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2019年12月30日 (月)

不一致対称物と、ドゥルーズが差異と反復を求めたわけ〈僕にも分かる「差異と反復」序論10〉

  「差異と反復」序論最後部の文がまた読みにくい。一文一文はそんなに難しくないのに、僕にはそれらのつながりも論旨もまるで見えなかった。

でもそこに、「対称的な事物のパラドクス(不一致対称物の問題)」におけるライプニッツとカントの対立の視点を補助線として持ち込むと、これがずいぶんと視野がひらけて見えるようになった。そして、ドゥルーズの生の哲学がなぜ「差異」と「反復」を要求しなくてはならなかったのかがはっきりしてきた。

それで今日は、それを手立てとして序論末尾の感動的とも言える哲学を掴もうとしてみたい。(「対称的事物のパラドクス」は前節で詳述してるのでそちらも見てほしい)

まず今日の課題文・序論最後部を全部引用しておく。


我々が、差異を、概念的な、それも内在的に概念的な差異として定立し、反復を、一つの同じ概念のもとで表象=再現前化された諸対象間の、外在的な差異として定立するかぎり、差異と反復の関係についての問題は、事実によって解決されるように見える。
しかし、どうであろうか。或るいくつかの反復が存在するというのだろうか、それとも、あらゆる差異は、結局のところ、外在的で概念的であるのだろうか。
ヘーゲルは、ライプニッツを、こう言って嘲弄した。すなわちライプニッツは、宮廷の貴婦人たちに、二枚の木の葉は同じ概念をもたないということを検証するため、庭を散歩しながら実験的形而上学をするようすすめた、と。宮廷の貴婦人たちを、科学捜査を行う刑事に置き換えてみよう。絶対に同一的な二個のほこりの粒は存在せず、 同じ特別な点をそなえた筆跡も存在せず、同じ印字を打ち出す二台のタイプライターも存在せず、弾丸に同じように線条痕をつける二丁のピストルも存在しない……。しかし、なぜ我々は、個体化ノ原理の基準を事実のなかに求めるかぎり、問題は正しく立てられないと感じるのだろうか。なぜなら、差異は内的であるにもかかわらず、概念的ではないということが可能だからである。 (そこにはすでに、対称的な事物のパラドクスの意味がある )。
動的な空間は、その空間につながれている観察者の視点から定義されるべきであって、外的な立場から定義されるべきではない。対象を表象=再現前化する前に、《イデア》をドラマ化する或るいくつかの内的差異が存在するのだ。差異は、この場合、対象の表象=再現前化としての概念の外部にありながらも、《イデア》の内部にある。
それゆえ、カントとライプニッツの対立は、両者の理論に現前している動的なファクターを考慮に入れるならば、まさに緩和されるように思われる。カントは、直観の諸形式に、概念のレベルには還元しえぬ外在的な諸差異を再認しているが、それらの差異は、それでもなお「内的」である。たとえ、それらの差異が、悟性によって「内在的」なものとしては特定されえず、 また、空間全体に対する外的な関係のなかでしか、表象=再現前化されえないにしてもである。それは、いくらかの新カント派的な解釈に従うなら、全体を外的性格の形式として「表象=再現前化する」ことに先立たねばならぬ空間の内的な動的構成が、少しずつ存在するようになる、ということでもある。
そうした内的発生のエレメン卜は、我々には、図式よりもむしろ内包量〔強度量〕にあり、悟性概念よりもむしろ《イデア》に関係していると思われる。外在的な諸差異の空間的なレベルと、内在的な諸差異の概念的レベルは、図式が証示してるように、結局は一つの調和を持つようになるのだが、そのことは、さらに深いところでは、瞬間における連続的なものの総合たる、次のような強度的な差異的=微分的エレメントのおかげなのである、すなわち、そのエレメントは、連続的反復の形式をとって、まずはじめに、諸《イデア》に即して、空間を内的に産みだすようなエレメントのことである。
ところで、ライプニッツにおいては、外在的な諸差異と、内在的な概念的諸差異との親和性は、すでに、連続的反復の内的なプロセスに依存していた。すなわち、内部から空間を産み出すための点において連続的なものの総合を遂行する強度的な差異的=微分的エレメントに基づく内的なプロセスに依存していたのである。
たんに外在的な差異ではない反復が存在する。;内在的あるいは概念的ではない、内的な差異が存在する。
そこで、我々は、これまでの曖味なことどもの源泉を、もっと見やすい位置に置いてみることができる。我々は、反復を概念なき差異として規定するとき、反復における差異は外在的でしかない特徴をもつと信じこむ。この場合、我々は、あらゆる内的な「新しさ」は、我々を〔反復の〕文字から遠ざけるに十分なものであり、またその「新しさ」は、類比によって定められる近似的な反復とだけ両立できるものと思い込む。ところが、事態はそのようになってはいないのだ。というのも、反復の本質はどのようなものであるのか、「概念なき差異」という表現は定立的には何を意味しているのか、そうした差異が巻き込みうる内的性質の本性は何を意味しているのか、ということについては、我々はまだ何も知っていないからである。
逆に、我々は、差異を、概念的差異として想定するとき、差異であるかぎりでの差異の概念規定のために、十分なことをやったと信じ込む。けれども、そこでもまた、我々は、差異のいかなる観念も、本来的な差異のいかなる概念も手にしてはいないのである。差異を概念一般に刻み込むだけで満足し、差異の概念を、たんに概念的な差異と混同したのは、おそらく、アリストテレスからライプニッツを経てヘーゲルに至る差異哲学の誤謬であった。実際のところ、差異を概念一般に刻み込むかぎり、差異の特異な《イデア》はまったく手に入らないし、表象=再現前化によってすでに媒介された差異のエレメントにただ留まるだけのことになってしまう。
したがって、我々は、ニつの問いに直面することになる。まず、差異の概念とはどのようなものか—―ただしその差異は、たんなる概念的差異に還元されず、一つの本来的な《イデア》を、言わば《イデア》における一つの特異性を要求するものである。次に、反復の本質とはどのようなものか—―ただしその反復は概念なき差異に還元されることはなく、同じ一つの概念のもとで表象=再現前化された諸対象の外見上の特徴と混同されもせず、むしろそうした反復であるかぎり、《イデア》の力としての特異性を証示しているものである。差異と反復という二つの基礎概念の出会いは、もはや最初から定立されえず、反対に、反復の本質に関わる線と、差異の理念に関わる線という、二つの線が相互に干渉し交差することによつて ようやく出現するに違いない。
(「差異と反復」文庫上p82~86)

