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« ドゥルーズが「存在の一義性」を説くわけ〈僕にも分かる「差異と反復」1-1〉 | トップページ | 「差異と反復」を読むための用語置き場(増殖中) »

2019年2月24日 (日)

ドゥルーズのノマドと個体化と一義性〈僕にも分かる「差異と反復」1-2〉

 ドゥルーズ「差異と反復」第一章「それ自身における差異」を読む。
(今日は文庫上p106~117の部分)

一義性と類比が和解できないわけを考える
トマス・アクイナスは存在が類比的だから一義なわけがないとし、ドゥルーズは存在が一義でなければダメだとした。これについて、ドゥルーズは一義性や存在を類比的だと考えてはならないということを考察する。今日は、この、一義性と存在の類比との和解不可能性を見ていく。

 

「僕にも分かる」と言っていながら今回も僕の文章は明快さに欠けてて文意が取りにくいかもしれないので、先に、まとめを言っておく。すなわち、

有限と無限の乖離や、ものと神の乖離は、そのものだけにしか当てはまらない「個物」としての在り方と何にでも当てはまる「普遍」としての在り方の乖離でもある。だから、世界を構成するものがすべて「個物」として有意味であるためには、普遍と個物は原理的に結ばれていなくてはならない。それを結び付かせ得る世界モデルでなければ、我々が生きていく舞台としての価値は薄く、我々は世界を構成させるための根源の「存在の原理」を個物と普遍を統合させ得るものとして想定せねばならない。そして、それは可能である。

という話が、今日の考察内容である。以下、このまとめに至る道をていねいに(或いは、うだうだと)考えていく。

 

論の流れとしては

1.意味論的に考察するなら、《存在》は、意義としては多義であったとしても、指示対象としては一義でなければならないことを考える。
2.判断や分析の意味を考えるにはどうしても、確定的(定住的)な理解だけでなく、不確定的(放牧的)な理解に曝されざるを得ないことを考える。
3.類比の本質においては、個体化にもとづかないことを考える。
4.《存在》が答えのない冒険の中でしか得られないものだとするなら、その《存在》は一義だとしなければならないことを考える。
5.ドゥルーズとデモクリトスの問う「差異」の近さと、その「差異」自体が《存在》であることの意味を考える

の手順で考察する。

 

 

  
意味論の3区分

存在が一義だってことは、《存在》を意味論で考えると分かりやすい(とドゥルーズは言う)。
意味論的な3つの区別がある。すなわち、

【意義sensサンス】(財津訳では「意味」):「表現されるものexpriméエクスプリメ」。英語の「meaning」。フレーゲがドイツ語で言うところの「Sinnジン・意義」にあたると思われる。指示される対象の性質を示すことで言葉が対象を指示しようとするその内容。内包的なことを指す意味での意義。「明けの明星」と「宵の明星」は同じ金星を指示していても、「sensサンス」は異なる。(本ブログでは「意義(サンス)」と表記する。)

【指示対象désigneデジニェ】(財津訳では「指示されるもの」):「己を表現するものce qui s’exprime」。英語の「reference」。フレーゲがドイツ語で言うところの「Bedeutungベドイトゥング・意味、指示対象」にあたると思われる。言葉によって指示されている対象。外延的なものを指す意味での意味。(「désigneデジニェ」は「指示されるもの」と訳されるべき語だけど、ややこしいので本ブログでは「指示対象(デジニェ)」と表記する。《存在》を問うのに「《存在》の指示対象」なんて言うのは本当はダメかもしれないけど、僕自身にとっての分かりやすさを優先することにする。)「明けの明星」と「宵の明星」では「意義(サンス)」は異なっても「指示対象(デジニェ)」は同じ。指示が個体に達するのでドゥルーズは「個体化の様態」とも言う。

【指示作用désignantsデジニャン】(財津訳では「指示するもの」):「表現するものexprimants」。「指示作用désignation」と「意義sens」を備えたエレメント。命題や名が指示対象を指示する作用の全体。「明けの明星だ」という命題において、その命題が金星を指すはたらき。なので、「明けの明星だ」と「宵の明星だ」では命題が異なる分だけ異なる。(本ブログでは、「指示作用(デジニャン)」と表記する。)

