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2020年2月23日 (日)

個物に純粋過去と想起が必要であるわけ〈僕にも分かる「差異と反復」2-5〉

  ドゥルーズ「差異と反復」第二章「それ自身へ向かう反復」を読む。
(今日は文庫上p232236

第2の総合が着衣の反復であること、そして、純粋過去だけが「存続 insisteアンシステ」するものであること、そしてそこから「想起 anamnēsisnアナムネーシス」によって時間世界が構成されることでしか個物は語られ得ないことを考える。

 

久しぶりに第二章の読みに帰ってきました

「差異と反復」第二章の読みの途中で、二章をほったらかして序論の読みを差し込んでしまった。(酷い読み方であろうけれども、僕の感覚では大正解だったと思う。僕の「差異と反復」の読み順は〈①序論を飛ばして1章から読み始め、②文庫上p232まで読んでから序論に戻り、③それからp232の続きを読む〉であったが、この読み順おススメである。僕のような素人がよむのであれば10人中10人が読みやすくなると思う。)
こうして序論の読みをして裸の反復の意味が少しは掴めたので、再度二章の読みに戻っても刃が立つ部分もできてきたかもしれない。

 

第1・第2・第3の総合と今日の課題

二章では第1233つの総合において、いかにして個物としての世界を総合として捉えることができるかを考えてきていた。
1の総合では「生ける現在」の中でいわゆる独今論的な世界把握をするものであった。
2の総合では世界をすべて「純粋過去」と捉えることでそれがもともと非時間的な存在でしかないものだったところから、世界が総合化されるというものだった。
そして、さらに第3の総合では、その第2の総合が根源的に確実視不可能なものとして破壊されながら、しかしそれと同時にそのようなものとしてしかあり得ないとするような「未来」への冒険的な永遠回帰が問われる。
今読んでいた「差異と反復」文庫p232の箇所では、この第2の総合の検討の途中、まだ第3の総合に入る前段階の場面であった。第1の「独今論」的な総合が、フロイト精神分析がいうところの「裸の反復」に基づくものでしかないとし、第2の「純粋過去」的な総合がフロイト精神分析でいうところの「着衣の反復」だとして、第1の総合から第2の総合へ向かう道こそ個物の総合化を可能にするとする箇所である。そしてさらに、本来の現実存在が構成されるには第2の総合でもってしてもまだ足りないとする箇所である。今日は、二章のそこのところを読んでいく。

 

物質的反復としての第1の総合

そこでドゥルーズは、第1の総合と第2の総合を考察するために、物質の反復と精神の反復の違いを検討する。
Photo_20200223204101  
物質の反復とは、実在の「マテリアル」の反復であり実在する「もの」反復である。それは、我々が経験する個別の内容を支配しているはずの、隠れた究極の物理法則の反復である…はずだと第1の総合では考えられていた。或いはそれは、フロイトの快感原理や現実原理やその他の精神的な究極的「原理」が我々の世界把握の精神面を支配している…はずだったし、その隠れた究極の原理の反復である…はずだった。ドゥルーズはそのような究極的な原理に従う物的反復を「裸の反復」という。(裸の反復)
それは、時間的に過去現在未来において同一の要素が、現在現在過去という部分をそれぞれ独立に構成することができるとする。(部分の反復)
またそれは、その同一的な要素が時間的に次々と訪れて去りゆくとする。(継起の反復)
そしてそれは、「過去t1において現実の現在だった」ような過去の現在も、端的に今であるような現実の現在も、それぞれが同列に現実的actuelleアクチュアルな現在であり、それらのアクチュアルな現在でもって世界が構成されているとする。(現実的な反復)
その世界では、すべてはその完全無欠な原理による縮約の世界分析によって、あらゆるものは差異をもつことが無い。そこには、もはやどこにも他者がおらず偶然がなくすべてが究極の原理に支配されつくして、その先に奥ゆきがないのっぺりとした世界である。(水平の反復・現在は無差異な瞬間の縮約)

 

