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2018年8月13日 (月)

前提の時間は「私にとっての」じゃないのか?<思弁的実在論をわかりやすく読み解く11>

思弁的実在論の基盤となった「物理時間の前提となる時間」を相関主義的に「私にとっての」時間として捉えることは最早できないのだろうか。前提としての時間とベルクソンの時間を比較して考えてみる。そして、思弁論と言えどもやはり相関的循環の中に飲み込まれてしまう可能性が残されていることを考察する。

 

本ブログは前節まで「有限性の後で」を読み通してきたが、さらに著作の内容を踏み台にして考察を深めることに挑戦したい。

メイヤスーの哲学は、相関主義と実在主義の対立の中で、その相関主義の側から相関の外に出ることによって、存在の本質を問おうとするものだった。相関の視点を基盤とし、その上で相関から離れた存在の可能性を問う有意味を発見したのだから、相関vs実在の踏みつけ合いの議論から脱却して一歩高みに上がれたように思われる。でも、それは本当か。思弁主義は、相関主義よりも高い次元での哲学的提起を為し得たのか。為し得たのだとしたらそれはどういう意味でなのか。
その思索の中でメイヤスーは非理由律を説き、それをもって、思弁が相関より優位になる一つの根拠だとした。その非理由律の考察において、物理時間の前提となるような前時間的時間の無限性(カントールパラドクスに見られる超限性)というものの想定を説いているのだが、そのような無限の果てを考えるとき、そこには思弁的実在を求められるのと同時に、ベルクソン等の現象主義的主体の絶対性を求められることにならないか、と僕は疑っている。
この点についての考察をしてみる。

まず凡庸な物理時間というものを考える。これはすべて、或る法則a(仮説ではない真の法則)によって支配され得ると想定される時間だとする。あらゆる存在は法則aの指定するままに実在し経験世界として成立する。つまりまさに現に実在する時間である。とりあえずここでは、この時間を「A時間」と名付けておく。
さて、そのA時間を支配する法則aをさらに支配する神が想定することができないか。その神は思いのままに物理法則を設定したり変えたりできるので、例えば3秒後に突然法則aを別様に変えてしまい、私が転がしたビリヤードボールを飛翔させたり破裂させたり、女性の姿に変えたり、或いは私がボールを打とうとする意思さえ失わせてしまったりすることができる。まるで全能の神である。この神が棲む時間を「B時間」とし、この神が設定する法則を「法則b」とし、この神を「B神」としよう。
このB神は、でも厳密に言うと全能とは限らないのではないか。
どうしてかと言うと、B神の活動や意識を支配するようなさらなる高次のメタ神が想定できちゃうからだ。この第3次の神を「C神」と呼ぼう。
Photo
このC神ももちろん全能だとは限らない。同様に、このメタ神を支配するメタメタ神も、そのメタメタ神を支配するメタメタメタ神も、どこまでも無限にその神を支配するメタメタ・・・の神を次々と想定し続けることができるはずだ。だから、その最終的な最後の究極の神を取り出すことなどできるわけがない。でももし、その矛盾を超える無茶をしてしまえることにして、その無限の果てを取り出してしまったら、その究極の時間においてはあらゆる法則が失効してしまうはずだ。
メイヤスーは物理的時間の前提となる時間には「理由律」があり得ないとしたのは、そういう訳である。

そして、このような想定をするときそのメタメタ・・・神というのは、結局、世界開闢の主体と同じものになってしまうのではないだろうか。

この話で、神を想定する代わりに、タイムマシンを想定しても同じように考えられるんじゃないかな。そして、タイムマシンの想定よの方が、それが世界開闢の主体になるイメージが掴みやすいと思われる。

仮にどんな過去でも未来でも行けるタイムマシンAが発明されたとする。そして、そのマシンAが作動して過去に行ったり未来に行ったりするストーリーをなぞる時間を考える。少年が過去に戻って少女を助けたりその後で未来へ行ってライバルを倒したりするそのメタ時間である。これをB時間と呼ぼう。A時間を自由に行き来できるマシンAの為すストーリーを司るメタ時間が時間Bという訳である。
そのように想定すると、マシンAでもって、その時間Bにおける「メタ過去」に行ったり「メタ未来」を知ったりすることは不可能だと思われる。だって、マシンAがどんなに過去に戻ろうとしても、それは定義上A時間の過去でしかないからだ。
もし、さらにそのB時間を遡ったりその先へ行ったりするようなタイムトラベルができるメタマシンBを想定するとしようか。そうしたとしても、さらに「メタメタ時間C」の存在を想定するとすれば、メタマシンBではメタメタ時間Cにおける「メタメタ過去」に行くことはできない。
この想定は、どこまでも無限に続けることができ、そのメタメタ・・・時間には行けないはずだとされ・・・とどこまでも関与不可能な他時間が想定できてしまう。

