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2018年8月15日 (水)

「死刑囚のパラドクス」で隔時的言明を有意味にしよう<思弁的実在論をわかりやすく読み解く12>

今日は、メイヤスーの隔時性の議論に対する、僕の思い付きの一視点があるので、それを紹介し、その視点から隔時性を考え直してみたい。
僕の思い付きの一視点というのは、有名な「死刑囚のパラドクス(抜打ちテストのパラドクス)」のような2階の矛盾構造によって1階の矛盾を矛盾で無くしてしまうようなシステムである。これが、マクタガートのパラドクスやメイヤスーの議論とびっくりするくらい似てる部分があって興味深い。

 
事実論性とマクタガートパラドクス

死刑囚のパラドクスを見る前に、メイヤスーの議論とマクタガートの議論の論点について確かめておく。
メイヤスーの隔時性の議論がマクタガートの時間論と同じものを問う問いであることは疑い得ないだろう。
マクタガートの問いは、未来が現在と非同一なものであるはずでありながら、同時に未来は現在と同一でなければならないという矛盾を問うものであった。それはメイヤスーの議論と同じく、隔時的存在への到達不可能性を示す。
事実論性の論においてメイヤスーは、物理法則によって現在と関連付けられる時間とは別に、その物理時間の基盤となる時間があるとする。この「前時間的時間」によって非理由律が導かれ、隔時的な存在は私にとって到達不可能な〈全き他者〉であることになる。
マクタガートパラドクスも、未来が現在として存在しないことを一つの前提としているのだから、隔時的な存在を到達不可能な〈全き他者〉であるとするのは同じである。そして、この二つの議論はどちらも、その〈全き他者〉という途轍もない未知にどのように向き合うべきかを問う。

しかし、この二つの立場は、共に到達不能だとした〈他者〉への対応の仕方でかなり異なる。
マクタガートは、隔時的時間としての未来が現在ではあり得ないとしながら、同時に現在であり得なければならないことも前提して、そこに矛盾を見出して、そもそも時間が実在できないと結論する。だから、この視点において、「未来」は矛盾の向こう側の「訳の分からないもの」であり、無茶苦茶を飲み込まざるを得ないものであり、話にならないものなのに、現実では存在してしまうもの超‐論理的なものであった。
一方、メイヤスーは、隔時的存在が到達不可能なのでありながら、その存在自体が必然だと語り得るものとし、その思考可能性を保証する。そして、この点において、その思考不可能を説いたハイデガーやウィトゲンシュタインの相関主義を批判する(ただし、そのウィト解釈はずいぶん偏った解釈だと僕には思われるが)。マクタガートをメイヤスーは直接批判していないが、相関主義へのと同じ批判を向けるだろう。つまり、メイヤスーにとって未来は到達不能ではあるが、決して矛盾ではないし、ナンセンスでもないような未来が存在することは可能だとする。メイヤスーの批判は、隔時的存在がその矛盾からあり得ないとされたりナンセンスとされたりするべきだとは限らないし、「かっこ付きの『可能性』」においてそれは合法的なものとして設定し得る、とする批判だとも言えるだろう。

では、そのような「隔時的言明」を合法化し得る「かっこ付きの『可能性』」とは何か。
メイヤスーが示したのは、

・隔時的存在が必然的に確定不可能なこと、
・隔時的存在の存在自体は必然的に可能であること、

の2点である。この2点については十分に語り得るとしたうえで、

・仮説的可能性においてでは、即自にコミットするあらゆる可能性が合法である、
・科学的方法によって、単なる独断ではないような仮説を思考できる、

とするという立場を明らかにしている。しかし、その科学的方法の取り扱いについて、実際にどうすれば隔時的存在について語れるようになるかについてははっきりさせられておらず、論文は結論のないままで終わっている。
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死刑囚のパラドクス

さて、そこでこの議論に「死刑囚のパラドクス」の視点を向けてみよう。

【死刑囚のパラドクス】

〔内容〕執行官が、死刑囚に次の宣言をした。
(前提1)来週の月曜日から金曜日までのいずれかの日に死刑執行を行う。
(前提2)執行は当日の朝に告げられ、事前にその日を知ることはできない。

