フォト

ウェブページ

無料ブログはココログ

« 裸の反復の仮言性と着衣の反復の定言性〈僕にも分かる「差異と反復」序論8〉 | トップページ | 不一致対称物と、ドゥルーズが差異と反復を求めたわけ〈僕にも分かる「差異と反復」序論10〉 »

2019年12月22日 (日)

対称的事物のパラドクス(不一致対称物問題)〈僕にも分かる「差異と反復」序論9〉

  対称的事物のパラドクスを考える。

「差異と反復」序論まとめ部分の個体化に関するドゥルーズの考察はなかなかの難文だが、カントの「対称的事物のパラドクス(不一致対称物問題)」に沿った思索として読むと論旨がはっきりしてくる。そこで今日は、そのカントのパラドクスについて先に考察しておくことにする。カントがなぜライプニッツの空間論を問い直したのかを、存在の個体化に関する問題として見ておく。

 

【対称的事物のパラドクス】(「不一致対称物問題」とも呼ばれる)は、二つの鏡像が概念的に同一なのに互いに一致しないことに関するカントの問い。カントに先立って、ライプニッツは空間把握において間隔的な諸秩序が等しいものは互いに等しいと考えた。これに従うなら、手の諸部分の間隔的関係性秩序は等しいのに左手に右手袋がはめられないことは、概念的に等しい空間が互いに異なるというパラドクスであることになる。カントはこのパラドクスに強い興味を持ち長く検討しつづけた。

Kant_20191222112701 イマヌエル・カントImmanuel Kant 1724~1804


 


対称物の合同について

対称物というのは、算数で出てくる「線対称」「点対称」のあの対称なもののことで、ここで思索課題としたいのはその合同をどう考えるかという話である。数学において図形の合同というのは、複数の図形がぴったりと重ね合わせられることであるが、
「ユークリッド幾何学において、二つの図形が合同とは、それらの形と大きさが同じであるということを数学的に表した概念である。場合によっては、形と大きさが同じである他に、一方が他方の鏡像である場合を含める。つまり、より厳密に言えば、二つの点集合が合同であるとは、一方が他方に等距変換(すなわち、平行移動、回転および鏡映という剛体運動の組み合わせ)で移るとき、かつそのときに限り言う」(Wikipedia)
と言われているように、一般的には、鏡像も合同だとされている。
しかし、カントは、どんなに数学的に合同だと言われようと、右手と左手は明らかに異なる空間的位置を持つことは明らかだとし、そのことを問う。また現実的な物理問題として、鏡像でありながら異なる分子特性を持つ鏡像異性体分子がある。鏡像が等しくないとされるとき、その非一致の対称である特性を「キラリティ」「掌性」「利き手性」等と呼ぶ。このページでは特に、右手と左手の対称性でこれを考えるときに「右手性」「左手性」と言う。

【キラリティ (chirality)】 は、3次元の図形や物体や現象が、その鏡像と重ね合わすことができない性質。掌性。利き手性。特にこの「不一致対称物の問題」においては「利き手性」と言われることも多い。
Photo_20191222113201


ライプニッツにおける空間

 

でもこの問い、両手が概念的に等しいとするなんてずいぶんバカな話で、単純にライプニッツが鏡像の問題を忘れてただけじゃないのかと疑いたくなる。しかし、そんなことは全然ないのだ。この問いは考えるほど奥が深く、認識論に留まらない非常に面白い本質的に存在論的な問いであることは間違いないと思われる。

Leibniz_20191222113001 G.W.ライプニッツGottfried Wilhelm Leibniz 1646~1716


まず、ライプニッツによる空間の規定がやや独特なものであることを確かめておかねばならない。それによると、空間的秩序は質と量でもって構成される。質は形を指し、個々の観察によって他との比較なしに内的性質によって記述できる。量はものを実際に他の物に押し当てて比べることで、外的性質によって規定されて把握することができる。
【内的性質】とは、他と比べることなくそれ自身が持っている性質。
【外的性質】他との比較によってはじめて明らかになる性質。
【概念的区別】内的性質による区別は概念的な区別とは言わず、外的な性質による区別を概念的区別と言う。
ある存在者を取り囲む空間の在り方を考えるとき、延長として大きさは内的性質ではありえないとされる。場所や位置といった概念的な秩序は、複数の物体間の間隔距離でもって相互に規定される。それゆえそれは諸実体の関係であり、他との比較のみによって決まる、とされているからである。

