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2019年3月 8日 (金)

メイヤスー「有限性の後で」を読むための用語置き場〈思弁的実在論をわかりやすく読み解く14〉

メイヤスー「有限性の後で」を読むための用語を集めました。

 

 

 

 

 

 

あざー【hasardアザー 偶然の巡り合せ】その状況を実現させる諸法則が前もって存在することを想定した上でのランダムなチャンスのこと。何が起こるのかは偶然によって決まるのだけど、その偶然は必然的な法則によって支配されている。(「有限性の後で」邦訳は「偶然の巡り合せ」)

 

 

 

いみのにじゅうか【意味の二重化】相関主義から見た実在論の説は「存在が贈与に先立っている」というレベルの話と「存在は自ら贈与される」というレベルの話とが互いに互いを踏みつけ合って循環する無意味なジレンマだとすること

 

 

 

 

 
かーじなるすう【カージナル数】基数。集合の大きさを測るための数。要素5個の集合のカージナル数は「5」であり、有限集合のカージナル数は某かの自然数である。一般的に無限集合のカージナル数を特に「超限数」と言う。

 

かくじせい【隔時性dia-chronicité】〈世界への関係〉の以前以後の出来事に関わる言明一般のこと。「共時性synchronicité」が主体と世界との同時性を問うのに対し、世界からの主体の独立性について考えたもの。「祖先以前言明」よりもさらに世界からの時間的独立性を一般化したもの。それは科学の一部だけでなく、全ての科学の問題として考えるべき問いである。「隔時性の問題」の本質は、(科学が存在と思考との時間的隔たりを超えて実際に立証したかどうかではなく)そもそも始めから科学がそれを可能だとする方向付けをしているということ。つまり、隔時的言明とはそれが証明されているかという「事実問題」ではなく、「権利問題」である。その言明の証明に意味を与える言説の地位の問題である。

 

 
がりれいしゅぎ【ガリレイ主義】自然の数学化のこと。ガリレイは運動そのものを数学的に思考し、落下運動のすべてを加速度として示せることを明らかにした。それまで世界の一部だけが幾何学的記述を許されていたものが、世界が余すところなく数学的処理可能となった。それ以来、数学的に処理可能なものが自律性を持つこととなった。

 

がりれいてきてんかい【ガリレイ的転回】ガリレイ主義によって、人間から分離可能な世界が開陳されること。

 

かんとてきはきょく【カント的破局】カント的転回と思弁的思考の超越論的拒絶によってあらゆる絶対性が棄却され、科学と哲学が乖離してしまったこと

 

 
【カントのコペルニクス的転回=プトレマイオス的反転】科学のコペルニクス転回によってかつて不動であると考えられていた観測者こそが実は太陽の周りを回っているのだとする脱中心化の転回ではなく、カントの超越論的モデルによって反対に主体が認識過程の中心に位置しているという主体中心化の反転を為すこと。

 

かんとのもんだい【カントの問題】自然の数理科学化はいかに可能か、という問題。隔時性をめぐる絶対化の問題と、カントール的非全体の絶対化の問題の二つの問題。

 

 

 

きりすときょうてきどくだんろんしゃ【キリスト教的独断論者】我々の死後にも死後の存在として我々は存在すると考える立場。「即自=神」だと考える

 

 
きんだいかがくのこんぽんげんり【近代科学の根本原理】その言明が認識過程に取り込まれるという事実。その言明が実験データに基づく仮説に転じること。それは検証不能性ゆえということではなく、そのシステム自体が合理的議論に意味を与えるという意味において、実験と仮説がともに自らその合理性を担保するということ。それによって、隔時的言明を保証することができる。

 

 

 

ぐうぜんのめぐりあわせ【偶然の巡り合わせ】→アザー

 

ぐうぜんせい【偶然性】別様である可能性があり、現在の状態とは別の状態にもなり得たけれども、たまたま現在の状態になったのであって、そのようになった理由は無い。可能世界の想定において別様の可能性が存在する世界があることは認め、どちらに転んでもおかしくなかったとする。可能世界を前提とした上での無根拠性・無理由性。コンタンジョン。

 

