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2019年3月10日 (日)

「存在の一義性」へのスコトゥスとスピノザ汎神論の向かい方〈僕にも分かる「差異と反復」1-3〉

ドゥルーズ「差異と反復」第一章「それ自身における差異」を読む。
(今日は文庫上p117~121の部分)

ドゥルーズが〈存在の一義性〉を説くのは、個物を個物として認めながら諸々のものが存在するとするためにはそれらが皆一つの同じ意味で存在するとするのでなければならないとしたからだった。そこで、ドゥルーズは、スコトゥスやスピノザやニーチェがどのように〈存在の一義性〉を成立させたのかを検討する。

①汎神論に陥らずに有限と無限に対してニュートラルでいられる定義をもとめたスコトゥスと、
Scotusヨハネス・ドゥンス・スコトゥスJohannes Duns Scotus1266?~1308

②汎神論を説いたスピノザと、
Spinozaバールーフ・デ・スピノザBaruch(Beneductus) De Spinoza1632~1677

③神の不在を受け入れた上で永遠回帰を説くニーチェ。
Nietzscheフリードリヒ・ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzsche1844~1900

今日は、「差異と反復」文庫上p117~121の部分から、①スコトゥスと②スピノザの一義性の部分を読む。

 
スコトゥスの〈一義性〉

「被造物(もの)と非被造物(神)」はふつう絶対的な対立だとされる。「有限と無限」も「特異と普遍」も絶対的対立だとされる。しかし、スコトゥスは、これらには違いが無く一義的なものだとする。そして、そのために、存在を形相的区別と様態的区別の二つの区別を分けて、その絶対的対立を対立させずに済ませる方法を考える。

 
特異なクオリアの一義性

ここで「普遍」の対立項とされている「特異」なるものは、すでに現実的に存在している内容で、一般化されることのない個体としての在り方を示すものである。
ふつう数学などで「特異」と言うと、規則から外れたイレギュラーな点のみをさすことが多いが、ドゥルーズは、すべての個物が規則に収まらないとする観点から、個物全般に特異があると捉える。その視点で、一般性に対する個別性ではないものとして、普遍性に対する特異性を考える必要があるとする。
「特異」に当たるものの一つには、例えば「いわゆる※クオリア」があるだろう。(※「いわゆるクオリア」とは、「物的存在と完全に独立」とされる本来の「クオリア」ではなく、「物的存在と某かの相関関係があるとし得る感覚質」の意。ここで検討されるべきは「いわゆるクオリア」であって、チャーマーズの説く厳密な「クオリア」であってはならない。でなければ、その特異性を同じ語義で語るなんてことに意味を見出すことができないはずだからだ。以下単に「クオリア」としているのは「いわゆるクオリア」の意味。)

この今の私が赤いものに対して感じるクオリアの特異性と、3分後の私が赤に対して感じるクオリアの特異性と、他者が赤に対して感じるクオリアの特異性は、それぞれ同じ一つの語義のもとには語り得ないとするアリストテレスやトマスアクィナスの非一義性論に対して、ドゥルーズはそれらが特異だとしながらも、一つの語義の下で語り得るものとして扱わねばならないとして一義性論を説くのだ。そして、その特異な個別のものが一義的に普遍でもあること、それがそのまま「神と物」が一義であることにつながり、「無限と有限」が一義であることにつながるのだ。

なぜか。
それは、存在に関する2つの区別、形相的区別と様態的区別を分けて考えると分かると言う。

 
形相的区別

スコトゥスの哲学において、実体は形相的区別と様態的区別の二者が統合することによって成立する。まず、一つめの形相的区別とは何か。

【形相・エイドス】formelleとは、事物の本質を表すロゴス。そのものが何であるかを定める原因。形相因になる。質量と結びついて実在を成す。

我々は、存在者がどんなふうに存在しているかを認識することによってそれが何者なのかを確かめる。たとえば、それがどんな色でどんな重さでどんな臭いでどんな硬さのどんな形のものがどこからどこへどんな風に運動してどんなものとどんなふうに関係しているか、などということを確かめてその存在者が何者なのかを認識する。たとえばそこで、或る対象が「赤いもの」という本質を有しているものだとされているとして、それが赤いものであることを確かめるためには「色」という確かめの視点がそこにあることと、その視点において「赤」というタイプに当てはまる状態であるということとが、この事物の本質を表す「形相」であることになる。

そうすると、

「複数の本質や意味が帰属する主語の〈一性〉を存続せしめる複数の「形相的理由」の間で、形相的区別が確立される以上、そうした区別は必ずしも数的区別ではない」(「差異と反復」文庫上p118)

と言うように、或る存在者の本質を「明けの明星」だとする形相と、同じ存在者の本質を「宵の明星」だとする形相とがあり得るように、異なる二つの本質を持つとされながら数的に一つのものであるような存在があり得ることになる。つまり、「神」と「もの」が二つのまるで異なる形相をもっているとしたとしても、そのことだけでは「神」と「もの」とを数的に異なるとする論拠にはならない。

