンの死に絶望したクレオンの妻が自殺する。(ここまでが「アンティゴネ」の話)
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「アンティゴネ」の物語においても、ヘルダーリンはその悲劇性が「私」が神と一つになり神と分離されることにあるとする。その点では「オイディプス王」の物語と同様である。
「悲劇の描出とは、直接的な神が人間と全く一つになること、無際限の熱狂が無際限に、言いかえれば諸対立のうちで、意識を止揚する意識のうちで、神聖に分離しつつ自己を捉え、神が死の形態において現在的になることである」(ヘルダーリン『アンティゴネへの注解』)
しかし、その表象が「私」を押し流し連れ去っていくバランスの重点の構成が異なると言う。「オイディプス王」では、中間休止から〈後〉において「私」と世界の分裂があり、〈後〉において「私」が世界と向き合う中心があった。
それに対して、「アンティゴネ」では最初から世界は対立の場として成立している。クレオンが国の摂政の立場で「社会の法こそが正義だ」と言うのに対して、アンティゴネは「社会の法は神の法ではない」と反対する。一般的でよくある「アンティゴネ」解釈では、「その対立の中で、アンティゴネは自分の信じる『神の法』に最後まで従い死んでいく」とされているのだけど、ヘルダーリンは、そのアンティゴネの『神の法』のとらえ方にはさらなる深い問いが必要だとする。すなわち、アンティゴネが『神の法』だとしているのは『私の神の法』でしかないと言うのだ。その意味では、アンティゴネが真実だとしている「妹が兄を葬るのは自然の法に基づき神の意志に従うものだ」という内容は、そのようにアンティゴネが判断し一般化してしまった「お話」でしかないとも言える。その意味で、この時点の対立はまだ「時間の第1の総合」の時間にあると言えるだろう。アンティゴネがどんなに声を大に叫んでも、否、声を大にして叫ぶからこそ、それはどこまでも人間の口から「一般化された神の法」として叫ばれるものでしかない。それはそれゆえ、何者でもなく無価値化された〈後〉の「神の死」からは程遠い。
しかし、そのアンティゴネがその悩み抜き死んでいく過程の中で、彼女はそこに〈中間休止〉をもちその〈後〉へと転換されてゆく物語が「アンティゴネ」だったのだというのがヘルダーリンの評価だと僕は『アンティゴネへの注解』を読んだ。
「〔「オイディプス王」において〕継起する表象のリズムが激烈な霊感によって、前半が後半に押し流され拉し去られる傾向の場合、aなる中間休止は前方になければならない。
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しかし、〔「アンティゴネ」においては〕継起する表象のリズムが、後半が前半に押し狭められる場合、aなる中間休止は後方に置かれねばならない。
2_20200309001201 」(「アンティゴネへの注解」)

少なくともドゥルーズの言うように、ヘルダーリンの「アンティゴネ」読解における〈前〉〈中間休止〉〈後〉がそれぞれ「時間の第1第2第3の総合」に当てはまるのであれば、アンティゴネは「神の法」を臨んで自死に向かったのだけれども〈中間休止〉の後にはその「神」が不在となり「神の死後」の世界にまで到達し得たのだと解釈できるし、そう解釈すべきだと僕には思われる。
そのような解釈が許されるのであれば、「オイディプス」にしても「アンティゴネ」にしても、それらの物語における「私」は、苦悩の末に「私の分裂」と「神の死後」を乗り越えた先に個物に到達したはずである。「オイディプス王」にしても「アンティゴネ」にしてもそこに描かれる深い苦悩は多くの示唆を含むけれども、「オイディプス王」の話では、唯一の真実だと思われ一般化されていた世界が覆される話だったという点で、比較的単純な世界のひっくり返しの話だったのに対して、「アンティゴネ」では、すでに分裂していると考えられている世界がさらに転回され「神」の死にまで到達する過程が重点化されているという点で、より複雑で重い世界のひっくり返し方を示す話だと、僕には思われる。その意味で、「アンティゴネ」の方にこそより重要な問いが隠されているのかもしれない。


