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2018年7月29日 (日)

「有限性の後で」頻度の帰結がダメなわけ<思弁的実在論をわかりやすく読み解く9>

メイヤスーがカントールパラドクスでもって「頻度の帰結」を論駁する。
「有限性の後で4章・ヒュームの問題」後半を読む。

 

 
頻度の帰結

 

カントが理由律を必然だとした「頻度の帰結」はかなり強力な説得力を持っていた。
もし世界に自然法則などの理由が無いのだったら、手を離す度に何度でもビー玉が落下することは説明できない。仮に決まった自然法則が無くても手を離したときに偶々ビー玉が下方へ運動する確率が1/10だったとして、10の場面のそれぞれ10の箇所で偶々物理法則があるかのように運動したり静止したりする確率は10-100<style="font-size:> </style="font-size:>というずいぶんな低確率になる。これが現実にはあらゆる場面あらゆる箇所で、その累乗を求められることになるので、決まった自然法則が無いままに現実の状態を得られるのはほとんど「0」の確率になってしまうはずだ。だから、現実的には「決まった自然法則がある」として良いし、そうするべきだと言うものだった。これに対して論駁は不可能に思われる。

 

 
反論の流れ

 

しかし、メイヤスーはカントールの無限論を持ってきて、この強力な説を論駁する。
今日はこの論駁について考察する。
メイヤスーによると、カントが安定した世界が成立する「頻度」を考えたときの「全体の場合の数」は、無限であったり値が不確定であったりするだけでなく、そもそも何らかの「値」であることが不可能である。なので、「頻度」の推論は無効だとする。ちょっと数学マジックっぽい話だけど、僕には十分納得できる論駁に思えた。皆さんも賛同できるか検討しながら読んでもらいたい。

 

メイヤスーによる「頻度の帰結」論駁のながれ

 

①頻度の帰結は思考可能と経験可能の比における確率論であること。

 

②濃度の最大限は開かれていること。

 

③思考可能の全体は法則の偶然性に関わるので濃度が開かれ、値を持ち得ないこと。

 

④よって、頻度の帰結は確率論として成立しないこと。

 

 
1.「頻度の帰結」が確率論であること

 

【頻度の帰結】仮に万物に自然の斉一性の原理が適応されず、法則が理由なく変化し得るものであるならばその状況が頻繁に変わらないことは極めてあり得ない。しかし、現実の状況は極めて安定しているので、世界には自然の斉一性が適応され、法則を成立させる理由があると言える、とする推論。

 

これは、自然法則が無いときの確率の低さを示すことによって、そのあり得なさを説く確率論である。

 

〈世界に実際に経験できるものとしてあり得るもの〉÷〈無矛盾で思考可能なものの全体〉=「現実に経験できる状況が起こり得る《頻度》」

 

という比でもって、理由律の有無のそれぞれの有りやすさを比べるのだ。自然法則の「ない」世界を考えたときのその割合と、自然法則の「ある」世界を考えたときのその割合を比べて、前者より後者の方が圧倒的に大きいから、自然法則があると考えるべきだという結論が出てくる。

 

この推論はあまりにも当然の話で、論理のどこにも綻びはないように思える。しかし、メイヤスーはその前提に大きな間違いがあると指摘する。
メイヤスーは

 

「数的全体性が確保されているという条件があるときのみ、アプリオリに可能的なものの思考可能性は妥当なものになる」

 

として、この論理の前提として「数的全体性の確保」が必要とされると言う。そして、それが確保されていないと言う。
それは、上記の「世界における起こりやすさ『割合』」の分母である〈無矛盾で思考可能なものの全体〉というものが「世界の《全体》」を求めているからだ。メイヤスーはこれが、カントールのパラドクスを生んだ「最も大きい超限数」になぞらえて説明する。

 

 
2.濃度の最大限は開かれていること
Cantor_2ゲオルク・カントール1845~1918

 

カントールはドイツの数学者。自然数も実数も無限にあるが、無限といっても一色じゃないことを発見した。メイヤスーはこのカントール等によって研究された「超限数(濃度)」の捉え方を用いて上の反論をする。
これは数学の集合論の話になる。急に数学を持ち出したりして、的外れなんかじゃないかと思われるかもしれないが、カントの「頻度」の話自体が「経験可能なものの集合」と「思考可能なものの集合」を考える集合の話なんだから、逆に、的のど真ん中を射た話だと言えるかもしれない。