 


世界中のすべてが2倍長になることはあり得るか

つまり、ライプニッツによる量の捉え方では、イマココで僕の眼前にある34㎝のPC画面は他の物との比較することによってはじめて34㎝長だというのだ。でも、そんなことあるだろうか。34㎝の長さは別に何者と比較しなくても34㎝なのではないだろうか。たしかに、この34㎝が「34㎝」という名前をもつ長さであることは物差しで測ったり他の物と比較したりしなくては分からないだろうけど、「この34㎝の長さ」が現実のこの「この長さの感じ」をもちものであることは、他の何とも比較しなくても、仮に長さのスケールというものがない世界だったとしても、「この長さ」であるはずなのではないか。
しかし、そうではないのだ。ライプニッツの、量が外的な区別だとする捉え方は、単にこの私とは関係のない、おとぎ話的世界の「量」として捉えているために「外的」だとされたのではなく、この現実の「私」の世界において考えたとしても、やはり「外的」だと捉えて良いのである。仮にこの世界のどこを探しても物差しというものがなかったとしても、「この34cm長」は「外的」に「この長さ」なのである。それは、この現実の「これ」としての個体的な長さとしての「この長さ」であっても、私の身体との関係なくしてその「大きさ」を意味あるものとすることはできないからである。
もし仮に世界中のありとあらゆるものが突然2倍の大きさになったとしたら、それも私の身体ごと2倍になったとしたら、私はそのことに気づくことができるだろうか。無理なのではないだろうか。物理法則ごとあらゆる存在者の長さが2倍になったとしても、そんなこと誰にも分かるはずないのじゃないか。神でさえ分からないのじゃないか。もし「本当は2倍になった」ことが分かる神がいるのだとしても、その神と我々は交信する術を持たない。ならば、そんな「本当は」の話などは現実の話ではありえない。
だからこそ、この現実の世界における「これ」としての個体的長さとしての「この34㎝の長さ」は、私の身体を含めたあらゆる長さの比の関係の中にあってはじめて意味を持つことになる。ものの量・大きさ・長さは外的性質でなければならないのだ。


形は内的性質

それに対して、ライプニッツは、空間の質である形は、その物体の角度のみを調べれば構成を確かめることができるのだから他と比較する必要がなく、内的性質だとした。ある形が某かの形と相似であることは、それ自身の角度を確かめるだけで分かることになる。
また、このライプニッツの相似の捉え方では、右手と左手の形が相似であることになり、また大きさが同じなのだから、合同な空間を占めていることになる。


カントからの異議

この点に対してカントは異議を申し立てた。右手と左手が同じ空間を占めるはずがないじゃないかと。そこで、カントはこの問題を「純粋理性批判」以前から以後まで長く問い続けた。そして、「純理」以前には絶対空間のアイデアで右手左手の鏡像が異なる立体であると捉え、「純理」以後にはさらに「感性」のアイデアで鏡像が異なる立体であることを捉えた。


「純理」以前

「純理」以前のカントの考えから順に見ていこう。
「空間のうちに如何なる対象も見出されないということは十分に考え得るが、空間が存在しないという表象は決してなし得ない」(カント「純理」)
このカントの空間理解はニュートンの空間理論と符合する。カントはこのニュートン的絶対空間が物的存在者の存在以前にすでに存在すると考えた。左手性右手性なるものが他と比較したところで分かり得ないものなのだとしても、空間をそのような絶対空間として考えるなら、右手と左手は絶対空間との関係において外的に異なる位置を占めるものであることが言えることになる。
Newton アイザック・ニュートンIsaac Newton 1642-1727


絶対空間が必要?なわけ

確かに絶対空間を持ち出したら、鏡像を異なる立体だとすることができる。いや、でもしかし、そもそもの話として、これは、わざわざ絶対空間を持ち出さねばならないような問題なのだろうか。そもそも右手性と左手性は他の存在者と比較するだけではっきりさせられるようなもっと普通の外的性質なのじゃないのか。だって、右手をフレミング右手の法則の形にして、親指を上、人差し指を北に向けるとき、中指は必ず西を向く。右手性はこの現実世界の上下東西南北ときちんと対応関係にあると言える。だから、右手性はもうすでに普通の外的な関係において有意味に右手性を持っているんじゃないのか。
Flemingsrighthandrule2 Flemingsrighthandrule


