フォト

ウェブページ

無料ブログはココログ

« 見かけの偶然性・絶対的偶然性・事実性としての偶然性<思弁的実在論をわかりやすく読み解く5> | トップページ | 「有限性の後で」事実論性の原理と物自体の無矛盾とその存在<思弁的実在論をわかりやすく読み解く7> »

2018年7月15日 (日)

「有限性の後で」強い相関主義と弱い相関主義とカオス<思弁的実在論をわかりやすく読み解く6>

「有限性の後で」3章中盤を読む。

、という訳で、「物自体の無矛盾」をどのようにして要求するかを考えたいんだけど、今日はその前に、強い相関主義と弱い相関主義とカオスについて考察してその準備とする。

今日の話題

1.デカルトのカオス的絶対者と数学的絶対者と、カオスの条件について
2.強い相関主義と弱い相関主義、とカオスの制限について

 

1.デカルトのカオス的絶対者と数学的絶対者

デカルトにおいては、神が無限な完全な存在であることも絶対であったし、物体が数学的に意味のある延長をもっている実体であることも絶対であった。しかし、神が「第1絶対者」とされるのに対し、数学的延長は「派生的絶対者」とされる。
「無限に完全であること」が神の定義であることから直接導かれる。だから、「神の存在」は第1絶対者として完全な絶対性を持つのだが、逆に、それゆえ、その神の視点において世界に関する何らかの真偽を確かめ得る可能性は完全に無くなってしまう。あらゆることがあり得て、同時に、あらゆることがあり得ないことになる。何故そんなことがあり得るかというと、神は「絶対」だからだ。「絶対」だから矛盾さえも成し遂げてしまえる。だからこそ、無限にして完全な神の絶対性は完全なカオスである。

このカオスの絶対性を、理由律を認める立場から考えると、即自なものに関してあらゆる主張が真であり得る権利を持つのだから、その真は偽に対する真ではありえない。そのうちのどれが真なる真なのかなんてことは丸っきり分からない。だからそれに従うなら、即自なるものは我々にとって全く無意味で一つも情報量のないものでしかないのだ。その意味で、我々は即自に対して完全な無知であることになってしまう。(※、ここでメイヤスーが「理由律」といって批判しているのは、神の視点においてすべてに先立つ真なる法則を認めるという意味での、絶対的なそれを指す。前節で考えたようにライプニッツ等の提唱する「理由律」を僕は、そのような「絶対的理由律」だとは解釈せず、絶対的な理由などなにもないところに仮設的冒険的に建て掛けただけのでっち上げとしての「理由律」だと考えているので、ここでメイヤスーの批判するものには当たらないと思う。メイヤスーの批判は「絶対的理由律」だけに対するものだとして考えるべきだと思う。)

でも、非理由律の立場で考えると、我々は少なくとも即自的なものはどうにでもあり得るのは確かにそうなのであるが、そのように即自的なものがどうにでもあり得るものであることを我々は「知っている」と言えるはずだ、ということになる。
我々は「知っている」のだ。完全な無知と同じく全くの無規定な内容しかないのだけど、それは確かに「知」なのだ。

この「不可知」と「可知」の違いが重要である。

この重要な違いを生む根拠として非理由律論者は、理由律論者が知らなかった2つのことを知っている。すなわち、「①偶然性が必然であり永遠だということ」と「②偶然性のみが必然だということ」である。それゆえ、「必然的な存在者が絶対に不可能であること」すなわち「カオスの全能性において、必然的な存在者が存在することは絶対的に不可能」が言えるのだ。

では、そのことを基にして、カオスの全能性を自己限定し自己正常化することはできないか。
でも、カオスを限定するには、カオス自体が服するような法規範を持ってこなければならない。
でもしかし、カオスを服させるような、カオスの上位の者など何もない。
ゆえに、カオスを服させる制限は、カオスの本性自体に由来する制限でなければならない。
ところが、カオスの唯一の必然はカオスであり続けるということだけである。(存在は常に偶然である。)
だから、カオスの偶然性が必然であるということは、実は、存在者がどうにでもあり得るわけでないことを強いることになる。つまり、存在者が全く偶然であり続けるためには、「何でもあり」ではないような或る条件に従わねばならない。そしてその条件は、存在者の〈非存在の可能性〉と〈別様である可能性〉のための制限を確立するような、非理由に関する言説になるはずである。そして、メイヤスーは、それが「物自体は無矛盾」と「物自体は存在する」の2条件だとする。