 
 

《存在》は指示対象(デジニェ)としては一つ

この3つの区別で《存在》を考えると、
「明けの明星」と「宵の明星」においてそれぞれの《存在》の「意義(サンス)」は違ってて、その見え方捉え方や実在的で形相的なあり方は「違う」と言える。
でも、その「指示対象(デジニェ)」は1つなのだから、「違う」と言っても、「明けの明星」と「宵の明星」が2個の異なる存在対象だという話では、もちろんない。つまり数的区別でも存在論的区別でもない。

ここで大事なのは、《存在》に関する問いを、その問題と同様の視点で捉えるときに、形相的に区別される複数の「意義(サンス)」が、形相的に異なっているにもかかわらず、《存在》が存在論的に1つであるような唯一の「指示対象(デジニェ)」としての《存在》に関係するということが理解できるのではないか、ということだ。そしてさらに、共通の「指示対象(デジニェ)」としての《存在》が、数的に異なったものとされるすべての「指示作用(デジニャン)」に対して、一つで唯一で同じ「意義(サンス)」でもって、それぞれがそれぞれに語られ得るものだということ、である。

つまり、それが語られ得るとすると、それが意味するのは、「指示対象(デジニェ)が存在論的に同じである」というだけでなく、「数的に区別される2つの指示作用(デジニャン)を示す2つの意義(サンス)が存在論的に同じで、一つの《存在》を指しているということあり、さらにそれは、「2つの個体化の様態に対する2つの意義(サンス)が存在論的に同じで、一つの《存在》を指しているということだ、という事態があり得ることになる。(この時点ではドゥルーズは《存在》が一つの「意味(サンス)」でもって「語られなければならない」とは言っていない。「語られることが可能」だとするだけである。しかし、それが「可能」だということがここでは重要なのだ。)

 

そこで、ドゥルーズが主張するのは、《存在》が「意義(サンス)」としては多義に語られたとしてもそこで語られる「指示対象(デジニェ)」は唯一だということなのだ。どんなに多義な《存在》が示されたとしても、その「指示対象(デジニェ)」自体はつねに唯一だ、とするのがドゥルーズの主張する「存在の一義性」である。

<pここで主張されていることは、つまり、意味論的に内包が外延に達し得るならば存在が一義だと言えることになるということだ。そして、「存在の一義性」の問いは意味論的な問いとして捉えられるし、そう捉えるべきだということなのだ。

 

 
 

定住と遊牧(ノマド)

さらにこの点について、ドゥルーズは意味の不確定性について考察することで、「存在の一義性」が意味論的な問いとして捉える以外には道がないと考えた。
ドゥルーズの意味の不確定性の議論は、ロゴス(言語・理性)とノモス(規範)に対する捉え方が、「定住的(セダンテール)」なものと「遊牧的(ノマド)」なものの両方があるとするものである。ギリシア哲学からの流れの上での言葉づかいをしているが、その不確定性の考察は「ウィトゲンシュタインの規則のパラドクス(規則の不確定性)」と似たものだと思われる。
こう言うものだ。

【定住的ノモス】 表象に対して世界を判断するのに、常識や良識でもって判断するのが最も良い「割りふり方」だと宣言してしまい、その割りふりが原理として表象されるような、固有的規則の視点で為される世界構成。その割りふりが表象に限界づけられる「属領」「所有地」として捉えられるので「定住的」とされる。世界を構成するための言語が固定的な規則を持つことができるとする捉え方。言語は全ての個体に達することができ、それによってすべての対象の個体は、くっきりと固定されたものとして捉えられる。そして同時に、多くのそれぞれの個体が互いに結びつきあって出来るヒエラルキー(階層組織)も、くっきりと固定されたものとして築かれる。
Nomade