「これ性」の意での個体的キラリティ

否、それがダメなのだ。ここで問題にしている右手性というのは、やはりこの現実の「これ」としての(スコトゥスが「これ性haecceitasヘクセイタス」という意での)個体的なキラリティ(掌性)としての「この右手性」なのだ。
つまり、私の身体ごと全世界が鏡の中の世界になり、鏡映反転してしまったとしたときに、私がそれに気づけるのかという問題だとも言える。世界全体が鏡映反転してしまったら、当然、東西南北の方位も反転するのだから、私の身体との比較でもってしても、世界のいかなる存在者との比較でもってしても、その右手性が普通の外的関係において指示させるだけの右手性であるなら、私はどうしてもその反転に気づくことはできないし、そもそも鏡映反転からその右手性が独立してあることは原理的にあり得ないものになる。だからこそ、カントは絶対空間を持ち出さなければならなかったのだ。
絶対空間を想定するなら、世界中の物質が鏡映反転したとしても、その物質存在に先立って存在している空間がその反転を証査する基準になるので、反転が意味のないナンセンスなものではなくなる。こうして、前「純理」期のカントは絶対空間によって、右手と左手のそれぞれのキラリティを絶対空間との対比としての外的な差異として異なるものとすることができるようになったというわけだ。

問題の本質は、キラリティにおける「これ性」だったのではないか。だから、一般的な数学で鏡像を合同とするかどうか、とか、物理的に鏡像異性体分子がある、とかの話は、この問題にとってあまり本質的な話ではないのだ。それはライプニッツにとってもカントにとっても、他との比較でもって問うことができ、単なる量的な空間把握の話に還元できるような話でしかないのだ。ライプニッツもカントもこの鏡像問題で問おうとしていたのは、「これ性」としての個体性だったのではないか。その「これ性」を問う意味で、カントが絶対空間を持ち出してきたのは、一つのド直球の答えだったと言えるだろう。


ライプニッツが絶対空間を認めないわけ

しかし、これをライプニッツは認めるわけにはいかない。なぜなら、この絶対空間の捉え方において、モナドは空間の中に位置する単なる物理的存在者とされてしまっているからだ。ライプニッツにおいては、世界のあらゆる構成は私の経験の対象として存在しなければならず、それはもちろん空間でさえも経験的な対象があって初めて意味を持つものにすぎないからだ。ライプニッツにおいて、モナドの前提になる空間なんかあるはずがない。空間はそれ自体として実体ではなくモナドの現象に過ぎないはずのものなのだ。
だから、ライプニッツは、ニュートン的絶対空間も認められないし、絶対空間に担保されるような右手性などというものも認められない。ライプニッツにとっての右手性と左手性においても、それが普通の他との比較において異なることが有意味に判断できるような違いの話として問われているのであれば、それはもちろん外的に異なるものだと言える。しかし、(普通の意味での他との比較ではなく)世界中が鏡映反転してしまってもその右手性が問えるかというレベルの違いを問うているのであれば、そこには、もはや外的な差はなく、(もちろん内的な差もないので、)そんな右手性と左手性にはもうどこにも違いがあり得ないことになるのである。


「純理」以後

その後も、この絶対空間による思索でカントは納得せず、さらにこの問いを問い続け、結局、自説を変更する。なぜ説を変えたのかと言うと、我々はどうやっても絶対空間に辿り着くことができないからである。物自体を到達できないものとし、超越論的な感性悟性のシステムでもって世界を把握しようとした「純理」以後のカントには、もう私から手の届かない絶対空間を当てにして世界把握をするわけにはいかない。そこで、「絶対空間」の代わりに「感性」を持ってきて、この現実の「この右手性」が「左手性」と有意味に区別できるものであることを示そうとした。この思索においては、もはや「右手性」は他との比較でもって判断されたり絶対空間との比較によって判断されたりするような「外的性質」ではなく、このすでにある現実の右手性自体がすでに「右手性」を持っている「内的性質」なのだとする。この超越論的世界において、物自体や世界自体が「本当は」どうなっているかなどという問いは意味がない。到達できない向こう側のことのどんなに思案しても無駄だ。そこで、その物自体が超越論的な「感性」という形式に当てはめられることによって、実際にここに私の表象として現れているこれを、そのまま問題にする。それは私の「感性」によって表象されたのだから、この私の「感性」が現状と逆のものだったなら、私は今とは逆の右手性を認識していただろう。けれども、今こうして現に私はこの右手性を「現実の右手性」としてその反対のパターンとは区別して考察することができている。それはもはや、現に現れているこの現実の「右手性」そのものとしての区別なのだ。これは、他のものとの比較においての区別でも、絶対空間との比較においての区別でもないので外的な区別ではない。内的区別なのだ。
つまり、カントの空間理解において、外的な区別で量的な判断がなされ、内的な区別でもってそのキラリティ・掌性(右手性)が判断されることで、現実性個体性が保証されることになるのだ。