 
【クリナメン】エピクロスによって考案された物質生成の運動。「逸れる運動」とも呼ばれ、空間の極小単位から単位への飛躍を指す。

 

 

 

 
けいじじゃうがく【形而上学】絶対的存在者へのアクセスができるとする思考。

 

 
げんかせき【原化石】地球上の生命に先立つ出来事や現実を示す物証。祖先以前の測定を行う物質的支え。
けんりもんだい【権利問題】明日もビー玉が落下することを証明するとはどういうことかという問題。

 

 

 

こうほうとうしゃ【後方投射】相関主義において、起点となるのは常に現在であり、その場合だけ世界は意味があるとすること。

 

 
こんたんじょん【偶然性・コンタンジョン contingence】絶対的偶然性。「儚さ」が見かけだけの偶然性であったのに対して、これは、全知の神でさえもその有り様が別様であったり非在であったりするとするような絶対的な偶然性を指す。理由律を否定し形而上学的に定められた運命を否定する。どんな存在者も必ずいつか壊れるとさえ言えないような、何でも起こり得て何も起こらなくもあり得るということの可能性である。見かけでないこの絶対的偶然性を単に「偶然性」と呼ぶとメイヤスーはした。(でも、ここではややこしいから区別のために「絶対的偶然性」と呼ぶ。)

 

 

 

じじつせい【事実性】既に事実として現在の状況であることをそのまま受け入れること。そこに可能世界の考え方を入れることを拒否するものではないが、決して可能世界を前提とするものではなく、あらゆる理由とは関係なく、そーであることを認めてしまう。可能世界の想定以前の無根拠性・非理由性。

 

じじつせいのひにじゅうせい【事実性の非二重性】事実性を事実性それ自体に帰属させることの不可能性。それによって事実性の絶対性を疑うことができなくなるってこと。

 

じじつもんだい【事実問題】明日もビー玉が落下することが証明されるかどうかの問題。権利問題が明日もビー玉が落下することを証明するとはどういうことかということを問題とするのと対比される。

 

じじつろんせい【事実論性】事実性の必然性。偶然性の必然性。事実性が非事実であり、事実性が必然であること。それは事物が「il y a ある」のは(世界の後付けの事実なのではなく)必然であること。「事実性」が非理由律においての偶然性を表しているのに対して、「事実論性」はその偶然性の必然性を表す。事実性の思弁的本質。すなわち、事物の事実性それ自体は事物の一つとしては思考され得ないということ。

 

じじつろんせいのげんり【事実論性の原理】非理由律。必然的偶然性の原理。事物の事実性それ自体は事物の一つとして思考され得ないとする。存在自体は世界内の存在でないものとしてすでに常に叶えられてしまっているが、そこではあらゆる存在者が偶然の存在だってこと。そして、その偶然性が必然だってこと。

 

じじつろんてき【事実論的】事実論性の条件を探求し限定する思弁。

 

しべんてき【思弁的】絶対的なものにアクセスできると主張するあらゆる思考を「思弁的」と呼ぶ。

 

しべんろん【思弁論】絶対なるものにアクセス可能だとするタイプの哲学。理由律から解放され「別様である可能性」が開かれるとする。思弁的哲学者は、キリスト教的独断論も無神論的独断論も相関主義も、絶対的な視点がないと批判する。この「絶対的なもの」とは、相関主義者の不可知論が言う〈別様の可能性〉それ自体である、とメイヤスーは言う。

 

じゅうそくりゆうりつ【充足理由律】→理由律。

 

しゅかんてきかんねんろん【主観的観念論】独我論的な観念論者。形而上学的主観主義。現にある主観のみを絶対だとする。キリスト教的独断論と無神論的独断論だけでなく相関主義の不可知論・相関主義も、矛盾するとする。主体と独立の即自は存在しないと言い切ることができる。死後の世界も、神も、無も、即自も存在せず、完全に思考不可能なのだ。私の死後の可能世界というものはあり得ないので、私の死は端的にない。〈即自〉などというものはなく、もしあるとすればそれは〈私たちのとっての即自〉でしかない。その意味で〈私たちにとっての即自〉から〈即自〉を差別化することは不可能である。相関主義がそれを差別化できるとするのであれば、それは完全な不可知ではなく、その違いを意味あるものとする前提があるはずである。その前提とはその両者の違いを違いだと認識することができる可能世界の想定に他ならないはずだ、とする。

