フォト

ウェブページ

無料ブログはココログ

« 「有限性の後で」事実論性の原理と物自体の無矛盾とその存在<思弁的実在論をわかりやすく読み解く7> | トップページ | 「有限性の後で」頻度の帰結がダメなわけ<思弁的実在論をわかりやすく読み解く9> »

2018年7月27日 (金)

頻度の帰結・カントが因果律を必然としたわけ<思弁的実在論をわかりやすく読み解く8>

「有限性の後で4章・ヒュームの問題」前半を読む。

ヒュームは、世界記述において確かなのは「経験」と「矛盾律」の2つだけだとした。因果律は証明不可能なのに物理法則はどれも因果律を基盤としているので、あらゆる物理法則は確実ではない、とした。物理学それ自体が明日もなお可能だと証明することは不可能で、今日の世界のあり様と明日のあり様は全く違うかもしれないと懐疑できる、と。ヒュームが提出したこの疑問は、「世界のあり方の斉一性が保証されるか」「世界が現にあるようにある究極の理由はあるか」を問うものでもあるから、まさに「事実論性の原理」の問いにも直結する。そこで、今日は、この「ヒュームの問題」について、それがどこまでどのように問えるのかを、カントの考察を中心に考えてみる。

「ヒュームの問題」への対応を、メイヤスーは大別して3つあるとしている。

①形而上学的・超越的回答

②ヒューム自身による懐疑的回答

③カントによる超越論的回答

もちろん4つ目に、その3つへの反論として、④メイヤスー自身による思弁的回答が用意されてある。だけど、メイヤスー自身も③までを丁寧に振り返ってから自説を広げているので、本ブログでも④は次節に回して、今日は③までを見ることにする。

そして①~③を確かめながら、

・「頻度の帰結」はどこまで「ヒュームの問題」への回答の根拠となり得るか、

・「ヒュームの問題」が「決定論‐非決定論の問題」と別の問題であること、

・「ヒュームの問題」が「ポパーの問題」と別の問題であること、

について考察してみる。

 


今日の課題:ヒュームの問題はどんな風に捉えるべき問題か。

【ヒュームの問題】「経験科学は今日、そうであったように明日も可能であるということを証明できるか」(「有限性の後で」より、メイヤスーによる「ヒュームの問題」の定式)
Hume
デイヴィッド・ヒューム David Hume1711-1776

 


①「ヒュームの問題」への形而上学的・超越的回答(神の定義による証明)

デカルトのやり方である。

証明)「世界の原理は永遠性を持つ」

・完全な神が必然的に存在する。(存在しないなら完全ではない)

・完全な神はその完全性によって最善の世界を創造する。

・我々の世界の永遠性・原理の永遠性は神の完全性によって保証される。

―――証明終わり)

神の定義によって直接的で無条件的に因果の必然性を証明してしまう。世界のあり様が完全であることを前提してしまうことによって、その完全性を証明したことにしてしまうというやり方である。事実論性との関係を考察する点では学べるものは多くないだろうから、この捉え方自体には深い考察の課題も多数あるのだろうけれども、ここでは深入りせず置いておきたい。

 


②ヒューム自身による懐疑的回答

ヒューム自身による懐疑的回答は、2つに分けられる。(a)理由律や因果律の証明が不可能であること。(b)それゆえ、習慣と傾向性によって理由律や因果律を確信するほかないこと。

 
(a)理由律や因果律の証明が不可能であること

証明)因果律が証明不可能なこと

・因果律は、近接する物体の関係を経験的で有限なデータから帰納的に求めたものに過ぎず、そこに必然性を証明するものはない。

・因果律にもとづいた想念のみを優先する根拠がない

―――証明終わり)

ヒューム自身は次のように説明している。

「たとえば、私が一つのビリヤードボールが直線をなして他の一つへ運動していくのを見るとき、そして第2のボールの運動が両者の接触衝突の結果として、たまたま私に示唆されたとした場合においてさえ、百にも及ぶ様々な出来事がこの原因から等しく生じることを、私は心に思い浮かべることができないだろうか。2つのボールは休止しないだろうか。第1のボールが直線で戻ってくるとか、第2のボールを飛び越えて何らかの方向へ運動する、といったことはありえないだろうか。これらすべての想定は整合的であり、想念可能である。とすれば、他に比べてより整合的でも想念可能なわけでもない一想定をなぜ我々は優先させるべきであろうか。我々のアプリオリなすべての推論は、この優先についていかなる根拠も示すことはできないだろう。」(ヒューム「人間知性研究」、「有限性の後で」から孫引き)