 

【超限数】無限のカージナル数(基数)のこと。無限の集合の大きさを表す数。無限集合と言っても様々な大きさのものがあるが、最小の超限数(たとえば有理数の集合の濃度)を持つ集合をアレフゼロ・ℵ0と言い、たとえば無理数の集合をアレフ1・ℵ1<style="font-size:> </style="font-size:>と言い、順にアレフ2・ℵ2 、アレフ3・ℵ3 、・・・と無数の無限集合の種類がある。「濃度」も同様の意味である。それを数としてではなく大きさのみのものとして表すときに「濃度」と言う場合が多い。ただし、「有限性の後で」において「超限数」は特に、カント―ルパラドクスにおいての開かれた果てとしての「究極の超限数」という意味として用いられているようだ。

 

【カージナル数】基数。集合の大きさを測るための数。要素5個の集合のカージナル数は「5」であり、有限集合のカージナル数は某かの自然数である。一般的に無限集合のカージナル数を特に「超限数」と言う。

 

集合の大きさを比べるときは、その要素の数を比べれば良い。28人学級と32人学級ではもちろん後者の方が大きい。比べる集合が有限な集合でだったなら、要素全体を持ってきて比べることができるけど、無限集合だったら要素全部を持ってくるわけにはいかない。どうやって比べたら良いのか。なんと、順に1対1対応ができるかという、結構、手作業な感じで確かめるのだ。
例えば、「自然数全体の集合」と「整数全体の集合」では、

 

「自然数の1⇔整数の0、

 

自然数の2⇔整数の1、

 

自然数の3⇔整数の‐1、

 

自然数の4⇔整数の2、

 

自然数の5⇔整数の‐2・・・」

 

などというように何らかの順番で自然数と整数を一つずつ対応させていってそれをどこまででも続けることができる。対応させることができるのなら、その集合の「濃度」は同じだと言えることにしてしまう。そして濃度が同じなのであれば、その無限集合の大きさは同じだと考えることにしてしまう。だからこの、自然数と整数の全体の場合、その両者は同じ濃度であり、集合の大きさは同じだと言える。
同様に、1対1対応させていくと整数だけじゃなくすべての有限小数や分数の集合を含む有理数までが、自然数と同じ濃度をもつ無限集合アレフ0にあたる。

 

 
アレフ0、アレフ1・・・

 

しかし、すべての無限集合がどれも同じ濃度という訳ではない。集合Aの部分集合すべてを要素とする集合Bがあるとき、集合Bを集合Aのべき集合と言うが、無限集合のべき集合は必ず元の集合よりも濃度が大きくなることが分かっている。たとえば、自然数全体の集合のべき集合と取ると、それはアレフ0よりも大きくなる。それはちょうど無理数全体の集合と同じ濃度(アレフ1)になるのだ。(無限集合のべき集合を取ると言ったって無限集合なのだからその作業は終わるわけない。だけど、それをやったとしたらどうなるかを考察するために対角線論法という必殺技をカントールは編み出して、その無限の作業をやりきったことにしてしまう。その説明は
〈無理数と有理数と対角線論法〉
〈「べきべきべき…集合」とカントールパラドクス〉
に詳しく書いたのでそちらも読んでほしい。)
さらに、無理数全体の集合のべき集合を取ると、それはアレフ1よりも大きくなる(アレフ2)。
さらに、アレフ2のべき集合はアレフ3を生み、アレフ3のべき集合はアレフ4を生み、以下無限に続き得る。

 

そのように考えていくと「集合の集合」つまり「あらゆる集合を要素とする集合」を求めようとしたときに困ったことになることが分かる。それは、「べきべきべき・・・集合」(・・・べき集合を取る作業を無限に続けてできる集合。つまり集合として構成することが不可能な集合もどき)にならざるを得ない。「集合の集合」などというものがあり得ないことが、これによって証明されることになるのだ。「集合の集合」というものは「集合」ではなく「集合もどき」でしかなかったのだ。この「集合の集合」が集合でないことは「カントールパラドクス」と呼ばれる。