【遊牧(ノマド)的ノモス】 定住的ノモスに対して、所有地もなければ囲いも限度もない遊牧的な規範。ここでは土地が領地として割りふられ配分されることはない。もし配分されるとすれば、それは、限界のない開かれた空間の中で配分する者が己れ自身を割りふるだけなのである。そのノマド的な割りふりは最早、規則を持つことができない割りふりであるので、万能の神的というよりすべてを破壊する悪魔的な「彷徨の配分」「譫妄の配分」と呼ばれるべきものになる。
あらゆるロゴスやノモスは、定住的なもののみに支配されることはできず、遊牧的な無規則性の基盤の上に乗っかったものでしかあり得ない。
そうであれば、存在が表象の要請に従って分割されることはなくなる。世界が構成するための規則は限界を失う。限度とはもう事物を法則に従わせ分離するための限界ではなく、自分が己自身を展開したり己の構成される可能性の全てが展開されたりする出発点となるという限界でしかない。

 
 

体化と類比の和解不可能性

それゆえ、「全ての事物が単純な現前の《全体(であり、一であるもの)》の一義性においてのみ、存在の中で割りふられ得るものとなる」・・・と、ドゥルーズは言うのだが、一挙に結論に至らないで、さらに次の点を問う。

「問い」 《存在》と指示作用デジニャンとが一挙に把握され、その指示作用を、諸事物を個体として把握させることができる本質的な様態だとするのてあれば、そのとき、その《存在》は、個物と一般という乖離を繋ごうとするものになる。だから、《存在》は(1つの論理構成では語れないものを結ぶような)「類比的」なものにならざるを得ないのではないか。それなら、世界の分配が遊牧的なもので、定住的で確定的な分配がなかったとしても、「類比」によって多義的とされるような《存在》もあって然るべきではないのか。

「問い」 また、唯一で共通な《存在》というものは、形而上的な一義でしかなく、「実在論的」に共通なものなんて何もないような存在者を指示してるだけじゃないのか。

「答え」 その問いは一義性と類比のテーゼを変質させてしまうから、それを問うことはできない。
なぜなら、類比の本質は類的差異と種的差異の共犯にもとづくものだったからだ。《存在》が一つの類だとされてしまうと、それは必然的に、種的差異としての存在の可能性を破壊する。なぜか。類比は類と類の関係を構成し世界の在り方を形作るための骨格を成す働きであったが、そのときに、諸々の存在の個体化を保証する《存在》が、類の一部として構成されてしまうと、その諸々の個体化は保証され得ないからだ。
なるほど、《存在》を類の一部とするとダメなのは分かった。では、トマスアクイナスが考えたように、《存在》が類の一部でなく、類ではない「超類」みたいなものだとすれば良いのじゃないか。いや、それでもダメなのだ。「超類」みたいなものを考えたとしても、それが類的差異と種的差異の共犯関係のシステムの一部として組み込まれているものだとするなら、そこで保証される個体性は、必然的に、「一般的な個体性」とでも言うような、真の個体性を失ったお題目でしかないものにしかなり得ないのだ。

つまり、類比が、類と種の関係性を構成する働きだとすると、原理的に、類比は個別的なものの中で一般的な形相と一般的な質料を保持することしかできないのだ。

(もしトマスの言うように《存在》が類的差異と種的差異の関係の中に組み込まれたものでありながら、かつ、一義でないとされるのであれば、その多義性は「存在の意義サンスの多義性」であるだけで、「存在の指示対象デジニェの多義性」ではないのじゃないといけない。)

それゆえ、類比は存在者の個体性について語ることができないものなのだ。

だから、類比は個体化の原理をすでに完全に構成された個体の中に探すしかないことになる。
   Photo_20190921225501
 

《一義的差異》が個体化を保証できるわけ

一方、《一義的存在》が、「個体化のファクター」に本質的直接的に関係するとするなら、その「個体化ファクター」は、個体において先験的原理として、個体化プロセスと同時的にアナーキー的放牧的な可塑的原理(作り変え可能な原理)として作用する。それは、作り変え可能なものであるから、個体を構成されるものであるだけでなく、その固定化を解体破壊するものとして構成されるものである。つまり、ドゥルーズの《一義的存在》においては、「個体化」は個体的なものが遂行するものではない。個体化は、もともとの種別化とは本性上で異なるのだ。もっと言えば、個体化は、形相と質料に先行し、種と部分に先行し、構成された個体の他のエレメントに先行するのだ。

