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2019年6月29日 (土)

ソフィストの虚偽と「〈有らぬ〉のパラドクス」〈プラトン「ソピステス」を読む1〉

  新しく章立てをして、プラトン「ソピステス」を読む。「差異と反復」から少しスピンオフ的に飛び出す。

ドゥルーズは、スコトゥスやスピノザやライプニッツの哲学を評価しつつも、どれも同一的なものへの従属を断ち切ることができず不十分なものだったとした。そして、それを説く糸口をプラトン哲学に求めた。とくに「ソピステス」での「分有」や「見せかけ」についての問答をもとに考察し「差異と反復」第1章「それ自身における差異」の章を締めくくっている。
プラトンの哲学は、イデアなどという超越的な認識対象を持ち込むところなど乗り越えられるべき哲学だと思って、僕はいくぶんバカにしていたのだけど、今回読んでみて驚いた。とにかく面白いのだ。もちろん、そのまま鵜呑みにできない部分もあるのだけど、とてもバカになんかしていられない、鋭く存在を問う問いの深さはハイデガーの存在論的差異に直行するものであるように思える。
あんなにバカにしていたプラトンが、こんなに面白く夢中になってしまうなんて、なんか恋愛マンガの恋愛みたいだ。

そこで、今日から少しは「差異と反復」の読みから少し外れて、新しい章として「ソピステス」について考えて、それからまた「差異と反復」の読みに戻ることにする。

今日は「ソピステス」216~242B(プラトン全集3p1~p80)を読む。


「ソピステス」とは

「ソピステス、あるいは〈有〉について」はプラトン(BC427~BC347)後期BC367~360頃の著作。「ソフィストとは何か」という問いを分割の方法によって問うなかで、「〈有らぬ〉は或る意味で〈有る〉」であることを考察するものである。(「ソピステス」とはソフィストの古代ギリシア語表現のこと。)

しかしこれ、とっても面白いのに、文庫化されず、「岩波書店・プラトン全集3」に収録されているだけ。でも絶対おすすめである。「差異と反復」を読むためだけでなく、ライプニッツ「モナドロジー」にもスピノザ「エチカ」にもストレートに繋がるので、みんな是非読んでほしい。

Platon プラトンPlato BC427~BC347
登場人物は、エレアからの客人という賢者とテアイテトスという聞き手の二人のほかにソクラテスとテオドロスをあわせて4人。エレアからの客人とテアイテトスの問答が話の中心で、「ソフィストとは何か」を議論していく。


魚釣師の技術

ここで問われるべき本来の問題は「ソフィストの技術とは何か」であるが、それを問う前に、「何かを何かだとする」ということがどういうことなのかを考えるために、エレアからの客人とテアイテトスは小手調べ的に「魚釣師の技術」について考えている。
それによると、

「魚釣師の技術というものは、
①技術であり、
②そのうちの、作る技術ではなく、獲得する技術であり、
③そのうちの、交換の技術でなく、捕獲の技術であり、
④そのうちの、狩猟する技術であり、
⑤そのうちの、生物を狩猟する技術であり、
⑥そのうちの、水棲動物を狩猟する技術であり、
⑦そのうちの、漁猟であり、
⑧そのうちの、打って傷つける漁であり、
⑨そのうちの、下から上へ引き上げるタイプの漁の技術である」、

とする。
 Photo_20190629212701  
ここでプラトンは、何かを何者かだとするという作業とは、概念を分割することによってその概念自体の定義を図る作業であるとする。ドゥルーズによると、プラトンのこの「分割」という作業はアリストテレスの種と類の分類化に似ているけれども、アリストテレスのやり方が同一性をもとにしているのに対して、プラトンのやり方は同一性に基づかないと言う。それは、エレアからの客人とテアイテトスの2人が問答する時に、すでに決定している答えを教えてもらうだけなのではなく、問答の中で定義自体を探り出そうとすることによって同一性からの逃れられると言うのだ。

