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2018年7月 1日 (日)

「有限性の後で」事実性が絶対化されるわけ<思弁的実在論をわかりやすく読み解く3>

メイヤスー「有限性の後で」2章(後半)と3章(前部)を読む

 

相関主義の意義と限界を考える

相関主義とは何か。それを考えるうえで最大のポイントが事実性であることは間違いないだろう。そこで、事実性なるものの内容を追いつつ、相関主義と思弁的哲学とを見比べてゆくことで相関主義とは何なのかを検討する。

今日の問い、相関主義とはどこまで有効なのか?あるいは、相関のない世界を思考することはどこまで可能なのか?

この問いに対する結論。観念論に反対して相関項の絶対化から脱するには事実性を絶対化するという対価を払わねばならず、事実性を絶対化する限りは思弁的な世界モデルができることになる。逆に、思弁的選択に反対して事実性の絶対化から脱するには相関性を観念論的に絶対化するという対価を払わねばならない―――というところが一つの答えになる、とメイヤスーは言うんだけど、なんだか喋ってる口も頭もこんがらがってきそうな話だ。今日はこの答えが何を意味するのかを考えることによって、そのこんがらがりを解きほぐして、上の問いを問うことにする。
Meillassoux_2 

「相関項の第一次性」

そこで初めに、第一次性と事実性なるものについて見ていく。
強い相関主義は「相関項の第一次性」と「相関項の事実性」という二つの相関項の捉え方によって特徴づけられる。もっとも単純化して言うと、
【相関項】というのは、存在者と我々の相互関係のこと
だから
【相関項の第一次性】
とは、存在者と我々との相互関係こそが存在の第一番の基盤になるってこと、
で、
【相関項の事実性】とは、存在者と我々の相互関係が事実として存在してしまっているということ、ということだ。

メイヤスーはこの二つの相関項の捉え方によって相関主義の特徴を明らかにできるとする。特に、事実性は強い相関主義の可能性と限界を明らかにしてくれるすこぶる重要な視点である。その意味を確かめていこう。

【相関項の第一次性】とは、世界に存在している存在者と我々思考者との相互関係こそが存在の第一義だってこと。
それは、思考される内容と思考するという行為が不可分だとする捉え方である。それゆえ、我々がそれを存在するものとして思考されることが、直接、その存在者と我々が相互関係を持つことそのものであり、逆に、相関することがそのまま、我々がそれを存在するものとして思考することだとして、「存在」を捉える。
だから、「相関項の第一次性の基づくタイプの相関主義」においては、「世界を思考する存在者のない世界」を思考することは必然的に不可能であり、それゆえ、絶対的な存在者の存在を許す実在論や唯物論を必然的に失効させる。
 

 

「相関項の事実性」

一方、「事実性」とは何か。
【相関項の事実性】とは、存在者と我々の相互関係が既に事実として存在してしまっていることを認めてしまうところってこと。
Photo_7
「この第2の形而上学的な戦略〔事実性〕は…相関性それ自体を絶対化するという戦略である。…カントにおける物自体の観念は認識不可能であるばかりでなく、思考不可能でもあると主張された。しかし、この場合、もっとも賢い選択はそうした即自の観念をすっかり除去してしまうことではないか。ならば即自は思考不可能であり、そこにはいかなる真理もないのだから即自は除去してしまい、ただ主客の関係のみをあるいはもっと本質的と見なされる何らかの相関性のみを残す、という主張がなされるだろう。そうしたタイプの形而上学はさまざまな主観性の審級を選ぶだろうが、それはつねに、知的、意識的、あるいは生命的な項を実体化することを特徴とするだろう。」(「有限性の後で」p68)

