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2019年5月 2日 (木)

「差異的=微分的な関係=比」と「副次的矛盾」〈僕にも分かる「差異と反復」1-8〉

ドゥルーズ「差異と反復」第一章「それ自身における差異」を読む。
(今日は文庫上p134~p140の一部)

ドゥルーズは、差異の哲学にチャレンジした2人の哲学者としてヘーゲルとライプニッツを評価し、同時にそれがオルジックな哲学としては不十分だと批判した。前節で、そのヘーゲルの哲学について見たので、今日は、ライプニッツについて見てみたい。

 
ヘーゲルのやり方

ドゥルーズによれば、ヘーゲルの哲学は神学的無限大にまで達し、矛盾を抱え込む。

「ヘーゲルは、類という本質的なものから出発し、そして、無限が、類に分裂をもたらし種にはその分裂の除去をもたらすものである。したがって、類はそれ自身であると同時に種であり、全体はそれ自身であると同時に部分である。それゆえ、類という本質的なものは他なるものを本質において含む」(「差異と反復」文庫上p134)

とドゥルーズが言うように、矛盾を抱え込むがゆえに、類と種を結び、普遍と個物を結び、一般性と特異性を結び付けることができるようになる、とされる。ここの話で「類」は、類の対象同士の関係性を示すものとなっていて、世界についての普遍性や一般性を表し得るもの。それに対して、ここの話で「種」は、世界の個の質について個物や特異性を表し得るもの。また、「本質」とは、その状態や性質が無ければ、その対象がその対象でなくなってしまうような、それがその対象であるための必要条件のことである。そしてさらに、ここで言う「他なるもの」ってのは、私の世界の関係性を無矛盾に説明できるような「類」の内部から外れて矛盾したようなものという「外」という意味での「他なるもの」であり、「本質」的に「本質ではないもの」を持っているという意味での「他なるもの」である。
だから、ここで説明されている「ヘーゲルのやり方」は、世界の在り方を、本質的に「他なるもの」を含む無限な「類」でもって構築することによって、その矛盾を含み込んだ世界構成でもって、「この私」の世界と「あなた」の世界とを一つの世界にしてしまい、それゆえ、「個物」としての「種」にまで到達できるものとする、というものであった。つまり、ヘーゲルの哲学は、無限と矛盾によって、個と一般をつなげるという無理難題をやり遂げるというものだった。

 
ライプニッツのやり方~副次的矛盾
 
Leibniz_1 G.W.ライプニッツGottfried Wilhelm Leibniz1646~1716

これに対して、ドゥルーズは、ライプニッツの哲学を「無限小」と「副次的矛盾vice-diction」によって成っているとする。

「反対にライプニッツは、現象に関しては、非本質的なものから―運動から、不当なものから、異なるものから出発する。まさに非本質的なものこそが、無限小のおかげで、種として定立されると同時に類として定立されるのであり、そのようなものである限り、結局は「対立した〈準⁻種〉」に帰着する。このことが意味しているのは、非本質的なものは、他なるものを本質において含まず、ただ固有性においてのみ事例においてのみ含むということである。…無限小の方法は(一方の本質が、他方の本質に対して、非本質的な役割を演じる限りにおいて)諸本質間の区別を維持する以上、矛盾とはまったく異なっている。そうした無限小の方法には『副次的矛盾』という特殊な名を与えねばならない」(同p134)

ヘーゲルのやり方が「類から種」、「普遍から個物」、「本質から非本質」だったのに対し、ライプニッツのやり方は「種から類」「個物から普遍」「非本質から本質」なのだ。つまり、まずはじめに、あらゆる個物あらゆる特異点を連続性のある正則点として受け入れてしまうのだ。類も、普遍的な世界のルールも、本質的な概念も、初めに設定したりしないままで、世界の構成を始めてしまおうって言うのだ。すべてに本質がない。世界には本質がないということが本質になる。そうすると、今私が感じているこの個物の質も、昨日感じた質も、あなたが感じているだろう個物も、ありとあらゆる個物が逆に普遍的なものであることにしてしまえるのだ。どんな普遍なのかは知らないが、とにかくすべての世界は同じ一つの普遍的プログラム〈モナド〉の中にある、としてしまうことができるのだ。

