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2019年7月 6日 (土)

プラトンの「分有・分割」とクワインの「ペガサスる」〈プラトン「ソピステス」を読む3〉

 

  プラトン「ソピステス」を読む
今日は「ソピステス」最後まで、251B~268D(プラトン全集3p110~p169)を読む。

Platon_20190706232101 プラトン Πλάτων BC427~BC347

 

ソフィストとは何かを問うなかで、エレアからの客人とテアイテトスの二人は、「有らぬが有らねばならない」ことを考察し、さらに、万物は互いに相反する静と動を併せ持たねばならないことを確かめた。
今日は、その二人が「〈有らぬ〉が有る」であることを可能にする「分有」というアイデアを探っていくところを追う。そして、「有」が普遍と個物を繋ぐものであり、差異の哲学につながるものであることを考える。


静と動と非有と個別の問題とマクタガートとベルクソンとクワイン

「万物は静と動を併せ持たねばならない」という話は、まるでマクタガートのパラドクスそのものに思える。「B系列において現在過去未来はそれぞれ両立不可能得なければならない」というのが「静」の時間で、「A系列においていかなる事象も過去現在未来の特性を併せ持たねばならない」というのが「動」。あるいは、まるでベルクソンの縮約と弛緩に思える。縮約が静で、弛緩が動。相反する二つが同時に成立して、はじめて世界を立ち上がらせる。それゆえこの問いは、世界を生者のものとして問う上でもとても重要なものである。
またこれは、個物と普遍がいかに統合され得るかを問う、古代からずっと現代にまで続いている問いでもある。
だから、プラトンが「非有が有る」においての前者の「有」と後者の「有」が異なる有であると解釈するのを見て、「なあんだ。それだけのことか」と安直に納得してしまったり、同様の問題について、「ペガサスる」という動詞句を用いれば、非有なる「ペガサス」について語り得るとしたクワインの分析でもって安心してしまったりするだけでは、ここでプラトンが問うた問題を取りこぼしてしまうことになるかもしれない。
この問題は、個別と普遍の捉え方に向き合い続けることでこそ、問いの意味を深められるように思われる。また、ドゥルーズの言うように同一性に基づかないような世界記述の方法を求めるべき問いであろうと思われる。そのような、かなり無謀な目標を立てて「ソピステス」最後部を読む。


〈有〉と〈静〉と〈動〉と〈同〉と〈異〉

今乗り越えねばならない困難は、「有らぬのパラドクス」「いかに〈有〉が全体でありながら部分を持てるか」「静と動のジレンマ」の3つであった。
プラトンはどのようにして、この3つを乗り越えたか。それは、〈有〉が〈一〉でありながら部分が異なり得るものであること認めるものとして最初に受け入れてしまい、世界モデルの構成形式の側をそれに合わせて作り変えてしまうというやり方を採ったのだ。

「静と動」について言えば、「〈静〉と〈動〉は互いに混じり合わないこと」と「〈有〉はその両方と混じり合うこと」を、そのまま一挙に認めてしまい、その両方を受け入れ得るものだとしてしまったのだ。
しかし、その結果、世界には〈静〉と〈動〉と〈有〉の3つが有ることになってしまった。否、3つどころではなく、それらは互いに後の2つとは異なり、自分自身とは同じなので、〈異〉と〈同〉もあることになってしまうと。プラトンは考察した。その上で、それでもそれを乗り越え不可能な問題とはせず、そのすべてを合わせて、〈静〉〈動〉〈有〉〈異〉〈同〉の5つものものがあることしてしまおうとした。


5つの要素と分有

でも、それってやはり変じゃないのか。だって、万物が〈静〉〈動〉〈有〉〈異〉〈同〉の5つで、〈静〉や〈動〉や〈異〉や〈同〉が〈有〉とは別のものとしてあるとするのなら、〈静〉〈動〉〈異〉〈同〉は〈有〉とは異なることになってしまう。ならば、〈静〉〈動〉〈異〉〈同〉が世界の構成要因として「ある」という話にはならないことになってしまうはずっだったのではないか。前節で見たこの問題をどうすると言うのだろう。どのようなやり方をすれば、〈静〉〈動〉〈有〉〈異〉〈同〉が世界を構成し得るのと言うのか。
それについての、プラトンの説明はこうである。