しかし、ここで、私がアクチュアルに生きるその生において時間が時間たりうるというベルクソン的な時間(或いは持続)を考えるなら、どうなるだろうか。そのような「持続=生の時間」はもともと、このタイムマシンの話における「メタメタ・・・時間」の無限の果てであるはずじゃないだろうか。だって、ベルクソンの世界モデルにおいての物理的時空間とは、(未だ時間ではないような単なる)「持続=生の時間」の中で、記憶とアクチュアルな私の行動によって、初めて構成されていくものだったのだからだ。物理的時間をはじめとするあらゆる時間の元となるのがベルクソンの「持続=生の時間」だったのだから、その「持続=生の時間」が物理的時間の後に想定されるものであるはずのだ。
だとすれば、ベルクソン的な「生の時間」においては、その「生の時間」を遡れるようなタイムトラベルはあり得ないと言える。
Bergson
メイヤスーは、相関主義の世界モデルは、(「脱中心化」ではなく)「主体中心化」だからダメだとし、「脱中心化」した世界モデルとして思弁的な時間の捉え方が必要だと言った。しかし、ベルクソンの時間観を上のように捉えられるとするなら、そのような現象学的主体モデルこそ、カントールパラドクスの果てに開かれ得る「脱中心的世界モデル」になり得るのではないか。

そう考えると、非凡庸なる時間が、実は相関主義の主体の時間であると捉えることが可能になるのではないか。
メイヤスーは相関主義の不十分さを指摘し、相関主義を否定した先に思弁主義の必要性を説いたのだが、それはまだ、やはりどこまでも「でもその思弁的時間というものも、私にとっての思弁的世界でしかない」などと言えてしまうものだったのだ。すべては「相関的循環」の中での議論だったと言えるのではないだろうか。

結局、メイヤスーが主観主義を否定した根拠であるところの、可能な場合の数が無限の果てに開放されてしまうというその事実が、逆に主観主義の基盤そのものとなってしまうのではないか、という懐疑の元になってしまうのじゃないか。

メイヤスーの思弁論は相関的循環の掌の上から抜け出せてはいなかったとすることができるのだ。
ただ、だからと言って、メイヤスーの思弁的唯物論の考察は無意味になるものではなく、相関主義との踏みつけ合いの中でではあるが一つ上の高みを覗けたのは確かだと思われる。
そのような相関主義と思弁主義とを両面を二つ持ち合わせることで、僕らは生きることができるのだということを、素直にそのまま受け入れることが可能なのではないだろうか。

どうだろうか。

次節もその辺りについて、さらに突っ込んで考えて、思弁的実在論とベルクソン的反実在論が一致する地平を目指したい。

 

 

つづく

思弁的実在論はどこまで有意味か

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コメント

師匠 こんばんわ

ベルクソン曰く、哲学は内側、科学は外側、でした。
とすれば、素朴実在論や唯物論は、哲学じゃなく、科学だと思います。
そして、素朴実在論が、素朴科学論に、外側同士、つながるのは、当然です。
内側からブレイクスルーして、外側につながらないかで、苦労してるわけです。
たぶん無理でしょうけど。外側に出た瞬間、哲学じゃなくなくなるからです。
メイヤスーが、内側にいるなら、納得です。支持します。
外側にいるなら、ガブリエルに素朴実在論と切り捨てられるのがオチです。
内側にいながらでも、科学は語れると思います。
語る主体、現象、経験、言語、数学、すべて内側にも揃ってるからです。

taatooさん、ありがとうございます。
ベルクソンがそんなことを言ってたのですか。面白い。
でも、僕はその外と内の一致する地点でこそ、ベルクソンの世界モデルは意味をなさないし、メイヤスーが目指すものもその一致でないのかと思われてなりません。
そのあたりに、僕がガブリエルよりもメイヤスーにひかれる訳があるのかもしれません。
僕の興味も全くそこにあって、全く内と独立の素朴実在論ではなく、「きちんと内と一致し得る外の可能性」みたいなものをが考えられたら面白いなあと思っています。

師匠 こんばんわ

ベルクソンは、最終的には「直観」で「一致」を目指していて、必ずしも内外にこだわってはいないように思います。

内(哲学)、外(科学)によるコメントは私の思いつきです。

ガブリエルは、内から内なので、凡庸な感じがするのは、そのせいだと思います。
あえて、メイヤスーや師匠を内に置いてみるのが、面白いと思うんですけど。
いえ、もうすでに、内に置かれてるかもしれませんよ。私に。


taatooさん、
いつもありがとうございます。
内と外の問題面白いです。

taatooさんの「哲学=内」「科学=外」とはちょっとずれるかもしれませんが、
「言語や論理=内」「形而上学的独断=外」としてそれを考察できないかとおもって、次の記事を書いています。また、そちらも読んでください。

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