〔第1の分析・死刑執行が不可能だとされる推論〕
推論①.執行は金曜ではありえない。なぜなら、木曜日の夜の時点で執行可能なのは金曜日だけだから、事前に執行日を知ることができて、前提に反する。
推論②.執行は木曜ではありえない。なぜなら、推論①より金曜日の執行があり得ないのだから、水曜日の夜の時点で執行可能なのは木曜日だけであるのだから、事前に執行日を知り得てしまう。
推論③.同様に、執行は水曜日でも火曜日でも月曜日でもあり得ない。

第1の結論.前提が守られる限り死刑執行は不可能である。

〔第2の分析・死刑執行が可能だとされる推論〕
推論④.第1の結論から死刑囚は死刑執行が不可能だと考える。
推論⑤.そのため、死刑執行はいつ為されたとしても、死刑囚がそれを事前に知ることができない。

第2の結論.前提が守られたままで死刑執行は可能である。

こうして、第1の結論と第2の結論の矛盾にパラドクスは生じるというものである。

(このパラドクス自体の細かな解説はいろいろなサイトなどで紹介されているので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。ここではさらっと説明し、隔時性の議論との関係に重点を置いて考える。)
このパラドクスは、もともと前提が矛盾を含んでいるがゆえに、前提からの導出が逆に無矛盾になってしまうという2階の矛盾構造によるパラドクスである。

問題を単純化するとこのパラドクスは次のような形で示せる。

【単純化した死刑囚のパラドクス】

〔内容〕執行官が、死刑囚に木曜日に次の宣言をした。
(前提1)あす金曜日に死刑執行を行う。
(前提2)執行は当日の朝に告げられ、事前にその日を論理的に確定することはできない。

元の問題では執行可能日は月~金の5日間だったが、それを4日にしても3日にしても2日にしても、そして1日にしてもパラドクスの本質は変わらない。つまり前提が矛盾しているのだ。ところが、その前提が論理的導出について語っているのだけど、その前提が矛盾してるという自己言及的構造になっていて、2階の論理的導出に関わり、1階では矛盾だけど2階では矛盾ではない、という異なった結論を導くことになっている。
つまり1階の論理階層では、すでに明日の執行が知らされているのに、その執行を論理的に知り得ないと言ってるのだから当然矛盾である。
ところが、この1階の論理階層が矛盾しているために、それが論理前提として有効に働くことはなくなってしまうというところに2階の論理階層が生まれる。この2階の論理では、矛盾からあらゆる導出ができてしまうという論理がはたらくので、金曜の執行は矛盾ではなくなってしまう。矛盾でなくなってしまうというところが1階の矛盾と矛盾してしまうので、ここに2階の矛盾が生じていると言える。

と、まあ、単純化して言うと、こんな感じの2階矛盾の論理導出の言明の構造が「死刑囚のパラドクス」だ。

で、一般的にはこの「死刑囚のパラドクス」の話はここまでなのだけど、折角だから、もう少し先まで考えてみよう。
死刑囚がこのパラドクスの上記の意味を理解すれば、もう死刑執行が不可能だなどとは言わない。いつでも執行されることが可能だし、されないことも可能だし、もう完全に分からないのだ。分からないのだけど、「月~金のどこかで執行され、その日を事前に知ることはできない」と言ってるのだから一応その言明を推論の根拠にすることは妥当だとすることができてしまう。もはやそこには何のパラドクスもないと言えてしまうのだ。

さて、このパラドクスには、メイヤスーやマクタガートの議論に2つの点で似ている。
それは、論理導出の不可能さが、アザーとしての偶然性ではないという点。
それから、そのような本質的な偶然性が必然であるからこそ、それが実現可能だと語り得るという点である。

 

