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2019年8月 8日 (木)

時間の第1の総合・生ける現在〈僕にも分かる「差異と反復」2-1〉

  ドゥルーズ「差異と反復」第二章「それ自身へ向かう反復」を読む。
(今日は文庫上p197~201)

そんなわけで、ドゥルーズは同一性に頼らない世界モデルとして、時間の第1の総合、第2の総合、第3の総合と順にその考察に挑んでいく。

「時間の第1の総合」とは、ヒュームの考えた、「現在という時間」の次元に対応する世界モデルである。
Hume デイヴィッド・ヒューム1711~1776

・現に開闢しているこの現在の内部に、時間次元としての現在過去未来が包含されるとし、

・個物から一般化へ向けた時間の矢として捉えられ、

・受動的な観念が能動的な反省として捉えられることで、生ける現在でありながら客観的時間を展望できるようになる、というものである。

今日は、この内容について順に詳察してみたい。


「総合」とは

まず、「第1の総合」というときのその「総合」とは何かについて、から。

【総合判断】命題の述語概念が主語概念の外にあり、外的理由のために結びつけられているときの判断。分析判断が、主語述語の関係だけで真偽決定してしまうので現実世界の記述になり得ないのに対して、経験によって真偽を根拠づけるので、単なる空想世界の記述にとどまらず、現実の世界を記述できるものになり得る。とくに「総合判断」判断される内容を「総合」という。
Kantイマヌエル・カント1724~1804

カントは、我々が物自体に到達できないとしても感性悟性理性の形式によって分析した記述に世界の印象を当てはめて真偽を確かめることによって、アプリオリに真なる総合判断ができるのじゃないかとした。
しかし、ドゥルーズの視点から言えば、カントがその「物自体の超越さ」との格闘に用いた「超越論的」な形式でさえ、結局は「超越的な同一性」に頼ったものでしかない。「同一性に基づく形式」はすべて棄てて考えなければならないのだ。そこで、同一性に頼らないで、おとぎ話の世界でないこの現実世界を語り得るような「総合」を求めるのだ。

 

「反復」とは

そこで、「総合」を求めるために、「同一性」ではなく「反復」に頼ることにする。何も基準としないままに、「反復」を求める。それは、基準のないままに「対応」を作り出し「一致」と「同じ」を作り「差異」を作り出す作業になる。だから、それは、根拠がはっきりさせられないまま「とりあえず」「冒険的」「実験的」な作業のなかに「反復」を作り「対応」と「一致」と「差異」とをともに浮かび上がらせることになる。
しかし、それって、そんなに上手くいく話なのか。無理な話じゃないのか。そもそも「反復」はそれ自身パラドクスを孕んでいるようにも見える。

 

「反復のパラドクス」

【反復のパラドクス】「反復を語るためには、反復を観照する精神の中にその反復が導き入れる差異つまり変化による他ない、すなわち、精神が反復から抜き取る差異に他ならない、ということ」(「差異と反復」上p198)
というパラドクスをドゥルーズは挙げているが、それは、おそらくこういうことだと思われる。まず、ここでは「時間の反復」を考えているのだけど、その「時間」には、連続性と不連続性の両面がある。連続的で継続性がある流れとしての時間という一面と、不連続で瞬間性を持つ流れないものとしての時間という一面があると言えるだろう。
そこに「反復」を求めるには、時間の不連続で瞬間性に求めなければならない。それは〈一方が消えてしまわなければ他方が現れない〉ような時間であり、「瞬間的精神」というような時間でもある。しかし、そのような、〈一方が消えれば他方が現れる〉というような時間においてどうやって「反復」が成立するのだろうか…というパラドクスだ。

(注)「瞬間的精神」とは
【瞬間的精神】「物質とは瞬間的精神、すなわち記憶を欠いた精神である。なぜなら物質は自分の傾向力と他の傾向力とを一瞬以上保持し得ないからである」(ライプニッツ「抽象的運動論」)「自分自身をたえず忘れる意識は瞬間ごとになくなってまた生じる意識である。これこそが無意識ではないか。ライプニッツが物質とは瞬間的精神であると言った時、物質とは感覚をもたないものと宣言したのではないか」(ベルクソン「意識と生命」)

