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2018年7月11日 (水)

「有限性の後で」非理由律が無仮定的に証明できるわけ<思弁的実在論をわかりやすく読み解く4>

メイヤスー「有限性の後で」は一貫して、私達という有限なものがどうすれば絶対的で無限なものにアクセスすることができるかを探ろうとする書である。相関主義は、あらゆる〈即自〉が結局〈私たちにとっての《即自》〉でしかないとし(相関的循環)、〈私達にとって〉の世界から外れるものについては全て「不可知」でしかありえず、無意味でしかないとする立場を採る点について、メイヤスーは「相関主義は思考の限界を思考することで満足する」と評して、世界への向き合い方が不十分だとする。そして、その相関的循環に「裂け目」を入れ得るナイフになるのが、〈別様である可能性〉のあることこそが「絶対的」だとする視点であるとする。相関主義が「不可知論」で話を終えてしまっていたところに、「〈別様の可能性〉が絶対的にあると言えることを我々が『知っている』」という意味での「可知」を持ち込む。そのことによって、絶対的なものへのアクセスを図る思弁的な世界把握へのステップを踏むことができるようになるのではないか。
・・・というところまでを、前節では見た。

続いて話は、
Ⅰ 非理由律が絶対であること、
Ⅱ 矛盾律が絶対であること、
Ⅲ 即自的なものの存在が絶対であること、
という風に進んでいく。
今日は、その「Ⅰ  非理由律が絶対であること」を考えてみたい。

非理由律が絶対であること

我々は、「理由律(この世界が、この様であり別様でないことを必然とするような理由があるとする原理)」でなく「非理由律(あらゆるものが別様である可能性をもたねばならないとする原理)」を主張すべきである。そこで、非理由律の正当性を明らかにしたいのだけど、何らかの前提から演繹的に導出してくるような証明はしたくない。前提がなければ言えないような証明ではなく、もっと絶対的な正当性を問うことに挑戦したいのだ。そんなことは無茶だろうか。しかし、メイヤスーは間接的で反駁的な方法(無仮定的方法)で証明することは可能だと言う。アリストテレスは実際にその無仮定的方法で、「矛盾律」の正当性を明らかにしたと言う。それは、「矛盾律を疑いそれを否定する作業自体が矛盾律を前提してしまうこと」を示して、矛盾律が否定されることはあり得ないと証明したことである。ただし、メイヤスーは、アリストテレスの証明は、矛盾が思考不可能であることを証明しただけで、矛盾そのものが不可能であることを証明したものではないとする。それは矛盾律の事実性を示すものでしかなく、矛盾律の絶対性を証明するものに至っていないと言う。
それに対して、「非理由律」に関しては、その絶対性までを「無仮定的方法」で明らかにできるとメイヤスーは言う。

さて、これから、そのメイヤスーによるその「無仮定的な方法で非理由律が絶対的ある証明」を見ていくわけだが、この証明の部分の文章がなかなか難しい。これをどう解釈するか、僕の意見を述べさせてもらうのだけど、きっと「それは違う」と言う人もいると思う。宜しければ意見を頂ければありがたい。まずは、本からその箇所を書き出してみる。

