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2018年8月28日 (火)

僕のアンチナタリズム批判の3論点

僕のアンチナタリズム反出生主義批判の3論点。

 

1)無い車は速度0でなく、速度そのものが無いように、無い物差しは長さ0cmなのではなく、長さそのものが無いように、不在は苦しくないのではなく、苦しくないことそのものがない。だから、不在がマシとは言えない。

 

2)もし恣意的に不在の苦しみ度が0値だと定義する場合、快の度合も0値になるので、不在の方が損なこともあり得る。

 

3)「他者へ利益を為さなくても良いが不利益を為してはならない」という規則は、厳密には全ての他者関係を禁ずるものなので、原則的な規則でしかない。出生という限界状況では特に個人の判断に委ねられざるを得ない。

 

 

 

 

 

 

 

ただし、ここで「アンチナタリズム」として僕が批判している対象は、ベネター「生まれてこない方がよかった」に基づく反出生主義・ベネター主義に限る。それ以外のアンチナタリズムについては、無関係だと考えてほしい。

 

 

 

 

このページ下のコメント欄での討論が、僕の考えを補充して表せているかもしれない。よろしければ、そちらも見てもらいたい。

 

 

 

 

 

 

アニマルライツから倫理を考える

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コメント

まず⑴について。車の例を挙げられていたのでそれに合わせて言及してみると、反出生主義は「速度違反が存在しない方が望ましい(そして存在する車は必ず速度違反を引き起こす)」と言っているのです。元の文脈で言い直せば「存在者が苦痛を受ける状況」そのものが望ましくないのであり、それは厳密には「誰かにとって」望ましいわけではありません。当然それは「苦しまない主体が存在することが望ましい」という命題もそこから導くことはできますが、それだけを導くというわけではありません。というのも(ベネターノ論に従えば、ですが)苦しまない主体というものはおよそ存在し得ないのです。故に「存在者が苦痛を受ける状況」自体を回避するには苦痛を受ける存在者がいない方が良い、という主張につながるわけです。「苦しまない主体」というものが存在せず「主体が苦しんでいる」という状況が望ましいものではない以上、苦痛の不在は「マシ」と言うことができると思います。
⑵についてですが、生を始めるに値する快というものが(極小しか、という文言がつくこともありますが)存在しないと主張するのが反出生主義の立場です。そして、その主張は不在のほうが損であることはあり得ない、という帰結を招きます。
⑶についてはよく理解できなかったのですが、出生においてその規則に関しての判断が個人に委ねられるべきなのは何故なんでしょうか? 『出生においては特に』それを遵守せよという義務も想定しうると思いますが。

以上、Twitterの方で述べさせていただいたこの記事への反論をこちらにも掲載します。

浮浪者さん、僕のわがままを聞いてこちらのコメント欄に書き込んでくださってありがとうございます。ANについて議論できることありがたいです。また、お待たせして失礼しました。


僕の考えではまず(1)の視点がもっとも重要な論点です。(1)は「苦がある生よりも生まれない方が好ましい」という話は、恣意的な前提を敷いた上での話であるとする議論なのですが、まず、その点について話し合えればと思います。その上で(2)や(3)の視点について討論できればありがたいと思いますが、よろしいでしょうか。

それで、(1)についてですが、
浮浪者さんは
>「反出生主義は「速度違反が存在しない方が望ましい(そして存在する車は必ず速度違反を引き起こす)」と言っている」

とされましたが、そこについて僕は疑問があります。
「速度違反が存在しない方が望ましい」というのは、速度違反のある状態と無い状態との比較という話になっていると思いますが、
僕が「速度」の話で問いたかったのは、「存在しない車の速度が0だとは言えず、存在しない車と存在する車は速さにおいて比較できない」のと同様に、「生まれてない子供の苦しみ度合いは必ずしも0だとは限らず、生まれてない子供と生まれた子供は苦しみ度合いにおいて比較できない」と考えられるはずだという点です。そして、もし生まれない子供の苦しみ度合いを比較可能なものとするのであれば、そこには必ず某か恣意的な前提が持ち込まれねばならないはずだと思われるということです。

その点、認めてもらえるなら、その前提の上で(2)の視点の議論に進むことができると考えているのですが、どうでしょうか。

こんにちは、初めてコメントいたします。

アンチナタリズムについては主体の捉え方と価値判断の問題でしばしば議論がすれ違うように感じています。
上記議論で車の例を挙げられていますが、これは危ういように感じました。
例えば「浮浪者」さんが挙げられた、「速度違反が存在しない方が望ましい(そして存在する車は必ず速度違反を引き起こす)」という場合に
暗に想定されているのは、車やほかの移動手段を持つ別の主体であり、あるいは周囲の歩行者ではないかと
思うのです。
それはアンチナタリズムにおいて、いまだ存在しない主体やすでに存在しない主体を想定し議論している点で似ているようにも思います。
ベネターの議論でも主体を支える視点がぶれているようなところに、まやかしを感じます。

kさん、コメントありがとうございます。

すみません。僕の読解力の弱さのため、コメントしていただいた内容がうまく読み取れてるかちょっと不安なところがあります。たいへん失礼で申し訳ないのですが、確かめさせてください。

車の例え話が危ういというのは、
僕が、

>「「存在しない車の速度が0だとは言えず、存在しない車と存在する車は速さにおいて比較できない」のと同様に、「生まれてない子供の苦しみ度合いは必ずしも0だとは限らず、生まれてない子供と生まれた子供は苦しみ度合いにおいて比較できない」と考えられる」

としているところが、浮浪者さんその他のANの人々の議論とずれているから危ういということでしょうか。

せっかくコメントくださったのに、腰を折るような返信しかできず、たいへん申し訳なく思います。ですが、できるだけきちんと考えたいとの思いからですので、ご容赦ください。よろしければ引き続きコメントいただければ嬉しく思います。よろしくお願いします。

返信ありがとうございます。
先の書き込みは、つい思ったことを感覚的に書いてしまいました、失礼しました。

まず前もって言いますと、私は横山さんの論には概ね賛同しており車の例についても「間違っている」と言いたいわけではありません。そのうえで、感じたことを以下なるべく整理して述べます。


