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2019年8月14日 (水)

時間の第1の総合に関する8つの視点〈僕にも分かる「差異と反復」2-2〉

ドゥルーズ「差異と反復」第二章「それ自身へ向かう反復」を読む。
(今日は文庫上p201~220)
Deleuze_20190815213001ジル・ドゥルーズ1925~1955

ドゥルーズは、同一性に頼らずに、反復でもって世界を構成する方法を考察するため、第1・2・3の総合という3つの時間モデルを挙げた。前節は、その中で、時間の第1の総合がヒューム哲学的時間モデルで、現にすでに開闢している現在というものの内部に過去現在未来があるとするものであることを、概観した。今日はこの第1の総合について、さらに詳しく見ていきたい。

時間の第1の総合は、現在だけがすべてだとする世界モデルだが、単なる独今論ではなく、その現在の中に様々な対立軸を内蔵するなかなか複雑な世界である。ドゥルーズは、次の8つの視点で、その対立と絡み合いを挙げている。

①開く反復と閉じる反復:事象それぞれの個別性と一般化の絡み合い

②反復の受動性と能動性:習慣、習性(ハビトゥス)と縮約と鑑賞の絡み合い

③観照と自我:ナルシスとしての自我とアクタイオンとしての自我の絡み合い

④壊れ続ける反復と保護される反復:想像力の不安定と差異の絡み合い

⑤外的な裸の反復と内的な反復:形式と内容の絡み合い

⑥現在と過去未来の関係:動的時間と静的時間の絡み合い

⑦観照と疲労の関係:はっきりとぼんやりの絡み合い

⑧幼生の主体:変容する自我の崩壊と構成の絡み合い

以上。
この8つの視点は、いずれも、その視点が示す対立が互いに絡み合って複雑な世界を成すとするものである。ただし、その絡み合いは、この8つの対立の内部であるだけでなく、この8つの視点同士自体が、それぞれに互いに絡み合い関係しあうものであり、複雑な重層関係の中でその総合が構成されることを示す。

 


①開く反復と閉じる反復

ベルクソンの「A,A,A,A」

ドゥルーズは、まず、「A,A,A,A(チク、チク、チク、チク)」という4つの鐘の音に示されるベルクソンタイプの反復と「AB,AB,AB,A…(チクタク、チクタク、チクタク、チク…)」というヒュームタイプの反復とを対比する。この2つの対立に関する考察も、片方がよくて片方がダメという話として捉えるのではなく、対立する二つの反復が補完し合って反復を成立させるとしていて、両方が肯定的に捉えられるものである。

「時計が時刻を告げているが、私は放心していたので、その鐘が既に幾つ鳴ったのか数えていない。しかし、注意を遡らせる努力をすればすでに鳴った4つの鐘の音を総計させることができる。注意深く自問するなら、4つの音は私の意識を動かしたが、その感覚は並置されないで互いに溶け合っていた。それが私の思考によって再構成しようとすると、想像力によって1つ2つ3つと打ち、4つに達するまでは質が違っていると感性が答えた。感性は4つの音の継起を確かめたが、それは加え合わせでなく、諸項の並置のいうイマージュも入れてこなかった。音は質として知覚され、量として知覚されなかった。持続はこのように直接意識に現れ、記号的な表象に取って代わられるまで、そのまま続く。…我々の知覚は、明瞭的確で非人称的な層と漠然とし動的な表現不可能な層の二重の相の下に現れる」(ベルクソン「時間と自由」(「世界の大思想36」p67))
Bergson_20190814001001
アンリ・ベルクソン1859~1941

