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« 「有限性の後で」頻度の帰結がダメなわけ<思弁的実在論をわかりやすく読み解く9> | トップページ | 「メイヤスー「有限性の後で」まとめ」のPDF作りました »

2018年8月 2日 (木)

「有限性の後で」カントの問題の思弁的解決<思弁的実在論をわかりやすく読み解く10>

メイヤスー「有限性の後で」最終章を読む

 

今日の課題①:隔時的言明一般が有意味であるための条件とは何か。
今日の課題②:相関主義は隔時的言明をどのように捉え間違ったか、どのように捉えるべきだったか。

 


隔時性の問題

 

課題①

 

問題:メイヤスーの隔時的言明一般が有意味であるための条件とは何か。
答え:科学が自らコペルニクス的転回の意味を失わないための思弁的解決を図ること。また、そのために自然の数学化にもとづいた仮説的言明を構成すること。

 

前半はここを目指して読み進む。

 

【隔時性dia-chronicité】〈世界への関係〉の以前以後の出来事に関わる言明一般のこと。「共時性synchronicité」が主体と世界との同時性を問うのに対し、世界からの主体の独立性について考えたもの。「祖先以前言明」よりもさらに世界からの時間的独立性を一般化したもの。それは科学の一部だけでなく、全ての科学の問題として考えるべき問いである。

 

「隔時性の問題」の本質は、(科学が存在と思考との時間的隔たりを超えて実際に立証したかどうかではなく)そもそも始めから科学がそれを可能だとする方向付けをしているということ。つまり、隔時的言明とはそれが証明されているかという「事実問題※」ではなく、「権利問題※」である。その言明の証明に意味を与える言説の地位の問題である。
※【事実問題】明日もビー玉が落下することが証明されるかどうかの問題。
※【権利問題】明日もビー玉が落下することを証明するとはどういうことかという問題。

 

これについてメイヤスーは、科学こそが隔時的認識を可能にする。それは「ガリレイ主義」によって担保され、「近代科学の根本原理」となった、とする。
Galileiガリレオ・ガリレイ Galileo Galilei

【ガリレイ主義】自然の数学化のこと。ガリレイは運動そのものを数学的に思考し、落下運動のすべてを加速度として示せることを明らかにした。それまで世界の一部だけが幾何学的記述を許されていたものが、世界が余すところなく数学的処理可能となった。それ以来、数学的に処理可能なものが自律性を持つこととなった。

 

【ガリレイ的転回】ガリレイ主義によって、人間から分離可能な世界が開陳されること。

 

【近代科学の根本原理】その言明が認識過程に取り込まれるという事実。その言明が実験データに基づく仮説に転じること。それは検証不能性ゆえということではなく、そのシステム自体が合理的議論に意味を与えるという意味において、実験と仮説がともに自らその合理性を担保するということ。それによって、隔時的言明を保証することができる。
Copernicusニコラウス・コペルニクス Nicolaus Copernicus

 

【コペルニクス的転回】コペルニクスが地球中心説に対して太陽中心説を唱え世界把握の視点を180°回転されたこと。(あるいは、カントの超越論的認識説においての転回を指す場合もある。)ここでは、カントのコペルニクス的転回に対して元のコペルニクスの話をとくに「科学によるコペルニクス転回」と呼ぶ。

 

ガリレイ=コペルニクス的転回は「地球の中心化=人間の中心化」から「人間の非中心化」への転換でもあった。それは、世界を思考する主体が存在するか否かに関わらず、主体不在でも存在について思考できるという方法で、世界を開陳するものであった。それによって、近代科学は主体とは独立の世界について思考し得るものとなった。
つまり、科学が示し得るのは、隔時的な出来事がその存在と目撃者との相関項ではなく、それとは無関係なことを前提としたものだということだ。

 

科学の根本原理についてメイヤスーはさらに次のように言う。
「放射性物質の崩壊、あるいは星々の光の放出の原理は、我々がそれについて思考するところのものにとって適切であるような仕方で記述されるのであり、その目撃者がいるかどうかという問題が、その記述の妥当性に影響を及ぼすことはない」(「有限性の後で」p193)
つまり、例えばある原理について、

 

①我々がそれについて思考するところのものによって適切であるような仕方で記述される(言明は我々の言語で為されなければならない)が、

 

②それは目撃者がいるかどうかによって記述の妥当性が影響されない(言明の内容自体は目撃者の関与や有無とは独立である)、
ということが保証されているということである。

 