 
「ソフィストの技術」とは何か

そして、分割の方法を確かめた上で、今度は「ソフィストの技術」についても考察し、その分割を図る。
ここで問われているソフィストとは、真理を正しく知らないのに若者に対して真理を知っている風を装って道を説く、偽物の知恵者のことである。真理を正しく知っているとされる「哲学者」に対して、否定させるものとして捉えられている。しかし、偽物が偽物であるということの意味を問うなかで、「〈有る〉とは何か」「何かが何かであると何か」を深く考察することになっていく。

「魚釣師の技術」と同様に、「ソフィストの技術」を考える。

「ソフィストの技術とは、
①技術であり、
②そのうちの、作る技術ではなく、獲得する技術であり、
③そのうちの、交換の技術でなく、捕獲の技術であり、
④そのうちの、狩猟する技術であり、(ここまでは魚釣師と同じ)
⑤陸上歩行動物の、
⑥慣れておとなしい動物(人間)に対する、
⑦言いくるめの技術であり、
⑧私的な狩猟術であり、
⑨そのうちの、報酬を受け取る、
⑩相手を楽しませるのでなく、徳を授けるタイプの教育とされる狩猟である」
とする。

(図ソフィストの技術1)
 1_20190629211501

そして、このようにして、どんどんと考察し分割していき、


「ソフィストを、
1)報酬を受けて金持ちの若者たちを狩猟するものであり、
2)魂のための学識を扱う通商業者であり、
3)学識を扱う小売業であり、
4)或いは、学識の自作直売業であり、
5)闘い取る技術に属する言論のプレーヤーであり、討論の技術を専門とするものであり、
6)学びの妨げを取り除き、魂を清める人である、」
とする。(図ソフィストの技術2~6)
2_20190629212701
34
5
6 


ソフィストの詐欺性

ここまでの考察では、ソフィストは素晴らしい技術の持ち主に見える。
しかし、ここからそこに疑問が挟み込まれる。
まず、人間はあらゆる事柄を全て知ることは不可能である。
しかし、ソフィストはあらゆる事柄について知っていると主張している。
だから、ソフィストはあらゆる事柄について「見せかけ」だけの知識しか持たない、とする。
また、人間はあらゆるものを作ったり為したりすることはできない。
もし、できるとすれば、それは遊びとして(ゲームとして・おとぎ話として)に過ぎない。
だから、あらゆることを知っていて、それを教えることができるという人がいるなら、それは「遊び」の種類としての真似でしかない、とする。
そこで、そう考えると上のソフィストの定義にさらに次の分割が加えられなければならない。

「ソフィストの技術とは、
①実物ではなく、似姿(影像)を作って見せる騙し方で、
②その似姿は、言葉による影像であり、
③そのうちの、原物と同じ長さ同じ色の模写像ではなく、原物より美しい〈見かけだけ〉の像を作る技術である」
とする。(図ソフィストの技術7の上半分)
7
つまり、ソフィストとは、言葉で原物をそのままの模写像として表現して理解するのではなく、言葉で現物の〈見かけ〉の像を作りそれを原物とすることで、人を騙す詐欺師だと言うのだ。


パルメニデスの「有らぬが有ることは証しされぬ」

なぜ、ソフィストが原物そのままの模写像でなく、〈見かけ〉の像を作ってしまっている、と言えてしまうかと言うと、それは、人間には原物なんか知り得ないからである。
しかし、そうだとするとそれはおかしな話にならないか。
人間には知り得ない原物の像を「虚偽」だとするとき、原物を知り得ないのになぜそれが「虚偽」だと言えるのか、「虚偽」であることの根拠こそが逆にあり得ないはずじゃないか。
それに、「世界の有り方についてそれが虚偽である」というとき、それが「虚偽」だと言えるとすることは、「有らぬもの(非有)」が「有る」ということに他ならない。それは、かのパルメニデスが、
「有らぬものが有ることは決して証しされぬ、汝、すべからく探究にあたってこの道から想を遠ざけよ」と語ったことに反する。
 Parmenides_20190630084801 パルメニデス Parmenidēs BC500またはBC475~?
パルメニデスは、古代ギリシアのエレア派の哲学者である。生年のBC500かBC475・没年不明というから、BC469頃~BC399のソクラテスよりやや早く、BC500頃~BC428頃のアナクサゴラスとほぼ同年代だと思われる。