車の例えが危ういと言いましたのは、論理や推論に関わる問題というよりも車というモチーフ、印象や解釈に関わる問題としてということになるかと思います。

アンチナタリズム批判の論点として重要だと思われるのは、「快苦についてその主体を抜きに語りうるものか」という点だと思っています。それは言い換えると、「主体が快苦を感じないことと、快苦を感じる主体がないことはまったく別の話ではないか」ということでもあり、これは横山さんの第一の論点で言われていることに該当するのかなと思っています。

が、これを車の速度の例に置き換えた場合、あたかも車抜きにその速度について語りうるかのようになってしまう(なぜなら車がなくても世界に運動は依然存在するから)ように思います。
そうすると、「速度違反が存在しない方が望ましい」という話が説得力を持つように思えてしまうのではないでしょうか。

「存在しない車の速度が0だとは言えず、存在しない車と存在する車は速さにおいて比較できない」という点は全くその通りだと思いますが、これを「生まれてない子供の苦しみ度合いは必ずしも0だとは限らず、生まれてない子供と生まれた子供は苦しみ度合いにおいて比較できない」と置き換えると、存在主体・評価主体に対する解釈の幅が広がってしまうことを許してしまうのではないかと思うのです。

ベネター自身も、「私は非人格的な評価はおこなっていない」といいながらも、「存在を得ることは、存在を得るその人の利益になるのか、それとも存在を得ない方が良いのか、ということを考慮しているのだ」と、当の存在主体から評価主体を外に置き換えているところにもやもやを感じてしまいます。("Still Better Never to Have Been: A Reply to (More of) My Critics" D. Benatar)

あまりうまく説明できている気がしませんが、昨日考えていた内容は差し当たり以上のようなものです。

kさん、ていねいな解説をありがとうございます。
そうですね。僕の考えがきちんとANの主張と対立するものになるようにできたら良いと思います。しかし、なかなかむずかしいです。
速度の例えがズレたものとして捉えられ易いとすると、書き替えたいとと思うのですが、
たとえば、「物差しの長さ」について「無い物差しは長さが0なのではなく、長さそのものがない」と言い換えたところでダメなのでしょうね。
僕としては、速度の例は分かりやすい例えができたと思ってたのですが、ANやその他の方々からも理解してもらいにくい場面があったので、「ダメだったかあ」と思ってたところです。もう少し表現方法のついても考えてみたいと思っています。

1、「苦痛が0」→「苦しい・苦しくないが存在しない」
仮にこの言いかえが成立するとしても、「だから、不在がマシとはいえない」
という結論には結びつかない。
苦しむ存在より、苦しむことも苦しまないこともできない不在を比べることができる事実に変りはない

2、人生においてどんなプラスの出来事が起こったとしても
それはマイナスの出来事を打ち消すわけではない。
仮にプラスによってマイナスを打ち消すことができると仮定した場合でも
トータルでプラスになるかどうかは当然生む前には分からない
他人の人生でギャンブルをしてはいけない。

3、これは全体的に意味不明
そもそも出生は限界状況だとは思えない

Aさん、コメントありがとうございます。
しかし、
1が比較可能な事実があることには変わりがない、とされていますが、その根拠をどこから求められたのかよく分かりませんでした。
「事実がある」を前提してしまっているのではないかという気がするのですが、もしそうであれば、互いに議論を交差させることは難しいような気もします。

他人の人生でギャンブルをしてはいけない。
については、3で反論しています。その規則は厳密に捉えるなら全ての他者との関わりを禁ずるものだから、そのような規則は無効じゃないかということを言いたいのです。

返信ありがとうございます
もう少しかみ砕くと

1)無い車は速度0でなく、速度そのものが無いように、無い物差しは長さ0cmなのではなく、長さそのものが無いように、不在は苦しくないのではなく、苦しくないことそのものがない。だから、不在がマシとは言えない。

これはつまり
前提:苦しくないことそのものがない
結果:不在がマシとは言えない

これでは明らかな論理の飛躍ですよね
おわかりいただけるでしょうか

「苦しくない」が「苦しくないことそのものがない」
だろうと些末な表現の違いに過ぎず
「苦しい」より望ましくないことに変りはないのです

前提:その規則は厳密に捉えるなら全ての他者との関わりを禁ずるもの
結論:そのような規則は無効

この理屈は
「農業でも動物の犠牲がでるからヴィーガンになる必要はない」
と似てますね
確かに他者に不利益を為してはならないのであれば
当然他者と関わることもできません

しかし他者への不利益を0にできないからと言って
他者へどんな不利益を被らせても構わないわけではありません

人間が生きていれば他者への不利益は0にすることはできません
それでも不利益を大幅に減らすための選択として子供を作らない選択ができます

Aさん、コメントありがとうございます。

「存在しない物差しは長さ0ではない」これは、認めてもらえますか。
例えば、
縦横それぞれ1mの正方形の紙があったとします。
この紙のたての長さを1mから90cm,80cm・・・と短くしていき、・・10cm,0cmと、たての長さ0になるまでを考えるとします。
この想定において、縦が0.0001cmであろうとも、その紙が存在する限りでは横の長さは1mであるはずです。
それが、縦の長さ0になって紙の存在がなくなったとたんに、横も突然0になるというのは、この前提からだけでは、結論付けられないように思われます。
そして、同様に、「その無い紙の横の長さは1mより短い」ということも必然的な導出にはなり得ないと思われます。

>「苦しくない」が「苦しくないことそのものがない」だろうと些末な表現の違いに過ぎず「苦しい」より望ましくないことに変りはないのです

というのは、それを必然的導出可能だとしているように思えて、無理な話に思えています

もう一つの論は、話がごちゃごちゃしてしまっていますが、
僕の言い分は、こうです。

「他者に対して苦を与える可能性がある行為は為すべきでない」は、他者との関わりをすべて禁じないのであれば、それを原理とすることはできない

です。それは、認めてもらえるということでしょうか。

「他者に対して苦を与える可能性がある行為は為すべきでない」は原理にできないことを認めた上で、
それゆえ、仕方ないので、
「他者に対する苦を少なくするような行為を為すべき」に倫理法則を変更して考えるということでしょうか

「存在しない物差しは長さ0ではない」これは認めます

「~だから、不在がマシとは言えない。」と主張するなら
「苦しい」を「苦しいことそのものがない」になったとたんアンチナタリズムが成立しなくなる理由を説明していただきたいです。
現状だと論理が飛躍しているようにしか見えません。

