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2019年6月30日 (日)

動と静のジレンマ〈プラトン「ソピステス」を読む2〉

プラトン「ソピステス」を読む2

今日は「ソピステス」242B~251A(プラトン全集3p80~p110)。

ソフィストの技術を問い、〈有らぬ〉のパラドクスを問うなかで、エレアからの客人とテアイテトスの二人は、パルメニデスの教えに反して「有らぬが有り得なければならない」ということ、しかしそれはそれ自体矛盾してしまう困難を含んでいることを考察した。
そして、さらに二人は「〈有らぬ〉が有る」のなら「〈有る〉はどうなのか」を問い、存在について考察する。今日はその考察を追う。

 


万物は〈一〉か

ここで二人は、話を大きく広げ直して、万物の〈有〉について様々な識者が様々な持論を挙げていることに関して問い直す。
〈有〉について、みんな勝手なことを言う、とエレアからの客人は嘆く。〈有〉は「三者」だという人。「それ以上」だと言う人。「二者」だと言う人。「一者」だと言う人。しかし、どれもよく考えるとおかしくないか。

例えば、万物が「熱いもの」と「冷たいもの」の「二者」だけだとするとどうか。その両方が一つ一つあると言うとき、その両者が「ある」というその「ある」とは何か。
「有る」は「熱」と「冷」に次ぐ3つめなのか? でも、万物が二者なのだから3つ目とするわけにはいかない。
では、「熱」か「冷」かのどっちかだけが「有」でもあることにするか? しかし、それでは「有」でない方は「有らぬ」ものになってしまってダメだ。
2つとも一緒に「有」にするか? それでは「二者」ではなく「一者」だ。

では、万有を「一」としてしまえばよいか。
そのときに何を「有る」と呼べるのか。その「一」と〈有〉は同じなのか。
万有を「一」としてしまったら、そこに2つの名を「有る」ことにすることができるのか。
そもそも万有が「一」ならば、名が存在すること自体が理にかなわないのではないか。名が事物と別物なら2者があることになるし、名が事物と同じなら、それは何者の名でもないとするか、あるいは、名の名だとするかしかできない。そうなると、その「一者」は一者の名であり、単に名前としてだけの一者でしかないことになる。


〈全〉は〈一〉か

ではでは、全体〈全きもの〉を、〈有るものであるところの、一なるもの〉とは別のものとするべきか?或いはそれが同じとするべきか。
同じだとするならば、一者においてどこにも部分があり得ないことになる。
パルメニデスは、その一者について「どの側から見ても丸い球に似て真ん中からあらゆる方向に均衡を保つ。こことかしこにおいて、より大より小はあってはならぬ」と言い、〈全て〉がそのまま〈有る〉であり〈一〉であるとしているようである。しかし、それが「丸い球」として捉えてしまえるものなら、そこには中心と端があり、そこには部分があることを認めていることにはならないか。真の意味で一者は、正確には、絶対的に、部分に分かたれ得ないものとすべきではないか。

でも、そうだとすると、〈有るもの〉は、一者であるという状態にあることによって、〈一〉であり〈全体〉であると考えれば良いのか。
その答え方には、

①「〈有るもの〉は一者であるところの全体ではない」でありながら「〈全体〉そのものはある」とする。
②〈有るもの〉と〈全体〉が別のもので、〈有るもの〉はあるが、〈全体〉はないとする。
③〈有るもの〉は〈全体〉でありながら、〈全体〉が部分を持ち得る方策をさらに探る。

の三つがあるだろうか。
しかし、①の、「〈有るもの〉は一者であるところの全体ではない」でありながら「〈全体〉そのものはある」とするなら、〈有るもの〉は自分自身に不足を持つ不完全な存在だということになる。〈有〉は〈全〉でなく、かつ、〈全〉は〈有〉であるのだから、単純に矛盾であり、〈有〉は〈有らぬ〉ことにならざるを得ない。
また、②の、〈有るもの〉と〈全体〉が別のもので、〈有るもの〉はあるが、〈全体〉はないとするならば、やはり、〈有らぬ〉だけでなく〈有る〉になることもできなくなってしまう。なぜなら、生成は生成であるためにはその全体が生成されねばならないが、〈全体〉があると言えないとするのであれば、同時に存在も生成も〈有る〉にはできないからだ、とエレアからの客人は説明する。そしてさらに、そもそも、量そのものは必ず全体としてそれだけで量そのものでなければならないのだから、一つの全体をなさないものは量を持ち得ないとする。
これは、まさにプラトニズム実無限的な無限の捉え方であろう。しかしそれでも、ともかく、実無限の立場で考えると、やはり、〈全体〉をないとする限りは〈有る〉がないことになってしまう。

こうして、③の〈有るもの〉と〈全体〉でありながら、〈全体〉が部分を持ち得る方策をさらに探るしかないことになる。しかし、そんな道があるのか。

その問題は、身体と魂や、変転と不変や、静と動や、生命と知性などの対立する2者の対立をどうすれば受け入れられるかという話につながる。
そこで、全体と部分を考えるために、2者の対立と和解について考察する。
例えば、「魂」のような「物体」ではないものは有りえるのか。