また、ドゥルーズは、「実在的区別」が「形相的区別」だとする。実在は、認識から独立に客観的に存在するものだから、プラトンにおいてはイデアとしての観念論的存在が実在であった。けれども、アリストテレスにおいては、質料の中に「何ものでもないものとしての実在」が含まれてあり、それが形相と結びつくものとして、はじめて「実在するもの」としての実在となる。
それゆえ、アリストテレス自身は「実在が質料に属する」とするが、その意味で、ドゥルーズは、「実在は質料の中にあるだけでなく、実在は形相的だとも言い得る」と考えたのだろう。そして、その意味で、「神を神として実在させる形相」と「ものをものとして実在させる形相」はそれぞれ、神の実在とものの実在を異なるものとしながらも、数的には一つのものだということがあり得る、という話になる。

また、そして、もともと、スコトゥスが〈存在の一義性〉を説いた大きな理由は、「存在が一義的でないならば、個物と普遍が一義的でないことになり、個別が普遍的言明によって語ることができないことになる」というものであった。
個物がその個物として存在するときその有り方について、どこまでも異なるものだとできるような有り方があり得るとするとしても、一方で、「そのさまざまな個物がそこに存在していること」を語り得るものとするためには、そこに存在しているという意味での「存在自体」(どんなふうに存在しているかではなく、「存在していることその存在自体」)が一義だとしなければならない、ということだ。
そうすると、「神」と「もの」はいずれも、その「存在そのもの」を唯一のものとしながら、同時に、全く異なる別々な形相を持つことも可能だということになる。「神」と「もの」がどんなに異なる存在であったとしてもその「存在自体」は一義だとすることが可能なのだ。

 
様態的区別

この「形相的区別」とは別に「様態的区別」なるものがある。それはどんなものか。

【様態】modeとは、デカルト・スピノザ以来、事物の本質的属性と対立するものとされた、事物の偶然的な性質。様。様状。状態。偶有性。のこと。
「事物の在り方についての諸規定を意味する。ただしこのような諸規定のうちでもその事物にとって不可欠な基本的性質(本質)が属性とよばれるのに対し、様態はその事物にとって付帯的、偶有的であるような諸性質、諸規定を意味する」(日本大百科全書)

アリストテレスは「形相」と「質料」を対にして捉えた。形相が必然的形式であるのに対して、質料がその偶有的な内容で、両者が揃うことによってはじめて実在する対象が実在し得るものとなる。「様態」はその質料を説明するものである。
(ただし、「質料」が内容そのものであるのに対して、「様態」は内容の状態を示すである点で、言葉の意味に少しのズレはある。)
つまり、様態とは質としての状態なのだから、たとえば、「私が感じるクオリアの状態」なんてものは、まさに様態にあたらねばならないだろう。だから、

「様態的区別は、存在と諸属性と、それらの存在や諸属性にとって可能なもろもろの強度的諸変化との間で確立される。このような、たとえば白色のもろもろの度は。個体化の様相なのであって、無限と有限がそれらの様相のうちでもまさしく特異な強度を構成している」(「差異と反復」文庫上p119)
(注、【強度】intensitéとは、ドゥルーズ哲学において、形相によって分析認知される以前の個物そのものの質的な度合い。)

とドゥルーズが言うのは、「私が今現に感じているこの白色のクオリア」という特異点と、「3分後の私が同じ白色を見たときに感じるクオリア」という特異点と、「他者の一人が同じ白色を見たときに感じるクオリア」という特異点が、それぞれもろもろの変化をもって異なる様態だとできる、という話だと読める。

「したがって、一義的存在は、それ自身の中性的〔ニュートラルな※〕性格からすれば、複数の質的な形相、あるいは相互に区別されながらもそれぞれは一義的な複数の属性を巻き込んで、複数の強度的ファクターすなわち個体化の度にみずから関係し、かつ、それらのファクター・度にそれらの形相や属性をも関係させる。もとよりそれらのファクター・度は存在が存在である限りにおいて有している本質を変更することなく、存在の様態を変化させるものである。」(同)
(※邦訳の「中性的・中立的」は、原文では「neutre,neuter」なので、普遍と個物の中間にあるというイメージより、「普遍と個物に弁別する以前の『ニュートラルな』」という意味合いだと思われる。)

だから、スコトゥスが「個物」と「普遍」を別のものだとも同じものだともしないままで、ニュートラルな立ち位置のままでそれに対応しようとするのであり、その上で、「個物」を語ろうとするときに、次のことが要求されることになる。
すなわち、見る人やその状況によって同じものを見ても感じるクオリアが異なり得るとするような複数の「質に関する形相的区別」や複数の「強度的ファクター」が、唯一の一義的な〈存在そのもの〉を共有し、その〈存在そのもの〉の本質を変更しないままで、「質に関する」個々の「形相的区別」が異なっているだけだとしなければならない。
そうでなけれな、その個々の「区別」が「同じであり得る」だとか「違い得る」とかを言うことにすら意味はなくなってしまうはずで、そのため、他の個別を語れなくなるはずだ。
それゆえ、この私の個別すら語れなくなるはずだからだ。