 

語意の確認

この考察で、ドゥルーズは「内的」「外的」「内在的」「外在的」「概念的」などのライプニッツ哲学やカント哲学のタームを用いて、認識の個体化を整理している。(これらをライプニッツ用語カント用語だと捉えることが、この部分を読むポイントだと僕は考えている。)まずそれらの語の意味の確認をしておこう。
【内的interne・intérieur】ライプニッツ哲学において、根拠がそれ自身のうちにあること。他と比べることなくそれ自身によって判別される。
【外的externe・extérieure】根拠がそれ自身に内にではなく、他や他との関係にあること。他との比較によって判別される。
【内在的intrinsèque】カント哲学において、可能な経験の範囲での因果関係において成立する(心的な)実在性。超越的でも超越論的でもない。
【外在的extrinsèque】可能な経験の関係する因果の外で成立する(物的な)実在性。超越的にあるいは超越論的に外界に存在する。
【概念的conceptulle】カント認識論においては、世界の内容が感性・悟性・理性の形式によって理解可能になる。感性によって世界は時間空間的位置を持つものになり得る。そしてその時空内に存在する対象について、悟性が対象同士の関係を比較可能なものとすることによって、その対象たちは比較対象としての意味を持ち得る。「あのイチゴの色が赤だとしたら、このりんごの色も、同程度の赤だ」とか「もっと薄い赤だ」などという風に比較しあった上で程度が判断されて意味を持つことができる。そのとき感性による形式によって得られた位置的な認識が時空間の直観であり、悟性によって得られたカテゴリー上の比較的な程度としての認識が概念である。それゆえ、カントのこの認識理論においては、世界を時空間としてのみ世界把握は概念としての把握以前の世界把握であって、そのような比較対象として認識される以前の世界の内容(概念なき差異)があり得ることになる。
一方、ライプニッツ哲学においては、存在の対象はすべてモナドとしての実体である。モナドの空虚などというものは端的に存在するわけがない。存在するものはすべてすでに比較可能であるか少なくとも比較可能であり得て概念的であり得るものでなければならない。だから「概念なき差異」は存在し得ない。