「第一次性」との違いはどこにあるかというと、それは「相関性の絶対化」の有無である。「第一次性」だけでは「相関性」は絶対化されない。ただし、この「相関性」ってのが、また、要注意である。事実性の要は「相関項の絶対化」ではなく「相関性の絶対化」だと言うのだ。「相関項」は、存在者と思考者が先に存在するものとした上で、その両者の存在を含めた関係を考えるものであるのに対して、「相関性」は、そういう先んずるものを想定しないままに、その両者の存在無きままに関係そのものだけが(その意味では関係でさえないものとして)在る、と考える。それで、「相関項の事実性」と言ってるけど、そこでの「相関項」というのは「そこに存在しているものは結果的に、存在者と思考者と判断されるものとして在ると思考されている事実がある」ものなのではなるが、それは結果的にそう判断される事実があるという意味で「相関項」と言われているだけの話で、そこで絶対化されて判断されているのは「相関項」の存在ではなく「関係そのものとしての『相関性』」であり、それが在るという事実が既にして在る、と言うのだ。
そしてそのような、「ただ主客の関係のみをあるいはもっと本質的と見なされる何らかの相関性のみを残」された「事実性」は「生命的な項」の実体化であって、それは
「ライプニッツにおけるモナドの表象作用。また、主客相関の客体的な対、つまりシェリングにおける自然。ヘーゲルにおける《精神》。ショーペンハウアーにおける《意志》。ニーチェにおける力への意志。ベルクソンにおける記憶を充填された知覚。ドゥルーズにおける《生》等々」(同)でもあるのだ。
LeibnizSchelling_3HegelSchopenhauer_3NietzscheBergsonDeleuze

結局、我々の、この現にある「生」そのものが既に事実であること自体が、ここでいう「事実性」だと言えるだろう。

 

事実性とヘーゲル哲学

この「事実性にもとづく相関主義」は、ヘーゲルの哲学(思弁的観念論)にかなり似ている面がある。それは、

① 「世界‐への‐関係」で無いものは存在できない。

② その存在できなさは絶対である。我々思考者が居なかったとしても①の不可能性は絶対であるということ。

という2点で共通している、と言える。しかし、「事実性に基づく相関主義」は、ヘーゲルの思弁的観念論とは異なる哲学である。
ヘーゲルの哲学は一種の観念論で、私の観念における存在こそが真の存在だとする立場であるのだが、私が世界を構成するために用いる形式がアプリオリなものでありながら、演繹によって無条件な必然だとすることができちゃうものだと考える立場でもある。(つまり、観念論でありならが絶対者を肯定するのでメイヤスーは「思弁的観念論」だとする。)しかし、事実性はこれに対して「絶対的」な存在者を否定する哲学だと言う。
このとき、事実性は、「個別の存在者自体が絶対者として存在すること」を許さないだけでなく、「絶対者が存在し得ないこと自体が絶対であること」さえも許さない。(すごくややこしい書き方になってしまって申し訳ない。よろしいでしょうか?悪文に躓いてないですか?)ヘーゲル哲学が②で掲げた「相関の無いものの不可能性」が『絶対だ』としたのに対して、事実性でも、その相関の無いものが不可能だってことでは一緒なのだが、その不可能性が『絶対なものではない』とするところが違いってことだ。ヘーゲルにとって非相関の不可能性は絶対だけど、事実性にとっては非相関の不可能性は絶対ではなく、非相関の可能性自体が思考し得ない不可知だってことだ

 

偶然性・必然性・絶対性・事実性

ここで、「偶然性」と「必然性」と「絶対性」と「事実性」のどこが違うのかを見ておきたい。

【偶然性】別様である可能性があり、現在の状態とは別の状態にもなり得たけれども、たまたま現在の状態になったのであって、そのようになった理由は無い。可能世界の想定において別様の可能性が存在する世界があることは認め、どちらに転んでもおかしくなかったとする。可能世界を前提とした上での無根拠性・無理由性。

【必然性】別様である可能性はない。現在の状態になった確固とした理由があるので、現在の状態とは別の状態になり得ることはない。ただし、可能世界の想定において別様の可能世界を想定することは認められるかもしれないが、理由律のために別様の可能世界へ転ぶことはあり得ない。可能世界を前提とした上での根拠性・理由律性。

【絶対性】超越的な視点によってすでに現在の状態であることは決定されている。それは他との比較によって論理的に導出されなくても、それとは関係なく、そーである。可能世界の想定以前の根拠性・超越者による理由性。

【事実性】既に事実として現在の状況であることをそのまま受け入れること。そこに可能世界の考え方を入れることを拒否するものではないが、決して可能世界を前提とするものではなく、あらゆる理由とは関係なく、そーであることを認めてしまう。可能世界の想定以前の無根拠性・非理由性。