それは、我々が世界の捉え方を間違っていたとしても、我々がそれについて思考する内容そのままのことを我々は思考する権利はある、ということであり、このことが、科学が仮説を持つことに意味を与える。

 

この「コペルニクス=ガリレイ的転回」の脱中心化という考え方を採ることによって、科学は世界把握に対して「デカルトテーゼ」という超強力な武器を持った。
すなわち、

 

【デカルトテーゼ】数学的に思考可能なものは絶対的に可能である。

 

だと言えちゃうことにするのである。
「ただし、ここで言う「絶対」は「必然」ではない」とメイヤスーは言う。
「必然」は、本質的にイデア的であると想定された指示対象に狙いを定める数学に固有の特性であるのに、対して、
「絶対」は、数学的に記述可能なあらゆる所与のデータが、我々とは無関係に永続しうると考えること。それがたとえ仮定の話だとしても有意味だということ。数学的に処理可能なものが絶対的であるということは、思考の外に必然的事実として何かが実在するということでなく、あくまで仮説として我々から独立に存在する事実として提示されるということである。
つまり、数学的に思考可能だったらそれが絶対的に実在するって話じゃなくて、その実在が可能であることが絶対なのだ。と言えちゃうことになるってことだ。

 

こうして、近代科学は我々の世界すべてを数学的に定式化するための思弁的射程を発見した。
それは「科学によるガリレイ=コペルニクス的脱中心化」が数学的に処理可能なものを思考の相関項に還元できないものだとし、数学的に思考可能なものがそのままで絶対的に実在可能なものだとすることである。

 

こうして、今日の第1の課題「隔時的言明一般が有意味であるための条件とは何か」への答えは、「隔時性の問題の解決は、科学が自らコペルニクス的転回の意味を失わないための思弁的解決を図ること。また、そのために自然の数学化にもとづいた仮説的言明を構成すること」と言えることを確かめられた。

 

 

 

科学の力によって、目撃者の有無とは独立に世界の実在的な存在を仮説的に語れるようになること、これが隔時的言明の条件だということだ。

 

前半終わり
続いて第2の課題に進む。

 

 

 

課題②

 

問題:メイヤスーの解釈において相関主義は隔時的言明をどのように捉え間違っているか、どのように捉えるべきか。
答え:相関主義は主体中心化によって隔時的言明を捉えて間違えた。脱中心的な捉え方をし、数学的な絶対化をするによって非形而上学解決を要求すべきである。

 

この問題についてメイヤスーは、科学の力で進んだ隔時的な言明の意義づけに関する発展を哲学が蔑ろにしたと言う。ガリレイ=コペルニクス的転回で為された「脱中心化」を「カントのコペルニクス的転回」による主体中心化が潰したと言うのだ。
Ptolemaeusクラウディオス・プトレマイオス Claudius Ptolemaeus

 

【カントのコペルニクス的転回=プトレマイオス的反転】科学のコペルニクス転回によってかつて不動であると考えられていた観測者こそが実は太陽の周りを回っているのだとする脱中心化の転回ではなく、カントの超越論的モデルによって反対に主体が認識過程の中心に位置しているという主体中心化の反転を為すこと。
Kantイマヌエル・カントImmanuel Kant

 

そしてこの「カント的転回」によって科学は分裂させられると言う。

 

【近代科学の「分裂」】哲学的カント的転回によって、科学的コペルニクス転回の脱中心化の意味が逆に主体中心化的なものにされてしまうこと。「逆転の逆転」のこと。近代科学が引き起こした知の序列の転回(非相関的・思弁的なもの)を哲学の思考が斥けること。

 

せっかく科学が脱中心化した思弁的な世界モデルを作ったのに、カント的転回が相関主義的な茶々を入れてきて、主体中心化し、主体とのつながりのない世界を無意味化し、隔時的な言明を無意味化してしまったと言う。
メイヤスーが批判するには、哲学はどんどん「科学コペルニクス転回」から乖離していき、哲学独自の相関性空間をニッチに限定された方向に発展させてしまった。

 

「科学的人間がますます古い隔時的出来事を発見しつつ、科学的な知による脱中心化を強めていく一方で、哲学的人間は相関性の空間を、根源的に有限な世界-内-存在や、存在の時代や、言語の共同体や、「ゾーン」や、大地や、常に限定された住人の方へ還元していった」(「有限性の後で」p200)

 