4つの鐘は、初めから4つの音として分析されているわけではなく、想像力によって再生可能ではあるが持続のなかで漠然としている。それが、その1つ1つ音のそれぞれを分析可能な記号として捉えることで、それが4という量でもって示し得る対象であるとすることができるようになる。
ここで重要なのは、これが同一性に基づいたものではないということである。この音自体が分析に先立って初めから同じものであったわけではなく、それぞれ分析以前には何者でもなかった音の継起をその一つ一つの音を記号化可能なものだと設定したことによって初めて、同じ音が4つあったことになったのである。反復する音が初めからあったから4つの音だったとされたのではなく、そこに4つの反復があったことになったと同時に4つの音があったことになったのである。このように、繰り返される事象が同じものの反復とされることによって、それが記号化可能になり分析可能になる。
そして、もう一つ大事なことは、そこに時間の経過があることまでが一緒に記号化されて確かめられることになる、ということである。
事象の存在と時間経過の記号化、これが反復の一つめの仕事である。

 

ヒュームの「AB,AB,AB,A…」

このベルクソンの4つの鐘に対して、ヒュームの反復はより複雑で、「AB,AB,AB,A…」という形になる。これは、ベルクソンの鐘と大きく違うところが2つある。
Hume_20190814001001 デイヴィッド・ヒューム1711~1776

1つ目は、ベルクソンの「A,A,A,A」には、その後ろに「…」は付いてないが、ヒュームの「AB,AB,AB,A…」 には「…」が付いてあるということである。つまり、ベルクソンのはその4つで反復はいったん切れて閉じているが、ヒュームのはその後も終わりにならず開いている。
2つ目は、「A」の後に「B」が必ず付いているということである。この「Aの次には必ずBが来る」というのは、ヒュームにおける因果律を示している。「AB」は、例えば、〈(A)「鐘を突けば」、(B)「音が鳴る」〉というようにAの後には必ずBが来るという関係になっていることを示すものである。「AB,AB,AB,A…」の中に出てくる複数の「A」は、ベルクソンの反復と同じ仕組みで「同じA」として同定され、「B」についても同様に同定される、ということを示す。
さて、ここで、この、「反復が開いているか閉じているか」と「因果的な反復」とが互いに絡み合うことで、一つの世界モデルを形成する。
というのは、「AB,AB,AB,A…」の「…」の後については、未来にまで「AB,」の反復が約束されているわけではないのだから、「AB,」の因果関係を閉じた関係だとしようとすれば、それ以外の「A」や「B」の個々の同定が開かれなくなってしまい。逆に、個々の同定関係を固定された閉じた関係だとするなら、因果律が確定できなくなるからだ。つまり、「A」の後にはつねに「B」が来るものとして捉え「AB」の因果関係を閉じたものだとするためには、そこまでの判断において「B」だとしていた弁別法が差し戻され、「未決定で開いた判別ルールとして捉え直しすること」が必要とされる、ということだ。
ただし、「A」や「B」などの、事象の要素を同定する反復が本性として閉じていて、「AB,」の方の因果律の方の反復が本性として開いていると捉えるのは間違いである。

「事例〔AB,〕のあらゆる反復は本性上開いており、要素〔A〕のあらゆる反復は本性上閉じている、と考えるのは誤りであろう。事例の反復は諸要素間の二項対立が閉じられないことには開かれないし、逆に要素の反復は、その反復自身が全体として、対立する2つの要素のうちの一方の役割を果たすようになる当の事例的構造を指示することによってでなければ閉じられないのだ。…〔ヒュームとベルクソンのタイプの〕2つの形式の反復は、常に受動的総合の中で相互に指示しあう。事例の反復は要素の反復を前提にしており、要素の反復は必然的に己を超え出て事例の反復へ向かっていくのである」(ドゥルーズ「差異と反復」上p203)