「他者に対して苦を与える可能性がある行為は為すべきでない」は、他者との関わりをすべて禁じないのであれば、それを原理とすることはできない
これは認めない、というより理由が理解できません。

原理を完全に守ることが不可能であることがなぜ原理の不成立につながるのか説明して頂きたいですね。

Aさん、
では、僕の考えを順番に説明させてください。

「『無い紙の横の長さは1mより短い』は必然ではない」は了解されますか。

了解します

では、

生まれた子の苦と存在しない子の苦について、

存在しない子が味わう苦は、任意の生まれた子の味わう苦のどれと比較した場合でも、必然的に少ないと言えることはない、

は了解されますか

了解します

また、
ある2つの対象のうち、一方の苦が少ないかどうかはっきりしないなら、このことにおいて必ずしも、マシな状況にあるとは言えない。

ゆえに、

存在しない子は、存在しないことを根拠にして、生まれた子よりマシである、とは必ずしも言えない。


以上で、一つ目の論点が終わりです。どうでしょうか?

説明ありがとうございます
もう一つ質問させてください

2つ目の質問の時点で
存在しない場合、存在している場合と比べ「少ない」と言う表現がおかしいという主張かと思ったのですが
「一方の苦が少ないかどうかはっきりしない」というのはどういうことでしょうか?

「どちらか一方の苦が少ない」ことは事実で
それが存在している方なのか、存在していない方なのか分からない
ということで間違いないでしょうか

それと二つのシンプルな事実について認めてもらえるでしょうか

①存在すれば苦痛は避けられないし、生き続ければ他者に苦痛を与えることも避けられない。

②存在していない者は苦しむこともできないし、欲求を持つこともない。

Aさん、

>「どちらか一方の苦が少ない」ことは事実で それが存在している方なのか、存在していない方なのか分からない ということで間違いないでしょうか

僕はこの話のポイントが2値論理から外れる可能性をどう考えるかにあると考えています。
すべての事実に対して、「真」の値と「偽」の値の2つの値のどちらかだけに当てはめることができるか、という問題です。
つまり、「存在しない紙の横の長さは1mより長いか長くないかのどちらかである」とは限らず「どちらでもない」という可能性があるだろうということです。
「存在しない子は生まれた子より苦が少ないか、少なくないかのどちらかである」とは限らず「どちらでもない」という可能性があるだろうということです。
ですので、

ぼくの考えでは
「『どちらか一方の苦が少ない』ことは事実で それが存在している方なのか、存在していない方なのか分からない」
のではなく、
「『どちらか一方の苦が少ない』ことが事実としてあるとされる以前を問題にする必要があり、それゆえ、『分からない』だけでなく、その問いに関する『本当の答え』そのものが無い」
という話になるように思われます。

そして、
それゆえ、
>①存在すれば苦痛は避けられないし、生き続ければ他者に苦痛を与えることも避けられない

とおっしゃるのはその通りだと思いますが、

>②存在していない者は苦しむこともできないし、欲求を持つこともない

については、
「存在していない者は苦しむこともできないだけでなく、苦しまないこともできないし、欲求を持つこともないだけでなく、欲求を持たないこともできない」と考えるべきであるように思っています。

回答になったでしょうか。

回答ありがとうございます

>「どちらでもない」という可能性があるだろうということです
>その問いに関する『本当の答え』そのものが無い

やはりなぜこの結論に至った根拠をどこから求められたのかよくわかりませんでした

存在すれば苦しみ、存在しなければ当然苦しみも何もない
これは単なる事実ですよね

>とおっしゃるのはその通りだと思いますが、
>存在していない者は苦しむこともできないだけでなく

この発言を見ると横山さんもその事実を理解しているように見えます

苦しみを生むことは避けるべきというのが私の考えです

確かに存在しない人の苦しみが0であるだとか
存在している人より少ないという言い方に齟齬があるということには賛成できます

ただ存在しなければ苦痛が存在しないことは明らかだと思います

Aさん、
今私たちが問うている課題は、言葉の意味が危うくなる限界を思考する必要があるように思います。

僕が主張している「存在しない子は生まれた子よりも苦が少ないとは言えない」という話は、「その子を産まなかったならその子の苦を取り除けるとは限らない」という話に直結するように思われます。
この思考をするにおいて注意深く、一般的な2値論的言葉づかいに惑わされないようにする必要があるかと思います。

ふつうの一般的な2値論理的言葉づかいでは「苦が存在しない」という語は「苦が存在する」という語との対比として意味を持ちます。
つまり、
その対比の意味においてでは、「苦が存在しない」は、
「その子が存在し苦痛を受けている状態」としての可能世界Aと、「その子が存在せず苦痛を受けていない状態」としての可能世界Bとの対比において、AでなくてBであることを意味します。
そしてそのような「AでなくてB」の意味としてとる場合に、
「生まれず存在しなければ苦がない」は「苦があるAとしての状態」を回避し、その比較において「マシ」だと言えるものとなる、という解釈になるのではないでしょうか。

あるいは、
対比の意味においてでは、「横の長さがない」は、
「ある紙に何mかの横の長さがある状態」としての可能世界Aと、「その紙がなく横の長さが0mである状態」としての可能世界Bとの対比において、AでなくてBであることを意味します。
そして、そのような「AでなくてB」の意味としてとる場合に、
「存在しない紙の横の長さはない」は「存在する紙が横の長さを持っている」という状態を回避し、その比較において「より短い」、という解釈になるのではないかと思います。

しかし、
すでに見たように、ここで考えるべきなのは、そのような「対比」による意味の捉え方ではないように思えます。

「存在しない紙の横の長さが無い」とは、「存在しない紙の長さが0mという意味での『無さ』」では『ない』こと、
「存在しない子の苦が無い」とは「存在しない子の苦が0という意味での『無さ』」では『ない』こと、
の、その意味を深くかみしめる必要があるように思われます。

つまり、

「ただ存在しなければ苦痛が存在しないことは明らかだと思います」という考察が「存在しなければ苦痛を0にできることは明らか」という意味ではないということを、用心深く注意して思考せねばならないのではないか。
と思われてしかたありません。