ライプニッツが感性を認めないわけ

それでも、やはり、ライプニッツはこのカントの空間論を認めないだろう。それは、やっぱり、ライプニッツにとっては、その超越論的感性でさえも経験的な対象があってはじめて意味を持つもののはずだからである。彼にとっては単純に、「私の感性が今の逆向きであったら」等という仮定の設定はナンセンスなおとぎ話でしかなく、この現実の個体性の保証の話と関係するものであるはずがないからだ。世界は外的な比較のみによってすべて区別されてしまうのだけれど、それはもうすでに、それ自体が現実であることによってその個体性が保証されているからである。
だから、もしこの世界中が鏡映反転をするかという話について言えば、ライプニッツの世界においては、それはそもそもあり得ない話なのである。一方、カントの世界で、世界中が鏡映反転を起こすとすればという問いをするとき、その反転自体は感性の反転によって起こり得るとするはずである。でもカントがその反転に気づけるとするかどうかは僕には分からない。どうなのだろう。


その他の議論

この「不一致対象物」の話には、ライプニッツが単に「鏡像問題」を想定してなかったのではないかという話から、4次元においては鏡像が不一致ではなくなるという話まで、本当にさまざまな側面からの議論がある。ライプニッツがこの問題を忘れてたという見方はどうかと思うが、次元に関する議論には面白いものがある。たしかに高い次元では不一致だった鏡像が一致可能になる。たとえば、メビウスの輪という2次元空間ではそれが裏表をもたないことから2次元鏡像が重ね合わせられる。同様に3次元のキラリティについては非ユークリッド空間で考察するなら重ね合わせ可能で、空間的に同一だと言えるものになる。今回本ページでは、「差異と反復」のドゥルーズの論意に沿って、個体性の話として読んでみた。そしてその結果、僕には「これ性」や個体性の話こそがこの問題の本質であり、そう考えないと本質を見逃すような気になっている。その意味で、本ページでトライしたような考察がもっとも深められるべき焦点であるように思えているのだが、どうだろうか。

ライプニッツとカントの二人の対立は、どちらも、キラリティの個体性を確保するための空間論を考えた結果の対立であったとして考察してみた。これで、それぞれの空間論において掌性・キラリティがどうかかわるかの話は終わりである。
ドゥルーズは、この視点から差異の哲学からみるとこの二人の対立は解消され、差異問題を深めると考察している。今日の思索でその考察を読むための一つの土台ができたと思うので、次節で見返しつつ「差異と反復」序論のまとめをしてしまいたい。

(あと、あまり関係のない話だけど、NHKの「チコちゃんに叱られる」によると、鏡に映った右手を7割の人は左手かだとし、3割は右手だと言うらしい。カントならそれを、それぁ左手だと言うのかな。それに対して、ライプニッツは何言ってるの?右手じゃんとか言うんだろうな、などと思いつつ本節を閉じる。)

つづく

« 裸の反復の仮言性と着衣の反復の定言性〈僕にも分かる「差異と反復」序論8〉 | トップページ | 不一致対称物と、ドゥルーズが差異と反復を求めたわけ〈僕にも分かる「差異と反復」序論10〉 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 裸の反復の仮言性と着衣の反復の定言性〈僕にも分かる「差異と反復」序論8〉 | トップページ | 不一致対称物と、ドゥルーズが差異と反復を求めたわけ〈僕にも分かる「差異と反復」序論10〉 »