《存在》が一義だとするこの議論は、アリストテレスやトマス・アクイナスにおいては、無限なる神には到達できないが、その神の無限性絶対性によって存在する《存在》であった。それゆえ、それは一義であることが必然的に許されないものであった。
しかし、ドゥルーズにとっては、その到達できない神は到達できないだけでなく、規則が崩壊するゆえに無限への道を探ろうとするすべてのすべは崩壊せざるを得ないのだから、そんな探索は単にナンセンスな問いなのだ。だからこそ、《存在》はどこかにある答えを探索し求めるだけの対象ではなく、必ず、答えのない冒険をする中ではじめて得られるものでしかないのだ。
Deleuzeジル・ドゥルーズGilles Deleuze1925~1995 
 

一義的存在に対して個体性が多義なのだ

そして、《存在》が冒険の中でだけ得られるものだからこそ、存在は差異について言われなければならないと、ドゥルーズは言う。

「我々はいずれ、個体化の諸差異が〈存在しない〉ということが極めて特殊な意味における事態であることを見るだろう。つまり、個体化の諸差異が〈存在しない〉のは、それらの差異が、一義的存在において否定なき〈非存在〉に依存しているからだ、ということを見るだろう。・・・存在は差異について言われるという意味において、存在こそが《差異》なのである。そして、我々が、一義的ではない或る《存在》において一義的である、というわけではなく、反対に、我々が、我々の個体性が、或る《存在》において、つまり或る一義的な《存在》に対して多義的なままである、ということだ。」(「差異と反復」文庫上p117)

この文章、どう読めばよいのだろう。

ノモスの遊牧(ノマド)性を真摯に真正面に受け止めるならば、我々は、「もともと一義的であったり非一義的であったりする世界を探ってその一義性を問うている」とし続けるわけにはいかない。「もともと、世界は一義的でも非一義的でもない」としなければならないのじゃないか。そのような虚無的な世界をそのまま受け入れた上で、それに対峙して、我々が生きていくための世界を構成するためには、《存在》は基盤を一義なものだとせねばならない。その一義的な《存在》のうえに構成されてこそ、多義的な個体性が維持され得るのじゃないのか。

もともと一義的であったり非一義的であったりする世界を探ってその一義性を問うているのではないのだ。もともと、世界は一義的でも非一義的でもないとするのだ。そのような虚無的な世界をそのまま受け入れた上で、それに対峙して、我々が生きていくための世界を構成するためには、《存在》は基盤を一義なものだとせねばならない。その一義的な《存在》のうえに構成されてこそ、多義的な個体性が維持され得る、

・・・と読めるのじゃないだろうか。

 
デモクリトスの《差異》と存在

しかし、「存在は差異について言われるという意味において、存在こそが《差異》なのである」とはどういうことなのだろう。僕には、そのような見地に立つからこそ、《存在》は差異だと言えるように思われる。
ここでドゥルーズが言ってる「差異」というのは、デモクリトスの言う意味での「差異」に近いものだと思われる。「デモクリトスの差異」についての「アリストテレスの解説」を熊野純彦が解説している。
「レウキッポスとその友人デモクリトスは、充実したものと空虚なものがすべての構成要素であると主張し、前者をあるものと呼び、後者をあらぬものと呼んだ。つまり、これらのうち充実して固いものはあるものであり、空虚なものはあらぬものであると呼び(だから『あらぬものはあるものに劣らずにある』と言われるが、それは空虚のあるは物体のあるに劣らずある」という意味である)、それらをあるものたちの質料としての原因だと主張している。・・・彼らはまた差異には、形態と配列と位置があるとも主張した。」アリストテレス「形而上学」(熊野純彦「西洋哲学史」からの孫引き)
Democritus_2デモクリトスDemocritus BC460年頃-BC370年頃