例えば、今、眼前に在る「りんご」について、その「りんごが在る」ことを事実性として捉えることができるし、我々が、矛盾律があるものとして世界を捉えていることについて、その「矛盾律がある」ことも事実性として捉えることもできる。つまり、個別の存在者自体を事実的な相関項として捉えることもできるし、矛盾律のような不変項を事実的な相関項として捉えることもできる。りんごが在ることも、矛盾律があることについても、或る意味では「そーなってる理由など無いんだ」とする意味で「それは偶然だ」と言うことはできる。しかし、それを積極的に、「それは可能世界を考える以前に既にそーなっているんだから、それが偶然だったとしても必然だったとしてもそれとは関係なく、そーなんだ」と言うこともできる。この視点が「事実性」である。

 

事実性と法則の消失

その事実性の視点で世界を見るなら、例えば「矛盾律」は、或る意味ではもちろん法則なのであるが、それを事実のみを前景として見ようとすると、矛盾律でさえもその事実だけが世界の対象として在ることをそのまま受け入れてしまうことになるのだから、それはもはや法則とは言えないものとなってしまう。だから、そのため、その法則性が法則性としては消失してしまうのだ。
同様に、「即自」なるものについても、存在の事実性を受け入れるならそんなものが「在る」なんてことを言える訳がない。「即自」とは、我々との相関と無関係に自ら自身で存在者として自立するものなのだから、相関そのものをそのまま事実だとしてしまう立場からするとそんなもの認められる訳がないのだ。
しかしその不可能性は、即自はそれが在るとは主張できず即自が不透明になるってことでしかない。即自が「在る」とは主張できないことってことは、それが「無い」と主張できることとは全く別物で、まさに主張することも思考することも何もできないってことなのだ。「思考不可能なものが不可能であることは思考不可能である」のだ。

 

《全き他者》の「可能性」

こうしてメイヤスーに言わせると、「事実性は我々に、この世界のただ中において到達不可能な《全き他者》の(括弧付きの)「可能性」を把握させる」ということになる。問題は《全き他者》が実際にあるかどうかの可能性を知ってるかどうかではないのだ。その「本当はどうかという可能性」が確立できないという意味でまったく不能なのだが、それゆえに逆に《全き他者》が全く不確実なものでしかないという意味での「仮説的な可能性」(括弧付きの「可能性」)が把握できるというのだ。それゆえ、その意味でその仮説的可能性という意味においては、即自にコミットするあらゆる仮説が合法だと言えるものになってしまう。しょせん仮説でしかないものとしての話なのだから、「即自は存在する」とか「即自が必然だ」とか言えちゃうのだし(仮説的にでっち上げられた可能的な論理空間における必然)、しょせん仮説でしかないものの話なのだから、逆に「即自は存在しない」とか「即自は偶然だ」とかなどとも言えちゃうはずだ(仮説的にでっち上げられた可能的な論理空間における偶然)と、メイヤスーは言うのだ。そうやって仮説的なでっち上げとして語ろうとされるものは、しかし、その真偽を確かめられるものではないのだから、確定的な真理値を持ち得ず有意味に語られ得ることの無いような《全き他者》なのだが、それは(決して「絶対」ではないものとして)「事実」でしかないものとして認められるということなのだ。

 

事実性と非理由律

「事実性」は「絶対性」のように超越者による理由づけを要求せず、理由を一切拒否するところに特徴があった。つまり、事実性の本質は非理由律である。ここで問われている充足理由律は、存在者の実在に関して完全な必然性のテーゼだ。すべての存在者が絶対的であり必然的だとするのがメイヤスーの問う理由律なのであった。対して、「非」理由律は、必然的でも絶対的でもないものとして世界を受け取ろうとするものである。それゆえ、非理由律は、独断的な形而上学を棄却し、あらゆる実在的必然を棄却し、理由律による存在論的証明を棄却する。そのことから、我々は世界を理由づけて理由によって構築することができなくなってしまう。相関されていない或る存在者が無条件に存在するということを根拠づけて示す正当な方法を、すべて失ってしまう。
それは、相関が絶対者を思考する権利を失ってしまうということなのではあるが、しかしそれは絶対者の消失が思考できるということではない。逆にそれは、或る意味で絶対者へアクセスする権利の言明を正当化する道を、思弁主義に対して開くことになる(偶然性の絶対性と、冒険的でっち上げ的な世界記述の可能性)。
独断的な形而上学の絶対主義ではないような、思弁的な絶対主義があるとすることができる可能性が出てくると言うのだ。