 

さて、この「カントールパラドクス」、カントの「頻度」を割り出すために想定された〈無矛盾で思考可能なものの全体〉に似ていないだろうか。メイヤスーはここに共通点があると見て、「集合の集合」が集合ではなかったのと同様に、〈無矛盾で思考可能なものの全体〉は「頻度」を割り出すのに使えるような濃度を持つ「対象」ではないのだとする。

 

 

 

3.思考可能なものの全体が法則の偶然性に関わること

 

その〈無矛盾で思考可能なものの全体〉の濃度が真の濃度なのかを考えてみる。
確率というのが、

 

「確率」=「該当の場合の数」÷「全体の場合の数」

 

というものだとすると、その「全体の場合の数」をどのように考えるべきか。つまり、我々がここで考察するべき課題は、

 

〈世界に実際に経験できるものとしてあり得るもの〉÷〈無矛盾で思考可能なものの全体〉=「現実に経験できる状況が起こり得る《頻度》」

 

という比の分母、つまり、〈無矛盾で思考可能なものの全体〉の大きさをどう捉えるか、だということになる。

 

これについてメイヤスーは次のように言う。

 

「我々はサイコロの目を全体化するように可能なものを全体化する正当化について完全な無知の中にある。そして、こうした無知は経験においてすでに与えられている何らかの全体性の外部に確率論的な推論を拡張することの非正当性を証明する。」(「有限性の後で」p176)

 

サイコロが1の目を出す確率を1/6だと考えるときに、その分母を6とするのは容易い。しかし、我々はその分母を「可能なものの全体」とすることができるのか、とメイヤスーは問う。その「可能なもの」を「全体化」することについて何が正当なのか、我々は完全に無知である。

 

 
「全体」が確定不可能なこと

 

そもそも、サイコロが1の目を出す確率を考えるときに分母が6になるというのが、絶対唯一の選択肢でそれ以外の「全体の場合の数」がないと断言できる訳がない。サイコロの6面が同じ割合で出るという前提が崩れるかもしれないし、サイコロがちゃんと何かの目を出すという前提が崩れて、それこそサイコロを「無垢だが不貞腐れた女に変身させたり、赤くて銀色のたおやかなユリの花に変身させたりするかも知れない」、というところまで懐疑できる。そうすると、ここでの「全体の場合の数」は6だと確定させられないだけでなく、あらゆる数として確定できない。
この、分母が確定できないという点で、「現実に経験できる世界が起こり得る《頻度》」の割合の値を出すことの正当性はやや損なわれるかもしれない。けれども、問題はそれだけではない。それだけであれば、「頻度」の計算値が出ないとしても、それが「在り得ないくらいに小さい」と思索することが意味を持つことは可能である。メイヤスーは、この分母が無限であったり非確定であったりするだけでなく、そもそもそれが某かの値であることがあり得ないのだから、という次元の話として「頻度」の議論が無効だとする。

 

どんなサイコロの目が出るかという「全体の場合の数」を「6パターン」だと考え、そのうち「1」の目が出る確率を1/6だとする場合、この確率計算は世界に起こり得るパターンのうち6つだけを選び出して、その中で起こり得る割合を考えたに過ぎない。
でも、カントが「自然法則がないことは確率的にあり得ない」と言うときの「確率」は、そのような恣意的にチョイスした「全体の場合の数」ではなく、全く恣意性のない「真の可能なものの全体」でなければならない。

 

 
アザーとコンタンジョンス

 

では、その「真の全体」とはどう考えれば良いのか。そこに「アザー偶然の巡り合せ」と「法則のコンタンジョンス偶然性」という2つの偶然性が関わってくる。

 

【hasardアザー 偶然の巡り合せ】その状況を実現させる諸法則が前もって存在することを想定した上でのランダムなチャンスのこと。何が起こるのかは偶然によって決まるのだけど、その偶然は必然的な法則によって支配されている。

 

【法則のcontingenceコンタンジョンス 偶然性】アザーによって出来事が起こることを可能にする条件自体に影響を与える偶然性。そのため、アザーのカテゴリーに包摂することができない。