偶然性はどんな未来も現実化可能であることを許す

問うべきは見かけの偶然でないという点で、メイヤスーの議論と死刑囚のパラドクスは一致する。
メイヤスーの議論においては、事物のあり方はどこまでもその法則性や自然の斉一性が疑えてしまうものであり、全知の神ならば知っているけれど人間が知らないだけというレベルの偶然性(見かけの偶然性)において偶然的であるというのではなく、全知の神でさえそれを確定させることができないとするレベルの偶然性(真の偶然性)においての偶然性を持っている。

死刑囚のパラドクスの話において、たとえば、事前に死刑執行の日程をくじで引いておいてその日が来たらタイマーが鳴るようにしておく、そしてその日程を事前に死刑囚に知らせないようにする。そのような話はパラドクスにならない。死刑囚はいつ執行されるか分からないのだけど、その執行の日取りは全知の神は知っているので、その分からなさは見かけの偶然性でしかない。
確かにそのような話でも、死刑囚には執行日が予測できず、それゆえ、事前にそれを知らないという点で無矛盾に死刑執行が為され得る。しかし、それでは全く違う問題になってしまう。例えばそのタイマーを分解するなどして調べたら、はっきりと「答え」が分かってしまうかもしれない。そうなると死刑囚は執行日を言い当てられてその執行を無効としてしまえる。そして、このようなやり方で執行を無効にした場合には、執行人はもはや死刑を執行することができない。だって、一般的な「死刑囚のパラドクス」では死刑囚は執行自体があり得ないとするのだけど、このやり方では死刑囚はその日が死刑日だと知ってしまうのだから、ただ「宣言」に違反しない限りは執行することができないという、不思議でも何でもない単なる矛盾になる。だから、そのタイマーを分解するなどということが実行不可能だとしても、その世界の設定において、このシステムが持っている死刑執行の可能性は、必然的なものではないと言える。一方、逆に、一般的な「パラドクス」のシステムであれば必然的に死刑執行可能である。

メイヤスーの議論において、世界の偶然性が「アザー」のレベルだとするならどうなるか。
隔時的な未来について、絶対的で究極的な法則が隠れていてその究極の法則が未来の細部までを確実に決定しているのだけど、我々はそれを知らないだけという「見かけの偶然性」の中を生きている、と前提にしてみるということだ。我々にとっての「隔時的未来の分からなさ」は必然的なものではなく、全知の神には「お見通し」なものとするということなのだが、それは、メイヤスーの思索によって、形而上学的信仰を持ち込まない限りはあり得ないことが明らかにされた。なので、逆に形而上学的信仰を持ち込まないとするなら、我々にとって「隔時的な未来の分からなさ」は必然になり、一般的な「死刑囚のパラドクス」によって、それはどんな未来も「現実化し得る」ことが論理的に有意味に語り得ることが、はっきりさせられるものとなるのである。
ここで、真の偶然性によって許される未来の現実化というのは、「現在の私にとって」の未来の現実化だと取るべきでない。隔時性の問題はまさに、「私にとって」ではない、隔時的なその時間に「行けば分かる」ような現実化の問題なのだ。つまり、未来が分からないものであることが必然であるがゆえに、その現実化が必然的になる、という点で「死刑囚のパラドクス」とメイヤスーの事実論性の議論は、完全に一致するのだ。
Mctaggart

死刑囚のパラドクスとマクタガートのパラドクス

この、隔時的未来の現実化の問題をさらに深めるため、さらに、「死刑囚のパラドクス」と「マクタガートのパラドクス」の関わりを見てみよう。

マクタガートの議論も明らかに隔時的時間の現実化の問題を問うたものである。〈全き他者〉としての未来がどうやったら現実化するか。マクタガートは時間を非実在とすることによって、その矛盾を解決しようとした。
現在と未来は〈全き他者〉として捉えねば、隔時性の問題を捉えたことにならない。しかし同時に、その未来が現実の現在となるような現実化を考えねば、やはり真の現実化の問題を捉えたことにならない。だから、我々は「現在と未来は非同一でありながら、同一である」としなければならない。どうやっても、現実の時間は矛盾していることになってしまう。これについて、マクタガートは過去現在未来という時間自体が実在しないとすることで、解決を図る。そのためマクタガートの議論において、「隔時的未来の現実化」の問題はもはや論理の外に押し出してしまうことによって、問題を無かったことにして問題解決するという構造になっている。
一方、「死刑囚」の議論の方では、「隔時的未来の現実化」の問題を論理の外に逃がさないままに考察できる道を示す。
この問題の解決を論理の外に逃がさないで済むような方法があるのなら、そのやり方を試してみようじゃないか。「死刑囚のパラドクス」と「マクタガート」のやり方がどう違って、どうすれば「死刑囚」みたく論理の外に出ないで済むのか。