これまでの、全てのビリヤードボールが完全に物理法則にそって運動してきたという事実は、どこまでも経験的な有限の事実に過ぎないのだから、その有限なデータからボールの必然的絶対的な運動予測を帰結させ得るわけがない。

「ボールは、我々に固有の世界を統べる法則に従わないで、ボールを互いに飛翔させたり、融合させたり、無垢だが不貞腐れた女に変身させたり、赤くて銀色のたおやかなユリの花に変身させたりするかも知れない」(「有限性の後で」p162、とくに引用文が必要な部分でもなかったのだけど、横山個人が「無垢だが不貞腐れた女」を妙に気に入ってしまって、どうしても紹介したかったので引用させてもらった)。

ヒュームは「百にも及ぶ様々な出来事」が可能だと言っているが、無矛盾である限り、百どころか無限の可能性が許させているはずなのだ。つまり、我々が必然的な真とできるのは「すでに経験した事実についての話」と「すべての出来事は無矛盾である」ということしか言えないということだ。それ以上のことを言おうとするなら、それは(それこそ必然的に)非必然な言明にしかなり得ないはずなのだ。因果律の必然性なんてものは、どうしようもなく入手不可能なものなのだ。

 
(b)習慣と傾向性によって因果律を確信するほかないこと

そこで、ヒュームは因果律の必然は証明できないが、それゆえに、我々には確信するしかなく、因果律があると思ってしまう我々の傾向性の命じるままに、習慣的に起こることは次も同様に起こると信じれば良いとする立場を取った。ヒュームは因果律に「必然性が証明できないこと」は信じていたのだけど、彼は真に「因果律の存在が必然でないということ」は信じてはいなかったのだ。

次に紹介するカントはもちろん因果律が必然だと考えているし、デカルトももちろん因果律は必然だと考えている。ヒュームも因果律の必然は証明できないとしつつも、因果律の必然は信じていた。それに対してメイヤスーは、因果律は真に必然でなく、必然でないことが証明できるとする。この点でメイヤスーはかなり斬新なことを言っている。対してカントは逆に因果律が必然であることを証明できるとする。メイヤスーの「因果律の非必然の証明」を見る前に、カントの「因果律の必然の証明」を見ておこう。

 
③カントによる超越論的回答

「仮に経験的な概念による総合の統一〔つまりとりわけ現象への因果関係の適用:メイヤスー注〕がまったくもって偶然的であるならば、そしてもし仮に、それが統一の超越論的な原理に基礎付けを持たないものであるならば、現象の塊が私の魂を満たしても、いかなる経験もそこから生じないということが起こり得るのではないだろうか。けれども、そうであったならば、普遍的で必然的な法則によるつながりが欠けることになるので、認識から対象へのあらゆる関係は消失するであろう。その結果、それは思考における空虚な直視にはなるだろうが決して認識になることはなく、認識から対象への関係も我々にとって、あたかもそんなものは存在しないという風になってしまうのであろう」(カント「純粋理性批判」より「有限性の後で」からの孫引き)
Kant
イマヌエル・カントImmanuel Kant 1724-1804

因果律が仮になかったと考えてみる。もしかすると、それでも現象の塊が私の魂を満たすことはあるかもしれない。けれども、「因果法則」や世界の法則となるような「理由」が何も無いのであれば、私の魂が世界を認識したりそこに対象があることを知ったりできないはずだ。もし私の魂が某かの存在者を対象として捉えたと考えるのであれば、私は必ずそこに某かの関係を関係づける法則が必然的なものであると前提していなければならないはずなのだ。
たとえば、AがBの理由になっている場合に限り、私はBをもってAを語ることができる。私の表象にりんごの視覚が浮かんでいて、私の手がりんごに触れているという触感の表象が浮かんでいることをもって、ここにりんごが実在するとするのであれば、実在のりんごと私の表象の間には、りんごの実在が原因となりその結果として表象が浮かぶのだとする因果関係があることが前提されていなければならない。表象をもってその原因となる世界の存在を結論付けるには、そこに因果律という「理由」があることを認めなければならないのだ。

しかし、そこで世界を語るために前提した「理由」が、適切ではなく間違っていたということは十分にあり得るように思われる。因果律が必然的なものでなくって、本当はたまたまそーなっていただけの世界を必然だと思い込んでしまっているって話はあり得るように思える。この世界が決定論的に決定されていなくて、全てがまったくたまたまで、法則なんてなくて、理由があるように見えていても実は何の理由もなかったのに、理由があると思い込んでいただけだったってこともあると考えられる、というのがヒュームの懐疑だった。そう考えられるのであれば、少なくともその因果関係が必然だとすることはできないことにならないか。