 

サイコロの1の目が出る確率を1/6だと考えるときって、サイコロの目が6つの場合の数のうちのどれかが出るとする前提においての確率を考えている。つまりそれは、サイコロが振られたときに6つの目のどれかが出るということを実前させる法則の存在を想定したうえでのランダムを考えてのだから、アザーの意味での偶然性でしかない。しかし、我々は、アザーとしての偶然性を求めているのではない。アザーの偶然性によって出来事が起こることを可能にする法則、つまりサイコロの目が6つの場合の数に収められるとした法則それ自体にまで影響を与えるような偶然性を求めなければならない。その法則が偶々そうなったということを許す偶然性、つまりコンタンジョンスとしての偶然性を求めなければならない。

 

では、そのコンタンジョンスをどうやって求めればよいのか。サイコロの出目も周辺の場のあらゆる状況も包括的に説明できるような最強の物理法則を想定すればよいか。確かにそうすれば、1の目が出る確率は1/6という数値よりももっと精緻なものとして割り出せるだろう。
しかし、それでは、その最強の物理法則を前提とした想定の上での偶然性を考えたことにしかならないので、そこで問われているのはアザーとしての偶然性でしかない。

 

 
究極のコンタンジョンス

 

ならば、その物理法則自体が偶々そうなったということを許すような偶然性を考えるための枠組設定を用意しよう。重力定数が6.7×10-11という値になっていることを偶然だと捉え、電気定数とされているものも、プランク定数とされているものも偶然だと捉えて、その中で偶々現状のように定数が安定しているように見える確率も一緒に考えるようなやり方で包括的に1の目が出る確率を考えると、それはもうコンタンジョンスのレベルで確率を考えられているのではないか。そして、そのように考えても、物理法則が無い中で偶々物理法則が安定しているということは、確率的にあまりにもあり得ないことだと正当性を持って言うことができる。コンタンジョンスを持ち出してきても、メイヤスーの言い分とは異なり、カントの「頻度の帰結」はまだ確実なものとして考えられる。コンタンジョンスでは論駁できないのではないか。否、そうではない。

 

ここで考えたコンタンジョンス偶然性というのは、そのコンタンジョンスの偶然性のなかで現状の重力定数が定まることが偶々選ばれたとするような想定が、実現するためのさらなる上位の法則が存在することを要求するものである。具体的に言うと、重力定数が定まっていないところから偶然に選ばれるというような偶然性を保証するためには、世界が重力という働きがあり得る場を持つことが前提されていなければならない。そのような意味で、ある偶然性が働くには必ずその上位にその偶然性を保証するフレームがあることが要求される。だから、ここで想定したコンタンジョンスというのは究極のコンタンジョンスではなく、或る意味でアザーでもあるような偶然性だったと言えるのではないか。

 

そして、さらに上位の2階のコンタンジョンスがあることが想定されたとしても、それが偶然性であるために、さらに上位の3階のコンタンジョンスがあることが想定されなければならない。その階層はどこまでも積み上げられねばならず、どこまでも究極のコンタンジョンスが確保されることはないことになる。
どうやっても、どこまでも、究極のコンタンジョンスは確保され得ないのだ。

 

コンタンジョンスがどこかで頭打ちになって、最終的に究極のコンタンジョンスが得られるのであれば、カントの「頻度の帰結」の議論において「法則が無いままに世界が安定的に成立する確率があまりに小さい」とする確率を有意味にするための「全体の場合の数」は無限であろうと確定不能であろうと、それはあり得ると言える。だから、その場合はカントの議論は有効になり得る。
しかし、コンタンジョンスがどこまでも無限に開かれて、究極のコンタンジョンスが固定的に存在することはあり得ないのであれば、「頻度の帰結」を有効にするための「全体の場の数」は無限でも確定不能でもなく、単に「存在し得ない」ということになる。
そうであれば、仮に「法則が無いまま安定した世界が成立する確率」が、天文学的どころではなく、あまりにも小さいとしても、それはそのような議論の前提となる何らかの法則があることを前提にした場合に限る議論であったということなのだ。そして、一切の前提の除去してしまう場合にはその「頻度の帰結」は無効になるのだ。少なくとも、自然法則があることが「必然」だとは正当に言うことができなくなるのだ。
こうして、メイヤスーは「カントールパラドクス」によって「頻度の帰結」を論駁する。