【マクタガートのやり方】
・現在と未来は非同一。
・現在と未来は同一。

【死刑囚のやり方】
・あす金曜に死刑執行する。
・事前に執行日を論理的に確定できるなら執行しない。

これのどこが違うかを考える。どちらも2つの命題が矛盾しているのは同じだ。でも、「死刑囚」の方はその指定文の中に「論理的で確定できるなら~しない」という否定的自己言及を含み、それによって逆に「矛盾からは何でも導出可能」という論理形式の中に話を戻せるようにしている。
ならば「マクタガート」の方にも同じように「論理的で確定できるなら~しない」を入れたら良いのか。

【マクタガートのやり方・修正案1】
・現在と未来は非同一。
・未来が現在との非同一を論理的に確定できるなら、未来は現在と同一。

とこんな感じか。
「非同一」かつ「非同一ならば同一」ということだから、これはもちろん矛盾している。そして矛盾してるのだからこの命題群は無意味となり、ゆえに「未来が現在と非同一」を論理的に確定させることはできない。だから、未来は現在と同一であることはできない、と結論づけられることになる。そして、結果的に無矛盾で済むことになる。だけど、これじゃダメだ。だって、目標にしていた「未来と現在が同一」だという〈全き他者〉というところまで「論理的推論の範囲内」で到達することができてない。
では、こんなのはどうか。

【マクタガートのやり方・修正案2】
・明日になれば、明日が今日であるような世界が存在する。
・明日になるまでに明日になれば明日が今日であるような世界が存在すると確定できるなら、明日が今日であるような世界が存在することはない。

上の前提と下の前提は矛盾している。矛盾しているので何でも導出可能になってしまい、全体として「明日になって、明日が今日であるような世界が存在する」が事実になったとしても、もはや矛盾ではなくなる。そうして、「矛盾からは何でもあり」という裏技を使ってはいるが、それにそれは「そのような世界が存在することもしないこともあり得る」というものを言うだけで情報量0の命題でしかないのだけど、そしてその存在者としての事物には到達不可能なままなのであるが、それでも、一応、ちゃんと、論理的推論から外に出ないで、「明日になって、明日が今日であるような世界が存在する」こともあり得ることにすることができる。
この「修正案」は次のような形で、新しいマクタガートパラドクスとして定式出来るのではないだろうか。つまり、

「マクタガートテーゼの、死刑囚のパラドクスによる修正:明日になれば、明日が今日であるような世界が存在することが可能である。ただし、それは明日になるまでは分かり得ない」
だ。

元の「マクタガートのテーゼ」とはずいぶん異なった形にはなるが、マクタガートが問いたかったことからはそれほどずれてないのでないだろうか。

この修正のポイントは、「明日は明日にならなければ分からない」ということであろう。例えば、ベルクソンの円錐において、アクチュアルな身体活動が記憶の円錐を拡大させていくこと自体が世界を構成していた。既知の記憶から未知の時間へと冒険的に飛び出し、新しい世界を拡張し再生産することが、世界構成そのものであり、私の生の本質だということであり、それこそが「隔時性の問題」だったということなのではないだろうか。

そして、この「マクタガートパラドクスの、死刑囚のパラドクスによる修正」は、メイヤスーの示す「隔時性の問題」ときちんと同型になる。メイヤスーの議論において、隔時的言明は必然的な偶然性が保証されていたが、この「修正パラドクス」も矛盾から何でも導出可能であるがゆえに、正しく必然的に偶然性が保証されるのだ。

 