このカントとライプニッツの世界観の違いがカントの「対称的事物」の問題によって露わになる。すなわち、ライプニッツにおいては、右手と左手の違いは私の身体や他の存在者との「比較における関係性」に対する違いでしかなく、右手自身にも左手自身にもそれ自体としての差異を持つものではない。右手が世界ごと鏡映反転したとしても、「比較における関係性」自体までが反転するのでその関係に変化はない。私はその反転に気づくことはなく、そこにある右手性には何の変化も起こらないのだ。この話は、クオリアが反転しても、その色を「赤」だとする根拠となる比較対象の記憶やその他の全体が反転するので、そこにある「比較における関係性についての赤色性」には何の変化も起こらないという話と完全にパラレルであり、この世界の特異性・個物性・個体性に直結する。つまり、ライプニッツにとっては、世界の特異性個体性はつねに概念化可能であり、あらゆる特異性個体性はあらかじめ概念と結びついているはずのものなのだ。
これに対して、カントにとって、空間はカテゴリーによって概念化される以前に感性によって立ち上げられるものなので、対象同士の互いの比較による概念化とは無関係に存在することができる。それゆえ、右手左手の違いはそれ自身で意味を持ち得る。右手が世界ごとそっくりと鏡映反転したとしたときに、そこで起こる変化は「比較における関係性」とは無関係に、それ自体として意味がある。同様にクオリアが反転したときにそこのある「赤色性そのもの」に変化が起こるのである。カントにとっては、世界の特異性個体性にはかならず概念化不可能な差異そのものが概念の基盤にあるはずなのだ。


そして、ここで語られている「差異」を
【差異différence】現実世界の個体性特異性を示すようなそれ自身としての在り方のこと、
だとしてこの課題文を読むと、次のような解釈が可能になる。

① 我々が、差異を、概念的な、それも内在的に概念的な差異として定立し、反復を、一つの同じ概念のもとで表象=再現前化された諸対象間の、外在的な差異として定立するかぎり、差異と反復の関係についての問題は、事実によって解決されるように見える。

(解釈)
① 我々が現実世界の個体性としての「差異」を、比較による関係性で意味づけられる(概念的な)ものとして、それも因果的に私が経験することができるもの同士の比較による関係性で意味づけられる心的な(内在的に概念的な)在り方としてとらえる。また、その意味での「差異」が反復するとしたときの「反復」を、一つの固定的な関係性によって意味づけられた世界構成の対象同士が、私の経験から因果的に独立であるような在り方をしているととらえる。そのような「差異」と「反復」を設定するのであればその関係は世界が現にそーなっているという事実によって、個体性の問題を解決し得るものになるように見える。
この見方は、ライプニッツの差異優先のとらえ方(世界の個体性と概念性が必然的につながっているものとしての「差異(心的な現実の個体性)」があるとする)と、カントの反復優先のとらえ方の(概念によって形づけられた表象でもって物的な存在をアプリオリにとらえ得るとした「反復」があるとする)の、2つをそのままつなぎ合わせたやり方だと言えるだろう。
Kant_20191230011302  イマヌエル・カントImmanuel Kant 1724~1804

Leibniz_20191230011401  G.W.ライプニッツGottfried Wilhelm Leibniz 1646~1716

② しかし、どうであろうか。或るいくつかの反復が存在するというのだろうか、それとも、あらゆる差異は、結局のところ、外在的で概念的であるのだろうか。

(解釈)
② しかし、どうであろうか。或る(差異が外在的で概念的であるような反復とか、外在的概念的でないような反復とかの)いくつかの反復があるのか。それとも、あらゆる差異が外在的で物的存在を確定的に示し、すべての差異同士が比較可能であって語り得るものであると言えるのだろうか。

 

③ ヘーゲルは、ライプニッツを、こう言って嘲弄した。すなわちライプニッツは、宮廷の貴婦人たちに、二枚の木の葉は同じ概念をもたないということを検証するため、庭を散歩しながら実験的形而上学をするようすすめた、と。宮廷の貴婦人たちを、科学捜査を行う刑事に置き換えてみよう。絶対に同一的な二個のほこりの粒は存在せず、 同じ特別な点をそなえた筆跡も存在せず、同じ印字を打ち出す二台のタイプライターも存在せず、弾丸に同じように線条痕をつける二丁のピストルも存在しない……。