さらにそれについて「西洋哲学史」の解説。
「原子は存在する。それは『あるもの』である。けれども、『空虚』もまた存在する。『あらぬもの』もまた、あるものにおとらず存在する。――第一にあるとあらぬとの『差異』(ディアフォラ)がある。差異が存在する以上、あるもあらぬもある。」

ドゥルーズの「差異と反復」での古代哲学への尋ね方を見ると、そこで問われる「差異」はどうしても古代から問われている「差異」と関係があると読むのが適当だろう。そして、こうして見ると、デモクリトスの「差異論」はドゥルーズの語りと記述に重なる部分がかなり大きい。ドゥルーズの言う「差異」は「物質がある」と「物質があらぬ」との「差異」だけでなく、世界が「~である」と「~ではない」との「差異」までを含めて考えているようなので、デモクリトスが考えている「差異」よりも、さらに広範囲を意味するものである(と思われる)が、それでも、「ある」と「『ある』の否定」との「差異」こそが「第一の存在」だとするところは、正に、同じ存在論のアイデアだ。

とはいえ、古代から「有」と「無」に関する哲学的問いは混乱を極めている。そのなかで「有」「無」の意味するところは単純に定められるものではない。でも、ここで、デモクリトスが考えているのは「ナンセンス」としての「無」ではなく、「ものが在る」という命題を肯定するか否定するかの二値論理の真理値でもって語り得るような「有無」であることははっきりとしていると思う。そして、ドゥルーズの考えている「差異」も「~である」という命題を肯定するか否定するかという真理値でもって語り得るような線引きとしての「差異」であると言えるだろう。それは、すなわち「定住的ノモス」としての世界の「割りふり」である。

ただし、ドゥルーズが考えている「差異」は「定住的ノモス」としてのみのものではない。その二値論理的真理値の割りふりが、まったく確定不可能な不安定な規則であることを基盤とするものであること、つまり、「ノマド」としてのナンセンス性の上に立った「割りふり」、である。(さらに、この「ディアフォラdiaphora」は、アリストテレスにおいては「種差」として扱われている。ドゥルーズは、そのアリストテレスの種差のアイデアも横目で睨みながら「個物を二値論理的に肯定否定を二分するもの」として『差異』を捉えているようである。)

もともと世界が一義的でも非一義的でもないような虚無的世界をそのまま受け入れた上で、それに対峙して、我々が生きていくための世界を構成する、とするとき、我々にできることは、その世界構成を構成するための某かの論理を持ち込むことだけなのではないか。だとすると、そこに真理値があることにしてしまうのは、断然、効果があるやり方ではないだろうか。或る命題に対して肯定か否定かの割りふりの線を引く。それこそがドゥルーズの言う「差異」なのであるなら、それだからこそ、「存在は差異について言われるという意味において、存在こそが《差異》なのである」と言われたのだと、理解できる。
アリストテレスは表象の要素「同一性」「類比」「対立」「類似」の4つのうちの「同一性」を第一の前提としてたが、一義でも非一義でもないような虚無的在り様を世界の前提だとするためには「対立」こそを第一としなくてはいけないという話になる。

・・・というところが、「存在は差異について言われるという意味において、存在こそが《差異》なのである」ということであり「我々が、我々の個体性が、或る《存在》において、つまり或る一義的な《存在》に対して多義的なままである」ということの意味なのではないか、と僕は読んでいる。

多分、大外れはしていなんじゃないかと思うが、どうだろうか。

 

 

このように読むと、ドゥルーズの考える世界モデルは、世界構成をするための(まるでウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の二値論理のような)「定住的ノモス」と、それを破壊しながら支えている「ノマド的ノモス」(こちらはまるでウィゲンシュタインの「哲学探究」のように規則のパラドクスを内蔵する)から成っていると言える。この2つの視点で世界構成を見つめている点で、僕には、ドゥルーズが結構に敬虔な「ウィトゲンシュタイニアン」であるように思えてならない。

 

 