 

「形而上学的独断的信仰」と「思考による信心」

たとえば、神が存在するというのは独断的な形而上学であり一つの信仰である。しかし、神が存在しないというのもやはり独断的な形而上学でありそれはそれで一つの信仰だと言えるだろう。つまり、無神論という宗教だ、と言うのだ。非理由律とは、絶対者への権利要求の合理性を放棄することであるから、存在者の必然性があるとするイデオロギーの主張を終焉させ、形而上学を終焉させる。しかし、それは、即自が存在する可能性を語り得ないとするだけで、即自が存在する可能性を否定するものではなかった。だから、その形而上学の終焉、イデオロギーの終焉は、逆に、根拠や理由とは関係のない方法で絶対者にアクセスできるという宗教性を開くことができる、と言うのだ。それは理性の宗教化である。それは、単なる信仰ではなく、思考から信仰への結合であり、信仰に対する思考である。独断的形而上学的な信心ではなく、もっと思考による信心というものを考えることができるかもしれないというのだ。それが、仮説的なでっち上げによる即自へのアクセスなのだけれども、しかし、根拠や理由に頼らないで《全き他者》の可能性が開かれるというのだ。
それは、確かに、それを確かめられるものとして在るとも無いとも語ることができないのだけれど、示し得るものとしての絶対者を想定できると言うのだ。

ウィトゲンシュタインとハイデガー

そして、それは、ウィトゲンシュタインが「論考」において「語り得ぬものは存在する。それは示される神秘である」と言ったものであり、ハイデガーが、存在者が存在するときの存在それ自体としたものでもある。ウィトゲンシュタインの「神秘」とは世界が語り得るという事実それ自体そして存在していることであって、その世界の存在自体はもはや論理の外にある、論理の外ではあるがそれは、世界の外ではない。ハイデガーの存在にしてみても、その存在の事実性は超越的な啓示なんかではなく単に世界の内側の縁を示すものであって、決して世界の外ではないのだ。
WittgensteinHeidegger

世界があるという事実を事実のまま受け止め、理由律を前提せず非理由のまま無根拠のままに世界を見ようとすると、逆に、到達不可能なはずの《全き他者》へのアクセスの可能性が開かれることになるというのだ。

 

《全き他者》と3分後の私

ここでメイヤスーが問うている《全き他者》や「別様である可能性」というものは、人類滅亡後の存在者の在り様であるのだが、それは私の死後の存在者の在り様でもある。そしてそれは、この今のこの私から見れば3分後の私でさえ他者として考えるべきものとして捉えたときの、他者としての「3分後の私」でもある、と考えるべきだと思う。

この現在の私にとって、3分後を《全き他者》と捉えるとき、それが全く到達不能な対象で、それについて思考することがナンセンスだと捉えてしまうのなら、私が3分後に出来上がるUFOを食べるということは現在の私の想像でしかない話になってしまう。未来を単なる想像でなく現実の話として捉えるためには、その《全き他者》である「3分後の私」が「現在の私の別様である可能性」でもあり得るかもしれない可能性が開かれなければならない。その意味で、メイヤスーの問いは、まるでマクタガートがパラドクス(「現在過去未来は同一ではなく、かつ、現在過去未来は同一でなければならない」)で問うたことそのものだったのではないかと思える。参照.A系列が矛盾するわけ
Mctaggart

(「3分後の私」が《全き他者》だって話に納得がいかない人は、メイヤスーが言うように「私の死後」や「人類の滅亡後」としての《全き他者》を考えれば良いのだけど、結局は同じ問いになっちゃうはずだと思う。)

どうだろうか。なんとも眉唾にも見える話ではあるが、しかし、考えてみると結構ちゃんとマクタガートパラドクスにも風穴を開け得るような、真っ当な話なのかもしれないとも思える。

 