「質に関する形相的区別」なんて単純な語義矛盾なようにも思えるが、そのようなものが想定可能だとし、さらにそれを共有可能だとすることが、「個別」を語り得るものにするための要請なのである。

「区別一般が存在を差異に関係させる、ということが本当だとすれば、形相的区別と様態的区別は、一義的存在がそれ自体において、それ自体によって、差異に関係する二つのタイプなのである」(同)

様々に語り得る区別が、真に個別で特異な差異と関係づけられ得るものだとされるのであれば、その時には形相タイプの区別と様態タイプの区別はそれぞれが一義的存在の下に関係しあうものとして扱われなければならないのだ。

 
「考えただけ」

だからこそ、スコトゥスは、「個物」を語り得るものとして捉えるためには以上のような「存在は一義である」とする定義される「個物」を想定したのである。しかし、それはそのような〈一義的な存在〉や〈一義的存在によって語り得るものとなった個物〉を発見したのではなく想定しただけなのである。
そのことをドゥルーズは

「だからこそ、彼は一義的存在を考えただけなのである」

と言う。しかし、それはぜんぜん悪い評価なのではなく、もともと発見する必要のなかったものをその必要性から「想定」できてしまったというところに大きな手柄があるとする。

それでも、彼はキリスト教の要請によって汎神論を避けたために、そのような「想定」を考えねばならなくなった、とも評価する。汎神論に陥れば、そんな定義づけによる想定を持ち出さなくても、もっと簡単にニュートラルな存在に到達できたのに、と。そしてその汎神論を考えたのがスピノザなのである。

 

 
スピノザの「汎神論」

スコトゥスの死後330年程してスピノザが現れる。スピノザのやり方は「存在をニュートラルなものと定義」する代わりに、「一義的存在を純粋な肯定の対象に仕立て上げる」のである。「唯一の普遍的で無限な実体と一つになったもの。すなわち一義的存在は《神=自然》である。
上で紹介した「日本大百科全書」の「様態」の説明において、

「ところでこの属性(本質)と様態(偶有性)との区別はアリストテレスにまでさかのぼるが、中世、近世の哲学でもさまざまに議論されている。たとえばデカルトでは精神と物体が実体とされ、思惟(しい)と延長がおのおのの属性とみなされるとともに、情意、判断、欲求が精神の様態として、また位置、形、運動が物体の様態として考えられている。またスピノザでは神が唯一の実体であり、思惟と延長がその属性であり、それらの変容したもの、すなわち個々の人の心や個々の物体が様態とされている。さらにロックでは、様態は印象や単純観念から合成された複合観念の一種とされている」

とも説明されている。つまり、デカルトにおいて、存在は形相的なものと数的なものが一体となったものであった。それに対して、スピノザにおいては、実在的区別は形相的であって数的区別ではないとされ、数的区別は様態的区別であって実在的区別ではないとされる。このことは、スピノザにおいては、実体が何者であるかを示す本質の形相に関することは形相的区別のみがすべてであり、その実体がいまたまたまどんな状態であるかという様態に関することは様態的区別のみがすべてである、ということ。この点こそに、デカルトモデルからスピノザモデルへの大転回があるのじゃないかと、そして、スピノザとしては力説したかった部分なのではないかと僕は解釈している。つまり、それが今、たまたま気体になっている、たまたま流体になっている、たまたま複数の物に分かれている、たまたまその状態になっている、というようなことを様態的区別として語ることができる。しかし、それをその状態にさせた原因はすべてが無限に必然な形相的本質的において神の下に決定していて、その環境にあったからそれは必然的に気体なのであり、必然的に流体だったのであり、必然的に複数の物としてあったのであり、必然的にそのような状態にあった、というようなことも、同時に形相的区別として語ることもできるのだ。そして、そこでそれについて語られ示される言葉の意味は、同じ一つの「指示対象(désigneデジニェ財津訳では「指示されるもの」)」としての実体に関係する。指示対象としての実体は、それを表現する諸様態に対して一つであり、個体化のファクターは強度的で本質的な度としてその実体に内に存在する。私が今見ているこの赤の「クオリア」にもとづいて指示される対象としての「赤色」と、他者が見ている赤の「クオリア」にもとづいて指示される対象としての「赤色」が一つの実体を表現していることにしているのであれば、そこで見られている「個別・特異」なそれぞれのクオリアは一つの自然の一部として内在していなければならない。

(なので、スコトゥスの論においても、スピノザの論においても、「いわゆるクオリア」じゃなくて、チャーマーズの言う「物的対象と完全に独立なクオリア」なんてものはあり得ない、って話になる。