(解釈)
③ そこで問題の中心は、「差異」の個体性をどこまで概念化できるか、ということになってくる。それは、「個体化の原理」の問題そのものだとも言えるだろう。
【個体化の原理】とは個体を個体として他から区別する形而上学的原理である。アリストテレスにおいては、非一義であって、質料は個体性を持つが、形相は個体性に還元され得ないとされた。一方、スコトウスにおいては「ヘクセイタス・これ性」によって形相が個体性に関係することができるとされた。
これは、まさに、個体をどのようにすれば形相として捉えられて概念化することができるか、という認識の認識論的システムの問題であるので、事実がどんなものであろうと事実によって検証できるような問題ではありえない。
だから、ライプニッツが庭の個々の葉の違いを調べても、タイプライターの印字やピストルの線条痕の違いを操作しても、そこに見つけられる事実によって個体の原理の問題を先に進ませることはできない。ヘーゲルはその点を嘲弄したのだろう。

 

④ しかし、なぜ我々は、個体化ノ原理の基準を事実のなかに求めるかぎり、問題は正しく立てられないと感じるのだろうか。なぜなら、差異は内的であるにもかかわらず、概念的ではないということが可能だからである。 (そこにはすでに、対称的な事物のパラドクスの意味がある )。

(解釈)
④ では、この個体の原理の問題に対してどう考えるべきなのか。上の①で挙げた、ライプニッツ的な差異優先原理(内在的差異の定立)とカント的な反復優先原理(外在を成す反復の定立)の合成の方法は、上手くいかないと考えるべきである。なぜなら、概念化されない内的差異があるからだ。つまり、他と比較して違いを確かめることはできないけれど、それ自身のうちに根拠があってそれ自身によって判断できるようなものが現実にあるのだ。それは、世界が世界ごと鏡映反転したとしたときにイマココにある現実の「右手性」がそれ自体で変質してしまうような個体性である。それは、世界のクオリアが世界ごと色反転したときにイマココにある現実の「赤色性」がそれ自体で変質してしまうような個体性である。そのような反転が世界ごとの反転であることによって他との関係性は何一つ変わらなかったとしても、それでもその反転でそれ自身変質してしまうような個体性というものが、カントが言ったように「ある」のだ――とドゥルーズは断言する。

 

⑤ 動的な空間は、その空間につながれている観察者の視点から定義されるべきであって、外的な立場から定義されるべきではない。対象を表象=再現前化する前に、《イデア》をドラマ化する或るいくつかの内的差異が存在するのだ。差異は、この場合、対象の表象=再現前化としての概念の外部にありながらも、《イデア》の内部にある。

(解釈)
⑤ でも、どうしてそんなことが断言してしまえるというのか。ドゥルーズは、それに対して、動的な空間は動的な空間につながれた視点から定義されるべきであるからだとする。
今問題にしているのは、イマココに開いている現実世界のこの個体的性質をいかに掴まえるかということであった。だから、他の根拠を求めてしまっては、問題の本質を逃してしまう。この現実において時間は現に流れ、持続する流れの中に現われが現われ続けている。その現実の世界をそのまま動的なものとして受け止めるためには、この世界がこの世界であること自身にその根拠を求めるより他はない。それゆえ、世界の差異はつねに内的なものとつながれ続けるものでなければならない。
しかし、世界の対象を同一的な概念でもって形づくって表象化しようとしてしまうと、同じものが同じものであることを、「他」なるところにまで基点をおいて超越的に措定してしまうことになる。それは内的根拠のないところに無根拠な外的根拠を持ち込んでしまうことに他ならない。
だから、現実のイマココの個体としての世界存在を「それ自身を根拠として存在するもの」ととらえるためには、同一性に基づく表象よりも先に、この私の動的な生のドラマを実在させる根拠として《イデア》なるものがあるのでなければならない。このとき、問題とすべき個体性は、表象としての概念に中にではなく、《イデア》にこそあるとしなければならない。

 

⑥ それゆえ、カントとライプニッツの対立は、両者の理論に現前している動的なファクターを考慮に入れるならば、まさに緩和されるように思われる。カントは、直観の諸形式に、概念のレベルには還元しえぬ外在的な諸差異を再認しているが、それらの差異は、それでもなお「内的」である。たとえ、それらの差異が、悟性によって「内在的」なものとしては特定されえず、 また、空間全体に対する外的な関係のなかでしか、表象=再現前化されえないにしてもである。それは、いくらかの新カント派的な解釈に従うなら、全体を外的性格の形式として「表象=再現前化する」ことに先立たねばならぬ空間の内的な動的構成が、少しずつ存在するようになる、ということでもある。