相関主義への疑問

メイヤスーはそこで、相関主義を問い詰める。相関主義が《全き他者》がきちんと「私が別様である可能性」になり得るところをきちんと問うためには、「事実性」の行き着くところを突き詰めなければならないはずなのだが、「相関主義は思考の限界を思考することで満足する」と批判する。
そして、さらに、相関主義が(「即自」を否定しそれを「私たちにとっての即自でしかない」と主張しているその)「即自」と「私たちにとって」を区別することが思考可能なものとするためには、相関主義がそこで「不可知性の絶対性」が前提にされてしまっていて「事実性」を前提にしていない部分が入り込んでしまっていると批判する。相関主義が前提にすべきなのは「事実性」のはずなのに、「不可知性」ばかりを前提してしまっているのであれば、それは不十分な相関主義でしかないと言うのだ。

 

5者の対立

そこで、その、相関主義が本当に「不可知性の絶対」を前提しなければならないのかという点について問題を整理するために、①キリスト教的独断論者②無神論的独断論者③相関主義④主観的観念論者⑤思弁的哲学者の5者の立場でその主張の対立を考える。

① キリスト教的独断論者:我々の死後にも死後の存在として我々は存在すると考える立場。「即自=神」だと考える。
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② 無神論的独断論者:我々の存在は死によってすべて破棄されるとする立場。死によって何も無い状態が在ることになる、と言い切れてしまうことにする立場という意味で、これも独断論的である。
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③ 相関主義:主体と存在の相互関係が存在を意味づけるとする。世界とは私の世界であり、主体不在の世界の知識を持つことはできないとする。あらゆる絶対を不可知とし、〈絶対的存在・即自〉を知り得ないとする。知とは、主体との関係においての、この世界に属する存在のみを前提にするもので、主体が不在の世界は完全に可知の範囲外のものだとする。私の死後に関する知(主体不在の知)は矛盾でしかなく、①も②も矛盾しているとする。(ただし、この現にある世界開闢の主体が認識する範囲内では、私の死後に①とも②とも違う別の様相になり得るということについては思考可能である。)〈即自〉の存在を語ることができないことはもちろん、〈即自〉の非存在を語ることもできない。その点で、〈即自〉自体を語ることはできないが、〈私たちにとっての即自〉と〈即自〉が違うものであるとすることは思考可能であることになる。(ただし、強い相関主義とは別に弱い相関主義があり、弱い相関主義では、主体と独立の即自の存在と即自に関する思考可能性を認める(カント主義)。強い相関主義は、即自も即自の思考可能性もナンセンスとして認めない(ウィトゲンシュタイン・ハイデガー)。)
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④ 主観的観念論:独我論的な観念論者。形而上学的主観主義。現にある主観のみを絶対だとする。①と②だけでなく③の不可知論・相関主義も矛盾するとする。主体と独立の即自は存在しないと言い切ることができる。死後の世界も、神も、無も、即自も存在せず、完全に思考不可能なのだ。私の死後の可能世界というものはあり得ないので、私の死は端的にない。〈即自〉などというものはなく、もしあるとすればそれは〈私たちのとっての即自〉でしかない。その意味で〈私たちにとっての即自〉から〈即自〉を差別化することは不可能である。相関主義がそれを差別化できるとするのであれば、それは完全な不可知ではなく、その違いを意味あるものとする前提があるはずである。その前提とはその両者の違いを違いだと認識することができる可能世界の想定に他ならないはずだ、とする。
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③ 再び相関主義からの反論:すでに私は自分の存在を、理由(世界の現状を構成するために働く某かの絶対的な理由)を欠くものとして受け止めてその上で思考している。この非理由としてのこの事実においての思考可能性を言っているのであるから、それは、可能世界の前提は不要であり、可能世界においての偶然性も前提していない。①の独断論も②の独断論も④の観念論もそれらを、非理由のこの事実性でもって包むなら、〈私が非存在になる可能性〉〈別様になる可能性〉は思考可能になる。確かに、非理由の事実性をもってしても「存在しないとはどーゆ―ことか」は思考不可能である。しかし「存在しないようになり得る」は思考可能なのだ。

