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2019年9月 8日 (日)

時間の第2の総合・習慣の受動的総合と記憶の能動的総合〈僕にも分かる「差異と反復」2-3〉

ドゥルーズ「差異と反復」第二章「それ自身へ向かう反復」を読む。
(今日は文庫上p220~226)


ドゥルーズのいう「第1の総合」を考えるには「第2の総合」が必要なことを考える。
ドゥルーズのいう第1から第3の総合を、(現段階の僕の理解で)ざっくりとまとめるとこんな風に言えると思う。すなわち、

【第1の総合】生きているこれとは、現在であり習慣であるとする意味においての世界。
【第2の総合】生きているこれとは、過去であり記憶であるとする意味においての世界。
【第3の総合】生きているこれとは、未来であり狂気的な希望であるとする意味においての世界。

前節までで第1の総合という世界の捉え方を見てきたが、今日は、その第1と第2の総合の違いと、なぜ第2の総合が必要なのかと読み解いていきたい。
第2の総合が必要だとされる理由は、結論から言うと、
第1の総合は、現在が現在の外に出ないものでありながら過ぎ去る現在でなければならないというパラドクスを孕んでいるから、そのパラドクスを解消するために必要だということである。


習慣、あるいは、ハビトゥス

では、どうやってそのパラドクスを解消するというのか。
一つは、第1の総合は習慣に関するが、第2の総合は記憶に関するものだということにあると、ドゥルーズは考える。
彼は、習慣(habitudeアビテュード)をハビトゥス(Habitus習性)とも呼び、それを時間の土台(fandantion)だと言い、それによって過ぎ去る現在の生が構成されるとした。

【ハビトゥスHabitus習性】「〔習慣・態度の意〕人々の日常経験において蓄積されていくが、個人にそれと自覚されない知覚・思考・行為を生み出す性向。ブルデューによって用いられた。」(大辞林)また、アリストテレスの10カテゴリーの一つ「所有ヘクシス」のこと。一定の性質を有する行為の反復を介して成立した魂の持続的状態を指す。また、トマスアクイナスの概念において、人間の行為によって獲得された習慣であり、情念とともに道徳的選択に影響を与える志向の契機。

そして、これは、ベルクソン「物質と記憶」の「第1の記憶」にあたるものだとも思われる。それは、「習慣の記憶」であり、「学科の記憶」であり、算数の九九を記憶するときの記憶であり、同じ努力を反復することで獲得できる記憶であり、記憶したものをいつでも同じ仕方で使えるようにするための記憶である。それは反復する行動であり、或る意味で能動的記憶だとも言える。それゆえ、その内容は類型化され得る。

ドゥルーズは、その「習慣」によって、時間の中で人間は行為を類型化し認識可能な行動として成立させ、自分の魂を自分で意識できるものとして持続させることができるようになったとする。それによって、過ぎ去る現在の生を構成することができると言う。そしてさらに、そのことでもって、ハビトゥスが時間の土台になると言うのだ。

 

記憶・メモワール

しかし、ドゥルーズは、それを真の土台とするためには、その根拠が必要だとも言う。それが記憶(Mémoireメモワール)である。
その、時間の根拠だとされた「記憶Mémoireメモワール」は、ベルクソン「物質と時間」の「第2の記憶」にあたるものだと思われる。「表象の元になる記憶」であり、「朗読の記憶」であり、「一回一回の朗読が私の歴史に属する特定の出来事として、私の前にふたたび浮かぶ」記憶である。それは行動ではなく、これこそが「真の記憶」とされるものである。「習慣」はくり返されることができるが「表象の元になる記憶」は原理的にくり返されることはあり得ないので、或る意味で受動的な記憶でしかなく、個別なものでしかあり得ないとされる。ベルクソンによると、当時の脳神経学心理学の「並置的連合説」では、すべての行動は単に「習慣」だけしか考慮されておらず、真に重要で真なる「記憶」が組み込めていないのでダメだとされる。そして、「記憶」が組み込まれるなければ、認知が認知たり得ることはないとする。

ドゥルーズの言う「第1の総合」というのは結局「世界は現在だけ」という話なので、それは独今論的な世界と言える。それでも、それは独今論であろうとも、人が人として世界を捉えるための統語論的形式としての「習慣」を持つことまでは可能である。しかし、それに意味論的意味を持たせるためには「記憶」という現在の外のものが必要になると言うのだ。

それって、なぜなのか?どういう問いなのか?

