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2020年3月27日 (金)

岸谷五朗の「完璧な未完成」とニーチェの「永遠回帰」とヘーゲルの「弁証法」

岸谷五朗がテレビで「完璧な未完成」という話をしていた。それについて考えていると、それがニーチェの永遠回帰とベルクソンの進化論に関係して世界が冒険であることに直結する話であり、ヘーゲルの「感覚的確信」の問いを解消する凄い話であるように思えてきた。今日はその話。

「三つあって、映画とテレビドラマと演劇。映画とドラマは監督がカットを掛けてOKをもらえばそれで完成だけど、演劇はその日プレイしてカーテンコールに立つまで完成を目指していって、その終わりを未完成として次の日また完成を求める。完璧な未完成を目指す」(岸谷五朗「ボクらの時代」2020.3.22)

こうテレビで岸谷が言ってたのだけど良い話だなあと思った。演劇というのはまさに人間の生活、人間の生を演じるわけだが、舞台で演じられるものはどこまでも完成を目指す途中のものでしかない。それでも、未完成なのに完璧だったと言えるような舞台を作ることは可能で、演者はそれを目指すことができるという話。精神論としても魅力的な話だろうけど、僕はここに存在論的な問いを読み込み、ニーチェの永遠回帰と繋がっているように考えてしまう。そしてさらにそこに、ヘーゲルの「感覚的確信」の貧しさと豊かさの問題を、矛盾なく解きほぐすアイデアを見つけられるように思えて、さらに感動してしまう。

 

Hegel_20200327005301 フリードリヒ・ヘーゲル1770~1831
ヘーゲルの間隔的確信の問題というのは、世界を把握して分析するときにどうしてもその個物的豊かさを失してしまわざるを得ないという問題である。
「感覚的確信は…そのままでもっとも豊かな認識であり、…もっとも真なるものとして登場する。…というのはこの確信はまだ対象から何ものをも取り去っていないし、対象をまったく完全な姿で見ているからである。だがこの確信は実際にはもっとも貧しい真理である…この確信は自ら知るものについて有るということだけしか言わない」(ヘーゲル「精神現象学」樫山訳平凡社ライブラリー上p122)

 

ヘーゲルは、世界存在に最初に接したときに掴む知識を「感覚的確信」と呼ぶ。それは最初「何ものでもない何かがある」という、まるで内容のない「カオス・渾沌」としての知識でしかない。それに何らかの分析が施されることでそこに「それが何であるか」という「コスモス・秩序」としての意味が生じてくる。ところが、「感覚的確信」がはじめに持っていたはずの「現実的で端的な私にとっての端的なこれ」は、言語化されるときにその現実性を切り捨てられ、「その場にいる人にとっての『これ』」というような一般化された内容に落とし込まれてしまう。そうしてもともと「この現実の私だけが個別に感じているこのもっとも豊かな知識」だった感覚的確信が、「誰でもが感じる一般的な真理でしかなく、内容の無いもっとも貧しい真理」になってしまう。それゆえ、我々の言語は、そのままでは、世界の豊かさを語ることにできないような、仮象的なおとぎ話を語るだけの役立たずでしかない、というのだ。

そこで、ヘーゲルはどうしたかと言うと、一般化されてしまった確信に対して、それを何度でも豊かな知識を得続けて失い続ける運動としてくりかえすことはできるのだから、どこまでも無限に運動し続ければ良いとしたのだ。このような、対象と自我の統一を図る運動を「感覚的確信による弁証法的統一」と言う。

 

 

このヘーゲルのやり方を僕はずいぶん魅力的だと思う。でも、ヘーゲルのこの捉え方は、世界や我々の生が矛盾しているとした上で、弁証法的統一によってその矛盾を乗り越えるとする点で違和感を覚えてしまう。本当に、この世界や生がもともと矛盾を抱えているとすべきだろうかと疑問に思えてならないのだ。

そしてそれに対して、岸谷の「完璧な未完成」やニーチェの永遠回帰の捉え方を持ってくると、世界や我々の生を無矛盾としたまま世界をと豊潤なものとして捉えられるようになると僕には思われるのだ。

 

Nietzsche_20200327005301 フリードリヒ・ニーチェ1844~1900
「永遠回帰」というのは、時間が無限に延長しているとすればその無限時間の中であらゆる事象はそっくりそのまま何度もくりかえされるはずだという話であった。私はイマココにおいて完全に自由であって、どんな風にでも好きに行動できるはずなのだけれど、でもそれは、すでに、どこかの遠い過去に起こっていた事象をそっくりそのままくりかえしているだけだとも言えてしまうのだ。
それは、或る意味では、台本のある劇の中の世界の住人として、仮象的で有限で未完成な世界を引き受けることであり、また別の意味では、現実の開かれた世界の住人としてそこに完璧完全に無限な個物を我がものとして生きることができるということである。そしてそれは、それゆえに世界が分節化可能で有限な「コスモス」(或いは「物語」)として捉え得る有意味な対象になるということであり、同時に、私は「我を忘れて」しまい分節化不可能な「カオス」でしかない無意味な無限の個物にもなるということだ。

この捉え方によると、僕らが生きていくうえでの「生の台本」は、舞台で実際に上演されることによって初めて完成されることを目指すものであり、同時にどこまでも完成を目指すだけの未完成なものでしかない。だけど、その台本が形式化された台本であることによって、僕らは僕らの生を理解することができるようになり、さらに、僕らは舞台上でその生を、まさに一度きりその時限りの何者でもない自由なカオスとして、そして豊潤さに満ちたものとして味わうことができる。それによって、我々はこの私の生を「完璧な未完成」であるような個物として捉え得るようになるのだ。

 

もしかすると、この「永遠回帰」と「完璧な未完成」の話と、ヘーゲルの「感覚的確信による弁証法的統一」が同じようなやり方だと思う人がいるかもしれない。確かに、「豊潤な質」としての世界の内容と「まるで貧しい形式」として知識とを統一するという点では同じである。しかし、ぜんぜん違うのだ。ヘーゲルの方法が、どこまでも逃げ続ける「豊潤な世界の質」を追い続ける「運動」でもって矛盾を解消しようとしたものであったのに対して、「永遠回帰」と「完璧な未完成」のやり方は、我々の生が一回きりのこの生を、「冒険的」に世界を開くことによって、形式でしかないはずの貧しい「物語」を私の豊潤な「個物」そのものとしてしまうというものだ。ヘーゲルが世界理解を無限の「運動」だとすることでもって矛盾を乗り越えようとしたのに対して、「永遠回帰」と「完璧な未完成」は生が「冒険」だとすることによって、世界には初めから矛盾など無かったことにしてしまうのだ。世界は我々の生によって無矛盾に個物でありながら有意味なものになるのだ。世界にもう矛盾は無いのだ。もう物凄い話なのである。ああこの凄さに僕は震えているのだけど、僕の文書力では伝わりきらない人があるかもしれないなあ。

でもまだ話の続きがあるのだ。僕はこの話に、ベルクソンの「想像的進化」のアイデアでもって具体的に世界がどのように構成されるのかという思索を当てはめることで、この凄い話がさらに凄い話になると思いとても興奮している。でもそれについては明日考える。今日はここまで。

つづく次節〈ベルクソンの「意識」が「自分を広げ緩めること」であるわけ〉

思いつきの言々

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