ここの話について、④の観念論者を、すべてはこの現にある開闢のみであり、それ以外に絶対的世界は無いとするタイプの独今論者として捉え、③の相関主義者を、全ては現にあるこの開闢であるが、それ以外の絶対的世界は語り得ないとするタイプの相関主義として考えてみよう。独今論者にとって「3分後の主体」というものは完全に到達不能であるだけでなく、そんなものは存在し得ない。一方、相関主義者にとって「3分後の主体」は「現在の私」とは異なるものとして存在するとも存在しないと言うこともできないのだけれど、異なるものではあると言うことができる、と考える。それは、何かの根拠にもとづいて「3分後の主体なるものがあるかどうかは語り得ない」と結論付けた訳ではなく、無根拠にそーなっちゃっているのだから仕方ない、とするものである。「だってそーなんだもの」という無根拠である。そして、そのとき「3分後の私は現在の私ではない」でありながら「存在するとかしないとかは言えない」というものだとして思考できる可能性が生まれてくる、と考えることができる。そのような、事実性から存在を考えようとする立場を取っているならば、確かに相関主義は〈私にとって〉と〈即自〉を事実性だけを前提としていて、偶然性の前提はないと思える。しかし、そこのところで、さらに問いを掘り下げるために、メイヤスーは⑤番目の批判者を連れてくる。

⑤ 思弁的哲学者:絶対なるものにアクセス可能だとするタイプの哲学者。理由律から解放され「別様である可能性」が開かれるとする。思弁的哲学者は、①の独断論も②の独断論も③の相関主義も、絶対的な視点がないと批判する。この「絶対的なもの」とは、③の相関主義者の不可知論が言う〈別様の可能性〉それ自体である、とメイヤスーは言う。(それと言うのは、例えば「3分後の世界が一つの正しい在り方だけに固定されているのではなく様々な〈別様の可能性〉ある」というように世界が固定されていないことの「絶対性」だというのである。つまり、世界の在り方の絶対性ではなく、非絶対的な世界であるということの絶対性である。)そして、また、絶対とは「理由が無いままにそーなってしまう」ってことであり、絶対とは「本当の可能性の『知』」であらねばならない。3分後に食べるUFOの味は独我論者や相関主義が言うように決して「不可知の無知」なんかではなく、3分後になったらちゃんと「本当」に分かり得る「本当の可能性の『知』」だと捉えるべきなのじゃないか。(くどいようだが、ただし、その「本当の知」なるものは絶対的な個別的存在者と考えてはならない。そのような不可知でしかない「他者」が在ると知り得るいう意味で「不可知の知」と言うべきものだ。)
また、「隣室の机」を例にするなら、相関主義の考えでは、隣室の机は現に今いる部屋で得られる情報だけが意味ある情報で、「隣室に行ったら分かるような現実的視点があったとして」などというものについては何も言えないとする。主観主義の考えでは「隣室での現実的視点」などというものは端的に無いとする。それに対して、思弁主義では「隣室での現実的視点」があり得るとし、実際に隣室に行けば分かるかもしれない、とする。
そう分類して考えると、そのような思弁的視点がなければ、ライプニッツもベルクソンもドゥルーズも自分の「生」を生きることなどできなくなってしまうのではないか、と考えられないか。そもそも③の相関主義者自身がドゥルーズにおける〈生〉こそが相関性だと考えていたのだし、相関主義者自身が自分の非存在の可能性を許していたではないか。相関主義者が主張していた「自分の非存在」とは、独今論者が考える未来の想定なんかではなく、実際に未来が現実になるという意味で《全き他者》になり得るのでなければならずそれも一つの「正しい」可能性が固定されたものではなく〈別様である可能性〉があるものでなければならないんじゃないか。そう考えるためには、その〈別様である可能性〉は絶対化されなければならない。こうして、思弁論者は相関主義が「偶然性」にもとづかずに「事実性」にもとづくという前提が必要だという話だったところに、さらに「事実性の絶対化」がされなければならないと要求する。

 

今日最後の問い

これにて、相関主義の〈別様である可能性〉の絶対化を認めるなければならないとしたメイヤスーの意図を明らかにできたのではないだろうか。しかし、まだ疑問が残る。

問い。では、何故その「思弁的仮説」(たとえば「3分後になったらUFOを食べている私が現実になる」など)が、形而上学的宗教的仮説(たとえば「死後には死後の世界が在る」など)よりも優位だと言えるのだろうか。