 
頻度の帰結

ところがカントは、この「偶然かもしれないという懐疑論」に「頻度の帰結」という論をぶつけて反論する。

【頻度の帰結】仮に万物に自然の斉一性の原理が適応されず、何かの法則が理由なく変化し得るものであるならばその状況が頻繁に変わらないことは極めてあり得ない。しかし、現実の状況では極めて安定している。地上の物体は常に落下しようとし、物理法則は常に一貫している。 だから 、世界には自然の斉一性が適応され、法則を成立させる理由があると言える、とする推論。
ヒュームが因果律の必然性を演繹的に証明することができないとした点は確かに正しいのだが、確率的に因果律が無いとすることはあり得ないとして良いほどに小さいものである。
もし世界に因果法則が無いのだったら、手を放す度に何度でもビー玉が落下するなんてことは、あまりにもあり得ない話だ。仮に因果法則が無いとし、手を離したときに偶々ビー玉が下方へ運動する確率が1/10だったとして、2回連続で下方へ行く確率は10-2 で1/100、3回連続する確率は1/1000・・・とかなり低確率である。10の場面のそれぞれ10の箇所で偶々因果法則があるかのように運動したり静止したりする確率は10-100  とで、1/100000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000…(100桁)というずいぶんな低確率になる。さらにこれが現実にはあらゆる場面あらゆる箇所で、その累乗を求められることになるので、因果法則が無いままに現実の状態を得られるのはほとんど「0」の確率になってしまうと言える。だから、現実的には「因果律がある」として良いし、そうするべきだと言うのである。

この論点はかなり強烈で、全くカントの言う通りだと思えてしまう。そのことを抑えればこのページでの今日の考察はおしまいなのだけれど、「ヒュームの問題」とこの「頻度の帰結」をきちんと理解するために、いくつかの点で確かめておきたいことがある。
「ヒュームの問題」が「決定論‐非決定論の問題」と別の問題であることと
「ヒュームの問題」と「ポパーの問題」が別問題であること、である。順に見ていこう。

 
「ヒュームの問題」が「決定論‐非決定論の問題」と別の問題であること

まず、カントが言っているのは、「法則があることは必然だ」ということであって、「法則がけっして偶然性を含まない」ということではない。
もし仮に世界の成立を司っている物理法則が偶然性を内蔵するものであるとしても、やはりそこにはその偶然性を含んだ法則が「ある」のでなければならないとするのだ。

 
クリナメンと量子論

たとえば、エピクロスの「クリナメン説」というものがあるのだけど、これが偶然性を許す。
Epikouros
エピクロスEpikouros BC341-BC270

【クリナメン】エピクロスによって考案された物質生成の運動。「逸れる運動」とも呼ばれ、空間の極小単位から単位への飛躍を指す。偶然性を担保し非決定論的な自然法則を導く。自由意思を根拠づけると言われることもある。エピクロスはデモクリトスの原子説の流れをくむ一派である。当時の自然理解において原子説は生や意識さえ原子の集まりに過ぎないとする点でかなり革新的なニヒリズムであった。単なる原子が決定論的に動くだけで自由意思が生じるわけがないという批判に抗して、偶然性を許す物理法則を立ち上げることで自由意思と唯物論が共存両立できるものとした。(精神が自由であるためには偶然性が必要だとする考えは間違っていると僕には思われるが、このような議論は現代の量子論においても語られることがあるので、根深い問題だと思う。しかし、今日の話は自由意志に関係ないので深入りしない。)

また、紀元前のクリナメン説だけでなく現代の量子論も偶然性を内蔵する法則を示す。量子論によると、事象の起こり方は確率でしか表し得ないものだとされる。それは人間が不十分な知識しか持てないから確率でしか言えないのではなく、神でさえ知り得ないような非決定性が自然法則そのものの中にあるとするのだ。アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と批判したというアレだ。ともかく、偶然性を保証する法則があるのだ。つまり、偶然性を保証するような法則が必然的あることは可能なのだ。

 
非決定論的法則

でも、そのような偶然性が法則でもって保証されてるのだとしたら、やっぱり、理由があることが必然でなくなってしまうのじゃないのか。
否、カントの言い分で言うと、法則自体が偶然性を許したとしても、因果律や理由律や物理法則は必然だと言えるのだ。
このことについて、メイヤスーは「hasardアザー・偶然の巡り合せ」「contingenceコンタンジョンス・偶然性」という2種の偶然性を示して説明する。