しかし、そのパラドクスも「時間の第1の総合」によって解決することになる。その時間の第1の総合とは何か、順番に見ていこう。


「時間の第一の総合」

ヒュームの世界モデルにおいて、互いに独立した諸事例は同じものや類似のものが想像の観念において結合される。

「想像力は、新しいものが現れても以前のものを保持し、諸事例や諸要素や諸振動やいくつもの等質な瞬間を縮約し融合して、ある重みをもった内的な質的印象を作る。〈A〉が現れると我々は縮約された〈AB〉の質的印象に応じた力で、Bを期待するのだ。…この縮約は、厳密に言えば時間の総合を形成する。瞬間の継起は、時間を作るのではなく、時間を壊してしまう。…根源的総合は、生きる現在を構成する。時間が展開されるのはまさにその現在においてである。過去も未来もまさしくその現在に属している。…こうした現在は過去から未来へ進むために己自身を抜け出る必要はない。生ける現在は、己が時間において構成する過去から未来へ、それゆえ、個別的なものから一般的なものへ進むのである」(「差異と反復」p198)

それは「生ける現在」として、今現に生きてあるこの現在において、この現在の中だけに、過去と未来と現在とが構成され得る。もちろん時間は継起し流れ去るものだと言えるのかもしれないが、しかし、そのような瞬間の時間は時間を作ることができない。新しいものが現れてきても、他方を消すことなく、過去を過去として保持することができるのが、想像力である。その想像力の力で、「〈A〉の後には〈B〉が起こるはず」とするような期待をすることができ、それによってはじめて「時間」が構成される。固定的な時間が初めからあって、それを記憶として引っぱり出してきてそれを知性の働きによって理解する、という話ではないのだ。そんな固定的な時間がないところから、縮約によって「類似」と「因果」を作り出して、その結果、時間が形成されるのだ。

(注)【縮約contraction】ベルクソンの哲学において、時間の本質が、瞬間に留まらない「持続」であるとしたうえで、その持続の中にある豊潤な質はそのままでは分析不可能なので、それを身体の運動と照らし合わせることで、固定化し統語論的に分析可能なものとしなければならない。それによって我々は世界を語ることができるようになり、自らの生を生きることができるようになる。この分析化言語化の作用を「縮約」という。
Bergson アンリ・ベルクソン1859~1941

ヒュームの「反省」と「想像」

ヒュームにおいては、主著「人性論」によると、「印象」も「観念」も知覚である。(ヒュームの語法もやや独特なところがあるので注意)
【印象】思考や意識の内容となるときの勢いと生気が激しく入り込む知覚
【観念】思考や推論の際の勢いのない心像
「初めて現れる単純観念は全て、単純観念と対応し正確に再現する単純印象に起因する」
「経験が示すように単純印象がつねに観念より先立つ」
さらに「印象」は「感覚」印象と「反省」印象に区分される。
【感覚印象】知られない原因から直接に心に起こる
【反省印象】たいてい観念に起因する
「印象が観念として現れる現れ方は「記憶」と「想像」に区分される」
【記憶】最初の活気を保持していて、印象と観念の中間で、印象を繰り返す機能
【想像】すっかり活気を失って完全な観念として現れる機能
とされている。
Photo_20190808144601
こう見ると、ヒュームは「想像」が「反省」に含まれるとしている。
しかし、ドゥルーズは、ヒューム時間論を「想像によるものだが反省ではない」としている。これはどういうことか?それは、ドゥルーズのヒューム時間論解釈では、時間は観念に起因し観念によって結び付けられることによって成立するのであるから、それは或る意味では反省的と言えるものかもしれないが、それは決して既にある時間を「能動的」に振り返るという意味で反省して構成するのではなく「受動的」に時間を構成するものである。・・・と読むべきものだと思われる。

こうした総合は、構成を遂行するからといって、能動的であるわけではない。この総合は精神によって作り出されるのではない。それは観照する精神の中で、どのような記憶にもどのような反復にも先立って出来上がってくるのだ」(「差異と反復」p200)

(注)【観照・テオリア】「上位の優れたものを「観る」こと。プロティノス(ギリシア哲学者205?~270)において、すべては一者より生まれたものであるゆえ、全ては己の産みの親である一者を慕い求め、「観る」という働きとして表れる。下位は上位を観ることによって生命を得る」(プロティノス「エネアデス抄2」p91訳注より)「理性的な生物ばかりでなく、植物の生命もそれらを育む大地も、全てが〈観照〉を求め目指す。全ては本性の許す範囲で観照を行い、成果を収める。ただしそれぞれの観照は仕方や成果に違いがあり。あるものは真実を得、あるものは真実の模造や影を得るに過ぎない」(プロティノス「自然、観照、一者」)
Plotinos_20190808150501
プロティノス205?~270