答え。不可知論者が〈別様である可能性〉を絶対化するにはあらゆる可能性が開かれたままにされなければならない。独断論者は選択肢を閉じる世界モデルだからダメなのだ。

つまり、「絶対」などと言っても、思弁論者が言っている「絶対」ってのは、「3分後になったらUFOを食べている私が現実になる」ということが絶対的に真である、などという話では全くない。そのような「絶対」なら独断論と変わらなく閉じた世界モデルになってしまう。それではダメなのだ。そーではなく、「3分後になったらUFOを食べている私が現実になるかどうかは、分からないけれど、3分後になったら現実に3分後になることが可能なんだ」ということなら絶対的に真だと言えてしまうという「絶対」なのだ。このような「絶対化」であれば選択肢は開いたままでも確実に〈別様の可能性〉があり得ることが絶対化できちゃって、マクタガートパラドクスの問題までが解決しちゃうのだ。

「現在過去未来がどのようになっているか」の絶対的な知でなく、「過去未来は現在にもなり得る」ということが「絶対化」されているという知が保証されれば、それで良いのだ。こう見ると、メイヤスーの問いとマクタガートの問いはまるでパラレルで、解決の仕方もまるで同じ形でできてしまう。

 

今日の答え合わせ

これでようやく今日目指していたゴールに辿り着いた。

観念論に反対して相関項の絶対化から脱するには事実性を絶対化するという対価を払わねばならず、事実性を絶対化する限りは思弁的な世界モデルができることになる。逆に、思弁的選択に反対して事実性の絶対化から脱するには相関性を観念論的に絶対化するという対価を払わねばならない―――というところが一つの答えになるって、最初に言ってた、これ。

思弁的な世界モデルとして事実性を絶対化するのであれば、独今論や独我論に陥らずに済むのだけど、事実性の絶対化をしないのであれば、「3分後が現実になる」という文でさえどこまでも現在からの空想的想定でしかないとするような「不可知論」としての「相関性の観念論的絶対化」を受け入れないといけないということになるのだ。

つまり、「事実性の絶対化」というのは、何らかの特定の存在者の存在が必然だということではなく、あらゆる存在者が存在しないかもしれない可能性が絶対的に必然だということなのだ。これこそが、思弁的哲学者が求める思弁的テーゼなのである。その思弁的テーゼが求める絶対者とは、形而上学的絶対ではなく、絶対的存在者でもなく、必然的存在者の絶対的不可能性としての絶対だ、という話だったのだ。そして、我々は「理由律(今在るようであって別様でないことの必然的理由がある)」を主張するのではなく、「非理由律(あらゆるものが別様である可能性を持たねばならない)」を主張すべきだって話だったのだ。

 

どうだろうか。僕にはまだまだ眉唾の話にも思えるし、逆にそんな当たり前のことを何を大仰な話のように言ってるのかと呆れる感じにもなってるのだけど、それでも、思弁論が言ってることもあながち捨てたものでもないかもしれないという気にも、ちょっとなってきた。語ってることはどうも当たり前のことなのだけど、その当たり前の話でもって、マクタガートパラドクスのような難敵に立ち向かおうとする、思いの外アグレッシブな思索かもしれないという気にもなってきている。

この思索がどう進むのか、眉に唾つけながら、でも話を短絡化して「当たり前やん」で終わらせることの無いようていねいに問い進めてみたい。

今日はここまでにして、次節ではこの「事実性」に関する考察をさらに掘り下げ「事実性論」なるアイデアを出してくるメイヤスーを読み進めたい。

 

注)相関主義と主観主義の捉え方について、不正確な記述があったので書きかえました。(2018.8.6)

つづく

思弁的実在論はどこまで有意味か

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コメント

普段気付かない「当たり前」を、気付けるって、けっこう稀有だけど面白い、のが哲学の醍醐味どす。という意味では、哲学は永遠に不滅どすえ。なら、師匠、よかった~。

「アクセス」は、誰がって、観念的な私は、すぐ考える。
「私たち」がって、考えてみても、「相関」だろうか。
「相関」以前の、唯物的な私たちなら、「アクセス」し放題?

「アクセス」のところで、ベルソンの「直観」を、思い出しました。
違うかな。

震災の次は台風。観念では、抗えないですね。

taatooさん、コメントありがとうございます。taatooさんが感想を書いてくださるので、このブログを書いてることに対して報われ感を貰えています。
ベルクソンとメイヤスーにかんするご指摘はするどいと思います。二者の哲学には近いものがあると思います。ベルクソンは直観から二元論の橋渡しを模索し、メイヤスーは絶対へのアクセスを模索する。ただし、もちろんその問いは大きくことなる部分も多く、そこのところも注意して読み進めたいと思っています。

充足理由律にたいする評価など、真逆ですしね。

師匠、いつも落書きみたいで恐縮です。

メイヤス―は、理由の無い世界なんですね。理由なき絶対性。

あと、ヘーゲルの思弁的観念論というのが、正反対みたいで面白いです。

ヘーゲルにも、事実性を取り入れて、「相関の無いものの不可能性が『絶対なもの』ではない。」と、すれば。

そうすれば、観念側から観たメイヤス―になる?