第3の総合と「行動のイマージュ」

そこで、ドゥルーズはその〈中間休止〉から「第3の総合」へと向かうメカニズムを考察する。
「そのような時間はハムレットの航海によって…示されている。主人公は行動を起こすことが「可能」になる」(「差異と反復」文庫上p248)
そして、ドゥルーズは「オイディプス王」と同様に「ハムレット」の物語についても「中間休止論」を当てはめて考察し、そこに現れる「行動」というものに注目する。
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「ハムレット」はシェークスピア(1564-1616英劇作家詩人)の悲劇。
あらすじ:デンマーク王子ハムレットが父王の敵を討つ物語。父王が突然死に、叔父クローディアスが王となり、すぐに母ガートルードと結婚してしまう。父王の亡霊は自分がクローディアスに毒殺されたので復讐するように告げてくる。ハムレットはクローディアスを殺そうとするが誤って恋人オフィーリアの父ポローニアスを刺殺してしまう。オフィーリアは様々な悲しみのあまり狂って溺死する。オフィーリアの兄レアティーズは父と妹の敵としてハムレットを恨む。ポローニアス殺害の罪から逃れるために英国へ向かうことになったハムレットはその航海の途中で、クローディアスによって自分の殺害が指示されていることを知る。ハムレットはデンマークに戻り、オフィーリアの死を知る。クローディアス王は毒剣と毒酒を用意してハムレットを剣術試合に招きハムレット殺害を図る。しかし、王妃が誤って毒酒を飲み死んでしまう。ハムレットとレアティーズは剣術試合で互いに毒剣に傷ついてしまう。そこでレアティーズから真相を聞いたハムレットは、クローディアスを殺し復讐を果たして死んでゆく…という物語である。

ドゥルーズは、この物語における「中間休止」を「航海」にあるとしている。ハムレットはその航海以前にもクローディアスの陰謀を疑っていた。それでも自分の殺害計画を知るまでは、世界は安定して一つの確立された世界として存在していた。ところが「航海」において己の死を察知することで、世界はある一つの何者かである可能性を失い、第2の総合から第3の総合としての世界への道が開かれることになる。
そして、ドゥルーズは、そのように世界が何者でもなくなる過程を経るとき、主人公は初めて「行動」を起こすことが可能になると言う。
「任意の中間休止は、時間全体に妥当するユニークで驚異的なひとつの出来事の、つまり一つの行動のイマージュの中で決定されねばならないということ。そのイマージュはそれ自身、分裂した形でつまり二つの不等な部分をもって存在する。けれどもそのイマージュはそのような形で総体としての時間を寄せ集めている。そのイマージュは不等な諸部分に関してそのイマージュは象徴と呼ばれなければならないのである」(同p247)
この「行動のイマージュ」というのは、
「思考と行為は別だ。行為のイメージとも別だ。それは因果の車輪で繋がれていない。このイメージこそが蒼白い犯罪者を蒼白くした。行為を犯したとき彼は為す力があった。しかし行為の後、そのイメージに耐えることができなくなった」(ニーチェ「ツァラトゥストラ」第1部「青ざめた犯罪者について」)
に関する話であるらしい。
Nietzsche_20200309002001 フリードリヒ・ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzsche1844~1900