(解釈)
⑥ そのように、動的な視点を考慮に入れることができるならば、カントのライプニッツの対立は解消し得るだろう。
その解消のために、カントは超越論的世界把握の方法を、内的差異を受け入れ得るものにしなければならない。たしかにカントの直観による感性形式は概念以前のレベルで外在的な空間を想定している。けれども、カントのその空間は一般的には内的なものではない。それを内的なものであるとすることができねばならない。カントの表象が外的な関係性の中でしか形成されないのだとしても、それでも、それが内的根拠に基づくようなものとしてとらえられねばならないのだ。それができないだろうか。

 

⑦ そうした内的発生のエレメン卜は、我々には、図式よりもむしろ内包量〔強度量〕にあり、悟性概念よりもむしろ《イデア》に関係していると思われる。外在的な諸差異の空間的なレベルと、内在的な諸差異の概念的レベルは、図式が証示してるように、結局は一つの調和を持つようになるのだが、そのことは、さらに深いところでは、瞬間における連続的なものの総合たる、次のような強度的な差異的=微分的エレメントのおかげなのである、すなわち、そのエレメントは、連続的反復の形式をとって、まずはじめに、諸《イデア》に即して、空間を内的に産みだすようなエレメントのことである。

(解釈)
⑦ 【図式】Schema。「カントは非感覚的な幾何学的対象のあたかも具体的なパターンが幾何学的認識に必要だと考えた…例えば三角形という概念に対応する形象を我々は描くことができるがそれは必ず量的規定に定まったものである。しかし三角形概念そのものは量的規定を捨象されたものである。量的規定を外された三角形のパターンをカントは『図式』と名付ける」(薮木栄夫)
「図式」というのは、いわゆる「三角形のイデア」の話みたいに具体的な三角形ではなく、抽象的なイデアの概念そのものをパターン化することによって「三角形」をとらえるのだ。ただし、ドゥルーズのとらえ方では、《イデア》はどこまでも内的根拠に基づくものであるのに対して、カントの「図式」は外的な根拠を持ち込んでしまったものでしかない。そして、「表象」が内的根拠に基づくものであるようにするためには、「図式」よりも《イデア》によって概念化される必要があるとする。同一性による「図式」ではなく、同一性を棄てて《イデア》を見出そうとする方法を求めればよいのだ。
カントは、この現実世界が世界ごと鏡映反転したとしたときに、この右手の右手性に変化が起こるとする立場を取ったが、その右手の右手性が、絶対的な同一性という超越的で外的な根拠ではなく、ここにあるこの右手性そのものを内的根拠としてその右手性をとらえることができるかというところを求めれば良いという話なのだ。

 

⑧ ところで、ライプニッツにおいては、外在的な諸差異と、内在的な概念的諸差異との親和性は、すでに、連続的反復の内的なプロセスに依存していた。すなわち、内部から空間を産み出すための点において連続的なものの総合を遂行する強度的な差異的=微分的エレメントに基づく内的なプロセスに依存していたのである。

(解釈)
⑧ 一方ライプニッツにおいては、この現実世界が世界ごと鏡映反転したとしたときに、この右手の右手性はその関係性もろともに反転してしまうのだから、私は決してその反転に気づくことができず、それゆえ右手性自体もそこで変質することはあり得ないとする。そのとらえ方によって、ライプニッツにおいては、概念化されない内的差異というものは認められないということになったのだ。けれども、もともとライプニッツはその世界把握の基盤に内的差異を置いていたのだから「図式」ではないような、強度的(内包的・内的)な量把握の要素に基づく内的プロセスによってその右手性をとらえていたのだ。
だから、カントが右手の右手性を求めて「あーでもないこーでもない」と試行錯誤していたその問題を初めっから乗り越えていたと言えるのだ。

 

⑨ たんに外在的な差異ではない反復が存在する。;内在的あるいは概念的ではない、内的な差異が存在する。
この文、財津の翻訳では「たんに外在的な差異であるのではない差異ではない反復が存在する。内在的あるいは概念的ではない、内的な差異が存在する」であるが、原文が「Il y a des répértitions qui ne sont pas seulement des différences extrinsèques ;il y a des différences internes, qui ne sont pas intrinsèques ou conceptulles.」なので、単純なミス訳である。河出書房ドゥルーズ担当の阿部晴政さんにも確かめたので間違いない)

(解釈)
⑨ そのような、カントとライプニッツの対立を緩和させ得るようなシステムを取った場合、きちんと「たんに外在的なだけではないような(つまり内的でもあるような)反復が存在するのであり、たんに内在的なだけではないような(つまり外在的でもあるような)内的差異が存在し、必ずしも概念的でないようなない内的差異が存在する」と言えるようになるのだ。そして我々はそれを求めなければならなかったのだ。

 