と、メイヤスーは具体的な哲学を挙げて糾弾する。「世界内存在」はハイデガー現象学、「存在の時代」は実存主義、「言語の共同体」はウィトゲンシュタインをはじめとする分析哲学、「ゾーン」はドゥルーズへの批判だと思われる。(僕はハイデガーとドゥルーズしか分からず、後は大阪哲学同好会のHさんに教えてもらった。ありがとうございます。「大地」がまだ分からないので、ご存知の方は教えてほしい)

 

そしてさらに、

 

「(隔時的)言明は、出来事Xが、思考以前に、思考のために生み出されたということではなく、出来事Xが如何なる思考よりも前に、如何なる思考とも独立に、生じるということが、実質的にあり得ると言うことを思考し得ると言うこと。一方、如何なる相関主義も、その意味が最も深いものであることに同意しないだろう」(同p202)

 

として、相関主義は隔時的言明が思考以前に思考と独立の出来事が存在し得るとすることを最も基本的前提に置かないとする。
この点について、メイヤスーはその相関主義が隔時的言明をどんな風に許さないのかを検討している。
Photo_2

 

まず、メイヤスーは相関主義の隔時言明に対する対し方が2種あるとする。

 

1つ目の対応「形而上的な目撃者説」.我々の経験的存在とは別の思考があって、その別の思考との相関性がある限りにおいて、隔時的存在はあり得る。この立場では、あらゆる自我が死滅した後でも不滅な形而上学的自我がなければ、隔時的存在はあり得ないことになる。その意味で、このような相関主義は形而上学へ回帰的なものだと言える。それで、現在の相関哲学はあまり採らない立場である。

 

2つ目の対応「後方投射説」.隔時性が持つ真の意味とは、現在の思考から過去に向かって為される後方投射である。こちらが厳密な相関主義になるとメイヤスーはする。そして、それでも、後方投射という捉え方もそれが主体との結びつきを前提としてるので、隔時的存在は思弁的実在論的存在にはなり得ず、脱中心化もされないので、本質的に隔時的存在として認められたものにはならないのでダメだとする。
科学は自然を数学化して時間を見出すことに成功したが、相関主義は、時間を相関的なものとすることで、時間を関係の派生でしかないものとしてしまった。

 

相関主義にとって「前に到来するものは前に到来する」(過去は過去にあった)と信じているのだろうか。否。相関主義にとって「先行者とは、前に到来しているものではなく、後続者によって先に来たと確かめられるもの」なのだ。
しかし、この捉え方のために相関主義は、科学の時間制を把握できなくなる。
その科学の時間制とは「まさしく前に到来するものが前に到来するもの」であり、「あらゆる実験に先立つ世界についての経験的認識はいかにして可能か」という「現出のパラドクス」を正面から引き受けるものである。
相関主義や哲学が求められているのは、その「現出のパラドクス」を引き受けて思弁的な時間制に挑戦すべきだったのに、そこに向き合えていない、とする。

 

そして、それがダメだったことを「カントの破局」と名付けて大々的に、そのダメダメを解剖して見せる。

 

【カント的破局】カント的転回と思弁的思考の超越論的拒絶によってあらゆる絶対性が棄却され、科学と哲学が乖離してしまったこと

 

として「カントの破局」を位置づけたうえで、その本質を探る。メイヤスーは破局の招いた契機の本質が相関主義の「根源にある幻影」だとする。
相関主義はいかなる幻を見ていたのか。メイヤスーは、それを3つに分類している。

 

(幻1)コペルニクス=ガリレイ的出来事(脱中心化)は、数学的認識であって感覚的質がはぎとられた自然である、とする見方。(数学的認識ではクオリアが失われること)

 

(幻2)ガリレイ的出来事(自然の数学化)は、宗教的な形而上学が絶対でないだけでなく、物理学も形而上学的基盤の上に立っていてそれが絶対ではないこと、とする見方。(あらゆる知がアプリオリでないこと)

 

(幻3)カント的出来事(主体中心化)は、形而上学が崩壊し、相関主義が唯一合法的な哲学の形式だと言う見方。(思弁的形而上学の放棄)

 

この3つの幻によって、哲学の科学観はライプニッツが望んだ形になった。すなわち、我々は、無条件に必然的は真理に到達できない。それゆえ、理論的絶対性を諦めねばならない。
こうして、「破局の根源の幻」は「脱絶対論的帰結」だったと言える。それは、あらゆる形而上学の棄却と同時に、あらゆる形の絶対性の棄却へと結びつけた。
以上がカント的破局の道程である。

 

では、近代科学と乖離することなしに、幻に惑わされず、カント的破局を免れる道はないのだろうか。
メイヤスーはそれを、
・形而上学に従わず、コペルニクス的脱中心化に従うこと。
・デカルトテーゼ「数学的に処理可能なものは絶対化可能」を断固擁護すること。