さて、そして、そのようなやり方で世界を捉えるのであれば、従来の一般的な「同一性」を基盤に据えた世界把握から大きな転換を迫られることになる。

そのため、ドゥルーズはその存在の一義性をさらに問うために、

①汎神論に陥らずに有限と無限に対して中立でいられる定義をもとめたスコトゥスと、
②汎神論を説いたスピノザと、
③神不在のニヒリズムを受け入れた上で賽が投げられていることを積極的に肯定するニーチェをそれぞれ尋ねる。

それについては、次節で。

つづく

<僕にも分かる「差異と反復」>

「差異と反復」用語置き場

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コメント

師匠 おはようございます。

ドゥルーズが、ウィトゲンシュタイニアン(舌がまわらん)であるって、今まで誰も言ってないことないですか。すごい、新説かも。ドゥルーズが、師匠の哲学に近いと感じたのも、決してはずれではなかったということですかね。

ドゥルーズのメタファーで「無人島」ってのが、お気に入りなんですけど、國分氏によれば、人が一人居ても「無人島」らしいんです。これって、ある種、主観的で独我的ですよね。ドゥルーズは、「視点」という定点はないけど、「視線」は残してる人なんだろな。きっと、そこが、メイヤスーの分類で言うところの、「主観的形而上学」の「主観的」なんだと思います。そう云えば、ウィトゲンシュタインは「強い相関主義」だったけど、どう違うんだろう。師匠は一緒って言うけど(・・?

また、思いつきですけど、スピノザの「汎神論」に対して、ドゥルーズの「汎私論」ってのはどうでしょうか。スピノザの「神」の内在化に対して、ドゥルーズ「私」の内在化って話です。これにより、三位一体が、完成する。間違いなく、新説です。

ここで一句。
「スピノザが、阪神語れば、はんしん論。」

すみません。

taatooさん、いつもいつもコメントいただけて誠に感謝しています。ブログを書き足していく大きなモチベーションになります。
また、スピノザも阪神も大好きなので、本当に阪神を論ずるスピノザを夢想して楽しかったです。

「無人島」と題されているものを全部読んだわけではないので、無人島のどこまで理解できているか分からないですが、その視点には、僕がこのブログで(ダメットのときから)ずっと言っている「冒険的世界把握」に近いものがありそうで、とても興味を持っています。

それから、おっしゃっている「メイヤスーの主観的形而上学」というのが分からないです。「有限性の後で」(p68)で語られている、相関項を事実性の下に絶対化する「形而上学」的戦略のことですか?それとも、別の話で、メイヤスーが「主観的形而上学」というアイデアを出しているのを僕が知らないのでしょうか。前者であればウィトの立場とそんなに変わらないような気もしますが、よくわかりません。

師匠 こんにちわ。

この前、ガストでコーヒーを飲んでたら、となりの席のおやじが、「二日酔いで顔がパンパンや~、顔がパンパン、パンパンマ~ン。」て、言ってました。思わずコーヒーを吹きそうになりました。どこにも居るということですね。

確かに、師匠の「冒険的世界把握」は、ドゥルーズの「生成変化」、メイヤスーの「非理由率」につながると思います。

「主観的形而上学」という言い方は、西垣氏です。師匠のメイヤスーの記事の3の「5者の対立」の④に「形而上学的主観主義」という言い方があるので、これじゃないかと思ってました。おそらく、ここのところは、西垣氏解釈と師匠の解釈が違うところですね。さらに言えば、西垣氏は、「主観的形而上学」に、ドゥルーズやニーチェやヘーゲルを分類し、メイヤスーより、「主観的形而上学」を支持されているように見えます。「生の哲学」という分類かなとも思いましたが、ヘーゲルも一緒というのは、違和感を感じます。