そして、
「『存在しないこと』は『苦痛0』とは限らない」と考えられるということから、

「『存在させないこと』が『その子を救うこと』になるとは限らない」

という風に考えを進める必要がある様に思われてないりません。

いかがでしょうか。

僕の主張は、「存在しない子」の話は、真か偽かYESかNOかのどちらかの枠に収まるような論理展開で思考できるようなものではない、そこに意味を持ち得ない「ナンセンス」が含まれているという主張です。

そこのところが上手く伝わっていないように感じています。

「子を苦から救う」ことの意味は「子の苦を0にする」とか「子の苦を少なくする」でなければならない。
しかし、
「子を居なくすることでは、その子の苦は0にはならないし、少なくもならない」
という感じのことを思っています。

走っている車のスピードがその車の「苦」のメタファだとして、
その苦としてのスピードを減ずることでしか、「有意味」にその車のとってのスピードを減らしたり失くしたりすることはできない。
その車を無いことにしても、その車のスピードは0にはならない。

って感じです。

>ただ存在しなければ苦痛が存在しないことは明らかだと思います

これはどうしてもわからないのですが、

その子が存在しなければ、その苦痛は誰にとって存在しないのでしょうか。
「存在しない子にとって存在しない苦」って、単なるナンセンスとは違うのでしょうか?

http://therealarg.blogspot.com/2018/10/blog-post.html
非同一性問題についてはこのブログ記事が分かりやすいのでおすすめです

http://therealarg.blogspot.com/2018/10/blog-post.html
そのブログ記事の説明によれば、その非同一性問題では

「言い換えればこの前提は、その障害がボブの人生を生きる価値のないものにするほど悪いものであった場合には、ボブにとって存在しない方がマシであると言えるということは否定しない」

という前提なのだそうですから、それは僕の主張とは似て非なるものです。僕の主張はそれを否定するものですから。
ただし、これ以上無記名の方のコメントとは議論はしませんのでご了承ください。

こんにちは
先ほどのコメントと同一人物です。
返信ありがとうございます。

先に貼ったブログとそちらの主張は異なるとのことですが
不在がマシとは言えないことを根拠に出生を正当化するのであれば
少なくともブログ記事の『3.3 比較の不要性と概念的矛盾』はそれを否定しています。
比較の必要性を立証することはできますか?

Lさん、コメントありがとうございます。討論させていただけること歓迎します。

まず、僕はアンチナタリズムを否定していますが、出生主義でもありません。僕の立場は、人生の苦楽と生まれるべきか生むべきかどうかは必ずしも関係しないという主張をするものです。苦しむ命が生まれても良いだろうし快楽の命が生まれなくても良いだろうという立場です。なので、出生を正当化するものでもありません。

そのうえで、

>不在がマシとは言えないことを根拠に出生を正当化するのであれば・・・比較の必要性を立証することはできますか?

に反論したいのですが、しかし、僕にはそのブログの論説が理解できません。

と言うのは、

「そもそも行為が危害であること、あるいは間違いであることの条件として、比較的な判断が可能でなければならないという仮定は論理的にもっともらしいわけでもなく、正しいと想定する理由もない。なぜなら、現在の状態が本人にとって悪いものであることを判断するのに、別の状態と比較する必要は全くないからである。痛みやかゆみなどの感覚的特性は、何かと比較して相対的に存在するものではない。特定の瞬間の脳状態を外部から定性的に解析することにより、第三者的にその状態の「悪さ」を理解することもすでに可能となっている(see e.g.(Saarimakiet al. 2015))。原理的にはこれを定量化することも不可能ではないだろう。よって本人にとって特定の状態が苦痛の伴う悪いものである場合、別の特定の経験的状態と比較することなく、『その状態は生じるべきでなかったという意味で、その状態をもたらす行為が行われないほうが良かった』と言える」

という説明が、
僕には、比較の不要性の妥当な論説になっているとは思えないのです。

まず僕には、
「悪い」が「速い」と同じく、他と比較してはじめて意味が生じる述語だとしか思えません。
そして、上の論説の

>「その状態は生じるべきでなかったという意味でその状態をもたらす行為が行われないほうが良かった」

と言うのは、まさしく、「その状態」と「その状態をもたらす行為が行われないほう」とを比較しての「意味で」と言っているようにしか理解できず、
それゆえ、その説明が「比較の不要性」の説明としては成功してないように思えるのです。

また、その説明がアリなのであれば、「速い」「遅い」とか「長い」「短い」でさえ、比較が不要だということになりそうですす。

もしかして、アンチナタリズムの人は、「速い」「遅い」「長い」「短い」さえも比較が不要だと考えるのでしょうか?

事実として、
速い、短いなどに関しては相対的な評価ですが
「苦しい」というのは脳内で起こる現象であり他の状態と比べなくても存在できる絶対的なものです。

なので
『存在していない場合と比べられないから
「苦しい(悪い)」状態になってしまう出生をしても道徳的責任は問われない』
という主張は成り立たないのではないかと主張しています。

『苦しくないことそのものがない。だから、不在がマシとは言えない。』
この分の「だから」という接続語には
「比較できなければある状態が人にとってマシ(悪い)とは言えない」
という暗黙の前提が込められていますよね。

単純な論理の問題として
比較が必要というのはそちらが持ち出してきた前提である以上そちらが立証できなくてはなりません。
仮に「比較が不要」という論説を退けることができたとしても「比較が必要」という前提の立証にはなりません。
理性的な議論をするのであれば「~と思える」ではなく
比較が必要という前提をハッキリ立証する義務がそちらにあります。

>と言うのは、まさしく、「その状態」と「その状態をもたらす行為が行われないほう」とを比較しての「意味で」と言っているようにしか理解できず、
それゆえ、その説明が「比較の不要性」の説明としては成功してないように思えるのです。

一応これについても触れておきます。
「その状態をもたらす行為が行われないほう」というのは行為の対象の経験的状態ではありません。
「行われるほう」が行為の対象にとってマイナスであれば
「行われないほう」の場合対象がそもそも存在しなかろうが
独立して「悪い」と言えるということを主張しているのです。

>と言うのは、まさしく、「その状態」と「その状態をもたらす行為が行われないほう」とを比較しての「意味で」と言っているようにしか理解できず、
それゆえ、その説明が「比較の不要性」の説明としては成功してないように思えるのです。

一応これについても触れておきます。
「その状態をもたらす行為が行われないほう」というのは行為の対象の経験的状態ではありません。
「行われるほう」が行為の対象にとってマイナスであれば
「行われないほう」の場合対象がそもそも存在しなかろうが
独立して「悪い」と言えるということを主張しているのです。

畳みかけるようですが一つ質問です
バイオテクノロジーによって既に存在するもののために本人にとって好ましくない性質を内在的に備えた存在を生み出すケースについてはどうお考えですか?