1)〈動〉と〈静〉は全面的に異なる。それゆえ、〈動〉は〈静〉ではない。
2)しかし、〈動〉は〈有〉を分有する
3)一方、〈動〉と〈同〉は異なる。それゆえ、〈動〉は〈同〉ではない。
4)しかし、〈動〉は、すべてのものが、自分自身と同じものであることでもって、そしてさらに〈同〉を分有することによって〈動〉と〈同〉は同じものである。
5)だから、〈動〉は〈同〉であるとともに、〈同〉ではない。
(プラトン「ソピステス」256のあたりからのまとめ・プラトン全集3)

以下、他の類概念についても同様に考察でき、すべての類に関して〈非有〉でありながら〈有〉でもあると言える・・・となる。
このようにして、否定され合うものを一度に請け負うことを許すことで、〈静〉〈動〉〈異〉〈同〉を〈有〉のもとに一者であるものでありながら、同時に、〈静〉〈動〉〈異〉〈同〉を〈有〉とは異なるものにしてしまうのだ。


「〈同〉であり〈同〉でない」が矛盾でない

「〈同〉でありながら、〈同〉ではない」などと言ってるのだから、まるで矛盾である。しかし、エレアからの客人はこれを矛盾ではないものとしてしまう。どうすればこれが矛盾でないなんて言えるようになるのかと言うと、その答えは2つあると言える思う。
①、分有によって、或る2つものが同じものでありながら、同じものではないとしてしまうこと、(そして、分有の元に「イデア・真実在」があること)と、
②、否定を反対のものではなく別のものと捉えること、の2つである。


或る意味で同じで或る意味で違う

プラトンは次のように言う。

「我々はこの二つのこと〔〈動〉が〈同〉であり、〈同〉でないこと〕を同様の意味で言ったのではない。『同じものである』と言うときには〈動〉がそれ自身との関係において〈同〉を分有しているがゆえにであり、『同じでない』と言うときには〈異〉への関与ゆえに〈動〉が〈同〉から引き離されたがゆえにである」(同256B・プラトン全集3p128)

「動」と「静」は互いが互いの否定である。「同」と「異」は互いに否定であり、「有」と「非有」は互いに否定である。だから、ふつうに考えれば「動でありかつ静である」「同でありかつ異である」「有でありかつ非有である」などという風にお互いを連言すると矛盾にしかならないのだけど、「〈動〉が〈同〉だ」と言うときの〈同〉と、「〈動〉が〈同〉ではない」と言うときの〈同〉は別のものだから矛盾ではないとするのだ。或る意味では同じで別の或る意味では違うって話なだけだって言うのだ。なんか拍子抜けな話である。初めっから「或る意味で同じで、別の或る意味で違う」というだけの話だったと言うのだ。「或る意味で動」で「或る意味で静」、「或る意味で同」で「或る意味で異だ」って。しかし、そもそも否定関係同士を矛盾なしで繋げるというのはどういうことなのか。そんなことができるのか。


否定は反対ではない

これについて、プラトンは、さらに否定の意味を考え直す。

「我々が〈非有〉を語るとき、〈有〉と反対のもののことを言っているのではなく、単にそれと異なるもののことを言っているだけのように思われる。たとえば、我々が或るものを『大ではない』と言うとき、その言い方によって示そうとしているのは、小さなもののことでなければならないとは限らない。そうとすれば、否定は反対を意味するのだという意見を我々は承認しない。我々が認めるのは『有らぬ』や『ない』を示す否定詞『非』が付けられるとき、後に続く語とは別の――むしろ否定詞の後に続く語の対応するところの事物とは別の――様々のもののうちの何かを告げている」(プラトン「ソピステス」257B・プラトン全集3p133・引用文は本当はエレアからの客人の一人語りではなく、テアイテトスとの対話になっていて各所にテアイテトスの合いの手が入ってるのだけど、ここでは省略した。)