⑩ そこで、我々は、これまでの曖味なことどもの源泉を、もっと見やすい位置に置いてみることができる。我々は、反復を概念なき差異として規定するとき、反復における差異は外在的でしかない特徴をもつと信じこむ。この場合、我々は、あらゆる内的な「新しさ」は、我々を〔反復の〕文字から遠ざけるに十分なものであり、またその「新しさ」は、類比によって定められる近似的な反復とだけ両立できるものと思い込む。ところが、事態はそのようになってはいないのだ。というのも、反復の本質はどのようなものであるのか、「概念なき差異」という表現は定立的には何を意味しているのか、そうした差異が巻き込みうる内的性質の本性は何を意味しているのか、ということについては、我々はまだ何も知っていないからである。

(解釈)
⑩ 我々は、カント的な立場に立って、右手性を反復でもって規定しようとするときには、その反復における右手性は外在的でなければならないと信じこんでしまう。そうして、それ信念によってその右手性から動的な内的性を失わせてしまう。それで同一性に基づく概念の反復に押し込んで規定してしまったのだ。そうなるともう、掴まえたはずの右手性は必ず、この現実の右手性の近似でしかないものに成り下がってしまうのだ。

 

⑪ 逆に、我々は、差異を、概念的差異として想定するとき、差異であるかぎりでの差異の概念規定のために、十分なことをやったと信じ込む。けれども、そこでもまた、我々は、差異のいかなる観念も、本来的な差異のいかなる概念も手にしてはいないのである。差異を概念一般に刻み込むだけで満足し、差異の概念を、たんに概念的な差異と混同したのは、おそらく、アリストテレスからライプニッツを経てヘーゲルに至る差異哲学の誤謬であった。実際のところ、差異を概念一般に刻み込むかぎり、差異の特異な《イデア》はまったく手に入らないし、表象=再現前化によってすでに媒介された差異のエレメントにただ留まるだけのことになってしまう。

(解釈)
⑪ 逆に、我々はライプニッツ的な立場に立って、右手性の差異のすべてを概念的に規定できるとしてしまうとき、その右手性の「差異の概念」なるものは、どこまでも、「概念の差異」に成り下がってしまう。それ自身の内的な差異としてすでに現前にしてい右手性を、他との比較における右手性でしかないものに矮小化してしまうのだ。この「差異の概念」から「概念の差異」への矮小化は、アリストテレスからライプニッツを経てヘーゲルまでずっと続いてきた誤謬である。そんなものでは《イデア》はまったく手に入らないし、表象による近似に留まるだけのことになってしまう。

 

⑫ したがって、我々は、ニつの問いに直面することになる。まず、差異の概念とはどのようなものか—―ただしその差異は、たんなる概念的差異に還元されず、一つの本来的な《イデア》を、言わば《イデア》における一つの特異性を要求するものである。次に、反復の本質とはどのようなものか—―ただしその反復は概念なき差異に還元されることはなく、同じ一つの概念のもとで表象=再現前化された諸対象の外見上の特徴と混同されもせず、むしろそうした反復であるかぎり、《イデア》の力としての特異性を証示しているものである。差異と反復という二つの基礎概念の出会いは、もはや最初から定立されえず、反対に、反復の本質に関わる線と、差異の理念に関わる線という、二つの線が相互に干渉し交差することによつて ようやく出現するに違いない。

(解釈)
⑫ それゆえ我々は
(1)「差異の概念」とは何か。…概念の差異ではない、《イデア》の個体性・特異性を要求するような概念をいかに求めるかという話。と
(2)「反復の本質」とは何か。…同一性に基づく表象と混同してしまうことなく、《イデア》としての個体性・特異性を証示し得るような反復をいかに求めるかという話。
の2つの問いに直面する。
そして、我々が求める個体性としての差異は、この2つの問いが出合い交差するときに初めて、我々の前に出現するの違いない。


以上が、「カントとライプニッツの対立(対称的事物のパラドクス)」を補助線として解釈してみた序論最後部の流れである。もしかするとやや悪深読みの部分もあるかもしれないが、この解釈で当たりをつけて是非もう一度本文を読んでみてほしい。きっと論の道筋が少しははっきりしてくると思う。そして、そこにはドゥルーズの生の哲学がなぜ「差異と反復」を要求するのかについての「感動的」だとも言えるような思索が見えてくるようになると思う。どうだろうか。

これで序論の読みは終わり、次回からは、この序論の読みを持ち込んで、また2章の読みに戻りたい。

 

つづく

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