この「ソピステス」という著作で、プラトンが「エレアからの客人」なる人を主人公にしたのは、パルメニデスとの対立を強調する意味であったのじゃないかと思う。
また、パルメニデスは「存在は一にして永遠である」とし、
「有るものは不生なるものゆえ、不滅なるもの、何故なら完全無欠なるもの、また動揺せざるもの、無終なるものゆえ。それはかつて或る時にだけ有ったでもなく、またいつか或る時に初めて有るだろうでもない、何故ならそれは現在一緒に全体とし、一つとし、連続せるものとして有るゆえ。何故なら、そのためにどんな起源を汝は探そうと言うのか」とも言っている。


〈有らぬ〉のパラドクス

そこで、ソフィストとは何かの問いからいったん離れ、この「有らぬ」の問題を検討する。
プラトンはここで〈有らぬ〉についてのパラドクスを挙げ、その考察の困難さを説く。

① パルメニデスに従えば、〈有らぬもの〉は〈有〉の何かに適用されてはならない。
② そして、すべての〈或るもの〉は〈有〉に対して関連づけられて語られなればならない。
③ それゆえ、〈有らぬもの〉に対して〈何か或るもの〉を適用してはならない。
④ 一方、〈何か或るもの・ti(単数形)〉は一つのものを表し、〈2つの或るもの・tine(双数形)〉は2つのものを表し、〈或るものども・tines(複数形)〉は多くのものを表す。
⑤ しかし、〈何か或るもの・ti〉を表さないことは、1つも無いものを表すこと、にはならない。
⑥ また、〈有〉に対して「有の内の何か」は付け加え得るが、〈有らぬもの〉に対して「有の内の何か」を付け加えることはできない。
⑦ 数は〈有〉に入る。ゆえに、〈多〉も〈一〉も〈有らぬもの〉に適用することができない。
⑧ だから、〈有らぬものども(複数形)〉も〈有らぬもの(単数形)〉も使えない。
⑨ それゆえ、〈有らぬもの〉という表現は何かを表すものではあり得ない。
⑩ つまり、〈有らぬもの〉は、それ自体として正しく思考することができない。
⑪ しかし、その結論は、「〈有らぬもの〉は、それ自体として正しく思考することができない」という話自体が思考できないことを示すものである。
こうして、〈有らぬ〉はパラドクスに陥る。

(プラトンのパラドクスと言えば、一般的には「メノン」や「パイドロス」に出てくる「探究のパラドクス」と呼ばれるものが有名だけど、それに劣らず、このパラドクスも結構な考察のしがいがある題材だと思う。)

 

ソフィストの反論から〈有らぬ〉は〈有る〉か

エレアからの客人とテアイテトスは、ソフィストを「見かけだけが真実に見えるような虚偽を作る技術者だ」としたが、それに対してソフィストが反論してくることを予想する。
ソフィストは「見かけだけの影像」とは何かと聞いてくるだろう。
それに対して「真実のものではないが真実に似せた別のもの」と答えるとする。
すると、ソフィストは「その、真実にあるのではないが真実に似せた別のものは、真実にあるのか」と聞いてくるだろう。
だからそこで、二人は、「その影像が真実にあるものそのものではないとしながら、そのような影像と呼ぶべきものが真実にある」としなければならないことになる、と考察する。
ソフィストを「虚偽の判断をするもの」とすることは「虚偽が〈有る〉」とすることであるし、〈有らぬ〉が〈有る〉とすることであると認め、〈有らぬもの〉が〈有り〉得るとするのだ。

「有らぬが有ることはない」としたパルメニデスに反して、「有らぬが有る」とできるし、そうするべきだと言うのだ。しかし、それって、単純に矛盾なのではないか。この点について、エレアからの客人とテアイテトスはさらに「存在」の意味を深く考察し、それはハイデガー的な存在論的差異に至っていくものだと僕には思える。

しかし、それはまた、明日。

 

つづく

<プラトン「ソピステス」を読む>

 

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