例えば、量子論において、放射性原子が崩壊して別の原子に変化することは確率だけにしか支配されない。或る意味完全な偶然である。

一方、実際のサイコロを振ってどの目が出るかという状況でその偶然性を考えるとき、一般的には出目は偶然によって決まると考えられることが多いが、古典物理においては、初期データとしてサイコロと場の状況の極めて細部までの物理情報をきちんと把握されていたならば、ラプラスの魔の如く計算だけによって、何の目が出るかを正確に割り出せるとする。
Laplace
ピエール=シモン・ラプラスPierre-Simon Laplace 1749-1827

【ラプラスの魔】ピエール・ラプラスというフランスの物理学者が考案した思考実験に登場する完全な知性。世界に存在する全ての粒子の物理情報を知っている知性が存在するなら、そいつは、古典物理学を用いて世界の未来を完全に知ることができる、とラプラスは考えた。この架空の超越的な存在がラプラスの魔である。量子論以前の物理学は古典物理と呼ばれるが、古典物理においてこの魔が存在し得るとするなら世界は過去未来まですべてが決定論的に確定されているとすることができる。

「もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。」(ラプラス「確率の解析的理論」)

古典物理は、そういう意味で世界は完全に決定しているとする決定論なのだ。

しかし、放射性原子の崩壊のようなミクロな場面では、それがいつ崩壊するかは、ラプラスの魔でさえ全知の神でさえ分からないとされる。ただし一つ一つの原子が崩壊するのが何時なのかは分からないし決定されていないからミクロな変化については確率的な話しかできないのだけど、それは確率としては分かっているので、それらが多量に集まっているものを全体としてマクロな視点で見ると、それが何年たったら全体のうちの半分が崩壊するかは確実に言えるようになる。マクロな視点では確実に言えるのだけど、でもそのミクロ部分は偶然でしかない。だから、量子論は、世界は完全に決定しているとは言えないとする非決定論である。

 
アザー(偶然の巡り合せ)と法則のコンタンジョンス(偶然性)

そのような、偶然を内蔵している法則で、世界が満たされているのであれば、世界は偶然によって成立しているとするような言い方ができるだろう。このレベルの偶然の捉え方をメイヤスーは「hasardアザー 偶然の巡り合せ」と呼ぶ。

【hasardアザー 偶然の巡り合せ】その状況を実現させる諸法則が前もって存在することを想定した上でのランダムなチャンスのこと。何が起こるのかは偶然によって決まるのだけど、その偶然は必然的な法則によって支配されている。

(この「hasard」について「有限性の後で」の訳者の一人千葉雅也は「偶然の巡り合せ」という素晴らしい訳を当てているのだけど、「偶然の巡り合せ」は長いのでこのブログでは和語にはしないでそのまま「アザー」と言わせてもらうことにする。)

そして、「アザー」に対してメイヤスーは「contingenceコンタンジョンス・偶然性」と呼ぶ別の偶然性を考える。

【法則のcontingenceコンタンジョンス 偶然性】アザーによって出来事が起こることを可能にする条件自体に影響を与える偶然性。そのため、アザーのカテゴリーに包摂することができない。

量子論の原子崩壊の一つ一つの個別事態はアザーとしての偶然性を持っていて、それがいつ崩壊するかは全知の神でさえ知ることができない。だけど、その崩壊も偶然性を確率論として包括する法則はそれ自体確定していて、そのレベルでは偶然性が無いと言える。つまりコンタンジョンスとしての偶然性はない。だから、我々は全知の神とともに原子崩壊の確率を正確に語ることができる。

さて、カントが因果律の必然性があると言ったのは、世界を成立させる因果法則はアザーとしての偶然性を許すものであったとしてもコンタンジョンスとしての偶然性は決して許されない、ということである。法則自体は必然だとする意味で「因果律」が必然だと言ったのだから、クリナメン説や量子論などの法則自体がアザーとしての偶然性を含んでいたとしても平気なのである。
仮に、世界の成立を司る法則がコンタンジョンスとしての偶然性をもっていたとして、自然の斉一性が保たれないのであれば、世界中の因果に関する状況が安定することは極めてあり得ない。そのときその世界においてものとものとの関係が崩壊し秩序が失われ、世界のあり様はすべてランダムになり、私が世界を認識すること自体が不能になってしまうはずである。しかし現実には秩序があり世界は安定していて、私には世界認識が許されている。それゆえ、世界には斉一性があり、因果に関する法則には決してコンタンジョンスが無く、世界の成立に関する理由があることは必然であると結論付けられる。
つまり、「ヒュームの問題」は「決定論‐非決定論の問題」とは全く独立なのだ。