 

 

 

ぜったいしゅぎ【絶対主義】独断的形而上学。他と比較しなくてもそれ自体で、無根拠にそーだと分かる存在者の存在を認める立場。

 

ぜったいせい【絶対性】超越的な視点によってすでに現在の状態であることは決定されている。それは他との比較によって論理的に導出されなくても、それとは関係なく、そーである。可能世界の想定以前の根拠性・超越者による理由性。

 

ぜったいろんてき【絶対論的】絶対的存在者ではなく絶対的存在自体に関する思考を認める立場。

 

 

そうかんこう【相関項】存在者と我々の相互関係のこと

 

そうかんこうのじじつせい【相関項の事実性】存在者と我々の相互関係が事実として存在してしまっているということ。「第一次性」との違いはどこにあるかというと、それは「相関性の絶対化」の有無である。「第一次性」だけでは「相関性」は絶対化されない。

 

そうかんこうのだいいちじせい【相関項の第一次性】存在者と我々との相互関係こそが存在の第一番の基盤になるってこと。、世界に存在している存在者と我々思考者との相互関係こそが存在の第一義だってこと。それは、思考される内容と思考するという行為が不可分だとする捉え方である。それゆえ、我々がそれを存在するものとして思考されることが、直接、その存在者と我々が相互関係を持つことそのものであり、逆に、相関することがそのまま、我々がそれを存在するものとして思考することだとして、「存在」を捉える。だから、「相関項の第一次性の基づくタイプの相関主義」においては、「世界を思考する存在者のない世界」を思考することは必然的に不可能であり、それゆえ、絶対的な存在者の存在を許す実在論や唯物論を必然的に失効させる。

 

そうかんてきじゅんかん【相関的循環】絶対的必然はつねに「我々にとって」の絶対的必然である。この事実からしてどんな存在論的証明も無条件な絶対なのではなく、「我々にとって」の必然に過ぎない。だから、デカルトが証明した神だって、それは「我々が証明した」のだから、「我々にとって」の神に過ぎず決して《大いなる外部》などではない。

 

そうかんしゅぎ【相関主義】我々は思考と存在の相互関係そのものにはアクセスできるが、その片方だけにアクセスすることはできないとする存在論の主義。相関の向こう側の存在そのものへの「乗り越え」は不可能だとする。だから、素朴実在論以外のすべての存在論は相関主義だと言える。あらゆる絶対を不可知とし、〈絶対的存在・即自〉を知り得ないとする。知とは、主体との関係においての、この世界に属する存在のみを前提にするもので、主体が不在の世界は完全に可知の範囲外のものだとする。私の死後に関する知(主体不在の知)は矛盾でしかなく、キリスト教的独断論も無神論的独断論も矛盾しているとする。(ただし、この現にある世界開闢の主体が認識する範囲内では、私の死後にキリスト教的独断論とも無神論的独断論とも違う別の様相になり得るということについては思考可能である。)〈即自〉の存在を語ることができないことはもちろん、〈即自〉の非存在を語ることもできない。その点で、〈即自〉自体を語ることはできないが、〈私たちにとっての即自〉と〈即自〉が違うものであるとすることは思考可能であることになる。
 
そうかんしゅぎてきだんすすてっぷ【相関主義的ダンスステップ】結ばれる項に対する関係の優位への信念。主体と客体はその関係が第一であり、世界が私に現れるときのみ世界は有意味であり、自我が世界に対峙するときのみ自我は有意味である。相関主義は必然的に相関主義的ダンスステップの捉え方をする。

 

そせんいぜんげんめい【祖先以前的言明】人間種の出現に先立つ現実についての言明。

 

 
そんざいてき【存在的ontique】存在者個別のあり方について問うこと。

 