「そのようなわけで、様態は「力の度・degré de puissance」として規定されてよいのであり、また、様態にとって、己のありったけの力と己の存在とを限界そのもののなかで展開するという「義務」が生じるのである」(同p120)

【力】とは、ドゥルーズの哲学において、形相によって実体化する以前の様態がもつ潜在的な実体化の力能。参照ドゥルーズの「力=累乗」というダシャレの意味

私の「クオリア」や他者の「クオリア」までも語り得るようなものとしての自然が実在するとし、それがすでに実在しているこの現実自体だとするような、「神=自然」の捉え方をするのなら、その自然にはすでにそのクオリアをはじめとするあらゆる「個別・特異」が説明可能なものとして内在されている、ということが必然的要請・義務となる。「我々が見ているこの世界は「神の=自然」の一部であるかもしれないが、けれども、見えているものと無関係で到達不可能な「物自体」や「神」なぞを想定する必要はなく、もうすでに到達できているとすれば良い。神はあらゆる全てであるのだから、我々もすでに神の一部なのだ」というのがスピノザの「汎神論」なのだ。

こうして、スコトゥスが「一義的存在」を想定し定義することによって語り得るものにしようとした「個別・特異」を、スピノザは「我々の個別も自然と神の一部だ」とすることによって、語り得るものにしたのだ。スコトゥスにおいて単に考えられるだけだった「存在の一義性」を肯定されるものとしたのだ。

 

そして、さらにニーチェは、スピノザが「汎神論」の下に「個別」を語り得るものとしたシステムから、さらに「神」そのものを「亡き者」とした。そしてその上で、「永遠回帰」によって我々と無限を一致してしまうことを示し、個別が語られ得ることを示す。そして、それによって、「存在の一義性」を考えられるだけとするのでもなく、肯定するだけでもなく、実在せしめることになる。次節でそれを見ていく。

このスコトゥスとスピノザの「存在の一義性」の話、「差異と反復」では4ページに満たない内容なのに、その読みをするのにワード文書で5ページ以上になってしまった。この調子では膨大な量になってしまう。

つづく

<僕にも分かる「差異と反復」>

「差異と反復」用語置き場

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コメント

師匠 こんにちわ

面白いです!
本当にわかってるか、怪しいですが、興味深いです。

ただ、個と類で言えば、ドウンスは、個→類で、スピノザは、類→個で、方向が違うんじゃないでしょうか。と思いました。

taatooさん、ありがとうございます。

その
スコトゥスは個→類、
スピノザは類→個、
という話、とても興味深いです。種と類の話と個物の話がどう繋がるのか、僕も悩ましく思ってたのです。
どういうことか、もう少し解説してもらえませんか?

師匠 こんばんわ

かしこまりました。うまく説明できるかどうかわかりませんが。

個(人)~種(キリスト)~類(神)
( 一体 ) これが、「三位一体」です。

(一体)の層から見ればニュートラルなので、師匠のニュートラルというのは、そのとおりだと思います。

ただ、( 一体 )への入口が、違うように思うんです。ドゥンスは、個 (人)からで、スピノザは、類 (神)からだと思います。

「三位一体」以後の解釈において、トマス派VSアウグスティヌス派の流れがあるんですけど、ドゥンスはアウグスティヌス派というのが、一般的な理解だと思います。中世の巨人(アリストテレス)VS阪神(新プラトン)です。

そして、トマス派が「類から」派で、アウグスティヌス派が「個から」派なんです。スピノザは、巨人ファンで、ドゥンスは、阪神ファンなんですね。

師匠のあきれた顔が目に浮かびますが、
「スピノザ的な実体は明らかに諸様態に依存してはいないのだが、しかし諸様態は実体に依存しており、しかも、他のものとして実体に依存しているのである」(「差異と反復」文庫上p121)

一体化する際に、三位にも、層ができるんです。
個⇔類
( 種 ) です。

個と類の関係が、形相的区別で、個と種の関係が様態的区別です。つまり、種が、諸様態なんです。
種だけ層が違うから、「他のもの」なんです。「他のもの」(種)は実体(「個⇔類」)に依存している、と説明できるわけです。

では、なぜ、スピノザは巨人ファンなのに、異端なんでしょうか。
それは、「種」の「キリスト」のところに、「自然」を置いたからです。

ニーチェの場合は、「種」の「キリスト」のところに、「超人」を置いたんじゃないかと思います。

あと、この「三位一体」モデルは、汎用性が高く、「個」の分析にも使えそうです。

「私」⇔「個」
( 人 ) これは、違うかもしれません(・・?

taatooさん、解説ありがとうございます。

でもむずかしいです。汗。

>一体化する際に、三位にも、層ができるんです。
>個⇔類
>( 種 ) です。
>個と類の関係が、形相的区別で、個と種の関係が様態的区別です。つまり、種が、諸様態なんです。種だけ層が違うから、「他のもの」なんです。「他のもの」(種)は実体(「個⇔類」)に依存している、と説明できるわけです。

のところ、も少し教えてもらえますか?