精神的反復としての第2の総合

対して、精神的反復とは、主体・私の精神が世界を個物として感じるそのことの方にこそ、世界の実体の本質があるとする捉え方である。第2の総合のとらえ方において、それは、私の個別的な経験が(分析されるまえの経験そのものがそのままに)世界そのものの姿であるとされる。ここでは、(物理的や精神分析的な某かの究極の世界の根本原理が世界そのものの姿だとされるのではなく、その)究極の原理によって結果的に生じた「経験」こそが世界の根本であるとされる。つまり「裸の原理」が反復するのではなく、その「原因としての裸の反復」を隠すものとして結果的に観測される現われが、個別的事象として反復する。(着衣の反復)
そのように「着衣」によって隠された「裸」に本質があると考えるのではなく、それぞれの「着衣」自体がもともと本質を持っているとする。反復の本質的な要素はどこにも隠されてはおらず、その「着衣」にすでに現れているのするのだ。そもそもベルクソンの円錐図の世界把握システムでは、その「裸」とされている世界法則や原理というものも、純粋な過去の経験から「結果的」に現れ出てきたものに過ぎない。だからそのことをドゥルーズは「裸の反復を着衣の反復の外被として理解せねばならない」(「差異と反復」文庫上p233)とする。
ここにあるこの現実の時間世界は、(どこか遠いところに過去という場所があってそこに「過去に現実に現在だった時間」があるとするような時間世界ではなく、)すべては「純粋過去」でしかない。そんな「現在であった過去」なんてものはこの「純粋過去」から捏造され構成されたものに過ぎない。ここでは、過去現在未来において同一の要素があったり、過去現在未来という部分を独立に構成したりするなんてことはあり得ない。それはすべて「全体」が反復されることによってはじめてそれは「過去」になり「現在」になり「未来」になるのだ。「過去現在未来」は他の時間と比較され他の時間に支えられて初めて成立する二次的なものに過ぎない。(全体の反復)
それはそれゆえ、「時間経過・継起」というものが、すでに我々の経験の以前から、我々が知らないところであったわけではなく、「純粋過去」という全体の時間が共存しているとされることによって、主体の経験によって「継起」が成立するという捉え方である。(共存の反復)
この反復モデルは、物質的反復のようにすべての必然としてしまうことはなく、あらゆる偶然を受け入れる。経験の外にまだ経験していない世界があるとするのだ。そこには潜在的な世界が奥行きをもって存在する。(潜在的で・垂直な反復)
そして、ベルクソンの円錐モデルにおいてはあらゆる経験は偶然な弛緩的状態だとする。あらゆる世界は、世界として把握される限り系統化されモデル化され縮約されて理解可能な対象となるのだけれども、それでも、その縮約はどこまでも弛緩した偶然の経験であるはずなのだ。どこかにあるはずのその究極の原理を持ってきて世界を閉じたものにしようとしても、そんなものは世界理解ごっこに過ぎないのではないだろうか。世界把握はつねに開かれた冒険でなければならないのではないだろうか。

 

個物を受動的総合に求めねばならないわけ

そのように考えると、物質的反復などというものは、それを物質的反復だとして構成したそばから次々と壊れていってしまう。だから「物理的世界」は、「世界が主体とは無関係に、例えば神によって構成されていた」とするような「受動的」なものではあり得ず。我々が「能動的」に「反復の要素を計算と保存の空間へ投射した」ものに過ぎないのだ。
「能動的総合」とは自我が積極的に関与して生じる総合のことを指し、「受動的総合」とは自我の関与なしにおのずから生じる無意識的総合のことを指す。
我々は「能動的」に世界を総合化するにはそこに関与せざるを得ない。それは恣意的な構造を含み持った世界でしかなく、それはどうしてもどこかの段階で恣意的に一般化されてしまう。恣意的な一般化なくしては語り得るものとならないからだ。そして、その一般化はマテリアルな反復を図るもので個物を語るものではあり得ない。
では、「受動的」な総合ならばどうか。それは、明らかに「下—表象的sub-repésentatives」(表象=再現前化の下で表象=再現前化に準ずるもの)である。しかし、我々はそこで、受動的総合として、どのように即自的存在として受け取りその世界で生きるか、純粋過去をどのように掬い取ればよいのか。どんな救い出し方ができるのか、「古い現在」を「アクチュアルな現在」に単純に還元するのではないようなやり方でその救い出しができるのか、を問わねばならない。