プラトンが言うには、「否定」と言っても必ずしも反対を意味しないで、矛盾しあうものだとは限らない、とすることができるのだ。「非大」は「大」の反対の「小」ではなく単に「大と異なるもの」、ゆえに大と非大は矛盾しないとする。「非美」は「美」の反対ではなく単に「美と異なるもの」ゆえに美と非美は矛盾しないとすることができる。言葉の成り立ち自体から、否定そのものを反対ではない否定もあるとするものとして捉え直すのだ。
しかし、反対ではない否定と何なのか。
真ではないものを偽とするのが、真と偽の二値でもって構成される二値論理に対応するとすれば、ここで考えるべきなのは、真偽二値のみの対象から外れて、是と非の対でもって対象をとらえる直観主義数学や多値論理の考え方だと思われる。たとえば、ダメットの直観主義的論理に従うなら、「それである」の否定は「それではない」ではなく、「それであるではない」や「それであるとは言えない」でしかない。「それであるとは言えない」には「それではない」だけでなく「それであるかどうか分からない」も「何が何だか分からない」も含まれる。「それであるかどうか分からない」は「それではない」とは全く別のものなので、「それであるではない」から「それではない」は導出できず、「それである」の否定でもって「それでない」とは言えない、という話になる。


個物と普遍
Aristoteles
アリストテレスἈριστοτέλης
BC384~BC322


このような世界把握の方法でもって世界を知ろうとするとき、そこに描き出される世界像はアリストテレスのやり方とはずいぶん違ったものになる。アリストテレスのやり方は、世界を真と偽の二値で切り分けることで一般化して捉え、普遍的な視点で理解しようとするものである。一方、プラトンは次のように、「分割」の方法を語っている。すなわち、
「職人たちはまず最初の工程として土や石やその他の夾雑物を原鉱から除去するのだ。その作業が終わるってから、種々の貴金属類から黄金を、火を用いることで分離する」(プラトン「ポリティコス」303DE・プラトン全集3p350)
プラトンのやり方は、アリストテレスとは違い、初めから特殊で特異な個物を問題にしたものと言えるのだろう。世界を、反対するもの同士に切り分けることはせず、だからはっきりと真偽づけられるような語り方で捉えようとするのでなく、しかし、ともかく、この世界をこの個別的な現実においての世界であることから直接抽出できる事柄だけを取り出そうとする。
つまり、「分割」のやり方は、真偽の確定から外れた論理構成にすることによって、例えば、「動」かつ「静」が言えるように、否定されたもの同士を同時に語ることで出来るようにしてしまうのだが、そればかりではなく、一般性普遍性をから外れることによって、個物に直結するような世界把握を可能にするものだと言えるように考えられる。

このようにして、真偽のみによる切り分けでなく、世界が「カオス」であること「判らないもの」であることを認めてしまおうとする。しかし、そのようなカオスを認めるようなやり方を受け入れるとなると、世界全体が結局カオスのままになってしまうのではないか、と疑いたくなる。
そこで、プラトンは、世界をつなぎとめるためにイデア論を持ってくる。我々がすでにイデア・真実在に内容を知っていると前提し、それによって、カオスとしての世界を(個別から離れて一般に向かってしまうような一般化の方法に委ねるのではなく)、それによってカオスとして捉えたままその内容を語り得るものとすることを目論んだのだ。
そして、そのように考えると、「有」の否定には「無いであると言える」と「有るとも無いとも言えない」があることになり、「有」と「非有」は必ずしも矛盾しないものにすることができる。「〈非有〉が〈有り〉得る」ことになり、「有らぬのパラドクス」を解消することができるようになったのだ。


