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2018年6月 6日 (水)

「有限性の後で」メイヤスーが面白い〈思弁的実在論を読み解く0〉

メイヤスー「有限性の後で」を読む。
Meillassoux_2
メイヤスーが面白い。クァンタン(カンタン)・メイヤスーQuentin Meillassouxは 1967年生まれフランスの哲学者。思弁的実在論という哲学を打ち出した。話題の新しい実在論の一つ。
これが、実在論なのに実に面白い。僕はずっと実在論なんて屁ぇやと思ってたんだけど、彼の「有限性の後で」を読んでその面白さに心を奪われた。もちろん「実在論」なので納得できないところもたくさんあるのだけど、これを考察しないのはもったいないと思う。

眼前のボールが何者であるかについて、到達不可能の先の最も深いレベルの答えとしての「深遠な真実」に世界の本質を求めようとするのが実在論的な立場だと言えるだろうか。
ボールでネットを揺らしたいという何とも下らないどーでもいーことのために現に走っている、この「下らない現実」に世界の本質を求めようとするのが相関主義的な立場だと言えるだろうか。

この二者って、そのどっちが正しいかじゃなくて、どっちを求めているかという問題なんじゃないかという気もする。多くの哲学者がその二つを様々なやり方で様々な方向からアタックしようとしてきた。
プラトンは前者を絶対的基盤とすることで。
Platon
ヘーゲルは両者の矛盾を乗り越え続けようとすることで。
Hegel
カントは後者の視点で、後者の側から。
Kant
ダメットは前者を切り棄てて。
Dumett
ドゥルーズはその両者が元から無矛盾だったとすることで。
Deleuze
カント以降の多くの哲学では(一部の例外はあるが)、後者ばかりを重視し前者は見棄てざるを得ないとする風潮が強まっていた。
そんな中、メイヤスーは実在論に光を当てた。徹底して相関主義の視点で分析考察しそれを貫いたうえで実在論の必然性を説いた。
Meillassoux_4

しかし、実在論なんて有意味に問うことができるのだろうか。また実在論なんてものを問うことに意味があるのだろうか。
例えば、千年後の人類には理解され同意されるだろうけど今はまだ誰も理解できない突飛でユニーク過ぎる哲学があったとして、でも人類が千年持たずに絶滅するとき、その哲学にはどんな価値があるのか。その哲学を誰かが正しく理解することがどこまで可能か。などと言う問いを考える。
でもこんな問いを問うなんてバカだという気がしないか?だって、これは誰にも認識される可能性のない価値を問うているのだから、それは言語論的意味論的に意味を持ちえないナンセンスであることは明らかに思えるからだ。しかし、それを単純にナンセンスだとして片づけるんじゃなくて、そこで踏みとどまって、実在論と相関主義の狭間を探究できる可能性が残っていないのかを丁寧に問うたのがメイヤスーなのだ。
その探求は、実在論を問うだけでなく相関主義を問うものである。だからそれは相関主義自体が何者なのかを深く掘り下げてくれるものである。それはさらに、プラトンやカントやヘーゲルやウィトゲンシュタインや様々な哲学者が求めてきた表裏二面の関係性を新しい視点で問い直しそれらを洗い直す可能性を示してくれる。かなり魅力的な実在論なのである。

実在論と言ってもバカにできないだけでなく結構面白そうでしょ。
次節からは、メイヤスー「有限性の後で」を読んで思弁的実在論なるものについて考えてみることにする。

ベルクソンの後はドゥルーズ「差異と反復」をまとめたいと思ってたんだけど、メイヤスーが面白くなっちゃったし、ドゥルーズに比べると早めに片づけられそうなので、ドゥルーズはメイヤスーを考察した後に回すね。

つづく

思弁的実在論はどこまで有意味か

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