このケースについても
不在がマシとはいえないので問題ではないという立場をとるのでしょうか。

Lさん、
まず、このniftyのココログブログはこの春こリニューアル以来いろいろと不都合が多く、このコメント欄に書き込んでもらってもすぐに画面に反映されないことがあります。僕の方では見えてますので、しばらく待ってくだされば見えるようになるとおもいます。ご迷惑をおかけします

言葉の意味として僕は、
「すべき」という語は、「『しない』ではなく『する』」とか、「『する』ではなく『しない』」とか、「『あの行為』ではなく『この行為』」とかいう風に、「AではなくB」という形でないとその意味を持てないと思ってます。
これは了解してもらえますか?

だから、僕には、「子どもが生まれる」のではなく「子どもが生まれない」のを選択せよ、という風に2つの状態から選択するのでなくては、「子を生むべきでない」は言えないと思います。
これはどうでしょうか?

そして、ここで問われている「子どもが生まれるのは悪い」という発言の「悪い」は、
それが「子どもが生まれるべきではない」に直結される意味での「悪い」のであれば、
「苦痛がある」という意味ではなく「それが為されるべきではない」という意味だとしなければ、ならないように思われます。
どうですか?

それゆえ、僕は比較せずに「すべきでない」という意味での「悪い」を言うことはできないと思われます。

という感じです。答えになったでしょうか?

>バイオテクノロジーによって既に存在するもののために本人にとって好ましくない性質を内在的に備えた存在を生み出すケース

と言うのを知らないので教えてください

失礼しました。いま自分の書いたものを読み返したら「思います思います」としつこいですね。つい癖でそのような書き方になってしまってました。ごめんなさい

返信ありがとうございます。
>~僕には、「子どもが生まれる」のではなく「子どもが生まれない」のを選択せよ、という風に2つの状態から選択するのでなくては、「子を生むべきでない」は言えないと思います。
これはどうでしょうか?

それは至極当然のことだと思います。

ただ、比較が必要な例があるというだけでは
全てにおいて比較が必要という事実を立証したことにはなりません。
不在と存在の比較ができないから出生してもよいという論説を支持することにはなってないです。

第三節の「そして、ここで~思われます」
の部分は私にはよく意味、意図が分かりませんでした。

「バイオテクノロジーによって既に存在するもののために本人にとって好ましくない性質を内在的に備えた存在を生み出すケース」というのはかいつまんで言えばマイナスの性質を与えられたデザイナーベイビーです。

具体的にこんなケースを考えてみてください

『ある生物学者の夫婦は子供の遺伝子をある程度操る技術を持っています。
夫婦は猟奇的な趣向を持っており、自分たちの子供に四肢欠損、五感欠損、重度知的障害、重度の外見の醜悪さ
などの性質を持たせて産み、育てることを楽しんでいます。
夫婦は自分たちの子供が確実に悲惨な人生を送ることを想像することができます。
夫婦は産んだ後は彼らが幸せになるように尽くしますが、結局彼らは多くの正常な人たちと比べれば悲惨な人生を送ることになります。』

このような子供が明らかに不幸になるケースについても
夫婦の子供にとって産まれていない(不在)のほうがマシとはいえないから夫婦の行動に問題はないと考えるのでしょうか。

ちょっと気になったので追加
「子どもが生まれる」のではなく「子どもが生まれない」のを選択をするのは親のことですよね。
これについては親の視点から比較することができます。
その結果を受け取る子供の視点は「存在して苦しむ」と「存在しない」。
これについては存在しない場合がマシとは言えない(比較できない)というのがあなたが主張したことです。

区別したうえで話しましょう。

ちょっと気になったので追加
「子どもが生まれる」のではなく「子どもが生まれない」のを選択をするのは親のことですよね。
これについては親の視点から比較することができます。
その結果を受け取る子供の視点は「存在して苦しむ」と「存在しない」。
これについては存在しない場合がマシとは言えない(比較できない)というのがあなたが主張したことです。

区別したうえで話しましょう。

1)
>ただ、比較が必要な例があるというだけでは全てにおいて比較が必要という事実を立証したことにはなりません。不在と存在の比較ができないから出生してもよいという論説を支持することにはなってないです。


これについて、僕の立場は、人生の苦楽と生まれるべきか生むべきかどうかは必ずしも関係しないという主張をするものです。独立する場合もあるとする主張です。必ず生むべきという主張ではないので、反例をひとつ示すだけで足りると考えています。

2)
>第三節の「そして、ここで~思われます」の部分は私にはよく意味、意図が分かりませんでした。

>そして、ここで問われている「子どもが生まれるのは悪い」という発言の「悪い」は、それが「子どもが生まれるべきではない」に直結される意味での「悪い」のであれば、「苦痛がある」という意味ではなく「それが為されるべきではない」という意味だとしなければ、ならないように思われます。

の部分ですね。これについては、

>「行われるほう」が行為の対象にとってマイナスであれば「行われないほう」の場合対象がそもそも存在しなかろうが独立して「悪い」と言えるということを主張しているのです。


に対する反論として書きました。
ここで言われている「『行われるほう』が悪い」という文が、「行われるべきでない」という意味で言うのであれば、それは何かと比較しているのでなければ、何を言ってるのか分からなくなるのではないかということを言いたかったのです。逆に真に「比較対象なしで独立して悪い」と言っているのであれば、それは「それを為してはならない」という意味には直結する言葉ではないのじゃないかと疑っているのです。

3)
次に、

>「子どもが生まれる」のではなく「子どもが生まれない」のを選択をするのは親のことですよね。これについては親の視点から比較することができます。その結果を受け取る子供の視点は「存在して苦しむ」と「存在しない」。これについては存在しない場合がマシとは言えない(比較できない)というのがあなたが主張したことです。区別したうえで話しましょう。