質問1)個と類が形相的区別で、個と種が様態的な区別であるとき、種と類はどちらかの区別になりますか?

質問2)三位一体の視点で、人と神が一体化可能だとしたドゥンスやスピノザが仲間で、それと人と神の視点が一致し得ないとしたトマスが対立するのなら、分かるのですが・・。taatooさんの指摘される阪神巨人の対立は、存在の一義性に関する対立とはまた別の対立ってことですよね。阪神巨人の対立と存在の一義性に関する対立がどういう感じに関わってるのか(あるいは関わってないのか)を教えてください。

質問3)僕はこのp121の「他のもの」をこのブログの次のページで、「相関主義からは到達し得ないような、理由律から外れた外側」と解釈してるのですが、それは検討違いということでしょうか?

なんか不躾に一杯聞いてしまいました。無理のない範囲で答えられるものだけで結構ですので、もうすこし詳しく解説してもらえませんか?

付け加え、

でも、「他なるもの」という言い方は「差異と反復」で何回か登場して(例えばこのスピノザの話のすぐあとのヘーゲルの話でも出てきて)、それを見ると、やはり「相関主義からの外」みたいな意味に思えるのですよね。
taatooさんの解説の「層が違う」というのには、その僕が言ってるような「主体の視点との相関とは視野が異なるもの」みたいな感じの意味が含まれてるのでしょうか?

どうも何がなんだか掴めないモヤモヤした感じですが、もしかすると何かすごい思索の視点が隠れていそうで、わくわくもしています。

師匠 こんばんわ

すごくないです。私説なのに、おつきあいいただき恐縮です。まさに神対応。

回答1)p121の原文を、私のモデルにあてはめて読んでみたら結構整合的に読めたので、どうかなくらいです。私説をもう少し披露させていただきますと、
・個⇔類の層が、形相的区別の層で、メタフイジックスの層です。
・種の層が、様態的区別の層で、フィジックスの層です。
一体化する際に、個~種~類が、2層になるというアイデアで、これは、たぶん今まで誰も言っていないまゆつばアイデアです。京都学派の田辺氏が、西田氏は種を語っていないと、批判されたという話しがもとになっています。「区別」については、どれとどれを区別してるのかは、正確にはわかりません。

回答2)「一体」と「一義」は、たぶん同じだろうと読んでましたので、師匠のいうとおりです。「存在の一義性」へのアプローチの仕方(入口)の違いですね。「私」から入るか、「神」から入るか。「一義的」には、阪神ファンなんですけど、「神」から入るのは、どうしても阪神ファンではないです。科学的ですから。隠れ巨人ファンです、きっと。

回答3)まだ、メイヤスーの議論と突き合わせていないですし、師匠の記事もp121の原文までなので、すいません。ただ、私の「三位一体モデル」で言えば、メイヤスーでは、「種」のところに、おそらく「偶然」が入るだろうと思います。

以前から少しコメントさせていただいてる、私の「神の内在化」は、「種」のところに、「神」の代替物を置くことで、「神」を隠蔽しようという意図が働いているという指摘が趣旨なので。ただ、私の「三位一体モデル」で言えば、メイヤスーの場合は、「種」のところに入るのは、きっと「偶然」だと思います。「偶然」という名の「神」ですね。

最後のところが、誤って、繰り返しになってしまいました。すいません。

ありがとうございます。
少し分かる気がするところもありますが、やはりよく分からないところもあります。じっくり考えてみたいと思います。

師匠 昨日は、だいぶ、回ってました。

巨人じゃないですね。ヤクルトです。

祝!ココログ回復。

師匠 こんばんわ。昨日の続きを考えました。

トマスは、正統派で
人⇔神
(キリスト)

スピノザは、異端で
人⇔神
(自然)

ドゥンスは、異端で
人(私)⇔神
(私)

ニュートラルなのは、トマスで、スピノザは、神寄りで、ドゥンスは、人寄りじゃないでしょうか。
スピノザとドゥンスは、異端仲間です。一体という意味では、皆ニュートラルですね。

ドゥンスのモデルの2つの(私)を考えると
個⇔類の層の(私)は、心とか魂とか意識とかで、存在としての私<存在論>です。
種の層の(私)は、身体であり、現象としての私<認識論>です。
少し前に、どなたか存在論と認識論を区別してコメントされてたのを思い出しました。

メイヤスーの相関主義で言えば、
個⇔類の層が、強い相関主義
種の層が、弱い相関主義でということなんでしょうか。

師匠の言われる「主体の視点との相関とは視野が異なるもの」で言えば、
個⇔類の層が、「相関の視野」
種の層が、「主体の視点」ということなんでしょうか。

ヘーゲルのところ、まだ読んでませんが、
正⇔反
(合)
ヘーゲルの弁証法もまた、三位一体モデルなわけです。パクリですね。

メイヤスーの議論を三位一体モデルに、むりくりあてはめてみました。
理由率⇔非理由率
(偶然)
相関主義⇔思弁主義
(理由)
師匠ならメイヤスーの三位一体を、どう考えらえられますか。