ニーチェは、行為を成す前の自らの思考の中での「行為のイメージ」では何ということのなかった罪が、自らの行為を成してからの「行為のイメージ」でもって振り返るととても重い罪として自らに掛かってくることを例に挙げて、考えるだけの「行為のイメージ」と実際に為される「行為のイメージ」がまるで異なり得るとする。
そして、ドゥルーズは、この「行動のイマージュ」に関するその思考と行為の差が第3の総合へ結びつくことを考える。
「彼らは、象徴の前半を過去の中で生きる。彼らは、行動のイマージュを彼らにとって大きすぎるものとして受け取っているかぎり、彼ら自身、過去の中で生き、過去の中に投げ返されている。第2の時間は中間休止それ自身を指し示す変身の現在であり、行動に〈等しく-なる〉ということであり、自我の二分化であり、行動のイマージュへのイデア的な自我の投射である。…主人公は行動を起こすことが『可能』に〈なる〉ということだ。未来を発見する第3の時間が意味するのは、出来事や行動は自我の一貫性を排除する秘密の一貫性を有するということであり、この秘密の一貫性が出来事や行動に等しくなった自我に背を向けるということであり、新しい世界を孕むものがもぎ取られ散らされるように、秘密の一貫性が自我を無数に砕いて投射するということである。自我が等しくなってしまった当の出来事や行動は即自的に不等なものである」(「差異と反復」文庫上p248)


ベルクソンの円錐と第3の総合

第1の総合において「行動のイマージュ」が記憶の内部に位置する世界データであるとする限りは、それは過去のものとして投げ返されるにとどまり、《私》は過去の世界において分析され一般化されたものとして生きるのみの者でしかない。それはベルクソンの逆円錐の内部においてすべてが「縮約」され得る世界と考えても良いだろう。
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行動が物理的世界を構成するメカニズム<ベルクソン「物質と記憶」を読む6>参照
その世界の記憶データのすべてが、第2の総合においては。ベルクソン円錐の「弛緩」の端で、すべて純粋記憶として分析されないままの何者でもない豊潤なものに帰される。
そして、ベルクソンはその円錐の「アクチュアル」な頂点の先において《私》の身体が行動することでその豊潤な世界が「意味」を持てるようになると考えた。たとえば、「1m」という長さは、他の長さを持つものと比較することによってその「長さ」の意味を持ち得るのだけれども、記憶の中での「1m」はそのままでは「私の生きる世界における『1m』という長さ」という意味を持つことができない。この《私》の身体が「1m」先の距離のところに「これから」手を伸ばすという想定があってはじめてそれはこの私が生きる世界での個物としての意味をもつことができるようになる。ただし、ベルクソンの世界モデルでは世界はその記憶の円錐の内部ですべてが完結してしまうものだった。けれども、ドゥルーズは、さらに、その円錐からアクチュアルな頂点の外へ向けて、未来を行動として開かれることが必要だとした。それは、もちろん純粋記憶外のものだから根拠を失った分裂した世界になる。だからそれはニーチェが言うように「因果の車輪」から解かれて確実なものは何もない世界になってしまう。でもそれゆえに、世界の個別化が可能になる世界になる。それがドゥルーズのいう第3の総合そのものではないだろうか。
未来に向けた《私》の行動だけが、世界を私のものとして開く手立てではないだろうか。それは、必然的に分析的な根拠を失わせてしまうものではあるが、しかしそれが根拠のない冒険だからこそ、世界は私の世界として個別化されて、誰かのおとぎ話ではない真に私のこの世界として語りえるものになるのではないか。

Bergson_20200309001901 アンリ・ベルクソンH.L.Bergson1859~1941

 

個別教育相談の鉄則の一言

例えば、僕は小学校で特別支援コーディネータというのをしてて、よく保護者の教育相談をして話し合う。そして様々な親子の困難の状況を聞いて「そんなときには一般的にはこんな風にして対処すれば良いと言われています」という話をする。でもその語り方では当たり前だけど、どこまでも一般論を話すことしかできない。これからの行動の話をしてても、それだけではその子の教育や子育てに限った個別的な相談にはならない。相談の最後には「これからも一緒に悩んでいきましょうね」と付け加えなければならないという個別相談の鉄則があるのはこのためである。これを言うことで相談内容が初めてその親子の個別を語り得るものになるのだ。誰かのおとぎ話ではない現実の私の「この」世界の話をするためには、つまり、これからどう行動するかを自分で能動的に選択すること、そしてその選択を悩み続けることにあると言えるのではないだろうか。