これについて、

親は生者として何かを比較する視点を持ってますから、生まれた状況と生まれない状況を、その自分の視点で持って比較することはできると思います。
しかし、アンチナタリズムの考えが、親は「『生まれない子どもにとって』生まれない方が良く、生むべきでない」と考えるべきだとしているのであれば、それは何を比較するのか不明な比較になるので、それは妥当な演繹とは考えられないと言いたかったわけです。
区別した上での話を書いたつもりでしたが伝わらなかったですね。これで伝われば良いのですが。


4)
『ある生物学者の夫婦は子供の遺伝子をある程度操る技術を持っています。夫婦は猟奇的な趣向を持っており、自分たちの子供に四肢欠損、五感欠損、重度知的障害、重度の外見の醜悪さなどの性質を持たせて産み、育てることを楽しんでいます。夫婦は自分たちの子供が確実に悲惨な人生を送ることを想像することができます。夫婦は産んだ後は彼らが幸せになるように尽くしますが、結局彼らは多くの正常な人たちと比べれば悲惨な人生を送ることになります。』このような子供が明らかに不幸になるケースについても夫婦の子供にとって産まれていない(不在)のほうがマシとはいえないから夫婦の行動に問題はないと考えるのでしょうか。

これについて、

まず議論の前に、
「四肢欠損、五感欠損、重度知的障害、重度の外見の醜悪さ」が「多くの正常な人たちと比べれば悲惨な人生を送る」ものだとすることに僕は強く違和感を覚えます。しかし、その点はここでの議論の本題ではないでしょうから、「夫婦は『何かしらのいわゆる健常児と比べれば悲惨な人生を送るであろう子どもを産もうとしてる(なぜ悲惨なのかは問わないでそういうものとして前提する)」という話だと解釈して僕の考えをお答えしたいと思います。それで良いですか?

その上で、この夫婦は「健常児」と「悲惨な子ども」とどちらが生まれるようにすべきかという問いとして、その是非を検討することはできると思いますが、「悲惨な子どもが生まれるか」「生まれないか」のどちらが「生まれない子どもにとって」好ましいかという問いとしてその是非を検討することはできないと思います。「生まれない子どもにとっての生まれることの悲惨さ」というものが僕にはナンセンスな対象にしか思われず比較できないからです。

最後の「悲惨な人生を送るであろう子ども」の話が、考えるべき思索課題を含んでると思われたので、もう少し付け加えます。

その「悲惨な子ども」という言葉をさらに突き詰めて「生まれない子にとって、生まれないよりも生まれる方が必然的に不幸であるような子ども」という言葉が有意味に考えられるかどうか、というところが問題になりそうに思いました。
そして、「無いものにとっての比較」というものは、その「無いものにとって」という矛盾的表現のために、某かの恣意的な前提を持ち込まない限りは、有意味な言葉にはならない、
のじゃないかと考えます。僕の主張の本意はそこのところにあります

結局のところ1~4まですべて比較の必要性について主張しているものだと思うので
1の
これについて、僕の立場は、人生の苦楽と生まれるべきか生むべきかどうかは必ずしも関係しないという主張をするものです。独立する場合もあるとする主張です。必ず生むべきという主張ではないので、反例をひとつ示すだけで足りると考えています。

について答えます。

まず、「生まれるべきか生むべきか」はおそらく誤植なので訂正してください。
人生の苦楽と必ずしも関係しないとのことですが、最初に述べた論点1によれば不在がマシとは言えないから
「必ずしも関係しない」ではなく「全く関係しない」の立場のはずではないですか?
独立する場合についても具体的な説明を聞かせてください。
比較の必要性を明確に立証する必要がある理由は昨日17:21のコメントで示しているので
それを見てください。

そちらが提唱した比較の必要性があやふやなままでは議論できません

おはようございます

それと尊厳死のケースについても意見を伺いたいです。
不治の病で苦しんでいる人(X)がこれ以上生きていたくないと相談し
医者もそれを了承して治療を中断したとします。

Xは苦しみから逃げることができたわけですが
このケースも死んでいる人は不在なので、生きていた場合と比較できないから尊厳死できてよかったとは言えないことになるのでしょうか。

>まず、「生まれるべきか生むべきか」はおそらく誤植なので訂正してください。

はい、すみません。間違いです。
「生まれるべきか生まれないべきか」です。

先に、尊厳死の話から僕の考えを答えます。

>不治の病で苦しんでいる人(X)がこれ以上生きていたくないと相談し 医者もそれを了承して治療を中断したとします。 Xは苦しみから逃げることができたわけですが このケースも死んでいる人は不在なので、生きていた場合と比較できないから尊厳死できてよかったとは言えないことになるのでしょうか。

これに僕がお答えするには、
「その苦しみから逃れることを誰のどの視点で判断するか」と
「比較の恣意性がどこまで許されるか」
の2点で問題を整理する必要があると思います。

1)「その苦しみから逃れることを誰のどの視点で判断するか」について

「Xは苦しみから逃げることができたわけですが」と、Lさんはされています。しかし、これは、
(「『生きているXにとって』は明日の苦しみがなくなる」という意味では「苦しみから逃げることができた」と言えるかもしれませんけれども、)
「『死んで不在となったXにとって』その苦しみなくなる」という意味でそれを言うことが不可能なものではないでしょうか?
それは単にナンセンスになってしまうと思われます。「生きているX」の視点においては「私は死ぬことによって苦しみから救われる」という発言は有意味であり得ますが、「死んだX」の視点においての「私は死んで救われた」という発言は、Xが死後に幽霊にでもなってある意味で「意識をもって生きている」のでなければ、有意味にはならないですよね。

なので、「Xは苦しみから逃げることができた」と言えるのはX自身の発言であるなら生きているXの視点におけるものと考える必要があると考えます。

2)「比較の恣意性がどこまで許されるか」について

しかし、生きているXの視点であったとしても、「自死によって明日の自分が救われる」と考えるためには、「死後の苦しまない自分」と「生きて苦しむ自分」を比較する必要があります。
これについては、僕は、何も恣意的な前提を導入しないならば比較することはできないと考えています。
しかし、無理して恣意的な前提を挟み込んできて比較可能な形にすることは不可能ではない、とも考えています。