【副次的矛盾vice-diction】ヘーゲルの「矛盾contradiction」に対して、ドゥルーズが「副-vice-」をつけてもじった造語。無限小から世界を構築する時に「世界には本質がないということが本質になる」という設定が必要になる。また、主体が某かの表象から適切な無限小を求めようとしても、それが無限である以上、その無限小には不可能性を含み持つことになる。これは厳密な矛盾ではないが、矛盾に似た不安定さをもつ。その矛盾的な不安定を示す。

その「副次的矛盾」でもって、「種」「非本質」から、世界を立ち上げるとき、それは「個」からスタートするのだから具体的なやり方を図るとするなら、微分的な無限小から積分的に組み上げていくことになる。それが、「差異的=微分的な関係=比・rapport différentiel」によるやり方である。

 
ライプニッツのやり方

「(副次的矛盾においてこそ)差異は己の概念を見いだすのであり、むしろ直観こそが差異的≂微分的な関係≂比のために自分から消え去る。この意味は以下のように言えば明らかになる。すなわち、dxはxに対して何者でもなく、dyもyに対して何者でもないのだがdx/dyは内的で質的な関係≂比であって、特定の数値から切り離された表現をしている。しかし、その関係≂比は様々な形や方程式に対応した諸々の〈変化の度〉を持つ。それらの度自体が普遍としての比なのだ。その意味で、差異的≂微分的な関係≂比は可変的な係数の相互依存を表す相互規定のプロセスにおいて理解される。しかしなお、相互理解は、真の充足理由律の最初のアスペクトでしかない。第二のアスペクトとして十分な規定がある。度あるいは比はどれも、関数の普遍として理解される限り、その度あるいは比に対応した曲線の諸々の特異点の存在とその割りふりを規定する」(同p136)

このライプニッツのやり方、ちょっと読みにくそうだけれど、ドゥルーズの「差異=微分」のアイデアを理解するうえでずい分重要な箇所であるから、頑張って読み解いてみよう。少し頑張ればそんなに複雑な話ではない(かもしれない)。
まず、ここで語られている「x」「dx」とは何か?
僕の読みはずい分偏っているだろうからあまりに具体的に考えるのは誤読につながってしまうだろうけれど、でも具体的な事例で考えてみないとよく分からない。なので誤読をおそれずに具体例の考察にチャレンジしてみる。

 
dx/dyの意味
X_1 
たとえば、奥行きのある3次元立体としての家屋の正面と側面をそれぞれ観ている場面を考える。

とりあえず、正面から見ているときの見えている画像内容を「x1」とし、側面から見ているときの画像内容を「x2」としてみる。そして、その「x1」と「x2」の差を取って「x2-x1」を「Δx」とする。ここで注意しなくちゃいけないのは、我々は世界が「はじめて」存在者としての意味を持つ場面でこの「x」なるものを考えようとしている、ということである。そして、その上、我々は超越的な「同一性」をも捨て去った地点でその世界を立ち上げようとしている、ということである。そのような原初の地点においては「x1」や「x2」はそのままでは意味を持つことができない。同一性を持ち込まないということは、超越的な何かとの対比で意味を持つことができないゆえに、あらゆる存在対象はそのものだけの単品では意味を持たないことになるのだ。だから、存在者がどんなものであるかは存在者同士の差を取らねばならない。それが「Δx」である、としよう。
しかし、「世界の中にΔxがある」と言ってみたところで、それは何を意味するものなのかを表現できるシステムはまだそこにはない。そこで、そのシステムを作るために、「Δxがどんな環境の中で存在しているのか」をΔxから考えあげる必要がある。それをするのが微分と積分なのじゃないだろうか。
Δxを微分することによって世界についての無限小の要素を取り出しそれを「dx」とする。そのdxなる要素をまた積分して積み上げることで世界が構成され得るようになる。その積分された世界の中で、Δxはどのように位置づけられるかを見ることで、Δxを意味づけることができるようになる、というわけである。
ああ、でもしかし、dxは単なる無限小でしかないのだから、x1に対してもx2に対してもΔxに対しても、何者でもない。
そこで、上の具体例で、もう一つ、xとは異なる次元の考察軸を取ってみる。すなわち、正面から見ているときの見ている主体の状況を「y1」とし、側面から見ているときの主体の状況を「y2」としてみる。そしてその「y1」と「y2」の差を取って「y2-y1」を「Δy」とする。そして、そのΔyを無限に細分化して無限小の要素を取り出してそれを「dy」とする。そのとき、dyももちろん単なる無限小なのだからそれは何かを表すものではありえない。でも、そのx軸とy軸の関係をdxとdyの比でもって取り、「dx/dy」とすることで、そこに固有の数値を得ることができるようになる。そして、そのdx/dyについて、y1の地点におけるdx/dyからy2の地点におけるdx/dyまでを積分できたなら、「世界には立体としての建物がある」という言明を意味あるものにすることができる。奥行きのある世界で生きることができるようになるのだ。