ヒュームは、因果関係は必然ではないと言った。が、それは、その非必然性は因果理だけが背負えばよいとするのではなく、また、事象の個々の要素である「A」や「B」さえも必然的に「A」「B」だとして固定されなければならないわけでもなく、その、因果関係という事例や事象の要素のどちらもが、互いに互いを支えることによって、そこに反復があるというルールを形成する、という風に捉えねばならないのじゃないか。
そして、さらに、そのルールが「AB,AB,AB,A…」という関係で反復してきたと形式化され一般化されることによって、「その事例が今後も続くかもしれない」という言語化可能な未来が拓かれることになるのだ。
しかし、もちろん、そのルールは、未来において必然ではない。でもだからこそ、その意味で、そのルール自体が未来へ開かれていると言えるのじゃないか。
こうして、反復によって因果関係が形成され、未来が拓かれる。これが反復の2つめの仕事である。

 


②反復の受動性と能動性

そんなわけで、要素の反復か因果関係の反復かという二つの形式の反復を区別するよりも、それらが影響しあう水準をどう区別するかが重要になる。
反復を区別する水準として、一つには、「感性的」か「知覚的」かという水準の区別があろう。また、そこには「受動的」か「能動的」かという水準の区別が関係してくるだろう。(その他にも、この後幾つもの水準で反復を見ていくのだが、まずは、「感性-知覚」と「受動-能動」の水準についてを見よう。)

人は、持続する世界の豊潤な質を「感性的」に味わう。そして、ベルクソンの例で見たように、それを「知覚的」に縮約して捉え、記号化することで、時間を総合化する。ここで、もちろん「知覚化」は「関係的な質」と混じり合い、互いに互いを巻き込んでいる。
「我々は、水、土、光、空気を再認し表象する前に、しかもそれらを感覚する前にさえ、縮約された水であり、土であり、光であり、空気である」(同p204)

もちろん、我々がそれを反復として捉える前には、水も土も光も空気もそのように分析可能なものにはなっておらず、単なるカオスであった、とも言える。しかし、〈我々がいったんそれを反復として捉えてしまった〉からには、世界は「我々がそれを把握する以前から、すでに水であり土であり光であり空気であった」というべきものに「なる」のだ。その意味で、反復は「感性」と「知覚」とが互いに巻き込み合い干渉しあったところで、互いを総合化するのだ。
それではこのとき、この「縮約」の作用は、はたして「受動的」なのか「能動的」なのだろうか。これについてドゥルーズは、「感性的な印象」のみでなく「知覚的記号化」までもが「受動的」であるとしている。ただし、ここでも「受動的総合」と「能動的総合」が相互干渉していると言っている。
主体たり得るあらゆる生物は、「感性」を受け取るときにおいても「知覚的」に反応するときにおいても、過去を入力し縮約し未来へ期待するのだが、それはその生物の脳だけでなく、内臓までがそれを為すと、言うのだ。その「反応」は、「欲求」として現われたり、「遺伝的傾向」として現れたりする。それが総合を形成することにあるのだから、総合化の全ては、ある意味で、「受動的」だと言える。
しかし、例えば「喉が渇いた」という感覚を知覚し、それに対して「水分補給」を欲求し、実際に「水分補給」するときには、その自分の行動に対して「能動的」に関与している。ある意味では、その「能動性」は、「内臓」からの欲求であったり「遺伝的傾向」であったりして「受動的」な状況から成立する「能動性」だと言うことも、できる。しかし、「この世界は、『私の生ける現在』である」という観点から見ると、世界はそこで立ち上げられる「能動的視点」によって初めて意味づけられ得ることになるとも、言える。

「それぞれの縮約、それぞれの受動的総合が、一つのしるし(シーニュ)を構成しており、そしてこのしるしが、諸々の能動的総合の中で解釈あるいは開示されるからである」(同p205)「我々が、習慣を縮約だと語るときに言わんとするのは、観照する精神における反復の融合のことなのだ。心を、心臓に筋肉に神経に細胞に帰さなくてはならない」(同p207)

この「心」は習慣を縮約にさせる観照の心である。受動的な「習慣」や「習性・ハビトゥス」は、反復から一般化・記号化を取り出し、縮約するのである。しかし、その記号化が「生ける現在」において意味あるものであるためには、「私が生きて観照する対象」としての記号化でなければならない。そして、そのようにその観照が能動的な「要求」や「希望」として捉え直されることで、世界は私の世界として意味論的に意味づけられ得ることになるのだ、と言えるのではないか。