クワインの「ペガサスる」
Quine_20190706231201
W.V.O.クワイン1908~2000

この「〈非有〉の〈有〉」の問題の一環で、クワインの述語論の「ペガサスる」の存在論問題なるものがある。
神話の天馬で「ペガサス」というのがある。似たようなものに「ユニコーン」ってのがあるけど「ユニコーン」は聖書に出てくる、角が生えている伝説の馬だが、これは動物種の名なので一般名である。「ペガサス」はローマ神話に出てくる、翼の生えた伝説の馬だが、これはその一頭の個別の名なので固有名だ。「ユニコーン」は一般名だから、「ユニコーンが一頭いる」も「ユニコーンが一頭もいない」も問題なく語れる。だけど、「ペガサス」は固有名だから、「ペガサスがいる」は仮に語れたとしても、「ペガサスがいない」を語るには大きな問題がある。ペガサスは空想の生物なのでペガサスを指さして「こいつがペガサスだ」という風に言葉の指示を固定化ができない。ペガサスが出てくる映画や絵本ももちろんあるから、それを指さして「これがペガサス」と言うことはできるが、そんなペガサスは出鱈目であって本物のペガサスを固定化したことにはならない。だいたい、空想の生き物に「本物のペガサス」の意味なんてものがあるのか疑問である。だから、「ペガサスがいない」という文でもって、「何がない」ということを言おうとしてるのか、誰も知らないことでしかないはずだ。何を言っているか分からない無意味な文になってしまう。でも「ペガサスがいない」が無意味なのであれば「ペガサスがいる」という文だって同様に無意味であることになってしまいそうだ。なので、この問題は、「有らぬ固有名が有りえるか」という問題にもかなり深くかかわっている。
Pegasus_20190706231101
そこで、この問題について、クワインは「ペガサスる」という語を編み出して解決を図った。つまり、「ペガサス」という固有名辞句に対して「ペガサスである」という意味の述語句「ペガサスる」なるものを考えた。そして、「ペガサスがいない」という文を「あらゆる存在者はどれもペガサスるものではない」に言いかえると有意味な文として言えることになる。
たとえば「馬」という現に存在している動物種について「馬がいない」という場合には、その「馬」はどこかにいる個別の個体を指しているものではない。某かの個物としての馬と比べて「その個物の馬がいない」と言ってるのではなく、「対象を一般的な馬か一般的な馬でないかを弁別する『一般的な見分け方』でもって仕分けるとそこには一般的な馬として弁別されるものは無い」ということを言っているのである。
同様に「ペガサスがいない」という場合もそれが固有名だったとしても、某かの対象に対してそれがペガサスか否かを弁別するような「一般的な見分け方」を作ってしまって、それによって仕分ければ良い、とクワインは考えたのである。
この方法を用いれば、「居ないはずのペガサスが居ない」とか「居ないはずのペガサスが居る」とかの文が(その真偽は別としても)有意味な文として考えることができるようになる。つまり「非有なるPは非有である」や「非有なるPが有である」が有意味になる。こうして、「有らぬが有り得る」ことがいえるのだから、一応は「有らぬのパラドクス」は回避できることになる。


クワイン「ペガサスる」からこぼれた問い

しかし、このクワインの方法は、プラトンの問いへの解決としては不十分でなかったかと、僕は疑っている。それと言うのは、クワインのやり方は、固有名を一般名詞化し、個物の話を一般化普遍化するという方法でしかなく、普遍vs個物の問題を回避してしまっただけの解決でしかないからだ。このやり方のように個物を述語化しようとするとき、その個物はかならず一般化されてしまう。或る述語が有意味になるというのは、その述語が文を構成したときに、その記述に対して、世界の様子が如何なるものであったら文が真になり偽になるのかがはっきりするということでもあると言えるだろう。それは客観的で複数の人が弁別方法を共有できるということである。それは検定可能な或る判別視点があるということであるはずだ。そして、つまり、判別視点が確保できるようになるためにその判別視点が有限であるということが求められることになるのではないだろうか。
一方、ある固有名辞が、その固有名でもってその個物の対称を指示するとき、そこには無限の判別視点があるはずである。
だから、個物が個物として存在しているという意味で「ペガサスがいる」としていた言明を、「或る存在者はペガサスっている」と言いかえてしまうというのは、一般的な存在としてのペガサスがいるという言明に貶めてしまったのではないだろうか。


それに対して、プラトンは、アリストテレスが一般化してしまい、クワインが一般化してしまった「個物」を、「個物」として手に入れることを諦めないままに、〈有〉を捉えようとしたのではないか。(悪深読みと叱られるかもしれないが、僕にはそう思われて仕方ない。)