思ったんですけど、「相関主義」と「主観的形而上学」に違いは、「神」と関わるかどうかじゃないでしょうか。つまり、、ウィトゲンシュタインは、「神」は語りえないけど、ドゥルーズやニーチェやヘーゲルは、「神」の領域を語ろうとしている。「神は死んだ」と言うことは、「神」の領域ですよね。

taatooさん、僕がどこかで勘違いしてたのでしょう。その主観的形而上学と相関主義を同じだとしてしまってたのなら撤回させてください。

その西垣氏の「主観的形而上学」がメイヤスーのいう5つの分類の④「主観的観念論」にあたるとすれば、それはメイヤスーにおいて、相関主義とは区別されています。
僕の理解では、主観的観念論は私の死後の世界の存在を認めませんが、相関主義においてそれは存在可能です。
なので、それは一緒だとは考えません。

もう少し付け加えると、
隔時的言明に対して、

②の無神論的独断論の立場は「存在しない」とし、
④の主観的観念論の立場は「ナンセンス」とし、
③の相関主義の立場は「私の言語の示す理由律の下で有意味」とし、
⑤の思弁的実在論の立場は「非理由律の下で有意味」とする。

という感じの違いだと理解しています。

さらにさらに付け加えると、

僕が考えている「冒険的世界」は、メイヤスーの「非理由律」の行き着く先とかなり近いのですが、求めているところはまったく逆です。世界をニヒリズム的に虚無化してみるなら、あらゆる「神の視点・本当の世界」なんてものは意味を失うので、だからこそ、逆に、私の言語が示す理由律が「冒険的」に息を吹き返し、理由律によってのみ世界は「はじめて」構築され得る、というものなのです。

そこのところが、今回の記事においても、僕が最も中心的に考えている部分でもあります。
この辺り、さらに、ドゥルーズのニーチェ解釈の話のなかで、触れられたら良いなぁと思っています。

なので、僕の思想はメイヤスーに近いとも言えますが、まるで遠いとも言えるところにありそうなのです。

あと、放送大学の「現代の危機と哲学」で、ニーチェは神が死んだと言うことですでに神を認めている立場にあるとも言ってました。その辺りの神の取り扱いも面白いですね。

師匠 たくさんの回答、ありがとうございます。

なるほどです。が、師匠の勘違いとは思いません。
主観的形而上学と形而上学的主観主義は、似て非なるものです。了解しました。
おそらく、主観的形而上学は、西垣氏独自の分類であり、立場だと思います。

では、ドゥルーズ、ニーチェ、ヘーゲルは、メイヤスーのレジュメの5者の立場のどれにあたるのでしょうか。私は、弱い相関主義に一番近いじゃないかと思います。そして、弱い相関主義を継承した、より積極的な立場が、主観的形而上学なんじゃないかと。

「冒険的世界把握」と「非理由率」は、「ニヒリズム」でつながると思ったんですけど、違いましたか。

「現代の危機と哲学」はまだ、聞いてませんでした。思い付きの言い回しが、使われていたとは光栄です。ぜひ、聞いてみたいです。


僕には、ニーチェとドゥルーズのニヒリズムは「強い相関主義」に思えてなりません。

ヘーゲルは、この分類の中には入れにくいように思えますが、どうなのでしょう。

それと、メイヤスーは非理由律を謳いますが、あくまで実在論であってニヒリズムではないように思います。

師匠 こんばんわ

ヘーゲルを仲間に入れるかどうかは、ニヒリズムで色分けするか、形而上学で色分けするかじゃないでしょうか。

私は、ウィトゲンシュタインは、強い相関主義ではないんじゃないかと疑ってるくらいなので。

師匠やメイヤスーの哲学が、ニヒリズムだとは思っていません。ニヒリズムは、繋げるだけの第3者です。

ニヒリズムって、使い古されてるので、難しいです。きっと、師匠のニヒリズムと私のニヒリズムは、微妙に違います。私のニヒリズムは、おおざっぱです。誤解をまねいても仕方ないですね。