注【ハビトゥスhabitus・習性】「〔習慣・態度の意〕人々の日常経験において蓄積されていくが、個人にそれと自覚されない知覚・思考・行為を生み出す性向。ブルデューによって用いられた。」(大辞林)

 

③観照と自我:ナルシス・アクタイオンとしての自我

そして、その能動的な観照が世界を意味づけるとき、それは同時に、それを観照する自我の側を意味づけることになる。

「我々は観照であり、我々は想像力であり、我々は一般性であり、我々は要求であり、我々は満足である。…我々は」自分自身を観照するのではないが、しかし我々は、我々がそこから生まれてくる当のものを縮約することによってでしか、存在しないのである」(同p208)

もちろん私が「私」と呼んで指示するものは第三者から見た存在者としての私である。そのような私ではなく、つまり世界のなかに存在する存在者ではなく、世界の構成に関わる、世界の裏面としての自我がある。この「生ける現在」が世界に対してそれを「水」と呼び「森」と呼び「ディアナ」と呼び、それを縮約して「水」「森」「ディアナ」を意味づけることによってその裏面として浮かび上がるような「自我」、決して「私」として呼ばれ指示されることにないような「自我」はまさに、その自我が世界を縮約することによって、はじめて規定されることになる。
それには、自分が世界を観照しているという事態を自ら振り返っているナルシス的な面も必要であり、その見ている自分のことを忘れて無心に世界を見ているというアクタイオン的な面も必要であって、その両方が互いに干渉しあい、絡み合って世界を構成するのだ。やはりここでも絡み合いなのだ。

【ナルシス Narcisse】ナルキッソス(Narkissos)のフランス語名。ギリシア神話中の美青年。ニンフのエコーを失恋させたあと、泉の水に映った自分の姿に恋し、満たされぬ思いにやつれ死んで、水仙の花に化したという。(デジタル大辞泉)
Narcisse
【アクタイオンAktaion】ギリシア神話の英雄。アポロンの息子アリスタイオスとカドモスの娘アウトノエの間に生れ,ケンタウロスのケイロンに養育され,狩りの名手となった。あるときキタイロンの山中で,狩りの疲れを癒やそうとして泉に近づいたところ,そこで沐浴していたアルテミス女神の裸身を見てしまい,その罰に鹿に姿を変えられ,自分の連れていた 50頭の猟犬に食い殺された。 (百科事典マイペディア)

【ディアナ】ローマ神話に登場する、狩猟、貞節と月の女神。

 

述語論理の一般化と反復

「一般性は反復とは全く別のことであるにせよ、なお一般性は、反復をその一般性がそこで構築される隠れた基盤として指し示している。行動の構成は一般性のレベルにおいても、それに対応した諸変項の場においても、反復の諸要素の縮約によって実現される他ない」(「差異と反復」上p211)

某かの命題記述で、例えば、いわゆる述語論理において、命題を「∃xF(x)」という形で表そうとするとき、それは変項「x」に対して、それを某かの一般化を示す述語「F(x)」をあてがうことになる。「ありとあらゆる存在者xに対して、ある一般化F(x)をあてがうとき、その真偽でもって世界を記述する」ということだ。
このとき、もちろんこの一般化は、反復とは独立で無関係の話のはずである。しかし、「私の行動」が「同じような何かの反復になっている」と解釈することが可能になるのであれば、それは、習性ハビトゥスによって為される受動的反応が自ら観照され、それが能動的な主体の活動としての反復とされることになって、その私の反応が世界を一般化して記述するものへの縮約となることが許され得ることになる。