例えば、このコメント欄の上の方で出した例ですが、
ある物差しの縦の長さと重さとを比べるとします。それで、縦の長さ30cmで重さ300g、20cmで200g、10cmで100gと順に減らしていき、縦の長さ0cmで0gとなる。それで、その物差しの縦の長さとその存在量が比例すると考えて、
「物差しの存在が0の値であればその縦の長さも0の値となる。すなわち、その物差しが無ければ縦の長さも0の値となる」
とするような考え方をすることは決して無意味ではないと思われます。
しかし、この考え方はかなり恣意的な前提が差し込まれていますよね。その推論がアリなら、「存在しない物質の温度は絶対零度である」とか「存在しない車の速度は0m/sである」などということまで言えてしまうはずです。
まあ、それでも、そういう恣意的な前提を組み込んでしまえば「存在しないものが何らかの値を持ちそれが0値である」とするような言語ゲームを仮設することは不可能ではないと思われます。

さて、そこで、Xも同じように「自分の死後にも苦痛が値を持つことが可能でそれが0値として想定できる」と自分で考えそれが妥当な推論だと『思い込む』ことは可能だと思われます。Xが無意識にでも何らかの前提を差し込んで、そのような思い込みをする場合には、「自死によって明日の自分が救われる」と考えることはあり得ますし、それは有意味にもなり得ると思います。
その意味では、「生きているXは実際にその生きているXの視点において、自死によって自らの苦悩から救われることができる」と言えるように考えます。

ただし、それをするには、どこまでも、何らかの前提が必要であることには変わりがないと、僕は考えています。


尊厳死については以上です。

次に、
>「必ずしも関係しない」ではなく「全く関係しない」の立場のはずではないですか?

について、

これは、尊厳死の話で説明したように、僕は、恣意的な前提を持ち込む場合には関係することもあリ得ると考えていますので、「必ずしも関係しない」としたわけです。
「その人が生まれるべきか否かとその人の苦楽との関係は、某かの恣意的な前提が持ち込まれない限り、完全に独立」だと言って良いと思います。


最後に、
>比較が必要というのはそちらが持ち出してきた前提である以上そちらが立証できなくてはなりません。

について、

ある人が生まれるべきか否かを考えるときに比較が必要なわけ。

「すべき」という語は、「『しない』ではなく『する』」とか、「『する』ではなく『しない』」とか、「『あの行為』ではなく『この行為』」とかいう風に、「AではなくB」という形でないとその意味を持てない。だから、「子どもが生まれる」のではなく「子どもが生まれない」のを選択せよ、という風に2つの状態から選択するのでなくては、「子を生まれるべきでない」は言えない。
一方、有意味な文を構成するために選択するのであれば、その選択肢どうしを比べる以外に妥当な方法がない。それは、そもそも、ある命題が意味を持つということ自体が、その命題自身とその命題の否定とを比較して、否定の状態ではなく肯定の状態であることを選択することそのものであるからである。ある命題の真偽がその肯定否定によって比較されずに与えられるとするならば、その文は、真理値を持つような有意味な命題にはなり得ないのである。
なので、生まれた方が良いか否かを考えて、それを真偽付けができる有意味な文として推論するためには、比較が必要である。

終り。

ありがとうございました
それも一つの見識かもしれませんね

概ね疑問としては正当な物だし意見としても正当な物だと思います
まず、誤解と言うか、これはすれ違うな、と言う点を上げるとすれば、アンチナタリズムは苦痛に焦点を強く置く事と密接に関係しています
そう言う意味で非常に悲観主義的な物です、と言う事を前提に置いて頂ければと思います
仏教においても「~を厭う様になる」の連続がありますが、あのような視点が「土台」であるとご理解いただければと思います
要するに「快楽の反転性」とかも合わせて考えて「価値がない(依存症的な痛み止めでしかない)」と言うイメージが強いです
そう言う意味では生を肯定するに足る力強い歓びを感じた事のない人であるとも言えます

また、快と苦痛を考える上で忘れてはならないのが「他者への加害性」と「普遍性」です
100の加害を与え10の快(価値)を得るのでは当然話になりません
また、100人の内99人が苦痛の方が多い中で1人だけ快が100あっても意味がありません
それは遠回しに99人の犠牲の上で1人の快楽が成り立っているのと変わりません」
もし肯定するなら99人は生まれない様にするか、100人が快楽が多い形にするか、
いずれは100人がそうなるという展望と不可分です

これが1と2の疑問に対する答えとなります
反論と言うよりは「認識のすれ違いではないかと思われるポイント」などの話ですね

最後の3についてですが、これは正しい意味でのアンチナタリズムへの反対意見ですが、実際にこの論を言う人、と言う所に帰った時、結構繊細な話だとも思います
まず、その理屈は「加害性・悪性とされる物の積極的な肯定」です
世の中の一般倫理としては受け入れられてない物で、それ故に無自覚だと自らで拒絶してしまいます
ぶっちゃけ完全な自己責任論者って大抵ここで転びます
あの理論推す人って悪人あ犯罪者に「悪くて良い」「そう言う物だ」「それこそ人間だ」と言えない人が多いんですね
基本的に自分が責任を負わず、無辜の民である為の自己責任論選択なので、「嫌いな奴を殴る」責任すら持てない人が多いのです
後はそれを肯定出来ても「ああ、自分が一方的に殴る位置に居るからだわこいつ」って奴もダメですね
さて、加害性の本当の意味での積極的肯定となると、実質滅茶苦茶社会に攻撃的な事言ってるので嫌がる人はかなり居ます
「差別」って指摘されただけで滅茶燃え上がる人多いですからね
まぁ、完全な自己責任論否定者なので、その辺りの関係性への眼差しは誠実だと思いますけどね
こんな感じで悪性を笑い飛ばせる強さがあれば、それはそれで「素晴らしい意見」だと思います
そんな人間ばかりの世界に「法律」と言う明文化が必要なのか?と言うのは疑問ですけどね

糸冬さん
ううむ。すれ違いとおっしゃるのは、多分そうなんだろうなとは思います。
反論すべきところなども、多分あるような気もするのですがでも、ごめんなさい。やっぱり、言われていることがうまく理解できないでいます。
何とも返答できず、申し訳ないですが、ご勘弁ください。

