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2018年7月13日 (金)

見かけの偶然性・絶対的偶然性・事実性としての偶然性<思弁的実在論をわかりやすく読み解く5>

前節で、メイヤスーが非理由律の絶対性を明らかにしたところを見た。しかし、そこで証明された非理由律とはどんなものだったのだろうか。理由律とは、現に存在している事物の状態のすべてが現に在るようなあり方が必然なのであって、別様になる可能性がないとする原理であった。逆に、非理由は、現に在るようなあり方に必然性は無くたまたまの偶然でしかないのであって別様である可能性があるとする原理であった。しかし、よく考えると細かいところがぼやけてしまってよく分からない。

この「理由」についての考察をさらに深めるために、メイヤスーは「偶然性」と呼ばれるものには2種類のものがあると分析している。見かけの偶然性としての「儚さ」と本来の偶然性としての「絶対的偶然性」である。
【儚さ précarité】存在者についての経験的な偶然性。具体的な物理事象の事例においてその状況が生じたり滅したり変化したりすることに対する予測不能性。ただし、そこで考えられている予測できなさというのは、世界に真の法則があるのに我々が気づけないだけというレベルの予測できなさであって、もともと法則なんて無い世界においてその法則の無さゆえに予測できないというレベルの話ではない。神であれば必然だと言い得る事態に対しても、我々が隠れた真実に関して無知であるために偶然だと思ってしまう。そのような見かけの偶然性をメイヤスーは「儚さ」と呼ぶ。

それは理由律の存在を前提にした偶然性であって、形而上学的に真なる法則で定められた運命によって、すべての存在者がいつか必ず壊れゆく可能性を示す。
【偶然性 contingence】絶対的偶然性。「儚さ」が見かけだけの偶然性であったのに対して、これは、全知の神でさえもその有り様が別様であったり非在であったりするとするような絶対的な偶然性を指す。理由律を否定し形而上学的に定められた運命を否定する。どんな存在者も必ずいつか壊れるとさえ言えないような、何でも起こり得て何も起こらなくもあり得るということの可能性である。見かけでないこの絶対的偶然性を単に「偶然性」と呼ぶとメイヤスーはした。(でも、ここではややこしいから区別のために「絶対的偶然性」と呼ぶ。)
そして、また、この偶然性は「事実性」でもある。すでに今現実にこーして世界が在ると言う事実。何もないではなく何かがあるというこの事実は、すべてに先立っている。あらゆる解釈や分析や言語化に先立ち、あらゆる存在者や法則に先立つ。当然、理由にも先立つ。誤解をおそれずに言うなら、しょせんすべてはこの事実性だけなのだ。すべての存在者も分析も理由律も非理由律もありとあらゆるものは、この事実性の下敷きの上に建てられた建造物でしかないのだ。その意味で、あらゆるものが「たまたま・偶然」だというのは絶対的なのだ。
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このように、メイヤスーは偶然性を「儚さ」と「絶対的偶然性」の2つに分けた。で、ここからはメイヤスーの考えじゃなくて僕個人の考えなのだけど、その「絶対的偶然性」もさらに二つに分けられるし分けるべきなんじゃないかと思う。つまり、「全知の神でさえ別様である可能性があるとする偶然性」と、「事実性としての偶然性」だ。
この2つは多くの場合、重なるだろう。けれどもそれらは決して同じものではない。たとえば、3次元空間+時間軸の物理的な4次元空間を想定し、そこに例えばりんごが過去から未来に向けて位置づいていると考えてみる。そのような世界想定では全知の神はりんごがどのように在るのかをすべて知っているし、りんごの個体の在り方はすべて必然だと言える。だから、物理的4次元空間が固定された世界モデルでは、存在者の在り方はすべて必然的なのである。ここでは「儚さ」はあり得たとしても「絶対的偶然性」はあり得ない、ように、思われる。でも、あらゆる時刻においてあらゆる存在の在り方の可能性が重なり合って存在している、というような超4次元空間・超量子論的な空間を想定するとすれば、どうか。全知の神でさえ〈別様の可能性〉が無いとは言えなくなる。そこには「全知の神でさえ『何でも起こり得る』とし、『どんなことでも起こらないままであり続け得る』とする偶然性」があることになる。しかし、それだけではそれが「事実性としての偶然性」であるとは言えない。「事実性としての偶然性」を言うためには、それは既に現実として「何も無いではなく何かが在る」という事実が必要なのだ。いかに超4次元空間を考えたとしてもその事実が無ければ「事実性としての偶然性」は定義的にあり得ない。
そして、メイヤスーが真に問いたいのは「事実性としての偶然性」なのではないのだろうか。