未来への「冒険」的行動と《私》の分裂と《私》の個物としての世界

その未来への「冒険」はその根拠を失ってしまうために、同じところに帰還することができず、どこへ行くか分からない、ひび割れた世界になってしまう。太陽が同じ太陽として東から上ってくる根拠はもはやどこにもなく、私が同じ私として明日を生きる根拠などもはやどこにもない。「第2の総合」において無意味化された《私》はもはや単なるそれぞれの時刻における脳神経の発火にすぎないか、あるいはそれ以下のものでしかないはずだ。だから当然、第3の総合においてはもはや明日の《私》が「イマココ」の《私》と同一であるとされる根拠などまるで失われてしまうのだ。しかしそれでも、「そんな明日の《私》なぞ他人でしかない」とうそぶいて終るのではなく、明日の《私》が《私》の身体をもって行動するという冒険的想定をするがゆえに《私》の個物的世界が確保できるのだ。《私》がもはや必然的に《私》でなくなるような「明日の《私》」という非同一で異なるものに帰るとするからこそ、そこに個物を入手することができるのだ。
これが、ドゥルーズがしつこく「永遠回帰」を問う意味なのではないか。
「永遠回帰は、その秘教的な真理性において、セリー(系列)たる第3の時間にしか関わらず、また関わり得ないのだ。永遠回帰は文字通り、未来への信仰、未来における信仰と言われるのである。永遠回帰は新しいものにしか、すなわち、欠如を条件として、しかも変身を介して産み出されるものにしか関与しない。しかし、永遠回帰は条件も作用者も帰還させることはない。永遠回帰は、その遠心的な力のすべてによって、それらを追放し、それらを否認する。…永遠回帰は過剰による反復であり、欠如も〈等しく—なる〉ということも存続させない。永遠回帰自体は新しいものであり新しさの全体である。セリーたる第3の時間であり、未来である限りの未来である」(同p250)
さらに、そのような、決して同一ではないものに帰還してくるそれはベルクソン円錐の「弛緩」の極致としての純粋過去自体が持つ豊潤で過剰な世界を《私》にもたらし得るようになる。それはまるでプラトンの「想起」が過剰なる「イデア」を我々にもたらしてくることそのものではないか。

 

このように読んでみて、僕には次の文がかなり重たい内容を語っているように思われて心震える。ここで語られるドゥルーズの第3の総合の捉え方というのは、まさにこの私がここに生きている現実を現実のものとして手に入れるための、すこぶる感動的なアイデアであるように思われる。

「さてこうなると、現在と過去は時間の第3の総合においてはもはや未来の2つの次元でしかない。すなわち、条件としての過去、そして作用者としての現在。習慣としての総合たる第1の総合は、過去未来が依存する受動的土台において生ける現在としての時間を構成していた。記憶の総合たる第2の総合は、現在を過ぎ去らせ別の現在を到来させる根拠という観点から純粋過去としての時間を構成していた。しかし第3の総合においては、現在はもはや消去されるべく予定された当事者作者作用者でしかない。過去はもはや欠如によってことに当たる条件でしかない。所産がその条件に対して無条件的性格をもち、作品が作者に対して独立していることを、未来が同時に肯定する。こうした未来を時間の第3の総合が構成するのだ」(「差異と反復」文庫上p257)

第3の総合というのは、私が未来を拓く冒険者であるからこそ私はこの私の現実を現実のものとすることができるという話だと言えるかもしれない。

ここまでが、ドゥルーズが第1・2・3の総合を大まかにつかもうとした考察である。でもここまではまだ大まかな「つかみ」でしかない。ここからが本番の第1・2・3の総合の考察になっていく。でもそれはまた明日。

つづく

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