(この「rapport différentiel(微分的な比)」は、そのような働きにおいて、まさに「微分的な比」なのだ。そして、それは、同一律を排して考察する上での「差異」に関する存在の「関係」を取り上げ組み上げて世界を構築するものでもある。なので、もともと「différentiel」に「微分的な」と「差異的」の両方の意味があり「rapport」に「関係」と「比」の両方の意味があることを考えると、「差異と反復」で財津理が「rapport différentiel」を「差異的≂微分的な関係≂比」と訳したのはすこぶる名訳だと思う。)

 
「比」が「普遍」だということ

ここまでで十分ややこしい話で、十分すごいのだけど、この話はまださらに複雑で、さらに凄いのである。何がすごいのかと言えば、こうである。
たとえば「x1の点においてのxの値」は同一性にもとづけば「x1」であったのだけど、ドゥルーズは世界が同一性にもとづかないとしちゃったのだから、それを「x1」とすることはできない。そこで、「x1の点に収束するように微分されたdx/dy」こそが「x1の点においてのxの値」を示すことができる、としてしまったのである。そして、それが普遍的な値なのだと言える、としてしまったのである。
僕には、これが相当すごいことに思える。
Y

そのすごさを見るために、もう一つ、別の具体例で考えてみよう。
色彩のある世界を或る生命体がそれぞれ或る感覚質をもって観ている場面を考える。
とりあえず、時刻t1において脳神経と身体の状態が「y1」だとする。その「y1」なる状態を持つ主体が「x1」という「色彩的見え」を感じているとする。そして、時刻t2において脳神経と身体の状態が「y2」だとし、その主体が「x2」という「色彩的見え」を感じている、とする。そうして上の話を当てはめると、どうなるか。
その「x1」においての見えが「x1で収束させて微分したdx/dy」で言い尽くされてしまうことになるのだ。「感覚質」が言い尽くされるのだ。「特定の数値から切り離された比が、普遍的な比だ」とドゥルーズが言いきっているのは、そう解釈されるべきだろうと思われる。
しかし、それって、或る意味では、とてもおかしい話ではないか。だって、今ここで問題にされていることは、例えば「クオリア」や「隔時的言明」など、決して語り得ない「他なるもの」をどうやって問うのか、という問題だったはずだからだ。そのような無茶な問いについて、何とか答えをひねり出そうとするからこそ、ヘーゲルは矛盾を孕むことになってしまうような世界を受け入れよとしたのだ。
それなのに、「dx/dy」でもって「脳状態に対する色彩感覚」を普遍的に言うことができることになってしまうと、言ってるではないか。そんなことをOKとしてしまうのであれば、他者のクオリアでさえ、私の手中にあるものになってしまうはずだ。そんなことが許されるなら、隔時的言明の問題も他者問題もすべて解消されるはずである。
こんなやり方がアリなのであれば、それぁ、「個別から普遍に到達する」などという無茶を可能なものにすることはできそうに思える。
とにかくすごい大風呂敷なのである。

 

そこで、この無茶を成すために、ライプニッツは、「連続律」と「不可識別者同一の原理」をもってきて説明する。また、ドゥルーズはそのライプニッツのやり方について、深く評価しながら、しかし、それでもその世界設定が差異の哲学として不十分だとダメを出すのだが、それについては、次節に回す。そして、次節で、ソーカルが衒学的で意味がないと批判した文が、結構ちゃんとしてて深い意味があることを読んで、ソーカルに反対したい。

つづく

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