 

個物をプラトンの「想起」に求めるわけ

そんなハードな問いの答えがプラトンの「想起・アナムネーシス」にあるとドゥルーズは言う。
Platon_20200223204501 プラトンPlato BC427~BC347

【アナムネーシス anamnēsis 想起】とは、プラトンの哲学において既知の真実在を引き出すこと。プラトンは個々の事物とは厳密に区別された真の実在を人は既に知っているとし、知っているからこそ、人はそれを目の当たりにしたときに、それことが探求していたものだということが分かるとするときの、その既知の真実在を引き出すことができるとした。その思い起こしのことである。

ドゥルーズは「想起」が受動的総合を成すとし、それが個物に達し得る方法であるとして、プルーストの『失われた時を求めて』を例示する。

「失われた時を求めて」は1913~1927に渡って刊行されたプルーストの長編小説。眠りとも覚醒ともつかぬ曖昧な夢想状態になかで、「無意志的記憶」に導かれるままに埋もれていた感覚や観念を文体に定着させながら、自分の生涯の時間を記していく物語である。「コンブレ」は語り手が幼年期にバカンスを過ごした架空の田舎町。
Proust マルセル・プルーストMarcel Proust 1871~1922

この物語で記憶の中の話として登場する「コンブレの町」は「アクチュアルな現在」としても「古い現在」としても登場していないとドゥルーズは言う。
「結局はそれら二つの現在の衝突に乗じて開示してしまうような純粋過去があり、コンブレはかつて現在であったためしがない純粋過去として再び出現する。古い現在は、忘却の彼岸における能動的総合の中で表象=再現前化されるのだが、コンブレは現在であったためしがない純粋過去の中ででだけ出現する。コンブレが即自の形式で現れるのは記憶にない古いものとしてでしかない。〔だから古い現在において過去の即自というものは存在し得ない。〕過去の即時が存在するのであれば、想起こそがその仮想的存在でありそれを可能にする思考である」(同p235)

かつて現在であったような「古い現在」は、アクチュアルな現在からすると「他なる存在」であって即自ではない。当然ながら「かつて現在であった古い現在」は「かつて現在であることがなかった純粋過去」の中で出現することができない。「想起」のみが即自な存在としての過去を可能にすることになると言うのだ。

 

想起と純粋過去が存立アンシステであること

ドゥルーズは、「想起」は「アクチュアルな現在」を「古い現在」に対して単純な結びつけで送り返すことはしないと言う。それってどういうことか。
それは例えば、精神分析における大人の愛情と小児期の母への愛情の関係で、妻を母に送り返すのではないという話に通じる。それは、妻は母ではないという話であり、それは、かつて現在であったためしがない純粋過去を古い現在でありアクチュアルな現在だとはしないということである。そうではなくそれは、妻とともに共存しながら、母と同時的でもあるような聖処女を想定しようという話なのである。それは、古い現在もアクチュアルな現在もあらゆる「現在」が「現実存在(existeエグジステ・外に立つ)」でしかなく、純粋過去だけが「存続(insisteアンシステ・固執・内に立つ)」であるという話なのである。
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現実存在existeとしての現在

つまり、「古い現在」も「アクチュアルな現在」もどちらも「その時が現在であったとしたら」というような「仮想的な現在」を指示するものではなく、その時に「実際に」過去現在未来をすべて含むような「リアルな現在」なことを指示する。だからそれらの「現在」は持続する時間全体の外部に立った現在「現実存在(existeエグジステ・外に立つ)」だと捉えられるだろう。そして、このような時間は本来一本の線のみのものとしてあることは無い。
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存続insisteとしての純粋過去