世界が決定論的であっても非決定論的であっても、それとは関係なく、世界を司る究極の理由があるか無いかを検討することはできるのだ。(実際にカントは「純粋理性批判」で「(因果関係としての)総合の統一」を必然だとしながら、「自由についての因果性」についてはアンチノミーだとして逆にその必然性が確定できないことを説いている。この「自由についての因果性」はアザーとしての偶然だけで保証され得るものであるのに対し、「(因果関係としての)総合の統一」はコンタンジョンスとしての偶然性が無いことだけによって保証されるものであるから、両者は別の次元の話であって十分に両立できるのである。)

 

世界が非決定論的な法則に支配されていたとしても、世界を成立させる理由としての法則それ自体が無いことはあり得ない。「頻度の帰結」からそれは明らかである、とカントは言った。

コンタンジョンスとしての偶然性があるような世界がもしあったとすれば、その世界においては「究極の理由」が偶然的なものだということになる。そうすると、あらゆる物理状況がつねに偶然に左右されるはずだということになる。その世界は確率的に安定しにくい。その世界は1秒も安定していることができず、私が世界を認識することなど不可能だろう。ところが現実の世界は安定して私は世界を認識できている。だから、世界に「究極の理由」があるのは必然だと考えるべきで、「因果律」があることは世界認識の前提として良いのだ。
―――という訳である。

 
メイヤスーの反論は次節で

カントの言う「理由があることの必然」は、僕にはかなり説得力があるように思われるが、どうだろうか。しかし、メイヤスーはカントの説明ではその必然性が立証できていないだけでなく、逆にその非必然こそが立証可能であり、世界の偶然性こそが必然なのだ、と言えることを主張する。

これがまた、数学の無限の話を持ち出してくるなど眉唾っぽくはあるが、とても魅力的な思索である。だけど今日はもうずいぶん長くなってしまったので、それは次節に回す。

 

以下はおまけかもしれない。

「ヒュームの問題」と「ポパーの問題」が別問題であること
Popper
カール・ポパーSir Karl Raimund Popper 1902-1994

最後にもう一つ、やや周辺の話になるかもしれないが、確認しておきたいこととして、「ヒュームの問題」と「ポパーの問題」が別問題だという話がある。
「ヒュームの問題」というのは、経験科学は今日、そうであったように明日も可能であるということを証明できるか、であった。
一方「ポパーの問題」はメイヤスーによって次のように定式されている。

【ポパーの問題】「我々の自然科学理論の未来における妥当性に関する問い。未来においてたとえそれらの理論が新たな実験によって反駁されるとしても、そのときに物理学はまだ続いていると想定している。ポパーは未来においてもまだ斉一性の原理は妥当であると想定しているのであり、必然的であると見なされているその妥当性にアプリオリにもとづいてこそ、彼はその認識論の諸原理を練り上げることができるのである」(「有限性の後で」p145筆者注より、一部文言をまとめている)

ポパーにとって「法則が絶対でない」のは、我々の経験的な知識が絶対的な究極の法則に届くことがあり得ないからであって、「究極の法則」が存在することは既に前提とされている。「ポパーの問題」では、法則は、人間には分からないという意味で到達不能なもののである。対して、「ヒュームの問題」はその究極の法則の存在自体を問うものであり、それが在ることは前提されていない。「ヒュームの問題」では、法則は、全知の神にとっても到達不能なものなのである。全く別の問題なのである。

(メイヤスーは、ポパーがこの両者を区別せず問題を曖昧にさせたと手厳しいが、批判されても仕方ないと部分はある思う。僕自身はこの人、好きだけど、ウィトゲンシュタインとの火搔き棒事件のこともあるし、どうも思考の厳密性には無頓着なところがあったのか。なんて知らないのに言ってたらダメだね)

 

と、ポパーの話はちょっと欄外的な書き方になってしまった。ともかく、次節でメイヤスーが、カントに反して「因果律」や「理由律」が非必然であることが立証してしまう、なかなかの数学マジック的な思索がとても面白いのを紹介する。お楽しみに。

 

つづく

思弁的実在論はどこまで有意味か

« 「有限性の後で」事実論性の原理と物自体の無矛盾とその存在<思弁的実在論をわかりやすく読み解く7> | トップページ | 「有限性の後で」頻度の帰結がダメなわけ<思弁的実在論をわかりやすく読み解く9> »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 「有限性の後で」事実論性の原理と物自体の無矛盾とその存在<思弁的実在論をわかりやすく読み解く7> | トップページ | 「有限性の後で」頻度の帰結がダメなわけ<思弁的実在論をわかりやすく読み解く9> »