「隔時性の問題」と「死刑囚のパラドクス」の類似性

隔時性の問題と死刑囚のパラドクスの類似性は、メイヤスーが問う「隔時性」が「死刑囚のパラドクス」と同型の2階の矛盾を持っているからだと言えるのではないだろうか。
「明日が今に『なる』」なんてことは、まるで矛盾なのだけれど、その矛盾を矛盾じゃなくしてしまうような論理の乗り越えが『なる』なのだろう。その論理の乗り越えが、論理の外にはみ出てしまうってことじゃなくて、ちゃんと、新しい、2階の論理的な話に立ち戻れるようなマジックが働くと「未来が現在に『なる』」ということができるんじゃないかな。入不二が「時間は実在するか」で問うた『なる』とは、つまり、こういうものだったのではないだろうか。

マクタガートは「現在と未来は同一であり、かつ、現在と未来は非同一でなければならない」というパラドクスによって「隔時的未来の現実化」の問題を捉え、元来時間は矛盾するものであると結論付けた。そして、「隔時的未来の現実化」の問題を論理外のこととして扱うことで解決しようとした。「隔時的未来の現実化」という現実の私にとっては〈全き他者〉であり〈完全なるソト〉である問題を扱うのだから、「論理のソト」に出ることは必然であるようにも思える。

しかし、上記のように考えるならば、同じように矛盾を受け入れて、さらに「論理のソト」に出ないままで「論理のウチ」の問題として、「隔時的未来の現実化」なる〈全き他者〉を扱える可能性が出てくるのだ。

「この世界」や「この私」や「この生」といった矛盾だらけに見える怪物たちを捉えようとするときにも、我々の武器は言語しかない。論理ではとらえられないよう見えるこれらの怪物たちと向き合うときに、無謀であったとしてもその非力な論理で立ち向かうしかないのではないだろうか。そして、その論理の内側で、ともかくも隔時的言明としての「明日の私」について語り得るようになったのであれば、それは大きな前進ではないだろうか。情報量0であろうと、「我々は一歩前に進んだ」と胸を張って言うべきじゃないかと思える。

結局、「隔時性の問題」とはまさに「隔時的時間の現実『化』の問題」だったのだ。それはもちろんタイムマシンで行き来できるような時間ではなく、あらゆる時間の前提となるような究極の前時間的時間において、その外へ出るということである。それは矛盾した世界モデルである。しかし、それは正当なやり方で乗り越え得る矛盾であり、それを「死刑囚のパラドクス」的に乗り越えることによって、僕らを生の享受者たらしめるような、必要不可欠な矛盾だったのではないか。僕の死刑がいつ執行されるかなんてその時にならなければ分かりようがないんだ。それが知り得るとされることは矛盾でしかない。でも、科学的にあと20年位でそれが来るだろうと予測されることは何ら矛盾でもなく、正当な推測だとすることができるのだ。

(まあ、身も蓋もなく短絡的にまとめてしまうと「事実論性の原理の本質って過去と矛盾し放題」ってことだから、矛盾を無効にする死刑囚のパラドクスが当てはまって当たり前なんだけど。)

こうして、メイヤスーの説く事実論性や非理由律の議論は「死刑囚のパラドクス」を経由しても導かれ、それをさらに進めることができる。この考察によって、メイヤスーが示す
・隔時的存在が必然的に確定不可能なこと、
・隔時的存在の存在自体は必然的に可能であること

という2点をより明確にすることができただろう。そして、これはさらに、
・仮説的可能性においてでは、即自にコミットするあらゆる可能性が合法である、
・科学的方法によって、単なる独断ではないような仮説を思考できる、

というメイヤスーの展開する2つの命題に前向きにつながっていく。

ただ、ここでメイヤスーの目指している方向は、僕には、メイヤスーが否定してきたウィトゲンシュタインの目指していたものと合致しているように思われ、相関主義は決してメイヤスーの否定するようなものばかりではないようにも見える。その点については、次節で述べることとしたい。

 

「死刑囚のパラドクス」が思いの外隔時的問題と一致していて、僕にはずいぶん面白く思えたんだけど、どうだったろうか。

つづく

思弁的実在論はどこまで有意味か

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