∃xF(x)という変項と一般述語は、この縮約によってのみ構成可能になる。そして、ひとり想像力のみがこれを行い、「絶えず壊れゆく反復と表象の空間での反省的反復との間に差異が存在する。その反復こそが想像的反復である。差異が反復に住みついている」(同)ことで、差異と存在者と自我が一挙に立ち上がることになるのだ。
例えば、「音が鳴った」という命題について、私という主体がその命題を発言するときに、「その命題が指示してる状況とその命題の対応が有意味な対応である」と解釈することによって初めて、命題は意味を持つ。つまり、命題を有意味化するのは、それについて私が意図的能動的に解釈したことにすること、そのものだと言えるのだ。つまり、命題の一般性と反復を繋ぐのは、この観照において、この自我が、受動的な反復を能動的なものだと解釈することによって、そのことのみによって為され得ると言えるのである。

 

④壊れ続ける反復と保護される反復

このようなシステムでもって反復を反復とすることによって、自我は世界を記号化し、意味づけて世界の構成を可能にする。しかし、どんなにうまいやり方を提案してみたところで、そこには同一性を持ち込むことを拒否しているのだから、絶対的な根拠なんてものを求めることはできない。それはどこまでも、「とりあえず、身体がそのように反応してしまうようだから、試しに、そのようなものとして考えてみる」というようなものでしかない。どこまででも、「いつ、そのルールがひっくり返されるか分からない」というような不安定なルールでしかない。それでも、そのルールはルールとして守られるべきものとして捉えていかないと、とりあえずとしてであっても、世界を構成することはできない。だから、その反復は壊れ続けるものでありながら、保存され続けるものとして捉えられる必要がある。ここでもまた対立する2つの視点が絡み合って反復を成し、世界を成す。


 

⑤外的な裸の反復と内的な反復

ドゥルーズは反復を、「裸の反復」と「着衣の反復」といういい方で反復を二分する。

【裸の反復】概念に対して外的な反復。それは概念の下で表象され時空間において、諸対象の間の関係としての差異としてのみ定立される。概念における欠如としての否定による。仮言的。静的。外延的。通常のものの。水平的。展開され広げられる。公転的。同一性・通訳可能性・対称性を備える。物質的。非生命的。
【着衣の反復】《イデア》の内部に存在するような差異を含む反復。《イデア》に対応する動的な時空間を創造する運動として自我を展開する。差異と己自身を含む。《イデア》の過剰による肯定的。定言的。動的。内包的強度的。特異なものの反復。垂直的。包み込まれる。進化的。不等なもの・通訳不可能なもの・非対称性なものに基づく。精神的。我々の死と生、束縛と解放、悪魔的と神的なものの真理。仮面をつけ己を偽装する。(同p76参照)

単なる統語論的意味というわけでなく、弛緩的な過去の対象の関係を捉える、物質的な反復であるような「裸の反復」と、単なる意味論的意味でなく、それでも差異そのものを動的に捉える反復であり、それが常に偽装を孕む「着衣の反復」との2つの反復である。そして、やはりこの2つの「反復」がそれぞれ互いに絡み合って世界の意味を構成することになる。裸の反復と着衣の反復については、第2の総合の話でまた出てくるので、そこでくわしく見ることにしたい。

 


⑥現在と過去未来の関係:動的時間と静的時間の絡み合い

この総合では、時間の中で「現在」が構成される。しかし、「現在」は時間の一つのパーツではない。

「存在するのはひとり現在のみである」(同p214)

「現在」を構成するものとして「過去」と「未来」があるのだ。その意味で「現在」自体がまるまる、マクタガートの「B系列」のようなものなのである。だから、「現在」は静的なものでなければならない。しかし、その「現在」は同時に過ぎ去るものである。その意味で「現在」は自体がまるまるマクタガートの「A系列」のようなものである。だから、「現在」は動的なものでなければならない。この、静的な現在と動的な現在とが同居する、というのはまるでマクタガートの時間の話そのままのようである。
しかし、ここでの総合の「現在」はそれが、さらに絡まり合ってこんがらがる。
観照による縮約は、単にB系列を作るだけではなく、様々の反復に応じて、また生命の諸部分に応じて、様々に変容し過ぎ去るような持続としての現在を形成する。その持続としての、様々な微小なA系列的時間としての現在は、複数あることができ、それらが第3者的でB系列的な時間と両立され得る。ここで両立される様々な現在が多数あればあるほど豊富な時間が形成される。