三位一体モデルは、思考の型なので、汎用性が高いということなんでしょうね。
理由率の外も、非理由率の外も、このモデルに、当てはまるというでいいんでしょうか。
どう思われますか。

taatooさん
ありがとうございます。

申し訳ないですが、基本的なところから質問させてください。

人⇔神
(キリスト)

というのは、どう読んだらよいですか?
「人と神は対立的な存在?」
「人と神は必要十分条件的に対応する?」
「人と神は行ったり来たり交換可能?」
そして、そこで(キリスト)をどういう関係と読むのか?

そこが僕はまず分かってないです。

それから、
僕が「ニュートラル」だとしたのは、
スコトゥスとスピノザの「存在の一義性」においては、存在が被創造者に対しても創造者に対してもニュートラルな立ち位置にあるとされるので、それが「一義」になる・・ということでした。
が、
taatooさんが
「ニュートラルなのは、トマスで、スピノザは、神寄りで、ドゥンスは、人寄りじゃないでしょうか。」
と言われてるのは多分違うことについて語られてるように思うのですが、それが何なのか、それも分かってないです。

そこをもうすこし詳しく教えてください。

人⇔神
(キリスト)

は「人と神が相関可能な一つの系で、キリストはそれとは別の系」みたいな感じでしょうか?

それから、ココログまだまだ不十分みたいです。
←この左のウェブページ案内の表示も順番がおかしいままです。

また、調子わるいココログ。見えたり見えなかったりみたい

師匠 草木も眠るこんばんわ

1週間くらいコメントがブロックされていたので、それに比べれば快適です。

変なおじさんに、おつきあい下さり、ありがとうございます。

「人と神は対立的な存在?」
◆対立的もありだと思いますが、このモデルでは、どちらかと言えば、対照的がいいと思います。
人(信仰する)⇔神(信仰される)
光⇔影、陽⇔陰、ポジ⇔ネガ
國分氏の著作に「中動態」というのがあるんですけど、
英文法に、「能動態」と「受動態」ってありますよね。「be+過去分詞」懐かしい。
実は、昔の英文法には、中間項としての「中動態」ってのが、あったらしいんです。ほんまかな?
能動態⇔中動態⇔受動態
人⇔キリスト⇔神
男⇔ホモセクシュアル⇔女
真っ黒⇔グレイ⇔真っ白
グレイゾーンっていいますよね。まさに、種(諸様態)はグレーゾーンなんだと思います。
グレイには、真っグレイ、ってなくて、いろんなグレイがありますよね。
つまり、グレイゾーンはグラデュエイションソーンであり、バリエイション(諸様態)なんです。
この三位一体の、グレイゾーン(種)を、他の2つ(個、類)と、層(系)を分けて考えたほうがわかりやすいんじゃないかというのが、私オリジナルの三位一体モデルなんです。あくまでも試論であり私論です。

「人と神は必要十分条件的に対応する?」
「人と神は行ったり来たり交換可能?」
そして、そこで(キリスト)をどういう関係と読むのか?
◆一体と見ることもできるので、対応することもできるし、交換可能でもある、と思います。
以前、蓮の話をしたと思いますが、あれです。地下茎を通して一体と言えると思いますが、水面から出ているの花は、別々に咲きますよね。

taatooさんが
「ニュートラルなのは、トマスで、スピノザは、神寄りで、ドゥンスは、人寄りじゃないでしょうか。」
と言われてるのは多分違うことについて語られてるように思うのですが、
◆この後に「一体という意味では、皆ニュートラルですね。」と結びました。
一体と見れば、師匠の一義性の議論と繋がるように思います。
一体の中の、有限と無限の間に、無限のグレイゾーンが開けているというイメージです。
師匠のモデルは、「個」と「種・類」を分けようとされてるんじゃないでしょうか。
あるいは、個⇔類⇔類を、横並びに、層(系)の一体化を強調されているんじゃないでしょうか。
そして、三位一体内⇔三位一体外を考えられているんじゃないでしょうか。
どちらにしろ、「差異と反復」では、師匠の考えられているモデルが正解と思います。

「人と神が相関可能な一つの系で、キリストはそれとは別の系」みたいな感じでしょうか?
◆そうだと思います。けれど、一体という意味では、同じ系だと思います。
キリストは、人とも、神とも相関可能だからです。神の子であり、受肉された存在です。

◆メイアスーは、認識論的私と存在論的私をいっしょくたにしてるんですよね。
けど、強い相関主義の延長線上にあるドゥルーズの可能性も評価しているように、思います。
最近、やっと「有限性」買いました。まだ、2章だけしか読んでません。「差異と反復」は、手にとったことさえありません。