 

メイヤスーの「頻度の帰結」論駁とは、 カントが安定した世界が成立する「頻度」を考えるときの「場合の数」は、無限であったり値が不確定であったりするだけでなく、そもそも何らかの「値」であることが不可能であるとし、それゆえ「頻度」の推論は無効だ、ってことなのだ。

 

 

 

仮説的科学的法則と必然的法則の違い

 

そうは言っても、現実に我々の生活するこの世界には、厳然と法則があるとしか思えないように安定している。この事実をどう考えれば良いのだろう。いくら数学的にどう説明されようとも世界中の存在者すべてが今確認されている物理法則に反しないような在り方をしているというこの事実は、どう考えても物理法則があることを表しているだろう。
まさにその通りである。現に物理法則はあって存在者はそれに従って運動し静止し存在していることは疑いようが無い。

 

しかし、そこで疑いようがなく認められる自然法則というのは、現にある自然現象を説明するために全存在者がそれに従って存在するだろうと想定する仮説的な自然法則である。メイヤスーもそのような仮説的な法則を立てることはできるとしている。メイヤスーがあり得ないとしているのは、必然的で絶対な自然法則である。これまで起こったすべての出来事を説明できるような法則を考えて、それが明日の出来事を予測する「だろう」とすることは、メイヤスーは否定しない。だけど、それが必然的絶対的に明日の出来事を確定するということを否定するのだ。だから、現に法則があるとしか思えないことを仮説的に科学法則として打ち立てることは、メイヤスーの主張と何ら矛盾しない。

 

 
究極の法則があり得ないこと、究極の必然性が否定された仮の法則があり得ること

 

「いやいや、それでも、メイヤスーは現に法則が無いと言ってるじゃないか。それと、今現に世界中の存在者すべてが、今確認されている物理法則に反しないような在り方をしているというこの事実は、矛盾するだろう」という反論が僕の心の中で沸き起こってくる。
しかし、メイヤスーの議論においてはこれも十分に許せる話なのだ。
メイヤスーの議論においては、世界のすべてを完全に包括的に支配するような絶対で究極の法則があり得ないことが必然なのだ。それと言うのは、上で考察したアザーとコンタンジョンスの話においての究極のコンタンジョンスなるものが想定されたとして、その偶然性が無いとするような必然性のことである。「究極のコンタンジョンスとしての偶然性を許さないような必然性」が無い、というのがメイヤスーの主張である。そして、その究極の必然性が否定されている限りは、「明日もビー玉は落下する」というのは決して必然にはならない。その意味で「必然的な自然の法則がない」「必然的な因果律はない」「必然的な理由律はない」としているのだ。
そのような、メイヤスーの立場で考えれば、「ある自然法則を司るコンタンジョンスの階層において『世界中の存在者は云々の自然法則に支配される』という仮の法則があるというチョイスが、偶々選ばれていた」という状況にあっても、それはそのコンタンジョンスの階層における偶然性によって偶々そうなっていた、というだけのものかも知れないのだから、「明日にはその『世界中の存在者は云々の自然法則に支配される』というチョイスが終わって別のチョイスがなされるかもしれない」という懐疑が十分に可能である。だから、「今現に世界中の存在者すべてが、今確認されている物理法則に反しないような在り方をしているというこの事実」は全然、究極の法則が必然的に存在することの証拠にはならないのだ。

 

メイヤスーが主張するのは、科学的法則の否定ではない。法則の必然性を否定するのだ。カントが法則の必然を主張しているのに抗して、それが必然ではないと言う。必然を主張するためには完全なる論立てをして完璧な論理でもってそれを証明しなければならないが、それを否定するのは簡単である。それが在り得ない可能性を一つ示せばよいだけである。そして、メイヤスーはここで示したようにその一つを示した。これによって十分に、法則の必然は否定される。そして、その否定はまさに必然的になる。「必然的な法則・必然的因果律・必然的理由律」が必然であることは、必然的に否定されるのだ。