 


アクチュアルな現在と古い現在として狙われるもの

この「習慣」と「記憶」の二つ時間構成の問いは、「一般」と「個別」の視点で捉え直すと、問うべきことがはっきりするかもしれない。

「過去というものは2つの現在、すなわち、過去がかつて現在であったという場合の〔古い〕現在と、過去が現在から見れば今や過去になるという場合の〔アクチュアルな〕現在とによって、挟みつけられている…。過去は、古い現在そのものではなく、古い現在がそこで狙われる(vise・ターゲットとされる)当の要素である。したがって、個別的であるのは今や、狙われるもの(ターゲット)つまり『存在した』ものであり、そしてそれに対して過去それ自身がつまり『存在していた』ということが本性上で一般的なものなのである」(「差異と反復」上p122
Photo_20190908171302 
ここでドゥルーズは、3つの時点を示し、それぞれの個別性一般性を問うている。
3つの時点とは、つまり、「アクチュアルな現在」と「古い現在そのもの」と「古い現在として狙われるもの」である。
【アクチュアルな現在】とは、マクタガートのいうところの「the present・この今現在(永井訳の『端的な現在』」)だと思われる。(可能的な現在ではなく)絶対的な現在であり、本物の現実としての現在だとされるもの。またそれは、「ここにあるこれ」であるのだから、個別的な存在である。
【古い現在そのもの】とは、過去に現在であったが既にアクチュアルな現在ではなくなったと言うときの、その過去における現在のこと。その過去においては個別的であったのだろうけれども、「アクチュアルな私」から見れば、その個別性は隔時的で手が届かせることができない個別性でしかない。
【古い現在として狙われるもの】とは、アクチュアルな現在から過去を隔時的なターゲットとして捉えたもの。そこで狙われるターゲット自体は古い現在そのものであって個別的なものだと言うことも可能なのかもしれないが、実際に捉えられるものはそのターゲット自体ではなく、アクチュアルな現在から展望され再現前化されたものでしかないので、それは一般的なものにならざるを得ない。

 

 

過去把持と再生

ドゥルーズは、この「個別か一般か」の問いを、さらにフッサールの「過去把持」と「再生」の視点で見直す。
Husserl_20190908172701 エトムント・フッサール1859~1938

【過去把持 rétention レテンシオン】「〈ただ見やる、ひっつかんで把捉する〉のを、我々は直接に把持に基づく仕方で見いだす。把持の統一性の内部にあるメロディが過ぎ去って、その一部に──それを産出しないままに──遡って留意するという場合」(フッサール「内的時間意識の現象学」)

【再生 reproduction レプロドゥクシオン】過去の記憶を再び思い起こして感じられること。

「過去把持」の方は、聞き終わったメロディが、脳内で再度鳴るというのでもなく、それでもそのままのイメージが残ってる、という感じと思ったら良いだろう。この捉え方においての過去は、アクチュアルな現在の中にあるもので、直接的に個別性を手に入れることができる。ただし、それは、現在の中にある直接的過去としての個別性が形成されるのである。そして、そのときに現在を未来へ開かれた現在として捉えようとするときに、その個別性から構成された未来につながる世界を考えることになるので、その現在は一般化されたものになる。過去把持と過去把持を含む現在は個別なものであるが、その現在を未来へ開かれたものとして捉えようとすると一般化されねばならないことになるのだ。
Photo_20190908171601
一方、「再生」の方は、聞き終わった音楽を脳内で再度鳴らし味わうことと思えば良いだろう。こちらの捉え方においての過去は、すでに現在から離れたところにあり、それを新しくアクチュアルな現在で再生することができるものとして再生するのだから、それは再現前化された表象であり、一般化された過去であることになる。
だから、現在一部であるとされるような特殊な過去について言うならば、そこに個別性を問うことができるかもしれないのが、ふつうに言われる意味での過去、遠い過去は、アクチュアルな現在とは別のものでありながら、アクチュアルな現在に類似するものとして再現前化され表象とされる以外にそれを捉えることはできないのだから、必ず一般化されたものになる。
 Photo_20190908171801
 

2つの「アクチュアルな現在」

ところで、果たして「アクチュアルな現在」はどうなのか。それは本当に個別なものとして捉えられることができるのだろうか、とドゥルーズは問う。

「古い現在がアクチュアルな現在の中で再現前化されるときには必ず、アクチュアルな現在それ自身がその再現前化の中で再現前化されるのだ。単に何者かを再現前化するだけでなく、己自身の再現前性をも再現前化することが、本質的に再現前化に属する機能なのだ。したがって、古い現在とアクチュアルな現在が、継起的な二つの瞬間として時間の直線の上に存在しているのではなく、アクチュアルな現在が必然的に一つの次元を余分に含んでいて、その次元を通じて古い現在を再現前化し、かつその次元において己自身をも再現前化する」(同p224)