 
そんざいてきぜったいかのもんだい【存在的絶対化の問題】何らかの可能な実在に関する絶対化の問題。アザーhasardとしての偶然性にもとづく仮説的法則によって(主体の在不在と無関係に)具体的な何かの存在が絶対的に可能であることを示すこと。目撃者が不在の対象でも仮説的法則によって有意味に語れ、それが「絶対」に到達可能なものであるとすること。

 

そんざいろんてき【存在論的ontologique】存在者個別の性質を問うのではなく、存在者を存在させる存在なるものの意味や根本規定についてを問うこと。

 

そんざいろんてきぜったいかのもんだい【存在論的絶対化の問題】可能性の構造に関する問題。究極のコンタンジョンスcontingenceとしての偶然が必然であり得ないとする可能性の構造のなかで、そのような構造だからこそ、逆に、絶対的で無条件的に必然となるような究極の定理が思考可能になるとすること。全体の思考可能性を認めない理論だけが「存在論的射程」を持ち得て、全体の思考可能性を認める理論はただ「存在論的射程」しか持たないということだ。そして、その「存在的絶対化」でもって(仮説的ではあるが)絶対的な対象のことを有意味に語れるようになり、その「存在論的絶対化」でもって(「どこかに」ではあるが)絶対的で無条件的に必然を導くような究極の定理があるとすることができるようになる。

 

 

ちょうげんすう【超限数】無限のカージナル数(基数)のこと。無限の集合の大きさを表す数。無限集合と言っても様々な大きさのものがあるが、最小の超限数(たとえば有理数の集合の濃度)を持つ集合をアレフゼロ・ℵ0と言い、たとえば無理数の集合をアレフ1・ℵ1 と言い、順にアレフ2・ℵ2 、アレフ3・ℵ3 、・・・と無数の無限集合の種類がある。「濃度」も同様の意味である。それを数としてではなく大きさのみのものとして表すときに「濃度」と言う場合が多い。ただし、「有限性の後で」において「超限数」は特に、カント―ルパラドクスにおいての開かれた果てとしての「究極の超限数」という意味として用いられているようだ。

 

 

つよいそうかんしゃぎ【強い相関主義】即自も即自の思考可能性もナンセンスとして認めない(ウィトゲンシュタイン・ハイデガー)。物自体の思考可能性を許さない。即自的なものは認識できないだけじゃなく、思考することもできない。〈即自〉と言われているものは、所詮〈私たちにとっての即自〉でしかない、とする(相関的循環)。物自体が在ると言えないだけではなく、無いとさえ言えない、とする。例えば、矛盾を真にしてしまえるような「魔」や、論理的不整合を覆してしまえるような「魔」を想定するとする。強い相関主義においては、そのような「魔」はもはや語り得ず、それが居るとか居ないとか言うことの真偽は、その論理性の失効ゆえに、意味を失効してしまう。だから、我々はその魔について「何かを知っている」とすることが不可能になる。知っていると言おうとしても、それは「論理的に真偽づける言語的システム」から外れたような非言語的な知でしかなく、けっきょく、自分で「知っているつもり」になっているだけでしかない、とするのだ。

 

 

【デカルトテーゼ】数学的に思考可能なものは絶対的に可能である。

 

 

 

はかなさ【儚さ précarité】存在者についての経験的な偶然性。具体的な物理事象の事例においてその状況が生じたり滅したり変化したりすることに対する予測不能性。ただし、そこで考えられている予測できなさというのは、世界に真の法則があるのに我々が気づけないだけというレベルの予測できなさであって、もともと法則なんて無い世界においてその法則の無さゆえに予測できないというレベルの話ではない。神であれば必然だと言い得る事態に対しても、我々が隠れた真実に関して無知であるために偶然だと思ってしまう。そのような見かけの偶然性をメイヤスーは「儚さ」と呼ぶ。

 

ひつぜんせい【必然性】別様である可能性はない。現在の状態になった確固とした理由があるので、現在の状態とは別の状態になり得ることはない。ただし、可能世界の想定において別様の可能世界を想定することは認められるかもしれないが、理由律のために別様の可能世界へ転ぶことはあり得ない。可能世界を前提とした上での根拠性・理由律性。

 