.....すいません。

taatooさん、コメントありがとうございます。

そうですね。認識のアプリオリな形式の正当性が演繹できるものだとしそれが無条件に必然だとする世界モデルを、メイヤスーは「ヘーゲルプロジェクト」と呼んでいます。そして、それが演繹できるのはそこに「理由律」が絶対だとされているからだとメイヤスーは考えています。そして、理由律の絶対化によってヘーゲルは矛盾律を非絶対化し、主体と相互関係の無いものの不可能性が絶対だとした、とメイヤスーは捉えています。

ですので、「ヘーゲルにも、事実性を取り入れて、「相関の無いものの不可能性が『絶対なもの』ではない。」と、するならそれがメイヤスーと一致するというのはその通りです。しかし、その根本の差異は「理由律の有無」にある、とメイヤスーは考えているようです。

ヘーゲルは理由律を絶対に極め、理由律を失墜させたが、思弁的実在論の非理由律においては理由律が絶対的に偽だから矛盾律は絶対的に真になる・・・というようなまとめ方をしています。

師匠 こんばんわ

なるほど、理由律の絶対化をはずすことはできないんですね。それはもはやヘーゲルでなくてもいい。

ベルクソンもヘーゲルも、ポストモダン以前ですしね。

確かに、それはそうだからとか、決まってるからとか、あります。
けど、現実、多くの理由につながっているのも事実です。

ポストポストモダンって、究極の分裂症のような気がします。


taatooさん、
そうですね。「ポストモダン」的なところもあるのでしょうね。
ドゥルーズは、ベルクソンが世界のあらゆるものがどんなであるかを確かめるために我々は「理由律」と「同一性原理」をでっち上げるしかないとしたと言ってました。ヘーゲルだけじゃなくって、ドゥルーズにしてもベルクソンにしても「理由律」は外せないものだと思います。
でも、ドゥルーズが推す「理由律」って、基本的にニーチェの虚無主義の上に乗っかってるでっち上げだったように思います。つまり、もともと「非理由」でしかなかったところに、後から身勝手自分勝手ででっち上げただけのもの。その辺りの捉え方は「ポモ」っぽいのかな、と思います。

で、メイヤスーが「非理由」を打ち出すのは、ポモの後でその「ポモ的な肯定的虚無主義」な感じを定式化しようとしてるという面もあると思います。

師匠 こんにちわ

なるほど、わかり易い。ドゥルーズはホモで(実際は知りませんが)、メイヤス―は、ホモの気持ちがわかるホモじゃない人ってことですね。でっちあげを止むなしとするか、暴露するか。

どちらにしても、ベルクソンやドゥルーズを、絶対、読んでますよね。

千葉さんが本の帯で推薦しているマルクス・ガブリエルも、思弁的実在論の一派のようですが、15日の夜BSで放送されるって、さっきテレビで見ました。

taatooさん、ありがとうございます。
NHK・BS15日ですね。録画して観ます。

メイヤスーとガブリエルはどちらも新しい実在論として括られることが多いですが、メイヤスーが排中律の拒否を受け入れるのに対して、ガブリエルは全くの二値論理で世界構成を考えるので、まったく異なる哲学だと感じています。それでも、二人の哲学を合わせて考えるととても興味深いものになるように思えます。

実は、先月のガブリエルの京大講演を聞きに行くことができました。
「なぜ世界は存在しないのか」はあんまりおもしろいと思えていなかったのですが、その講演を聞いてその面白さに気づけました。
講演にNHKのカメラが来てましたから、その場面ももしかすると番組で使われるかもしれません。僕がその会場に行くときにあの千葉雅也が裏口から出ていくのとすれ違ったのですが、講演の前にガブリエルと千葉雅也の会談が京大の中で行われていて、それもNHKがで撮ってたそうです。それも映されるのかも。

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