 

「分有」

そこでプラトンが説いたアイデアが、「イデアの分有」なのだ。
【分有】メテクシスmethexis。「分有」「関与」の意。特にプラトン哲学でもろもろのイデアと感覚的個物との関係を説明する概念 (『パイドン』『パルメニデス』) でミメーシスと同様に用いられている。たとえば美のイデアは個々の美しきものの根拠であり,個々のものは美のイデアに関与し,このイデアを分有することによって美しきものとなる。( ブリタニカ国際大百科事典より)
プラトン哲学において、存在者がイデア自体を持つことはできないけれど、互いにイデアの質をシェアすることはできるということ。否定しあう2つの概念ABにおいて、何かの対象が或る意味ではAであるが、また別の意味ではBであると言うことができる。ABの2概念が互いに反対でなく単に異なっているときには、BもnotBもAと矛盾しないであり得る。それゆえ、分有によって、一つの存在が否定しあう概念を同時に持ち得る。そのときの様子。

この分有を用いて「ソピステス」におけるプラトンの世界モデルの説明をまとめると、次のようになる。
〈有〉はあらゆる存在の大元として、全体をすべからく覆いつくす〈一〉である。
〈動〉と〈静〉と〈同〉と〈異〉は、それぞれ互いに異なり〈有〉とも異なる。
しかし、〈動〉と〈静〉と〈同〉と〈異〉はそれぞれ〈有〉を分有し、他のそれぞれをも互いに分有するので、世界は多様でありながら〈一〉である。
このシステムによって、〈有〉が〈非有〉であり得て、〈非有〉は〈有〉であり得ることになり、「有らぬのパラドクス」は回避できることになる。
しかし、それだけでは、個物を個物として捉えんとする問いへの答えにはならない。
そのため、否定を反対をとして捉えるのではなく、異なることとして捉える。
それによって、アリストテレスのやり方のように世界を一般化して切り分けることで分析するのではなく、一般化せず「分割」することで、或る対象についての個物を個物のままに切り出す。
さらに、その言明で語られる対象が、イデア・真実在としての〈有〉を分有しているとすることで、その言明が無限の判別視点を有することになり、現実の個物に達し得るものになる。
Photo_20190706232302
上から見ると、全部〈有〉だけどどれも〈有〉じゃないものでもある


パルメニデスの反論ではなかった

こうして、プラトンは「有らぬのパラドクス」を回避し、「静と動のジレンマ」を解消し、「普遍と個物」の問題への解決を道づけた。
そして、パルメニデスが言った「有らぬものが有ることは決して証しされぬ」への反証が尽くされた。確かに、プラトンはこの「ソピステス」でパルメニデスへの反論をして、それを成功させたように見える。でも、僕は、プラトンがここでやったことは、パルメニデスへの反論でもなかったし、ましてや反論を成功させてなんかいないと思う。
パルメニデスが説いた「有」は、プラトンが「有(a)らぬは有(b)る」と言うときの(b)の「有」ではあるけれども(a)の「有」ではないと、僕には思われる。パルメニデスの説いた「有」はあらゆるものであり、万有であり、世界を受け入れる器であり、世界の有る場所であり、それはハイデガーの言う意味での「存在論的差異」に通じるような、ドゥルーズが問う「本性の差異」であるように思われる。そして、それは(b)の「有」であって、決して(a)ではないとしか僕には思われない。そのことは、プラトンも分かっていたので作品中でもパルメニデスへの尊敬をあからさまにしているように見える。
そして、だから、プラトンが〈非有〉と言うのは、(a)の「有」がないというものでしかなかったのだが、パルメニデスが〈非有〉と言ったのは、(b)の「有」であったのだ。プラトンが言ったのは「或る意味で〈有〉はない」でしかなかったのだが、パルメニデスが言ったのは「絶対的な意味での〈有〉がないわけがない」だったのだ。だから、プラトンは決して、パルメニデスを反証もしてないし、もちろん反証に成功なんかしてないと言ってよいと思う。まったく別の話をしてたのだ。というか、まったく別の観点での考察があるのだし、そこに注目しなければならないのだってことを明らかにしたのだと思う。