こんな私が、師匠にケチをつけるなんて、ありえません。が、偉そうですよね。石を投げて下さい。それ
でも、メタフィジックスは、やめれません。

解説ありがとうございます。すこし分かったような分からないような、という感じです。


>トマスは、正統派で
>人⇔神
>(キリスト)

とは、「人」と「神」を対照的にとらえ、その2者の間に「キリスト」がグラデーションなスペクトラムとしてある、という捉え方が正統派のトマスの捉え方、ということを表している。

>スピノザは、異端で
>人⇔神
>(自然)

とは、「人」と「神」を対照的にとらえ、その2者の間に「自然」がグラデーションなスペクトラムとしてある、という捉え方が異端のスピノザの捉え方、ということを表している。

>ドゥンスは、異端で
>人(私)⇔神
>(私)

とは、「人(私)」と「神」を対照的にとらえ、その2者の間に「私」がグラデーションなスペクトラムとしてある、という捉え方が異端のドゥンスの捉え方、ということを表している。

・・・・・これで、合ってますか?
これで合ってるなら、とても面白い見方だと思います。

ドゥルーズの考えでは、「存在の非一義性」と「存在の一義性」が根本的に違っていました。
「トマスやアリストテレスが『神』とそれによる『同一性』をスタート地点とし『存在の非一義性』から世界に挑んだ」のに対して、「スコトゥスやスピノザが『生』とそれによる『差異』をスタート地点とし『存在の一義性』から世界に挑んだ」点で大きく異なる、という点に注目して、世界の無限と有限の対立と一致を考察しました。

それに対して、taatooさんの視点では、そうは言っても、トマスもスコトゥスもスピノザもあんまり変わらない、とも言える、って感じでしょうか。どうでしょうか?てんで見当はずれだったでしょうか?

師匠 おはようございます。ありがとうございます。

合ってると思います。丁寧に言い直していただいて、すっきりしました。
私のここでの話は、スコトゥスとスピノザの違いを私説(稚拙)三位一体モデルで考えていました。スコトゥスとスピノザの違いは、師匠の記事にも触れられていますので、そこのところを強調しすぎたかもしれませんが、概ね、師匠の記事に沿っていると思っています。ただ、スコトゥスとスピノザの違いは、スコトゥスとトマスの違いでもあるというのが、私の考えで、そこが、ドゥルーズの色分けと違うところです。もちろん、ドゥルーズが間違ってるというわけもなく、とりあえず、強調点の違いということで、お茶を濁すとか。

あつかしくも、質問を3つほど、お願いします。

①「同一性」と「非一義性」、「差異」と「一義性」も、よくわかりました。私は、「同一性」と「一義性」を、一時、同類みたいに思ってたように思います。そこが、混乱のはじまりですか(-_-;)。 生の一体性(例えばエネルギーの流れのような)は、「一義性」的であり、「同一性」的ではないということでしょうか。

②1-5の記事で、「ドゥルーズは、、『存在の一義性』においては、同一性がすべての基盤なのではなく逆に、差異が同一性の基盤であることに、その根幹がある。」のところですが、「差異が同一性の基盤」が、「差異がすべての基盤」ではないところを、もう少し教えてください。

上位:すべて
基盤:同一性
基盤:差異

こういう理解でいいでしょうか。

③付随して、「すべて」がすべてなら、すべてが「基盤」では、という、素朴な疑問。これは、混乱からの屁理屈でしょうね。


お答えします。が、うまく答えられるかどうか心許ないです。

①〈生の一体性は「一義性」的であり「同一性」的ではないか〉については、
「生の一体性(例えばエネルギーの流れのような)」が何を意味する言葉なのか知らないので答えられません。逆に教えてもらえますか?

②〈「『存在の一義性』においては、同一性がすべての基盤なのではなく逆に、差異が同一性の基盤であることに、その根幹がある。」のところで、「差異が同一性の基盤」が、「差異がすべての基盤」ではないのはなぜか〉について、
これについては、特に他意はありません。
存在の非一義性を認める世界モデルにおいては、「同一性」が世界構築の第一ステップとしての絶対的基盤であり、「差異」もその他のすべての存在がそれに従うだけのものだ。
というのに対して、
存在の一義性を認める世界モデルにおいては、「差異」が世界構築の第一ステップとしての絶対的基盤であり、「同一性」もその他のすべての存在がそれに従うだけのものだ。
ということになる、ってことを言いたかっただけです。

「同一性」は「すべて」の基盤だったのに、「差異」が「同一性」の基盤でしかない、というような非対称性があるというつもりはなかったのです。単に「差異」も「すべて」の基盤になるのだからもちろん「同一性」の基盤にもなる、ってことを言いたかっただけです。