「非理由律は、・・・無仮定的であるのみならず、また絶対的であることが明らかな原理である。というのは、・・・それの絶対的価値に反論するには、それの絶対的真理を前提にせざるをえないからである。懐疑論者は、〈即自〉と〈私たちにとって〉の区別の観念それ自体を成すためにも、絶対であると想定される、存在することの〈理由の不在〉に、〈私たちにとって〉を従属させるしかないのだ。存在の〈即自〉が〈私たちにとって〉と別でありうる絶対的な可能性を思考できるからこそ、相関主義の議論は有効性をもちうる。したがって、非理由律の無仮定性は、〈即自〉にも〈私たちにとって〉にも関わる。非理由律に反駁することは、非理由律を前提することなのである。その絶対性に反駁することはそれを前提にすることなのである。この論点は、〈理由なく別様である可能性〉を時間の観念に結びつければ、容易に理解されるだろう。すなわち、あらゆるものを滅ぼすことも生じさせることもできる時間である。そのような時間それ自体を、生じたり滅んだりするものとして考えることはできない――生じたり滅んだりするとしたらそれは時間のなかでのことであって、つまり、それ自身の中でということになる。これは一見して凡庸な議論である――時間が消滅するとしたら、時間が時間のなかで消滅するとしか考えられない、したがって時間は永遠であるとしか考えられない。しかし、ここで十分に気づかれていないのは、こうした凡庸な議論が機能するためには、決して凡庸ではない時間を前提にしていなければならないということである――すなわち、いかなる法則性もなしにあらゆる自然法則を破壊できる時間であり、それは、たんに自然法則に従っているあらゆるものを破壊するだけではないのだ。何らかの定まった諸法則によって規定された時間が崩壊し、それではない時間へと変わりうるという可能性は、十全に考えられる。いかなる特定の法則にも従わず、あらゆる特定の現実を破壊できる時間――いかなる理由も法則もなしに、あらゆる事物もあらゆる世界も破壊できる時間――、そうした時間のみが絶対的なものとして思考可能なのである。ただ非理由のみが永遠であると思考可能なのである。なぜなら、ただ非理由のみが、無仮定的かつ絶対的であるとして思考可能なのだから。したがって私たちは、あらゆるものの非‐必然性の絶対的必然性を証明することができると言えるのである。」(「有限性の後で」p106)

懐疑論者などが、〈即自〉と〈私たちにとって〉との区別の観念が形成されるためには「存在することの〈理由の不在〉」が必要であり、非理由律の絶対性に反駁することは必ず非理由律を前提にしなければならない。だから、非理由律はその絶対性が証明される。とメイヤスーは説明する。うーむ。その前項から後項がなぜ導出されるのか。これをどう考えれば良いのか。分かる文章っぽい感じなのにその真の部分がてんで分からない。

その論点を時間の観念で考えると分かりやすいと言う。あらゆるものを滅ぼしたり生じさせたりする時間の、その時間そのものの生滅は思考できないのだから、時間は永遠である。このとき、この時間の議論を機能させるためには、より基本的な時間の前提が必要である。即ち、いかなる法則性もない非理由の時間が前提されていなければならない。だから、非理由のみが永遠なのだと言える。とメイヤスーは説明する。うーむ。なぜ、普通の時間の議論を機能させるためにその前提となる時間が必要になるのか。なぜその基本的な時間はすべての法則性から自由な時間だとしなければならないのか。これ、どう考えれば良いのか。分かる文章っぽい感じなのにその真の部分がやっぱり分からない。

ここに、2つの時間が出てくる。

1つの目の時間は、あらゆるものを生滅変化させ得る時間。それは物理的時間と考えて良いものだろう。

2つの目の時間は、1つ目の時間の前提となる時間であり、あらゆる法則が破壊され得て、あらゆる法則から解放され得る時間である。これはもはや物理的時間ではないだろう。

しかし、この時間どもは本当のところ何者なのか。特に2つ目の時間をどう考えれば良いのか。
それについて僕の読み方を提案する。

その物理時間でない方の基本的時間と言うのは、「これ」のことじゃないのか。つまり、とにかくもう既に「これ」とでも言う他ないような純然たる事実として在る、唯一にして全体なるものとしての「これ」。「世界が無いではなく、在ることが確定しちゃってる」などというときの「これ」。
その「これ」がある。「これ」は何ものにも先立つ。「これ」は〈私達にとってのもの〉にも〈即自〉にも先立つ。「これ」は、とにかく何者でもないものとしてただ「在る」ものであるから、あらゆるものに先立つのだ。それが〈即自〉だとすることももちろんできるし、〈私たちにとって〉のものだと考えることももちろんできるのだけど、そのように「これ」が何者であるかを考えられるようになるためには、「これ」がまだ何者でもないものとしてすべてに先立って存在するのだと考えなければならない。と考えたのかメイヤスーの上の説明なのだと、僕には思えてならない。
そのように〈即自〉も〈私たちにとって〉も「これ」に先んずるものではありえないと考えると、その「これ」においては、「いかなる法則性も前提されず、すべての法則性が破壊消滅さえ得るものであることこそが前提されていなければならない」としなければならないはずだ。つまり、非理由のみが絶対的な前提にならねばならないのだ。
2