 

2.強い相関主義と弱い相関主義、とカオスの制限

さて、相関主義は、強い相関主義と弱い相関主義の2種の相関主義に分類される。

【弱い相関主義】物自体の思考可能性が許されるとするタイプの相関主義。存在者は我々との相関性においてのみ認識可能であり相関性においてのみ価値を持つが、相関性の外の思考可能性がすべて禁じられるわけではない、とする立場である。カントの批判哲学において、我々は物自体をアプリオリに認識できないとされ、物自体の認識は禁じられている。しかし、物自体が無矛盾であってそれが存在することを知っているともされ、物自体の思考可能性は許されている。
Kant_4

【強い相関主義】物自体の思考可能性を許さないタイプの相関主義。即自的なものは認識できないだけじゃなく、思考することもできない。〈即自〉と言われているものは、所詮〈私たちにとっての即自〉でしかない、とする(相関的循環)。物自体が在ると言えないだけではなく、無いとさえ言えない、とする。
例えば、矛盾を真にしてしまえるような「魔」や、論理的不整合を覆してしまえるような「魔」を想定するとする。強い相関主義においては、そのような「魔」はもはや語り得ず、それが居るとか居ないとか言うことの真偽は、その論理性の失効ゆえに、意味を失効してしまう。だから、我々はその魔について「何かを知っている」とすることが不可能になる。知っていると言おうとしても、それは「論理的に真偽づける言語的システム」から外れたような非言語的な知でしかなく、けっきょく、自分で「知っているつもり」になっているだけでしかない、とするのだ。メイヤスーは、強い相関主義の哲学者にウィトゲンシュタインやハイデガーを挙げている。

Wittgenstein2_4Heidegger

さて、この強い相関主義において、カオスは如何なるものか。
強い相関主義において、即自は認識不可能なだけじゃなく思考不可能である。そして、カオスとは、思考不可能なものや、矛盾するものや非論理的なものを生み出せると想定されたのだった。だから、(と言うか、しかし、と言うか、)強い相関主義は、我々と相関があると認められ無矛盾で論理的に語り得る対象のみを対象化し客体化する。つまり、強い相関主義にとって、カオスがカオスのままであるなら、それはまるまる語り得ないものでしかなく、〈即自〉が客体化されることはない。

しかし、僕らが今挑戦しようとしているのは、カオスの制限である。
つまり、カオスを制限して「弱い相関主義」において可能なもの「物自体」の客体化ができないか、ということにチェレンジしたいのだ。ウィトゲンシュタインやハイデガーからカントへ、話を差し戻すというのだ。

 

「偶然性の必然性」、これが「事実性」から得られた世界の在り方であった。この「偶然性の必然性」は、カントの物自体が「①無矛盾であり」「②存在する」ことを要求するのじゃないのか。今、僕らはこれを問わねばならない。

という感じで、メイヤスーは物自体の無矛盾性と存在の証明について考察する。

 

というわけで、次節でそれへ。

つづく

思弁的実在論はどこまで有意味か

« 見かけの偶然性・絶対的偶然性・事実性としての偶然性<思弁的実在論をわかりやすく読み解く5> | トップページ | 「有限性の後で」事実論性の原理と物自体の無矛盾とその存在<思弁的実在論をわかりやすく読み解く7> »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 見かけの偶然性・絶対的偶然性・事実性としての偶然性<思弁的実在論をわかりやすく読み解く5> | トップページ | 「有限性の後で」事実論性の原理と物自体の無矛盾とその存在<思弁的実在論をわかりやすく読み解く7> »