「機能こそが実在」

エレアからの客人は、いわゆる心身問題について、2者を一元的に捉えるべきだとする。しかし、それは魂を実在しないとして物体一元論をとることでも、精神一元論をとることでもなく、両者の違いを認めながら、両者が一元的に捉えられることだとする。
まず、物体と実在は同じだとする人がいる、と言ってエレアからの客人は、批判する。正しい魂や不正な魂や思慮ある魂はそれぞれ正義や不正義を備える。しかし或るものに備わったり離れたりすることができるものは〈何者か〉でなければならない。そしてそれが〈何者か〉であるためにはそれは〈有〉に含まれねばならない。つまり〈有〉には物体と非物体があることになる。そして、
「他の何らかのものに対して働きかけるという仕方にせよ、あるいは他から働きかけられるという仕方にせよ…何らかの仕方による能動的あるいは受動的な機能という自然本来的に備えているもの、全てそのようなものは本当にあるのだ。すなわち、存在とはつまるところ機能に他ならないというのが、私が提案する規定だ」(「プラトン全集3」p99)
と言って、機能こそが実在であり存在だと主張して、二元論を一元的に統一しようとする。


動と静のジレンマ
(※注意:「動と静のジレンマ」なんて、まるで有名な言葉のような書き方をしちゃったけど、これは僕の造語なので他では通じない)

そして、エレアからの客人は、イデア論者においてのイデアと存在者の二元的な分類を〈生成〉と〈実在〉の二つに整理して、立場の違いを確認する。すなわち、〈生成〉は、存在者の請け負える有り方として、動的であり変転し、身体感覚によって世界との機能関係を持つ、とし、一方、〈実在〉は、イデアとしての有り方として、静的であり不動であり、魂によって世界に関わるとする。
この二元的捉え方において、〈生成〉は機能にあずかるが、実在は機能に適合しないとするような捉え方をしてしまうと、知ることは機能ではないことになったり、知られることが機能ではないことになったりしてしまう。しかし、実在は働きかけられることでそこには変動を被るはずだとしなければならず、そうであれば、静なるものは機能を受けることはあり得ないことになる。
また、知性を持ちながら無生命であることはあり得ず、知性と生命はつねに魂の内にある。
そして、全てが不動であれば、そこに機能はあり得なくなるので、知性はあり得ない。
他方、全てが動だけであってもやはり知性はあり得ない。なぜなら、恒常的な同一の局面というものは静止なしにはあり得ないからである。
だからこそ、我々は、「万物は静止している」を受け入れることはできず、同時に、「万物は動いている」を受け入れることもできない。万物の〈有〉は不動の全てと動の全ての両方だと言わねばならないのだ。
しかし、それも変な話ではないか。〈動〉と〈静〉は正反対であるのだから、〈有〉は〈動〉でも〈静〉でもどっちでもあるなんてことができるわけないのじゃないか?そうなると〈有〉は 〈動〉と〈静〉とは別の第三の何かになってしまうという、元のジレンマに舞い戻ってしまい、〈有る〉や〈有らぬ〉が何かに適用されるかという問いは行き詰まりとなるように見える。

ここで考えねばならないのは、
①〈有〉を、〈動〉や〈静〉やその他のものと結びつけず相互に混じり合わない、とするか、
②〈有〉を、〈動〉や〈静〉やその他のものすべてが関係を持ち合うことができる、とするか、
である。しかし、①の場合には〈動〉も〈静〉も〈有〉を持ち得ないのだから、動も静もあり得ないことになってしまう。また、②だとしても、動が静止してしまい、静が動いてしまうことになるので、不可能である。


第3の可能性

このジレンマに対して、エレアからの客人は、第3の可能性があるとする。
すなわち、
「〈静〉と〈動〉は互いに混じり合わないが、〈有〉はその両方と混じり合う」
とすれば解決すると言うのだ。
結局〈静〉と〈動〉と〈有〉がそれぞれ異なりあうのだから〈三つ〉あることになる。でも、どれも〈有〉とは混じり合えるのだから〈一〉でもあることにもなる。
なんか、話がうますぎて詭弁に聞こえるが、そんな捉え方で大丈夫なのか。

エレアからの客人がこれからする説明は、「反対」と「異なる」を別のものとし、ものによっては「同じである」が「同じでない」とも両立し得るものとするようなかなりユニークな話となる。しかし、そのへんてこな世界分析を受け入れるなら、〈有らぬ〉があり得るものになり、世界は分節可能なものでありながら〈有る〉ことができるような、凄いもののようにも思える。大丈夫かもしれない、という気もする。

それが、プラトンの「分有」のアイデアで、これがまた、我々を考察の深遠へと誘いこむものなのだけれど、それについてはまた明日。

つづく

<プラトン「ソピステス」を読む>

 

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