僕のこの読み方では、あらゆる存在者や物理的時間は、それが存在するためには現象学的な「これ」というものを基盤としなければならず、それは絶対的な非理由が確保されなければならない。そして、それはなぜかと言うと、まったくその理由となるものも前提となるものも無い、理由があるとすれば、ただ、だって実際にいまここで世界はすでにそーなってるから、というものでしかない。「だってそーなんだもん」なのだ。

そして、世界はそのような「これ」を基盤にしてるのだから、その意味で、〈即自〉と〈私たちにとって〉との区別の観念が形成されるために「存在することの〈理由の不在〉」が必要であるのだ。
そして、だから、非理由律は、無仮定的であるのみならず、また絶対的であることが明らかな原理だと言いきれてしまうのである。
このことが、「なぜなら、ただ非理由のみが、無仮定的かつ絶対的であるとして思考可能なのだから」とメイヤスーが言った意味なのであろう。

つまり、純然で根源的な事実性によって非理由律の絶対性は確保されると言えるのだ。

この「非理由がなぜ絶対なのか」が「有限性の後で」のなかで最も重要な問いであると、僕には思われる。そして、これについてのメイヤスーの証明文は必ずしも読みやすいものではないので、これをどう解釈するかについては意見が分かれるかもしれない。でも、僕は、この解釈が結構いい線行ってるように思えるし、この解釈が間違っているとは思えない。メイヤスーのこの著作は一貫して事実性を中心課題としてるのだから、非理由律も事実性をその根拠にしてると考えるべきのは的外れだと思えない。どうだろうか。考え直すべきところがあればぜひ教えてほしい。

 

しかし、メイヤスーが言う「理由律の否定」がそのようなものであるなら、至極当たり前の話であってそれが間違いだということにはなりようがないと思われる。そんな当然の話がどうしてライプニッツにもベルクソンにもドゥルーズにも物理科学にも見過ごされて「理由律」の必要が説かれ続けてきたのか。そもそもメイヤスーの言う「理由律」とライプニッツの言う「理由律」って同じものなのか。その辺りの疑問は次節に回したい。

今日は、「非理由律が絶対であるわけ」だけに話を絞って、ここまでとしたい。

つづく

思弁的実在論はどこまで有意味か

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コメント

師匠 神的見取り図をたよりに、ここまで読めました。

わかりました。ここまでは、見切れたと思います。いつもの妄想癖だと言われそうですが。

Ⅰ 非理由律が絶対であること、
Ⅱ 矛盾律が絶対であること、
Ⅲ 即自的なものの存在が絶対であること

これって、みんな言語の性質ですよね。
つまり、「思弁=絶対的なものにアクセスするあらゆる思考」って、最初「宗教」みたいと思いましたが、そうだ、「言語」があるじゃないかと。
「有限性」も「言語」の「有限性」だし、間違いないです。
師匠の「言語論上の唯物論」をメイヤスーが明確に裏付けた。
師匠の対として想定していた「言語論上の観念論」として、ヘーゲルが位置づけられる。永井氏と師匠の違いもこの辺にある。じゃないかな。

メイヤスーをそれほど「新しい」と思わなかったのも、師匠と立ち位置が同じだからだと思います。面白いです。妄想から虚言へ。(-_-;)

taatooさん、ありがとうございます。
言語論上の唯物論ですか。そうかもしれません、面白いですね、
メイヤスーはダメット等以上に言語の射程を吟味しその冒険できる範囲を広げたとも言えると思います。
ダメットがナンセンスだと切り捨てた「隣室の机は隣室の行けば分かる」というやり方を見直し、その意義を認めたことなどです。
それによって、相関主義とヘーゲルを繋ぎ得る可能性とか、様々な論考の可能性を広げて見せてくれてると面白がっています。

師匠 こんばんわ

「言語論上の唯物論」。
師匠は、忘れられてるかもしれませんが、師匠の立ち位置を、ご自身が、そう言われてたと記憶しています。無理くり、私が聞き出そうして、無理くり、答えてくれたような感じでした。

たぶん、立ち位置は、現在も、それほど変わってないんじゃないですか。

メイヤスーって、妄想のネタフリの天才かも。次から次へと妄想が湧いてきます。

あれぁ、全然覚えてないです。「言語論上の唯物論」。そんなこと言ってたのなら、僕もなかなか面白いこと考えてましたね。でも、忘れてるようじゃダメですね。
ご指摘ありがたいです。

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