「アクチュアルな現在」が余分に一つの次元を含んでるというのは、「この眼前に在るこの現在」なる世界が「過去」と並列するものとして捉えるのか、「過去」をその内部に含むものとしてとして捉えるのかで、2つの異なる現在を指していると考えるべきだと言うことだろう。今この僕が現に「この現在世界」と言った場合のその「この現在世界」は、「過去・現在・未来」の並列の中での「現在」を意味させることも、その「過去・現在・未来」の全てを含めた全世界という意味での「現在」を指すことも可能である。

そして、仮に、「過去・現在・未来」の並列の中での「現在」を「現在①」とし、「過去・現在・未来」の全てを含めた全世界という意味での「現在」を「現在②」とするとするとき、
「再生における過去」を過去として再現前化させてしまう側の「現在」は「現在②」であることになる。その「現在②」はアクチュアルな「記憶」の個別性を持つものであるが、それは、反省されてそのものが「現在①」でもあることを確かめられない限り、それが「過去・現在・未来」の中の「現在」にはなり得ず、それゆえ、過ぎ去る現在として扱われることはない。
だから、それを過ぎ去るものとするために、その現在は「現在②」でありながら「現在①」でもあるとして「反省」させる必要がある。

(この2つの「アクチュアルな現在」は、まるで、ウィトゲンシュタインの「青色本」「三角形の内角和が180°の証明で『α=α´、β=β´、γ=γ』と言う」という自我論の話に酷似していて、非常に興味深い。)
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記憶の能動的総合と習慣の受動的総合

そして、ドゥルーズは

「表象=再現前化の原理を、古い現在の再生とアクチュアルな現在の反省という二重のアスペクトを持つものとして、〔派生的な〕記憶の能動的総合と呼ぶことができる。こうした記憶の能動的総合は、〔第1の〕習慣の受動的総合が〔あらかじめ〕あらゆる可能な一般的な意味での現在を構成するがゆえに、その習慣の受動的総合の上に打ち立てられる。…習慣の受動的総合は時間を諸瞬間の縮約として、現在という条件のもとで構成していたが、記憶の能動的総合は、時間を諸現在自身の入れ子(嵌入)として構成する」(「差異と反復」上p225)

とする。
ベルクソンは「習慣」と「記憶」との対立において、

「習慣」の方が能動的で、
「記憶」の方が受動的である

と捉えていた。
ドゥルーズも、もちろん「記憶それ自身」が「先験的な受動的総合によってでしか打ち立てられない」(同p225)ものであるとしながら、しかしそれを承知の上で、

「記憶」に「能動的総合」があり、
「習慣」に「受動的総合」があるとする。

それは、これまで見てきたように、

「記憶」こそが、「現在②」の方の現在を受け止め、
世界の「個別性」を与えられるものであり、そして
独今論的世界から外へ向けて、未来へ向けて開かれたものにすることができるものである、
という意味で、
根源的な世界の根拠なのである

という風に世界をとらえることなのだろう。そして、そのような「記憶」の「開かれた根拠性」を「能動的総合」だとしているのだろう。

一方、「習慣」は、世界を一般化して把握することで、
それを統語論的に捉えることができるようにさせるが、しかしそのために、
同時に世界を独今論的なものにしてしまう。
その意味で、閉じている世界アイテムとしての土台なのだろう。そのような「習慣」の「閉じた土台性」を「受動的総合」だとしているのだろう。

しかし、「習慣の受動的総合」と「記憶の能動的総合」は互いに相矛盾するように見える。結局のところ今日の話は、「独今論的な現在」が「外部を持つ現在」でもあることによって、一般的でありかつ個別的でもあるような時間が成立可能になると言ってるものなのだから、無茶な話でしかないようにも見える。

ドゥルーズは、ベルクソン「物質と記憶」がそのパラドクスを取り出して分析し洞察したとして、ベルクソンの「円錐」にもとづいてそのパラドクスを4つのパラドクスとして腑分けして分析し、その解法の考察にトライする。それは、「アクチュアルな現在が記憶という過去そのものである」という考察になっていくのだけど、それについては、次節で見ていく。
Bergson_20190908172901 アンリ・ベルクソン1859~1941
(まあ、フッサールとベルクソンって同い年、同学年だったのね。フッサール1859.4とベルクソン1859.10)

つづく

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