さて、話をメイヤスーの主張に戻そう。相関主義による偶然性の取り扱いには問題があるとメイヤスーは言う。相関主義の理由律に対する態度はそれを「不可知」とする立場なのだから、そこで語られている「偶然」というのは「儚さ」でしかないだろう。相関主義の言う「不可知」は計り知れない隠れた理由が計れないための「不可知」でしかなくて、その思考不可能性は超越的な「究極の理由」を逆に正当化してしまっている、とメイヤスーは批判するのだ。相関主義は、全知の神しか知らない「究極の《理由》」が在るとする不合理を認めて、その信仰の下でそれを「知らない・思考不可能だ」としてるだけなのじゃないかと言うのだ。
真に求められる態度は、そのような「究極の《理由》」など決して存在しないとし、それは「思考可能でない」だけでなく、「思考不可能でもない」ようなものである必要がある、としなければならない。そしてそれが思弁的な考え方になるとする。「究極の《理由》」は知り得ないだけでなく絶対的に無いのだ。だからこそ、理由律は積極的に排除される。
そして、そこで、メイヤスーはこの話を、「所与の無根拠な現われの手前にも彼岸にも何もないのだ。所与を破壊し生成し存続させる無制限で無法則な力以外には何もない」(「有限性の後で」p108)という格好良い文でもってまとめる。まさに、この「所与を破壊し生成し存続させる無制限で無法則な力」なるものこそが「何も無いのでなく何かが在る」であるところの「事実性としての偶然性」なのではないだろうか。

この「所与を生滅させる無制限で無法則の力」を「事実性としての偶然性」だとするなら、メイヤスーが非理由律を絶対だとしたわけがずっとすっきりとしたものとして整理できるように、僕には思える。
それと言うのは、〈即自〉と〈私たちにとって〉と「存在することの理由の不在」がそれぞれ、「儚さ」と「全知の神でさえ別様である可能性があるとする偶然性」と「事実性としての偶然性」にあたると考えれば、そしてさらにその「全知の神でさえ別様である可能性があるとする偶然性」が「相関項の第一次性」を示し、「事実性としての偶然性」が「相関項の事実性」を示すというように考えれば、話をすっきりさせられるんじゃないか、ということだ。

「非理由律は、・・・無仮定的であるのみならず、また絶対的であることが明らかな原理である。というのは、・・・それの絶対的価値に反論するには、それの絶対的真理を前提にせざるをえないからである。懐疑論者は、〈即自〉と〈私たちにとって〉の区別の観念それ自体を成すためにも、絶対であると想定される、存在することの〈理由の不在〉に、〈私たちにとって〉を従属させるしかないのだ。存在の〈即自〉が〈私たちにとって〉と別でありうる絶対的な可能性を思考できるからこそ、相関主義の議論は有効性をもちうる。したがって、非理由律の無仮定性は、〈即自〉にも〈私たちにとって〉にも関わる。非理由律に反駁することは、非理由律を前提することなのである。その絶対性に反駁することはそれを前提にすることなのである。」(同p106)

この話で、私が〈即自〉そのものにアクセスするためには、そこにはどうしても究極の理由が必要だとせざるを得ない。眼前のりんごの表象が見えていることを論拠とし、そこにりんごの〈即自〉が〈在る〉と言うためにはその〈即自〉とその表象の間に理由となる因果関係が「ある」ことを前提しないなら、表象が〈即自〉の根拠となることはあり得ないからだ。〈即自〉を〈即自〉として考えるためには、そこに絶対的で究極の理由があるとすることは必然なのだ。
しかし、〈即自〉の根拠とするために、私はそこに、それらしい法則を仮説として当てはめることしかできない。私はその法則が理由として正当かどうかをどこまでも疑うことができるのだ。〈即自〉に手を届かせるための「形而上学的な究極の理由」は、私という有限の域の外の無限域からを持ち込んでくるしかないものなのだ。このような〈即自〉を認める世界モデルを採る場合、私にとって〈即自〉は絶対的に必然的なものでありながら、それに関する私の「知」はどこまでも疑えるものであり、どこまでも「偶然の出来事」にように思えてしまうものである。つまり、そこに示される偶然性は必ず、見かけの偶然性すなわち「儚さ」なのだ。