この「同一性が基盤にらない」とする捉え方は、ウィトゲンシュタインが「『a=a』はあり得るが『a=b』は端的にあり得ない」としたのにとても近いと、僕は思っています。もともとすべての世界が単なる無意味な混乱で単なるカオスなのであれば、そこに同じ二つのものがあるわけがない。二つのものなのであればそれはそれが二つの別物だって認識した時点で同じではあり得ない。世界は違うものだらけのものでしかない。

もしそこで、「その違うものが違うってことを言おうとするために、それが『違う』とするための前提として何と何が『同一』であるとするかの視点がなければならない」とするのであれば、その人は世界を語るためにはその「同一性」を確保するための神の視点的なものを持ち出してきてその「同一性」の基盤のもとに世界を構築するでしょう。

しかし、「『同一性』を保証する神の視点なんてものは虚構としてものしかないのだ。絶対的同一性なんてものはなく、すべての『同一性』は『差異』の上に建てられた仮設的構築物に過ぎない」という立場をとるならば、その人は「差異」を世界構築の基盤とするでしょう。

そのように考えると、
「すべて」の下に
「差異」と
「同一性」の
二つの基盤があると捉えるのは、少し違うかもしれません。

片方から見れば、すべては「同一性」の下にあり、
もう片方から見れば、すべては「差異」の下にあるはずだからです。
そして、その二者はまるで違うものなので、その二者を統合するような「すべて」の視点で包もうとしても必然的にその視点から逃げてしまうように思われるからです。

という訳で、
僕には
③〈「すべて」がすべてならすべてが「基盤」ではという素朴な疑問〉

のご質問に回答するのに、とても難しさを感じています。


多少なりとも回答になったでしょうか?真面目に答えたつもりですが、質問に逸れた回答しかできていなかったら申し訳ないです。どうでしょうか。

師匠 こんにちわ。ありがとうございます。

①について
「生の一体性(例えばエネルギーの流れのような)」は、蓮の華(生命体)を、時間でとらえなおして、動的な流れとして考えるみたいなイメージです。ベルクソンの持続とか、ニーチェの永劫回帰とか、ドゥルーズ生成変化とか、も近いと思うので、師匠の記事と繋がると思いました。

②について
またまた、すごく丁寧な回答をありがとうございます。よく、わかりました。確かに、「同一性」って、なんか怪しい言葉です。「同」じを「一」つにする。複数を前提にしたトートロジーみたいな感じですよね。

ただ、ドゥルーズモデルの4つの概念のうち、どうしてあえて、1番最初に持ってきたのか。「同一性」より「均質性」みたいな感じじゃないですかね。カオスという「均質性」みたいな。

③について
②で詳しく回答頂いて、付随的に疑問は解消されたように思います。すいません。


またまた、本を買ってしまいました。メイヤスーがまだ途中なのに。
分子生物学の福岡氏の本で、「西田哲学を読む」です。福岡氏の動画を見ていたら、この本のPVがあって、面白そうなんです。そのPVの西田氏の引用を紹介させていただくと、
「全体的一と個物的多との
主体と環境との
内と外との
矛盾的自己同一的に
尾を噛む蛇の如くして
生命というものがあるのである。」
どうでしょうか。ベルクソンとニーチェとドゥルーズが、見え隠れしているように思います。

なんか、まだ、コメント欄も調子悪いみたいですね。
見えたり見えなかったり。他のところもなかなか本調子に戻らず、ココログ、危なっかしいです。

taatooさん、ちゃんとした回答になってたかどうか心配でした。ちゃんと話がかみ合ってたように安心しました。

①について、
「生の一体性」の話は、蓮などの生命体(の連続性?)を時間内の動的な流れとして捉えられ、ベルクソンの持続につながる、というのですから、或る意味で、「世界を闢く主体の時間的な同一性」をどう捉えるかという話だと考えば良いでしょうか。
その議論は、とても興味深く思っています。
僕の理解しているドゥルーズの捉え方では、<もともと「主体の同一性」よりもまださらに根源的なものとして「差異」がある>としていると思います。その「差異」の下で、後付け的に「主体の同一性」が形づけられ、さらにそれによってその下に「時間経過」や「静的な存在と動的な存在の区別」が生じる、と捉えられているのだと、僕は解釈しています。そのような大逆転を「差異」による「コペルニクス的転回」だとしたのだと思います。
もちろん「差異」を「差異」として捉えるためにはそこに「世界を闢く主体」は必須なはずですが、その「主体」はまだ「時間的に同一であるとかないとかいう次元」を持ち得ないものとしての主体でしかなく、それが「差異」に基づいて世界構築が為されていく中で「時間的に同一な主体」に「なって」いくのだと思います。


>ただ、ドゥルーズモデルの4つの概念のうち、どうしてあえて、1番最初に持ってきたのか
については、

これは、僕の紹介の仕方がまずく、誤解させてしまいました。「同一性・類比・対立・類似」は、ドゥルーズがアリストテレスの世界観を批判的に紹介している中で出してきたものです。「ドゥルーズモデル」というわけではありません。

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