多分、気になるのはここではないか?と思われる部分ですが…
加害性の積極的肯定と倫理性の要求(加害性の抑制への要請)の両立は人間の本質を善性と定める事で可能です
そこにあるのは懲罰意識や断罪への要求ではなく哀れみであり、子供の意志を尊重した上で自己破壊的な有り様を否定し叱り諭す様な愛情です
小さな傷に囚われて自己を損なわないで欲しい、同様に力強く幸福に生きれる様になって欲しいと言う願いです
自分のエゴを肯定しながらも(エゴからの怒りや否定は否定しない。要するに面倒とかの拒絶感)
純粋に他者に対する物としては怒りや否定は全てここからスタートすれば両立可能です

糸冬さん、
仰っている話は、上の3)の論点に関してのものでしょうか?
僕には、それが「加害性の積極的肯定と倫理性の要求(加害性の抑制への要請)の両立」の話にどう繋がるのかよくわかりません。
僕の意図としては、1)2)でもって、生死と快苦がそれぞれ価値の比較対照にならないとする議論は恣意的に偏っていることを考え、3)でもって、他者への関与の論点についても、損害の可能性があるなら他者に関与してはならないという規範ばかりを重く受け止めるのは、あまりに恣意的に偏っているということを、考えようとしています。
つまり、僕が訴えているのは、子供にとって得だと思えば生んで損だと思えば生まなければ良いという、普通の規範で考えれば済むだけの話を、ベネターは恣意的な前提を紛れ込ませて偏った結論へと結びつけただけなのではないかとする、論理的な構成で捉え直すことも「可能」なはずだってことです。
かなり基本的なところで、ベネターの論理性が疑い得るとの主張です。

そういう話ですから、あまりこの点について議論を広げるのは必要なのだろうか?と思ってしまいます。

すみません。やはり糸冬さんのコメントの意図をきちんと受けとめられていないままに、思いつきで回答してしまってますので、かなりトンチンカンなことを言ってるかもしれません。変なこと言ってたら笑い流してください

仰る通り、ベネターや反出生主義の視点は偏って居るとは思います
ただ、子供にとって、と言う話を言葉通りに受け取ると、そこは視野が狭く、話がズレると言う話になります
子供が与える影響を含めてプラスになると思うなら、が反出生主義に対する反論としては的を得て居ます
まあ、その上で、反出生主義者は世界を見渡してみろ!?どんだけの苦痛が無責任に溢れている!?と語る訳ですね
勝者の幸福、成功者の幸福が折れた者の不幸よりも多いとでも言うのか!?とか
前提の誤謬は指摘としてはご最もですが、世の中に溢れ過ぎてる物でもあるので、まあ、指摘を普通にして頂ければと思います
逆に言うと生の肯定にだってそう言う物が付き纏いますしね
しかし、やっぱゲームや創作のラスボスに割と居そうな思想ですね(笑)
FGOのゲーティアや天草かな?と言う

まあ、正直、そんななんで主人公みたいな奴にぶん殴られるなら気持ちも良いのですが、
大抵殴ってくる奴がロクでもないので、尚更反出生主義が広まる(意志が強まる)悪循環と言うのもあります
ロクでもない奴と言うのは生の希望(価値)を語れない輩、極狭い範囲で語ってしまう輩ですね
反出生主義は昨今の国際化やアニマルライツなどの「内側」の規模の拡大と強く関係するので、規模が小さいだけの輩は軽蔑の対象でしかありませんからね
規模が大きくてそれを再度ミニマムに纏めた人は本質的に規模の大きい人なので別ですけどね

人間に価値などないが人間の作る物には価値がある!とか、小さな悪に囚われて全体の紋様を見ていない、とか力強く言われるなら、割と満足です
塵芥みたいな善(寧ろ悪なのでは?)よりも力強い悪の方がまだ価値があるとか言っちゃえれば、ああ、勝てないわな、で終わりですね
後ろ向きな話でしかない事は否定出来ませんからね

糸冬さん、
僕が誤解を招く言い方をしてたのがいけなかったです。アンチナタリズムに批判的だと言い、生の哲学が大好物だと言ってましたから、それぁ僕が出生主義者だと思われても仕方ないです。
でもそれは違うのです。人間の子供が生まれるべきものだなどということはこれっぽっちも思ってはいません。
アンチナタリズムに対しては、ベネターの論理が極めて論理的で覆す余地がないという人が居てたので、それは違うだろう、かなり非論理なところも見られるだろう、と思って批判しています。でもそれは子供が生まれた方が良いという思いからではありません。
また、生の哲学が大好物で生を肯定すると言ったのも、生によって現れ認識されることこそが物的存在においても本質だとするような認識論存在論が好みだという意味でしかなく、そこにおいても、子供はぜひ生まれるべきという思いがあるわけではありません。
生まれない方が良いとも生まれる方が良いともどっちもないのです。
生まれた方が良いと思う人は産めばよいし生まれない方が良いと思うなら産まないが良いと思います。ただベネターの論理を理由にして産まないと結論づける人が居ればそれは違うのではないかと思ってしまう、ソレだけなのです

ああ、なるほど、ベネターの理屈を正しく聞き、世界を再点検しても、
なお生は幸せだと思う人は産めば良いはずでは?
と言う話ならその通りですね
ベネターの理論は本質的に前提に共感されて成り立つ物である事は確かです
まあ、他の部分の話もして、お前は本来こっち側にいるべきタイプだろうって奴は多いですが、それ以外なら仰る通りですね
生の価値をどこに置くかも人によりますしね

すいません。上は私です
例えば一般的な悪性を原理主義的に否定する人などは、お前こっち側だろうって話ですが、そうでない人だと話は変わりますからね
存在認識論はまた少しそれもずれてるかなと思いますけどね
産まれた時の苦痛の可能性と存在しない時の苦痛の可能性の比較なので
(死後の世界とか産まれる前の世界とか本気で信じてれば別ですけど)

糸冬さん
まだすこし誤解があるかもしれません。このコメント欄も随分と長くなってしまったので読みにくいと思いますが、ざっと読んでもらえると僕の考えていることを見通してもらえるかもしれません。(とくに8月21日のあたり)。

でも、ホントにずいぶん長いので無理して読んでくださらなくても、ですけど。

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