だとする。
「脱中心化」と「数学には絶対を引き受ける力がある」ということを受け入れてしまおう。
これを受け入れてしまうとどうなるか。

 

メイヤスーはこれをまた「カントの問題」と名付けて考察する。(いろいろ名づけるのが好きな人だねえ。)
【カントの問題】自然の数理科学化はいかに可能か、という問題。以下の2つの問題に思弁的に定式化される。

 

①「隔時性をめぐる絶対化」。隔時性の問題の事実論的解決を前提とする思弁的解決をいかに立証するか。つまり、あらゆる数学的言明は、ある存在者を権利上は偶然的な、しかし目撃者のいない世界に存在し得るものとして記述することをいかに立証するかという問題。「存在的絶対化の問題」。

 

②「カント―ル的《非全体》の絶対化」。自然法則が事実として安定していることが、我々と独立にそれ自体の絶対的固有性を持っていることをいかに立証するか。それは何らかの可能な実在についての証明ではなく、可能性の構造そのものについての証明である。「存在論的絶対化の問題」

 

【存在的ontique】存在者個別のあり方について問うこと。

 

【存在論的ontologique】存在者個別の性質を問うのではなく、存在者を存在させる存在なるものの意味や根本規定についてを問うこと。

 

【存在的絶対化の問題】何らかの可能な実在に関する絶対化の問題。アザーhasardとしての偶然性にもとづく仮説的法則によって(主体の在不在と無関係に)具体的な何かの存在が絶対的に可能であることを示すこと。目撃者が不在の対象でも仮説的法則によって有意味に語れ、それが「絶対」に到達可能なものであるとすること。

 

【存在論的絶対化の問題】可能性の構造に関する問題。究極のコンタンジョンスcontingenceとしての偶然が必然であり得ないとする可能性の構造のなかで、そのような構造だからこそ、逆に、絶対的で無条件的に必然となるような究極の定理が思考可能になるとすること。
全体の思考可能性を認めない理論だけが「存在論的射程」を持ち得て、全体の思考可能性を認める理論はただ「存在論的射程」しか持たないということだ。
そして、その「存在的絶対化」でもって(仮説的ではあるが)絶対的な対象のことを有意味に語れるようになり、その「存在論的絶対化」でもって(「どこかに」ではあるが)絶対的で無条件的に必然を導くような究極の定理があるとすることができるようになる。
Meillassouxカンタン・メイヤスーQuentin Meillassoux

 

これで、第2の問いの答えにたどり着いた。
問題:メイヤスーの解釈において相関主義は隔時的言明をどのように捉え間違っているか、どのように捉えるべきか。
答え:相関主義は主体中心化によって隔時的言明を捉えて間違えた。脱中心的な捉え方をし、数学的な絶対化をするによって非形而上学解決を要求すべきである。

 

こうして、我々は、祖先以前言明を有意味に語れるようになる。それだけでなく、いわゆるクオリアを語ろうとすることさえできるようになるのだ。

 

これで、「有限性の後で」の最終ページまで読み終わった。僕になかなかに説得力がある考察だと思われたが、どうだろうか。
次節では、全体をふりかえって僕の感想と考えを提出してみたいと思っている。

 

つづく

 

思弁的実在論はどこまで有意味か

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コメント

師匠 お疲れ様です。

しかし、あちい。心頭滅却すれば火もまた涼し。今年は止めといたほうがよさそうです。

なるほど、「クオリアが語りうる。」のですね。確かに、「新しい」。
しかし、「クオリア」や「私的言語」は、師匠の思考の根幹のように、思ってたのですが。
思弁的には、「私的言語」は、あるということですね。

「クオリア」を語りうる実在論と「物自体」を語りうる観念論。
同時期に遭遇したので、どうしても、ガブリエルと対称的に見てしまいます。


taatooさん、コメントありがとうございます。
メイヤスーが隔時的対象の存在を有意味に語り得るとし、物自体があってそれに迫ろうとすることができるとし、また、デカルトについて「自然の数学的認識と思考にのみ帰属するクオリアな認識」に分類してしまったことを批判しているので、「クオリアを語ろうとすることができる」と言い切って良いだろうと判断しましたが、本文ではそこまで述べられてる訳ではないです。でも、まあ正しい読みだと確信してます。
それでも、「物自体」には「認識不可能」の意味が含まれるので、それを認識可能なものとして捉えるためにメイヤスーは「事物それ自体」などと言い換えています。同様に「クオリア」にも物理事象と完全に独立という意味が含まれるので、それを語ろうとすることができるものとして捉えるためには「いわゆるクオリア」などと言い換える必要があるかもしれません。
それと、物自体やクオリアを語「ろう」とすることはできますが、それが完全に語「れる」とすることができるかどうかは微妙だと思います。そういう意味で「クオリアを語ろうとすることさえできるようになる」という風にまとめたんですが、「クオリア」は言い過ぎだったかもしれません。「いわゆるクオリア」の方が適切かと思ったので、上記本文を訂正させてもらいました。
良い文章チェックになりました。