一方これに対して、〈即自〉を〈私たちにとっての《即自》〉と捉える場合、それはもはや本来の〈即自〉ではなく、もはや究極の理由を必要としないものになる。理由律なんてものは、もはや仮説でさえない。その仮説を届かせるべき〈即自〉なんてものが〈私たちにとっての《即自》〉などという相対的なものにしてしまうのだから、そこには絶対性なんかもはや不必要なのである。それでも、その〈私たちにとって〉説に対して、〈即自〉説の方が「しかしそれでも、その〈私たちにとっての《即自》〉などという考えは真の〈即自〉を知らないからそう言っているだけだとすることは、どこまででもできる。それは、私が〈即自〉がどんなものかを知り得ないということだけしか証明していない。〈即自〉を無いことを証明したのではないのだ」と再反論してくるかもしれない。相関的循環と呼ばれるだけあって、この〈即自〉と〈私たちにとって〉は互いに互いを踏みつけ合って、自身を優位にしようとするが、どこまででも循環的であって、どちらかを優位として固定することができないのだ。この〈即自〉と互いに踏みつけあい、互いに互いの優位を主張しあうような〈私たちにとって〉が示している偶然性は、「全知の神でさえ別様である可能性があるとする偶然性」であって、「事実性としての偶然性」ではないのじゃないか。それが何故かと言うと、それは「相関項の第一次性」を示すものであって「相関項の事実性」を示していないからじゃないか。〈即自〉という絶対的存在者に対して互いに踏みつけ合い論理循環してしまうような〈私たちにとっての《即自》〉は、私と世界との関係という相対的存在が第一次的だと主張するだけで、事実性を持ってきていない。だから、そこにある「偶然性」が絶対的だとできないままになって論理の踏みつけ合いで終わってしまうんじゃないか。

偶然性の必然性絶対性を主張するのにも、非理由律の必然性絶対性を主張するのにも、その絶対性を主張するためにはそれが絶対だとすることができるだけの絶対的根拠を持ってこなければならないはずだが、「相関項の第一次性」にしても「全知の神でさえ別様である可能性があるとする偶然性」にしても、それでは根拠として絶対的なものにはならない。弱すぎるのだ。それはいつでもどこにでもいる誰かのための一般的な話になり得るものでしかない。一般論でしかない話なのだから、それは、必然や絶対を語れないか、語れるとしても適当な仮設的命題を前提にした上での必然や絶対でしかないのだ。だからどこまででも、〈即自〉説派から反論され踏みつけ返される可能性を捨てることができないことになる。

そこで、「何も無いではなく何かが在る」というこの絶対的な事実を根拠として持ってくることで、その論理的な踏みつけ合い・相関的循環に裂け目を入れることができ、そこから〈即自〉説派が反論できない遥かに高いステージの話として圧倒的な正当さをもって、偶然性と非理由律の絶対性を主張できることになるのだ。

これが、メイヤスーの言う非理由律を絶対だとするわけについての、僕の理解だ。このように見返してみるとまるで当たり前のことばかりで拍子抜けだが、だからこそ、僕はこの整理が正しいと確信している。

さて、メイヤスーの説く「非理由律の絶対性」をそのように解釈するなら、その「非理由」の「理由」が指すものは必ずしもライプニッツやベルクソンやドゥルーズが考えた「理由」とは一致しないかもしれない。ライプニッツやドゥルーズにおける「理由律」に関して、僕の捉え方では、世界が元々「非理由」で、事実性としての偶然性のみに支配されているのは当たり前である。そしてそれを前提としたうえで、私が仮説的冒険的に私の生を生きるために仮説的冒険的な「理由」をでっちあげるのだ。本当の理由なんて有り得ないところに、私が生きるためのルールを自分勝手で出鱈目なものでも構わないとしながらでっちあげるものが、彼らの「理由律」だ、と僕は考えてる。
そう考えると、「理由律」を掲げたライプニッツやドゥルーズにケンカを売って、それを否定してメイヤスーは「非理由律」を提唱したのではなく、かなり似た思索でかなり同じ哲学を問うために「非理由」を掲げたように見えてくる。
メイヤスーは反ライプニッツ反ドゥルーズとは限らない、どころか、まったく近しい哲学者だったのではないだろうか。

次節では、この視点をさらに進めて「矛盾律の絶対性」について考えたい。

つづく

思弁的実在論はどこまで有意味か

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