 

A. デカルトもカントも、或る意味でヒュームも、「必然的理由律はなければならない」とする立場だった。
B. これに対して、ウィトゲンシュタインやハイデガーなどの相関主義は「必然的な理由があるとか無いとか言える訳がない」だった。メイヤスー以前はこの相関主義の立場が哲学において主流だったのではないだろうか。
しかし、それに対して、
C. メイヤスーは「必然的な理由律など無い。無いことが必然だ」とする。

 

かなり新しい立場である。でも、僕にはかなり説得力のある話に思えた。
だから、僕にはメイヤスーの立場が今後の哲学の主流になると思われるのだけど、皆さんはどう思われるだろうか。

 

 

 

つづく

 

思弁的実在論はどこまで有意味か

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コメント

師匠 こんばんわ。

ということは、やっぱり、言語論も、「相関」でくくられるのですね。
だけど、あえて「語りえぬもの」にこだわれば、
A:「語りえぬもの」は「無い」
B:「語りえぬもの」は「語りえぬ」
C:「語りえぬもの」は「有る」
ですか(・・?

それから、ここの必然の話って、絶対の話とは関係ないんですか?
絶対など無いってことが絶対だ、のような。

懐疑で消去していく手法は、デカルトっぽい気がしました。
その手法は、「相関」じゃないんでしょうか。

「必然的な理由律など無い。無いことが必然だ」が残るなら、ここから何が始まるんでしょうか?あるいは、ここから何が見えるんでしょうか?

taatooさん、いつもコメントありがとうございます、コメントをくださることがレポートにまとめるモチベーションにつなげられてますので、本当に感謝しています。

メイヤスーの思索はその経過はドラマチックで面白いのですが、そのわりに結論は至極当たり前のものになっているようです。
「必然的理由はない」というところから、だから、我々は仮説的科学的に実在世界を展望することができる、という結論に繋がります。
それって、まるでダメットそのままですし、理由律にしても、そもそもライプニッツ自身が「必然的理由」ではなく「仮説的に理由があることにしよう」って訴えてたと僕には思えるので、全く新しいことは言われてないことになりそうです。どうも結論だけみるとダメな考察に見えます。
でも、結論はつまらなくても、メイヤスーの思索自体には考えさせられることがたくさんつまってるので、僕には、思索自体が宝物のように思われます。
次のレポートで「有限性の後で」の最後までまとめられると思います。

師匠 いつも迷える子羊に、愛の手をありがとうございます。

いえいえぜんぜんつまらなくないです。
師匠の面白いとちょっと違うかもしれませんが。
ダメットと同じなのに、新しい。ルートが違うから、風景が違うということですか?

言語論をも「相関」とくくって、言語的に何が残るのか。
素朴な科学主義、自然主義、物理主義・・・

「理由律」と「相関」の関係って、どんなですか?

例えば、「理由律」も言語の法則の一つだと思いますが、「理由律」による「相関」なき世界が、「理由律」による「相関」ある世界と、結論はいっしょということでいいですか?

つまり?言語論の一部である「理由律」を「相関」としてくくっても、言語は機能するのでしょうか?素朴な科学主義に、「理由律」は無くてもだいじょうぶなんでしょうか?

taatooさん、
メイヤスーが考える思弁的実在は実在論ですから主体とは完全な独立な存在を認めます。しかし、一方でそれを語るには我々の言語によって為されざるを得ないことも認めます。そのため、物自体は絶対的に存在が可能であり、そのあり方は必然的に非必然なものでなければならないので、我々は仮説的な理由を冒険的に掲げて語ろうとすることができるだけになる。それがまさしく、科学のやり方と一致する。
そんな感じだろうと思います。
その辺り、つぎのレポートでうまくまとめられたら良いのですが。

師匠 私弁的コメントに、反応ありがとうございます。

このまとめって、師匠が以前からおっしゃってたと思います。
数学的素養に欠けるので、師匠の土俵に乗りきれないのが、残念です。
わかっかたような気もしてるんですけど。

次回を待ちます。なんとか、「新しさ」を、自得したいものです。

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