これで、今日の話の重点課題には到達できた。
あとは「ソピステス」の残りの話を消化するだけ。


ソフィストとは

プラトンは、以上のシステムの下で、
有意味な世界記述には「名指し言葉(名辞)」と「述べ言葉(述語句)」の組み合わせであること。
その組み合わせにおいて、真なる記述と偽なる記述を成すことができること。
その記述において、「魂が自己と対話する思考」と「思考の結着である判断」と「感覚と判断が混じり合ったものとしての現われ」がそれぞれ真偽をもって生じ得ることを確かめる。

これを見ると、記述が世界に沿って真偽をもつものとして捉えられていて、まるで一般的な二値論理空間でアリストテレスのタイプの大きな種と類をする世界モデルのようである。けれども、その基盤のところで、否定を反対としないとするものとしているので、どこまでも個物を追い求めることのできるような世界モデルであることが維持されていると考え得るものであるのだ。

こうして、「人は虚偽を語ることができる」ということが確認されたことになったので、ソフィストを、虚偽を言って人を騙すものとすることができるとして、ソフィストの定義化を再開する。
そして、ソフィストの技術について、
「〈矛盾を作り出す言論の技術〉は、〈しらばっくれ〉で〈思惑に基づく仕事〉の一系統であり、〈物真似〉であり、〈見かけだけを作る仕事〉で、〈影像作りの技術〉で、〈人間的製作〉な技術である」
とまとめて、話を閉じる。
7_20190706231901  


「ソピステス」がダメなわけ

このプラトンの存在論について、ドゥルーズは転倒させられるべきものだして、否定されるべきであることを確認したうえで、それでもその意義を高く評価している。スピノザやライプニッツが、十分に同一性から逃れきれなかった問題の解決策がここにあると指摘する。
ただし、それは、プラトンが「ソフィスト」を「哲学者」からはっきりと区別できるとしてしまった話を、「結局、ソクラテスとソフィストの区別なんか付けられないことをはっきりさせてしまった話」だとして皮肉をもって読むべきだともしている。
実際、プラトンは超越的なイデアに根拠を求めてしまったところも、それゆえその世界把握が超越的な独断論なものに流れやすいものであるところも、眉唾で読むべき図書だと思う。また、「ソピステス」周辺から読み取れるプラトンの考えは、必ずしもくっきりとしたイメージを示すものではない。ドゥルーズの読解イメージでは、プラトンの〈有〉はハイデガーの「存在論的差異」を示しているように思われるのだけれども、それもはっきりとそう書かれているわけでもない。
それでも、プラトンは既に乗り越えられてしまった過去の哲学というものなんかでは、ぜんぜんない。動と静の両面を個物において繋げるところなんか、ベルクソンの哲学に通じるもののようにも思えてくる。
超越的なイデアを軸にしてはいるが、けっして個物を手放さないで世界を把握しようとする視線から望まれる景色を披いてくれる、とても魅力ゆたかな哲学であった。これまで馬鹿にしていてごめんなさい。

今日のこの考察だけでも結構、飛躍したプラトンの読み方だったかもしれないが、ドゥルーズは、さらにプラトンのやり方を掘り下げて存在論を深める。
それについては、もう一度、「『差異と反復』を読む」に戻って考えたい。

(余談)
「プラトン全集3」の「ソピステス」「ポリティコス」は、主役のエレアからの客人と、その相手であるテアイテトスと若いソクラテスとの対話であるが、対話相手である2人の語り口調がまるでテレフォンショッピングの売り子のように、或いは往年のうなづきトリオのように、相手を持ち上げる。ギャグかと思うぐらいだった。もしかすると、本当にプラトンのギャグなのかもしれない。この対話相手のセリフだけを読んでも十分面白い。おすすめである。
「ええ」「ええ、おそらく」「ええ、ぜひとも」「おそらくそうかもしれません」「もちろんです」「そうです」「あなたがおっしゃるとおりです」「まさにそのとおりです」「ええけっして」「ええたしかに」「ええまったく」「ええそれはまったく正しいことです」「そうでなければなりません」「そのことは必然です」・・・

 

 

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