僕は僕の考えをニヒリズムとしています。それと言うのは、端的に言うと、「私や世界は私の言語と私の認識でおいて立ち上がるもの以上の意味を持つことはできない。それは、その私とはこの現実の神経線維の物的な一瞬の発火、あるいはそれに相当するものでしかあり得ず、規則のパラドクスがある限りは、その有限の発火から発生する世界は何かをでっち上げない限り原理的に有意味な世界とはなり得ないから」というものです。そして僕はそこから世界をポジティブにでっち上げていくような前向きなニヒリズムがあり得ると思っています。僕の言うニヒリズムというのはそういうイメージです。

taatooさんのイメージするニヒリズムとはどんなですか。

また、ウィトを強い相関主義としないってのは、ウィトの哲学が物自体を思考可能だとするものだという解釈ですか。

師匠 こんばんわ

ある日突然やってくるものですね。なんか急に冷めるというか。空虚とになるというか。脱力感というか。主義、イズムから、ほど遠いです。

私は、そんな感じを虚無感としてましたので、ニヒリズムは、やっぱりネガですね。ポジでもいいような気がしますが、一時的にせよ、生のエネルギーが枯渇しているような気がしますから。

ウィトの哲学は、物自体を思考可能だとするものだ、と思います。物自体を形而上学に替えても問題ない、とも思います。


taatooさん、ありがとうございます。分かりました。

ふつうニヒリズムというと、taatooさんが言われる「脱力感・虚無感」の意味合いで使われますよね。僕がひねくれてる言い方をしてました。
「世界解釈の「答え」の無さ」をニヒリズムと捉えて、無邪気にそれを単なる「ニヒリズム」として言ってしまうのは誤解の原因・要注意ですね。

でも、その「「答え」の無さ」としてのニヒリズムというのも、あるのはあるみたいですから、それと一般的な「脱力感・虚無感」とはどう関係してるのでしょう。不思議です。


また、「ウィトの哲学が物自体や形而上学を思考可能とする」というときの「思考」が「論考」における「思考」であれば、僕にはそれは不可能にしか思えないです。ここでも、もしかすると、僕とtaatooさんとは「思考」などの語義で捉え方が違うところがあるんじゃないかと疑っています。しかしそれも、安直な思い付きの思い違いかもしれません。

師匠 こんばんわ

ここでの師匠の「ニヒリズム」は哲学的で、私の「ニヒリズム」は思想的です。ただ、「イズム」は、ふつう思想、信条ですけど、「ニヒリズム」は、単なる「イズム」だけではないようにも思います。

ネガかポジかという話は、神の不在による空虚観をいかに克服するかという文脈で、克服前の暗いニヒリズムが私の「二ヒリズム」で、克服後の明るいニヒリズムが師匠の「ニヒリズム」なんじゃないでしょうか。

永井氏曰く、「空虚な穴が、ニヒリズムではなく、空虚の穴を、何かで埋めようとすることがニヒリズムである。」、だそうです。ポジティブにでっちあげることが、穴を埋めようとすることなのであれば、師匠のニヒリズムは、真正のニヒリズムじゃないでしょうか。

師匠の疑いは、その通りです。ただ、ウィトは、形而上学の領域を語っていると思うので、強い相関主義ではないと思います。


師匠 こんばんわ

削除は頂かなくていいんですけど、前回の「ウィトは、形而上学の領域を語っていると思うので、強い相関主義ではないと思います。」って、後から、ちょっと変だなと思いました。最近、頭の中で、神様論が、インフレイションしてるのが、原因と思います。

ニヒリズムの締めとして、
「不在」は、「神」だけじゃなく、「私」もだし、最近では、メイヤスーの「理由」も、ってことですよね。

taatooさん、
削除した方が良ければいつでも応じます。言ってくださいね。
でも、ウィトが強い相関主義でないというのは僕にはよく分からなかったですが、何かの思索があるのだろうなぁとは感じてましたので、別に変だとは思わなかったです。もし、また、思索内容がはっきりしてきたら、教えてください。

ニヒリズムについては、仰る通りだと思いますね。世界には絶対は絶対にあり得ず、神も、理由律も或いは逆に非理由律でさえも、そして私でさえも、冒険的に仮設的に作ってみることしかできないものだ、ってことをそのまま受け入れちゃうのがニヒリズムだと、僕は解釈しています。

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