「古い現在」を現在とするような一本の時間軸も、「アクチュアルな現在」を現在とするような一本の時間軸も、それぞれを含み得るような多次元的なもの(あるいは平面)として存在するものである。そのようなあらゆる時間のすべてが単純な現在でも単純な未来でも単純な過去でもない純粋な過去として存在する。つまり純粋過去だけが時間の平面の内にあるのだ。

同じ一つの系列のなかで「古い現在」が「アクチュアルな現在」に「なる」のではなく、現在がそこで過ぎ去り衝突するその現在そのものの要素が、純粋過去によってのみ供給されるとするのである。

 

想起が問いであること

そしてさらに「古い現在」と「アクチュアルな現在」が「想起」されるとき、「過去」において「存立(consisteコンシステ・共に立つ)」されることにおいて、その二つの現在は反響しあい一つの問いを形成するという。
「想起」とは、コンブレの町が何であるかの答えを差し出すものではなく、町を問うものなのだ。母と妻の関係が何であるかの答えを提示するものではなく、女を問うものなのである。「古い現在」が「アクチュアルな現在」に「なる」ことを示すものではない。「古い現在」とされたその「とき」と「アクチュアルな現在」とされるその「とき」が継起的な関係にあることを受動的に捉えられるのだが、それは同一性を確保された系列の中にあるからそうだとするものではない。何故どんな根拠でもってそうだとされるのか分からないまま、プラトンの「イデア」に基づいて「想起」されてしまうのだ。だからそれはどこまでも同一性に基づかない「問い」であるのだ。
このようにして、「想起」は「受動的な総合」として「純粋過去」を掬い取るものであり、しかもそれを「問い」として救い出すものである。だから、それは「古い現在」と「アクチュアルな現在」を過去において「共に」立たせ、「即自的」に個物を個物そのものとして受け止めることができるようなシステムになるのではないだろうか。

しかし、そのような捉え方は、この純粋過去のなかで生きる私が、それを私の記憶と私の生だとすることで初めて成立するような世界だと思われる。つまり「即自的な純粋過去すなわち記憶の神・ムネモシュネ」を見通し得るものとするのは、ムネモシュネの伴侶である「生の神・エロス」であると言えるのではないか。
現在でも過去でも未来でもないような、ニヒリスチックな時間である純粋過去から、イデアの想起が、現在や過去や未来を見出してくるのであるというなら、そのイデアの想起と言うシステムの中に私という生が組み込まれていることが必要であろう。そして、それをそのような生の世界として構成可能にするためには、私が生きる「未来」をシステムの中に取り込む必要があるのではないか。それゆえ第3の総合が必要になってくるだろうと疑われる。

次節、第3の総合への考察へ進んでいきたい。

つづく

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コメント

差異と反復から、私は「変化」という言葉が思い浮かびました。人間でも他の生物でも又物質でも
同じだと思いますが、時間の経過によってすべては変化して、決してそれらは留まるものでなく
刻々に絶えず変化しているのではないか?変化するのを止めるということは生きることを止める
ことになるのではないか?決して繰り返さない生の根本法則は受諾するべきであります。
差異と反復は時間論の典型だと思います。

トマトさん、コメントありがとうございます。

「変化」、とても重要な論点だと僕も思います。
ベルクソンの言う「持続」という観点も重要だと思いますし、それ以上に、ドゥルーズの第3の時間の持続では「他なるもの」へ「自分ではないもの」への乗り越えを「永遠回帰」として受け入れるという観点での「変化」を問うていて、こちらもすごく重要だと思います。
「差異と反復」を読んでいると「変化」にもいろいろあってワクワクしてきます。

このページがあまり多くの人に読んでもらえてないかもしれないと思って悄気ていたところだったので、トマトさんからこうやって記事を読んでくださって感想を書いていただけたこと、喜びが大きいです。おかげでまた書き進めていきたいという気持ちになれました

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