師匠

「根幹」は、あまりにも乱暴でした。申し訳ありません。削除ということでお願いします。

ただ。「クオリア」をあえて使っていただいたので、少し理解が進みました。いつも、ありがとうございます。

ずうずうしくも、師匠、もう一つお願いします。師匠がメイヤスーに似ているとおっしゃていたダメットは、クオリアについて、どう考えてるんしょうか。すいません。(-_-;)

taatooさん、先のコメントをとりあえず非公開としました。削除希望はそのコメントについて、で合ってましたか。

師匠 結構です。失礼しました。

taatooさん、
僕はダメットの前期哲学しか知らないので、チャーマーズ以降にどのように語っているかは分からないのですが、前期のそれから考えると、物理事象と独立のクオリアを否定し、物理事象と関係し得るものとしての「いわゆるクオリア」しか認めないと思います。そのてんでもダメットとメイヤスーは似ています。
しかし、ダメットは、メイヤスーが完全否定している「後方投射に頼る相関主義」ですから、根本的なところでまったく異なります。
メイヤスーが相関主義を突き抜けた向こうに実在を求めたのに対して、ダメットは相関主義を突き詰めたところに実在を求めたと、そのくらいの感じにまとめられるのではないかと思います。

師匠 ありがとうございます。

ダメットも、「相関」の手前なんですね。
いくつかのキーワードが、出てきてると思うんですが、「相関主義」を突き抜けるための条件を、箇条書きみたいでいいので、教えてもらえませんか。

「相関主義」を突き抜けるためにメイヤスーが立てた条件は、僕の解釈では次のようにまとめられるかと思います。

①、我々とは独立に必然的に偶然的な存在が存在する。(思弁的前提)
②、あらゆる存在は主観的な本性を有する理由を持たない。(事実論性の原理、非理由律)
③、それゆえ、あらゆる存在は数学的に思考可能なものとして存在し得る。(デカルトテーゼ)

師匠 ありがとうございます。 天才やわ~

すごいです。すごすぎる。感動しました。

まじで、ビール奢りたいです。

ここまでの、恥ずかしい質問が、報われました。

レヴューとしては、おそらく最上です。

私が保証します。

いやぁそこまで言われるとこそばゆいですが、ありがとうございます

> 「大地」がまだ分からないので、ご存知の方は教えてほしい

大地は「Mille Plateaux」に関することではないでしょうか?
英語版の「有限性のあとで」では、
--------------------------
an originally finite ‘being-in-the-world’,
or an epoch of Being,
or a linguistic community;
which is to say, an ever narrower ‘zone’,
terrain,
or habitat,
--------------------------
となっています。
terrainという言葉で想起されるのは、deterritorializationとか reterritorializationとかを扱った、A Thousand Plateaus ( Mille Plateaux ) です。

だからここの和訳は、大地というより、「千のプラトー」を意識した用語を当てたほうが良かったのかもしれません。

m.segawaさん、コメントありがとうございます。
そうですか、「千のプラトー」のドゥルーズ用語ですか。それはありそうな話ですね。良いヒントをもらいました。その解釈で再度読み返してみたいと思います。ありがとうございます。

コメントに気づかず返信か遅くなってしまいました。失礼しました

コメントありがとうございます。
私は薄く浅く表面だけの読書なので間違っていたらご容赦ください。

私は高校時代にフッサールの「厳密な学の〜」を古本屋で手にとったのが最初で、大学ではカント、社会辞任なってからはメルロ=ポンティが好きでした。最近は龍樹の「中論」がお気に入りです。

マクタガートの「時間の非実在性」は、講談社学術文庫を読んでもさっぱり意味がわからなかったのですが、こちらの訳文を拝見していくらかわかったようなかんじです。ありがとうございます。

segawaさん、「時間の非実在性」の方まで読んでもらえてうれしいです。ありがとうございます

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