ひりゆうりつのつよいかいしゃく【非理由律の強い解釈】偶然性が必然的だというのは、事物は偶然的でなければならず、かつ、偶然的な事物が存在しなければならない。・・・事物が「il y a(※ある)」のは後付けの事実ではなく、必然である。

 

ひりゆうりつのよわいかいしゃく【非理由律の弱い解釈】偶然性が必然的だというのは、もし何かが存在するのだとしたら、それは偶然的でなければならない。・・・事物があるのは必然ではなく後付けの追加の事実である。

 

 ひんどのきけつ【頻度の帰結】仮に万物に自然の斉一性の原理が適応されず、何かの法則が理由なく変化し得るものであるならばその状況が頻繁に変わらないことは極めてあり得ない。しかし、現実の状況では極めて安定している。地上の物体は常に落下しようとし、物理法則は常に一貫している。 だから 、世界には自然の斉一性が適応され、法則を成立させる理由があると言える、とする推論。

 

 

ぽばーのもんだい【ポパーの問題】「我々の自然科学理論の未来における妥当性に関する問い。未来においてたとえそれらの理論が新たな実験によって反駁されるとしても、そのときに物理学はまだ続いていると想定している。ポパーは未来においてもまだ斉一性の原理は妥当であると想定しているのであり、必然的であると見なされているその妥当性にアプリオリにもとづいてこそ、彼はその認識論の諸原理を練り上げることができるのである」

 

むしんろんてきどくだんろんしゃ【無神論的独断論者】我々の存在は死によってすべて破棄されるとする立場。死によって何も無い状態が在ることになる、と言い切れてしまうことにする立場という意味で、これも独断論的である。

 

 

よわいそうかんしゅぎ【弱い相関主義】主体と独立の即自の存在と即自に関する思考可能性を認める(カント主義)。物自体の思考可能性が許されるとする。存在者は我々との相関性においてのみ認識可能であり相関性においてのみ価値を持つが、相関性の外の思考可能性がすべて禁じられるわけではない、とする立場である。カントの批判哲学において、我々は物自体をアプリオリに認識できないとされ、物自体の認識は禁じられている。しかし、物自体が無矛盾であってそれが存在することを知っているともされ、物自体の思考可能性は許されている。

 

 

らぷらすのま【ラプラスの魔】ピエール・ラプラスというフランスの物理学者が考案した思考実験に登場する完全な知性。世界に存在する全ての粒子の物理情報を知っている知性が存在するなら、そいつは、古典物理学を用いて世界の未来を完全に知ることができる、とラプラスは考えた。この架空の超越的な存在がラプラスの魔である。量子論以前の物理学は古典物理と呼ばれるが、古典物理においてこの魔が存在し得るとするなら世界は過去未来まですべてが決定論的に確定されているとすることができる。

 

 

 

りゆうりつ【理由律】ライプニッツの「充足理由律」。すべて存在するものは,なぜそうあらねばならないかという十分な根拠をもっているとする原理。メイヤスーは特に「あらゆる事物や出来事は、そのようにあるための必然的な理由を持つとする原理」とする。この原理はあらゆる事実に関してそれがそーなっている理由を説明できるものであることを要請し、思考が存在者とその存在を無条件にすべて説明できることを要請する。だから、思考は世界の法則によってすべての事実を理由づけることができるし理由づけられなければならない。

 

 

れいか【例化instancier】というのは、或る存在が個体化されなければ存在しないときそれは一個体によって例化される、として示されるもの。今ここに現に開いていて世界でありかつ私の意識であるとも言えるようなこの「現われ」はもしかすると「神」の一部ではなく、「神」そのものだというような言い方ができるかもしれない。そう考えるときのこの「現われ」は「神そのもの」であって「神の一部」ではないとすることができるとするなら、それは「神の例化」になる。

 

【例示exemplifier】とは、存在が個体化されなくても存在するときそれは一個体によって単に例示される、とされる。例えば、今この世界の内部に存在する様々なもの、りんごも、りんごを乗せてる机も、夕暮れの空も、私の身体も、もしかすると「神」の一部だと言えるかも知れない。そう考えるとき私の身体は神の一部であって神そのものではないから、それは「神の例示」である。

 

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