 


⑦観照と疲労の関係:はっきりとぼんやりの絡み合い

そこでドゥルーズは、その様々に異なる持続的な時間を自己の魂において共有させ得るのが「疲労」だという。それは「観照」に対称的な作用をする。
「観照」は、世界を縮約し世界を記号化するが…

【疲労fatigue】「疲労は、心がみずから観照するものをもはや縮約できないという契機を、つまり、観照と縮約が壊れるという契機を示す」(「差異と反復」上p215)

縮約に対し、それができなくなって分裂し弛緩してしまう作用のことと思われる。

「ドゥルーズの汎-観想論においてはいつ観想=縮約する物質たち自体が疲労し、記憶としての因果性が途切れがちになったり妄想したりするかも分からない。・・・実在的であるこの世界の裏面で万物が観想し万物が疲労するのだ。事物の疲労ー事物がそれ自体において、その本性を分裂させる〈存在論的疲労〉」(千葉雅也「動きすぎてはいけない」上p127)
Chiba
 千葉雅也 1978~

疲労と言っても別に「しんどい疲れた」ってことではない。観照が世界を明晰判明にはっきりさせる働きだとすれば、「疲労」は逆にぼんやりさせる働き。それは、ぼんやりしているがゆえに「尽き果て流れ去る現在」を掴まえ得る。

「我々は諸々の観照から構成されているのと同程度に、諸々の疲労からも構成されているのである」(「差異と反復」上p215)

我々が観照と疲労から構成されているというのは、もちろん「世界」が観照と疲労から構成されていると言うことである。そのはっきりとぼんやりの絡み合いによって、世界は静的でありながら動的でもあることができ、それはつまり、反復が裸の反復でありながら着衣の反復でもあることを可能にする。

 


⑧幼生の主体:変容する自我の崩壊と構成の絡み合い

そういうわけで、反復というものは、対立しあうもの同士の絡まり合いのなかで、初めて反復として成立するものであると言える。そして、世界はその反復によって初めて成立し、反復によって総合される世界は、同時に自我を構成するのである。しかし、その反復も世界も自我も、その対立構造のなかの危ういバランスの中で、「とりあえず、そーなって見えた」というようないい加減なルール、常に崩壊し続け、常に新しく作り変えられ続けなければならないような安定しないルールでもって、初めて成立するものであった。それは決して安定した存在なんかではなく、どこへ向かう何者なものなのか常に未決定な存在でしかない。世界も自我も常に未分化である。この未分化性をドゥルーズは「幼生の主体」と呼んだ。それは崩壊し続けながら構成されるという絡み合いである。

 


まとめ

ここまで見てきた、8つの視点は、どれも対立するものが互いに互いを飲み込みあい支配しあい、互いに転落させようとする危うい世界構成システムである。それはまるで危うくていつ世界と自我が崩壊するか分からない瀬戸際に立たせる。それなのに、この8つの視点は、ある意味で傲慢なまでに、能天気に、「だって、そーなって見えたんだから、とりあえずそれでいーじゃん」と世界を構成し続ける。
何とも不思議な世界モデルである。しかし、そのような傲慢で能天気な世界モデルであるがゆえに、さまざまな矛盾すれすれの対立を両立させながら、「生きている命」として成立させられているのじゃないか。
もしかすると凄いシステムなのかもしれない。


でも、ドゥルーズは、これではまだ不足だとする。なぜか。これは所詮「現在」でしかないからだ。そこで、第2・第3の総合を求めてさらに思索を深める。次節は、時間の第2の総合について、読み進める。

 

つづく

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