ヒュームは「人性論」でさらに観念同士の関係性について次のように述べる。

連合を生じさせ一つの観念を別の観念へと移らせる3つの性質『類似』『近接』『原因結果』である」

とし、ヒュームにおける7つの「関係」を挙げる。

①類似関係
②同一関係
③空間時間の関係
④数量の関係
⑤性質の度合いの関係
⑥反対の関係
⑦原因結果の関係

【実体の観念】「あるもの」に属すると想定される。仮にあるものが虚構だとしてもその諸性質は近接と因果関係とによって分離しがたく結合している。
【様相の観念】その諸性質は近接や因果関係によって結びつけられないで別の主体にあるか(例:ダンス)、結び付いても原理が基礎をなさない(例:美)。

 

「第1の総合」が「受動的総合」であり「能動的総合」であるわけ

我々はその想像力によって、印象を「縮約」し、様々な観念を関係させ、「実体」と「様相」を構成して、「生ける現在」を構成することができる。
この構成によって、その関係性の中で時間が方向をもった次元として成立する。
そのようにして成立した時間であるので、この時間は、もともと時間がうつろいゆく流れであるとすることによって成立するタイプの時間ではない。そこで生まれる時間の矢の向きは、そのうつろいゆく流れによって規定されるものではなく、個物としての「印象」が「縮約」の働きによって一般化されていくことそのものが時間の流れとなる。ただし、ここで語られる「未来」は、決して「生ける現在」を飛び出していくものではなく、「現在の中において、個別的だった過去から一般化された未来へ進む」というものでしかない。

ところが、ややこしいのは、話はそれだけで終わらない。さっき、ドゥルーズは、この総合が「受動的」だと言ってたし「反省ではない」と言ってたのに、それをそのすぐ1ページ後に覆す。

「我々は、対象における反復を考察するにはその諸条件の手前に留まるが、主観における変化を考察するにはその条件を通り越して差異の一般形式に達する。それゆえ、反復の理念構成はその二つの間で相互遡及的な運動を巻き込む。ヒュームが深く分析するのは、まさにそうした運動である。ただし、一方が消えなければ他方が生まれないということではない。記憶は、想像力における質的印象から、個別的諸事例を、記憶に固有の「時間の空間」に中で保存しつつ、それらの事例を区別可能なものとして再構成するということである。そうなると、過去はもはや直接的過去ではなくなり表象=再現前化における反省的過去つまり反省され再生産された個別性になる。反復の構成は、すでに3つの審廷を含意している。まず、反復を思考されないままにする即自、つぎに受動的総合における対自、さらにこの受動的総合に基づきながらも能動的総合において反省された『対われわれ』の表象」(「差異と反復」p200)

「反復」によってこの「第1の総合」が構成される手順として、

①印象が縮約されず、カオスがカオスのままに置かれるものとしての「何者でもないそのもの自体」
②受動的に知らず知らず縮約がなされていて、気づいたらそのようなものとして観念が関係づいていたものとしての「何者かであるように『思える』ものとしての存在」
③その「何者かに思えるもの」を、能動的に、過去をすでにあったものとして振り返り「反省」することによって「再度」「現前化」し過去を実体化させ、未来を実体として一般化する。そして、世界を私だけの個別的実体ではなく、「われわれ」が皆で共有できるような実体となるようにする。

という風に、「反省」でなかったはずの受動的観念を、「能動的な反省」にすり替えることによって実在の実体を作ろうとする、という話なのだ。何ともややこしい。
それでも、そのややこしい話でもって、過去や未来までが、我々が反省できるような実体だとしてしまえる、というのだから、なかなか使えそうな世界モデルに見える。

それは、どこまでも、この「生ける現在」としての実体でしかない、とも言えるものではあるのだけれど、それでもこうして、その「生ける現在」の中に実体としての過去と未来は想定できるものになるのだ。

 

「時間の第1の総合」とは

まとめると、時間の第1の総合とは、ヒュームの考えた世界モデルで、現在において構成される時間。この私が今現実に開闢しているこの現在という世界のなかに、時間次元としての現在と過去と未来があるとする。それは、もともと、カオスであり個別であった世界の印象が、私の想像力によって縮約され一般化されて因果関係など様々な関係のなかに組み込まれることで、個別から一般へという時間の矢を持つ。また、それは受動的な観念を能動的な反省として捉え直すことによって、現に生きているこの現在が客観的時間を展望できるものにもなる、というものである。

と、これが「時間の第1の総合」の概観だと言えるだろう。

ドゥルーズはさらにその世界構成の具体的な成り立ちについて、A,A,A,AというタイプとAB,AB,AB…というタイプの反復の違いや、習慣がどのように世界成立に関わるかについて考察する。そして、このやり方がなぜ反復のパラドクスを解消できるのかについても考える。

 

つづく

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